EP20 類友
「陽一さん、今週末って暇っすか?」
昼休み。
弁当の最後の唐揚げを口に運ぼうとしたところで、神崎が話しかけてきた。
「……何だよ、急に」
「久しぶりにスタジオ来ません? みんな集まるんすよ」
「スタジオ?」
「はい。奈緒も純之助も昌利も来るんで。陽一さんもどうかなって」
「……まあ、暇だったらな」
そう答えて、唐揚げを口に放り込む。
実際、週末に予定はない。
というか、今の話を聞いた瞬間から週末の予定は決まった。
行く。
絶対に行く。
ただ、あまり乗り気な顔をするのも何だか癪なので、平静を装っておく。
「そうっすか。じゃあ、来るってことで」
「まだ行くとは言ってないだろ」
「でも暇なんすよね?」
「暇だったらって言ったんだよ」
「了解っす。じゃあ奈緒に、陽一さん来るって伝えときます」
「話聞いてたか?」
神崎は聞いていなかった。
鼻歌を歌いながら、自分の弁当へ戻っていく。
まったく、人の話を聞かない奴だ。
……まあ、別にいいけど。
実は最近、家でドラムの練習をしている。
以前、奈緒さんから買った電子ドラムだ。
最初は暇つぶし程度のつもりだった。
ところが、気がつけば仕事から帰って毎日のように叩いている。
休日なんか、気づいたら二時間経っていたこともあった。
ヘッドホンを使えば周囲を気にせず練習できるし、思った以上に楽しい。
もっとも、電子ドラムと本物のドラムでは感触が違う。
あのスタジオで叩いた時の、腹に響くような音。
あれをもう一度味わえると思うと、正直かなり楽しみだった。
……神崎には絶対に言わないけど。
*
そして週末。
約束の時間より少し早くスタジオに着いた俺は、受付の前で見覚えのある二人を見つけた。
「お、陽一さん」
ベースケースを背負った黒川純之助が、こちらに気づいて手を上げる。
「久しぶりです」
「久しぶり。神崎は?」
「ヒロトならまだ来てないよ。奈緒も」
その隣で、相沢昌利が妙に上機嫌な顔をしていた。
「いやあ、今日はいい日でしたねぇ」
「……何かあったんですか?」
「実は今日、女性の方たちにお昼をご馳走になりまして」
「へえ、いいですね」
「しかも三人ですよ。三人」
……この人、そんなにモテるのか。
顔がいいのは分かるけど。
「陽一さん、騙されちゃ駄目だよ」
隣で純之助がため息をついた。
「宗教の勧誘だったんだよ」
「……はい?」
「俺も一緒にいたんだけどさ。女の子二人に声かけられて、相沢が俺の後ろに隠れちゃって」
「いや、突然だったので」
「そしたら『お昼でも食べながらお話ししませんか?』って誘われてさ」
「……行ったんですか?」
「相沢が断れなくて」
純之助が呆れたように肩をすくめた。
「俺も心配だったからついて行ったんだけど、ファミレスに入ったら、もう一人待ってたんだよ」
「……え?」
「しかも奥のボックス席。相沢、女性三人に囲まれて完全に固まってた」
「……それは」
「最初は本当に可哀想だったよ。水ばっかり飲んでさ。何聞かれても『あっ、はい……』『そうですね……』しか言わなくて」
相沢が照れくさそうに笑う。
「いやあ、あの時は緊張しましたね」
「でもな」
純之助が顔をしかめた。
「途中で宗教の話だって分かった瞬間、あいつ、急に変わったんだよ」
「……どういうふうに?」
「まず『皆さん、僕のことを救ってくださるんですか?』って」
「……普通じゃないですか?」
「俺も最初はそう思った」
純之助は遠い目をした。
「そしたら相沢が、三人の手を順番に見ながら言ったんだよ」
『では、まず僕のどこまでを受け入れていただけるのか、確認してもよろしいですか?』
「……」
『僕、人との距離感が分からなくなることがありまして。親しくなると、その方の一日の行動を全部把握したくなるんです』
「……おい」
『朝起きた時間、食事の内容、誰と会ったか、何時にお風呂に入ったか。そういうのを毎日報告していただけると安心するんですよね』
「怖っ!」
「女の子たちも引いてたよ。でも相沢、止まらなくてさ」
純之助がこめかみを押さえた。
『皆さんは僕を救ってくださるんですよね? でしたら、途中で見捨てたりしませんよね?』
「……」
『あ、もちろん僕も皆さんを見捨てません。たとえ引っ越されても、連絡先が変わっても、必ず見つけますから』
「それもう脅迫だろ!!」
「一人が『あの、そろそろ……』って帰ろうとしたんだけど」
「……はい」
「相沢が真顔で言ったんだよ」
『どうして帰るんですか?』
「……」
『まだ僕、救われてませんよ?』
「…………」
『皆さん、僕を救うために来てくださったんですよね?』
「……」
『じゃあ、最後まで責任を持ってください』
……怖い。
怖すぎる。
「それで、どうなったんですか?」
「三人とも涙目」
「……」
「一人なんか、俺の方を見て小声で『あの……助けてください……』って」
「立場逆転してるじゃないですか!!」
「そうなんだよ!」
純之助が両手を広げた。
「さっきまで相沢が助け求めてたのに、今度は勧誘してた側が俺に助け求めてるんだぞ!?」
相沢はにこにこと笑っていた。
「皆さん、とても熱心な方たちでしたよ」
「お前が一番熱心だったんだよ!!」
「で、最後どうしたんですか?」
「俺が間に入って、『こいつ、こういう奴なんで。もう勧誘しない方がいいですよ』って」
純之助が疲れた顔でため息をついた。
「そしたら三人とも、ものすごい勢いで頷いてた」
「でしょうね……」
「で、相沢を引っ張って店を出ようとしたんだけどさ」
「はい」
「こいつ、出口でわざわざ振り返ったんだよ」
「……それで?」
「ものすごくいい笑顔で手を振って……」
『皆さん、また明日!』
「……」
「それ聞いた瞬間、一人がとうとう泣き出してさ」
「えっ」
「そしたら残りの二人も泣き出して、三人揃って店から走って逃げてった」
「お前らが先に出るんじゃなかったのかよ!?」
「俺たちより先に逃げたんだよ。しかも一人、財布忘れてた」
「どんだけ怖かったんだよ!!」
純之助は額を押さえた。
「結局、店員さんに財布預けて帰ったよ……」
相沢は満足そうに頷いている。
「いやあ、皆さん熱心な方たちでしたねぇ」
「お前が怖すぎただけだろ!」
「でも、おかげで勧誘はお断りできましたし」
「断ったんじゃなくて追い払ったんだろ!」
相沢は涼しい顔で微笑んだ。
「まっ、冗談ですけど」
「…………」
「…………」
俺と純之助は顔を見合わせた。
……冗談?
どこから?
「……陽一さん」
「……はい」
「俺、こいつの冗談と本気の区別がつかない」
「……俺もです」
相沢だけが、何事もなかったように爽やかな笑顔を浮かべていた。
*
「おーっす!」
スタジオの扉が開き、神崎が入ってきた。
その後ろには奈緒さんもいる。
「陽一さん! 来てくれたんすね!」
「まあ、暇だったからな」
「またまたぁ。楽しみにしてたんじゃないっすか?」
「別に」
「顔に出てますよ?」
「出てない」
「いや、出てますって」
「うるさい」
神崎はニヤニヤしながらギターケースを下ろした。
「純之助、準備できてる?」
「俺はいつでも」
「昌利は?」
「僕も大丈夫ですよ」
「奈緒は?」
「神崎が無駄口叩くのやめたら始められる」
「俺のせい!?」
奈緒さんはスティックケースを開きながら、呆れた顔をした。
「あと、陽一くん。久しぶり」
「あ、どうも。今日はよろしくお願いします」
「うん。あとでドラム叩いてみる?」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん。せっかく練習してるんだから、成果見せてよ」
「……はい」
そう言って奈緒さんはドラムセットへ向かった。
……まずい。
楽しみにされてしまった。
嬉しい反面、急に緊張してきた。
*
演奏が始まった。
やっぱり、生の音はいい。
神崎のギターが鳴り、純之助のベースが腹の奥に響く。
昌利のキーボードがその隙間を埋め、奈緒さんのドラムが全体を引っ張っていく。
四人の音が重なると、部屋の空気そのものが震えているようだった。
……格好いいな。
思わず見入ってしまう。
しかし。
曲の途中で、神崎のギターが一音外れた。
続けて、入るタイミングまで間違える。
奈緒さんのスティックが止まった。
演奏も止まる。
「……神崎」
「いや、今のは」
「神崎」
「ちょっと指が滑って」
「神崎ぃぃ!!」
「ぶふっ!!」
しまった。
思い切り吹き出してしまった。
全員の視線が俺に集まる。
「……陽一くん?」
「い、いや、すみません」
慌てて口を押さえる。
だが、駄目だ。
今の声。
あまりにも聞き覚えがある。
先日、神崎と海まで走った時のことだ。
あいつは奈緒さんの怒鳴り声を、なぜかデスメタルのボーカルみたいな声で再現していた。
『カンザキィィィィ!!』
あの時の、地獄の底から響いてくるような声。
しかも本人は大真面目だった。
……駄目だ。
思い出してしまった。
「ふっ……くくっ……!」
「陽一くん?」
「す、すみませ……っ、ふはははっ!」
二回目は耐えられなかった。
膝に手をついて笑う俺を、神崎が信じられないものを見る目で眺めている。
「陽一さん!? 何笑ってんすか!?」
「い、いや……何でも……!」
「絶対何でもなくないっすよ!」
奈緒さんの視線が、俺と神崎の間を往復する。
「……あんたたち、何か隠してない?」
「「何も!」」
声が重なった。
最悪だった。
*
休憩を挟んだ後、奈緒さんがドラムの椅子から立ち上がった。
「じゃあ陽一くん、叩いてみよっか」
「はい」
スティックを受け取り、椅子に座る。
久しぶりの本物のドラム。
電子ドラムとは違う打面の感触に、少し戸惑う。
それでも、家で練習していた基本のリズムを叩き始めた。
最初はぎこちなかったが、少しずつ身体が慣れてくる。
「お、いいじゃん」
奈緒さんが頷いた。
「前よりずっと安定してる。ちゃんと練習してたんだね」
「まあ……はい」
「手首の使い方も良くなってるし、足も前より動いてる。いい感じ」
「ありがとうございます」
素直に褒められると、何だか照れくさい。
すると、後ろから神崎が口を挟んできた。
「いやあ、陽一さん。頑張ってますねぇ」
……何だ、その言い方。
「何だよ」
「いやいや、いいと思うっすよ。初心者にしては」
「……」
「ほら、足と手が別々に動くだけでも大進歩じゃないっすか」
「お前な」
「次はちゃんと曲に合わせられるようになるといいっすね!」
神崎が満面の笑みで親指を立てた。
腹が立つ。
こいつ、絶対にわざとだ。
「ヒロト、あんまり茶化すなよ」
純之助が呆れた声を出す。
「いや、褒めてるだけだって!」
「その顔で言っても説得力ないですよ、ヒロト」
昌利まで笑っている。
「陽一さん、ほら、もう一回やってみてくださいよ。今度はちゃんと!」
「……お前、さっきギター間違えてただろ」
「いやいや、俺はちょっとしたミスっすから!」
「俺だって練習してんだよ!」
「分かってますって! でも陽一さん、まだまだっすねぇ!」
……ああ、もう。
「お前なんか、奈緒さんのモノマネしてたくせに!」
言ってしまった。
部屋の空気が止まった。
神崎が親指を立てた姿勢のまま固まる。
純之助が顔を上げる。
昌利の口元が、ゆっくりと緩んだ。
そして。
「……モノマネ?」
奈緒さんが、静かにスティックを置いた。
しまった。
本当にしまった。
「陽一くん」
「……はい」
「今、何て?」
「……いや、その」
「神崎が、私のモノマネ?」
「…………はい」
神崎が両手を振る。
「いやいやいや! 奈緒、違うんだって!」
「何が違うの?」
「その、ほら! ちょっとした冗談っていうか!」
「どんなモノマネ?」
「……」
「神崎」
「……はい」
「やれ」
「……え?」
「今すぐやってみろ」
神崎の顔から血の気が引いた。
「いや、本人の前ではちょっと……」
「本人が許可してるんだけど?」
「そういう問題じゃないだろ!」
「じゃあどういう問題?」
「俺の命の問題!!」
純之助がベースを抱えたまま、肩を震わせ始めた。
昌利は口元を押さえている。
俺はといえば、できる限り気配を消していた。
奈緒さんが一歩近づく。
「いつの私のモノマネ?」
「……高校の頃」
「へえ」
「いや、今の奈緒は違うんだよ!」
「何が?」
「昔はもっと、その……すごかったから!」
「何がすごかったの?」
「声量とか! 迫力とか!」
「今は?」
「今はちゃんと人の話も聞いてくれるし!」
奈緒さんが目を細めた。
「……昔は聞いてなかったって?」
「違う違う違う! そうじゃなくて!」
神崎は必死に言葉を探す。
そして、最悪の答えを見つけた。
「昔より人間らしくなったっていうか!」
「……神崎?」
「待って! 今のは褒め言葉!」
「私、昔は何だったの?」
「…………」
「答えなさい」
「……自然災害?」
ミシッ。
嫌な音がした。
奈緒さんの手元を見る。
握っていたスティックが、わずかにしなっている。
……え?
木製の棒って、あんなふうに曲がるものだったっけ?
「神崎ぃぃぃ!!」
「ほらそれぇぇぇ!!」
神崎が悲鳴を上げた。
「それなんだって! その声のモノマネなんだよ!!」
言い終わってから、神崎が固まった。
……あ。
自分で言った。
奈緒さんはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり息を吐く。
「……もういい」
「え?」
「怒るのも疲れた」
「……そ、そう?」
「うん。だから、デコピン一発で許してあげる」
神崎の顔が明るくなった。
「えっ、マジ!? それでいいの!?」
「うん」
「何だよ、早く言ってくれよ! デコピンくらい全然――」
「じゃあ、動かないでね」
奈緒さんが中指を親指に引っかけた。
その指を見た瞬間、俺は嫌な予感がした。
さっき、スティックを握り潰しかけていた人間だぞ。
……大丈夫なのか?
「ほら、奈緒! 早くしろよ!」
神崎が額を突き出す。
「はいはい」
奈緒さんが微笑んだ。
そして。
――バチィィン!!
何かが破裂したような音が響いた。
神崎の身体が一瞬、硬直する。
「…………」
そのまま、ゆっくり後ろへ倒れた。
ドサッ。
「……神崎?」
返事がない。
床に転がった神崎は、白目を剥きかけながら小刻みに痙攣していた。
額には真っ赤な丸い跡。
……何だろう。
煙が出ているように見える。
いや、出てない。
出てないはずだ。
「……ヒロト?」
純之助が恐る恐る覗き込む。
「……生きてるか?」
「…………ヴォ……」
「デスボイスで返事するなよ!!」
昌利は静かに両手を合わせた。
「安らかに眠ってください」
「勝手に殺すな!」
純之助が突っ込む。
奈緒さんは満足そうに手を払った。
「はい。これでおしまい」
……終わった。
助かった。
俺は胸を撫で下ろした。
その時。
「……あ、そうだ」
奈緒さんがこちらを向いた。
「陽一くん」
「……はい?」
「陽一くんも、笑ってたよね?」
「…………」
「しかも、神崎のモノマネを前から知ってたんだよね?」
「……はい」
「じゃあ、陽一くんも一発ね」
「……え?」
奈緒さんが、再び中指を親指に引っかけた。
俺は床を見た。
神崎がまだピクピクしている。
額から、今度こそ本当に煙が出ているような気がした。
「……あの、奈緒さん」
「なぁに?」
「俺、まだドラムの練習が……」
「大丈夫。すぐ終わるから」
「……」
「ほら、こっち向いて?」
奈緒さんがにっこり笑った。
……神様。
俺、何か悪いことしましたか?
*
「さあ、陽一くぅん。練習の続き、しましょうねぇ?」
「……はい」
奈緒さんが、満面の笑みでドラムセットを指さした。
……怖い。
非常に怖い。
額がまだジンジンしている。
いや、ジンジンなんて可愛いものじゃない。
頭蓋骨の内側で、誰かが鐘を鳴らしている。
「ほらほら、遠慮しなくていいのよぉ?」
「……はい」
「ワタシ、ヤサシク、オシエルカラネ?」
……ん?
今、何でカタコトになった?
「……奈緒さん?」
「ナァニ?」
「……怒ってます?」
「ゼェンゼン?」
絶対怒ってる。
「ホラ、タタイテミテ?」
「……はい」
恐る恐るスティックを握り、基本のリズムを叩き始める。
「うんうん、上手ねぇ」
「……ありがとうございます」
「でも、ちょっと走ってるかなぁ?」
「……はい」
「アセラナイ。ユックリ。ネ?」
「……はい」
「神崎ミタイニ、カッテニ走ッチャ、ダメヨ?」
「……はい」
後ろで神崎が小さく呟いた。
「……まだ怒ってるじゃん」
奈緒さんの笑顔が、ほんの少し深くなった。
「神崎ぃ?」
「何でもない!!」
俺は黙ってドラムを叩き続けた。
怖い。
本当に怖い。
ただ、指導そのものは驚くほど的確だった。
力の抜き方、スティックの跳ね返り、バスドラムを踏むタイミング。
一つずつ直してもらううちに、少しずつ音が揃ってくる。
「そうそう。今のいい感じよぉ」
「……ありがとうございます」
「電子ドラムでも、ちゃんと練習してるのねぇ」
「……はい」
「エライ、エライ」
……何だろう。
褒められているはずなのに、全然嬉しくない。
むしろ、怒鳴られた方がまだ安心できる気がする。
横を見ると、神崎が笑いを堪えていた。
……こいつ。
「神崎」
「何っすか?」
「お前も一緒に教わってくれ」
「何でっすか!?」
「一人じゃ怖い」
「巻き込まないでくださいよ!!」
「神崎ぃ?」
奈緒さんが微笑んだ。
「イッショニ、レンシュウ、シヨウネ?」
「……はい」
こうして神崎はギターを抱え、俺の練習に付き合うことになった。
少しでもタイミングを外すと、奈緒さんの甘ったるい声が飛んでくる。
「神崎ぃ? 今の、ちょっと違ったかなぁ?」
「はいっ!」
「モウイッカイ、デキルヨネ?」
「はいっ!!」
……気の毒に。
いや。
自業自得か。
*
結局、その日の練習は日が暮れるまで続いた。
最後の方は、俺の腕も足もまともに動かなくなっていた。
「……疲れた」
スタジオの椅子にぐったり座り込む。
「お疲れ、陽一くん」
奈緒さんがタオルを差し出してくれた。
「今日はかなり良くなったよ。また練習しようね」
「……ありがとうございます」
ようやく声が普通に戻っている。
心底ほっとした。
神崎は床に座り込んでいた。
「……俺、今日何しに来たんだっけ」
純之助がベースを片づけながら答える。
「怒られに来たんじゃないの?」
「違うわ!!」
「いや、八割くらい怒られてたぞ」
「二割は演奏してただろ!!」
「その二割も間違えてたけどな」
「純之助ぇぇ!!」
その叫びに、純之助は声を上げて笑った。
昌利が時計を見た。
「もうこんな時間ですか。お腹空きましたね」
「そうね。みんなで何か食べて帰らない?」
奈緒さんの提案に、全員が賛成した。
*
スタジオを出ると、外はすっかり暗くなっていた。
俺たちは近くのファミリーレストランに入り、適当な席に腰を下ろした。
それぞれ注文を済ませ、飲み物を飲みながら一息つく。
「そういやさ」
神崎がメニューを閉じながら口を開いた。
「お盆ってみんな予定ある?」
「俺は特にないな」
純之助が答える。
「僕も今のところ空いてますよ」
昌利も続いた。
「奈緒は?」
「何? また何か企んでるの?」
「いや、せっかくだしさ。みんなでツーリング行かね?」
「ツーリング?」
「そう。泊まりで!」
神崎が嬉しそうに両手を広げる。
「山の方走ってさ、温泉でも入って、どっか泊まって帰ってくる感じ!」
「いいじゃん」
純之助が乗り気になった。
「たまには遠出したいしな」
「僕も賛成です。楽しそうですね」
昌利も笑う。
奈緒さんは少し考えてから頷いた。
「まあ、いいんじゃない? 予定合わせられるなら」
「よっしゃ!」
神崎がこちらを向いた。
「陽一さんは?」
「……俺?」
「そうっすよ。もちろん陽一さんも!」
お盆。
毎年、特にやることはなかった。
工場が休みになれば、バイクをいじったり、一人で走りに行ったり。
それはそれで嫌いじゃない。
でも。
こうやって誰かに誘われるのは、何だか久しぶりな気がした。
「……まあ、予定はないけど」
「じゃあ決まりっすね!」
「まだ何も決まってないだろ」
「いや、もう決まりっすよ!」
神崎が笑いながら俺の肩を叩く。
「楽しみっすね、陽一さん!」
「……ああ」
思わず、笑みがこぼれた。
料理が運ばれてきてからも、話は続いた。
どの山を走るか。
どこに泊まるか。
温泉はどうするか。
純之助は景色のいい道を走りたいと言い、昌利は温泉に入りたいと言った。
奈緒さんは宿の予約を誰がするのかと現実的な話を始める。
神崎はというと、ただひたすら楽しそうだった。
「いやあ、絶対楽しいって!」
「その前に宿決めなさいよ、神崎」
「分かってるって!」
「本当に?」
「……純之助、頼んだ!」
「お前が言い出したんだろ!」
「親友だろ!?」
「便利な時だけ親友使うな!」
賑やかな食卓だった。
……悪くないな。
こういうのも。
ふと、そんなことを思った。
その時。
「そういえば、陽一さん」
神崎が妙に真剣な顔になった。
「何だよ」
「ツーリング中、奈緒のモノマネは封印っすね」
「当たり前だろ」
「いや、でも山の中なら多少叫んでも……」
――ドンッ!!
奈緒さんのフォークが、皿の上の肉に突き刺さった。
神崎の肩が跳ねる。
「……はい」
「神崎」
「……はい」
「次やったら、山に埋めて帰るから」
「…………はい」
純之助が笑いを堪えながら呟いた。
「よかったな、ヒロト。自然に帰れるぞ」
「俺を何だと思ってんだよ!!」
その瞬間、奈緒さんが神崎を睨んだ。
「神崎ぃ!!」
「ヴォッ!?」
神崎の喉から、反射的にデスボイスが漏れた。
一瞬の沈黙。
そして。
「ぶっ……!」
俺が吹き出したのを合図に、全員が笑い始めた。
神崎だけが、今にも泣きそうな顔をしている。
「……もう勘弁してくれよぉ……」
奈緒さんは笑いながら、肉に刺さったフォークを引き抜いた。
「……陽一くん?」
「……はい」
「そんなに面白い?」
「い、いや……」
「ふふっ。そうなんだぁ?」
……まずい。
また、あの声だ。
「ジャア、陽一くんモ、イッショニ埋マロッカァ?」
「…………はい?」
隣で神崎が、ゆっくり俺を見た。
「……陽一さん」
「……何だよ」
「一緒っすね」
「嬉しくねえよ!!」
どうやら、今年のお盆は賑やかになりそうだ。
……無事に帰ってこられれば、の話だが。
やっと20話まで来れました
まだまだ先は長いですが引き続きよろしくお願いします




