EP18 寄り道
「陽一さん! 早く帰りますよ!」
終業時間を告げるチャイムが鳴った途端、神崎が大声を上げた。
「……何だよ、いきなり」
「何だよじゃないっすよ! 今日こそ完成させるんでしょう!?」
「ああ。だからってそんなに急ぐことないだろ」
「何言ってんすか! 俺、昨日から楽しみで全然寝られなかったんすよ!」
「……仕事中、やけに眠そうだったのはそれか」
「じゃ、先行ってます!!」
「おい、まだ片付けが――」
最後まで言い終わる前に、神崎は走り去っていった。
「……早く帰れって言ったのはお前だろ」
まったく、忙しいやつだ。
俺は残った道具を片付けながら、思わず苦笑した。
神崎が持ち込んだFTR250。
最初は見るも無残な姿だったが、仕事終わりに二人で少しずつ手を入れてきたおかげで、ようやく完成が見えてきた。
足りない部品を探し、配線を引き直し、保安部品を取り付ける。
途中、ウインカーが左右逆に点灯したときは、神崎が配線図を前に頭を抱えていた。
あれも今となっては笑い話だ。
昨日までに組み付けはすべて終わっている。
必要な手続きも済ませ、ナンバーも取得してあった。
あとはブレーキフルードを交換して、エア抜きを済ませれば完成だ。
それにしても、あいつ。
本当に嬉しそうだったな。
*
帰宅すると、神崎は既にFTRの横で待ち構えていた。
「遅いっすよ、陽一さん!」
「……お前が早すぎるんだよ」
「準備はバッチリっす!」
「分かったから落ち着け」
神崎は工具を並べ、フルードの缶まで用意していた。
「じゃあ、始めるぞ」
「うっす!」
リザーバータンクに新しいフルードを注ぎ、ブレーキレバーを何度も握る。
神崎にレバーを操作させながら、俺はブリーダーから古いフルードと空気を抜いていった。
「握れ」
「はい!」
「そのまま」
「うっす!」
「……離していいぞ」
そんな作業を何度も繰り返す。
やがて気泡も出なくなり、レバーにしっかりとした手応えが戻ってきた。
「……よし。こんなもんだな」
「……え?」
「終わりだよ」
「…………」
神崎はしばらく黙ってFTRを見つめていた。
「……マジっすか?」
「ああ。最後に漏れがないか確認して、ブレーキの効きも確かめれば終わりだ」
各部を確認し、問題がないことを確かめる。
「……よし。完成だ」
「…………」
「神崎?」
「……っしゃああああああ!!」
突然、神崎が両手を突き上げた。
「やった!! やりましたよ陽一さん!!」
「うるせえ! 近所迷惑だ!」
「だって! だって俺のバイクっすよ!? ついに走れるんすよ!?」
「分かったから!」
神崎はFTRの周りをぐるぐる回り始めた。
……犬か、こいつは。
ひとしきり騒いだ後、神崎は勢いよくこちらを振り向いた。
「陽一さん!」
「……何だよ」
「走りに行きましょう!」
「……今からか?」
「今からっす!」
空を見上げる。
日は随分傾いていたが、まだ明るさは残っていた。
「……ちょっとだけだぞ」
「もちろんっす!!」
……本当に分かってるんだろうか。
*
二台のエンジン音が、夕方の住宅街に響いた。
俺のCB750Fと、神崎のFTR250。
神崎は何度も自分のバイクを見下ろしては、嬉しそうに笑っていた。
信号待ちで隣に並ぶ。
「陽一さん!」
「何だ?」
「最高っすね!!」
「……まだ五分も走ってないぞ」
「五分でも最高っす!!」
信号が青に変わる。
俺が先に走り出すと、神崎も後ろについてきた。
ミラー越しに様子を確認する。
……何だ、あいつ。
さっきからやけに左右に揺れている。
右へ。
左へ。
また右へ。
まるでバイクに乗ったまま踊っているようだった。
「……何やってんだ?」
次の瞬間、FTRがぐらりと傾いた。
「おい!?」
神崎が慌ててハンドルを立て直す。
車体が一瞬ふらついたものの、どうにか持ち直したらしい。
……危ねえな。
次の信号で止まると、神崎が隣に並んできた。
「……お前、今コケかけただろ」
「…………」
「神崎?」
「……いやあ、バイクって楽しいっすね!」
「誤魔化すな!」
「ちょっとテンション上がっちゃいまして!」
「ちょっとじゃねえだろ。普通に走れ!」
「うっす!」
そう返事をした神崎は、今度こそ大人しく走り始めた。
……最初からそうしろよ。
しばらく走ると、潮の匂いが漂ってきた。
海が近い。
夕日に照らされた水面が、遠くでゆっくりと輝いていた。
見慣れた景色だった。
けれど、こうして誰かと一緒に走るのは久しぶりな気がする。
俺は少しだけアクセルを開けた。
*
海辺の駐車場に二台を停めた。
神崎はヘルメットを脱ぐなり、大きく伸びをした。
「くぅーっ! 最高っすね!」
「さっきからそればっかりだな」
「いや、マジで最高なんすよ!」
「……そうかよ」
駐車場の端にある自動販売機で、缶コーヒーを二本買った。
一本を神崎に投げ渡す。
「おっと! あざっす!」
二人で浜辺の方へ歩き、適当な場所に腰を下ろした。
波が静かに寄せては返している。
夕日はもう水平線の向こうへ沈みかけていた。
プルタブを開け、コーヒーを一口飲む。
「……うまいっすねえ」
「そうだな」
「いやあ、ほんと陽一さんには感謝してるっすよ」
「……急にどうした?」
「だって、陽一さんがいなかったら、あのFTRまだバラバラだったと思いますもん」
「お前も随分頑張ってたじゃねえか」
「まあ、そうっすけど!」
神崎は照れくさそうに笑った。
「……また来ましょうよ、ここ」
「ああ。いいな」
「今度はもっとゆっくり走りたいっすね」
「だったら休みの日だな」
「それなら、いっそのこと泊まりで行きません?」
「泊まり?」
「そうっす! せっかくだし、バンドの連中も誘って!」
「……みんなバイク持ってるのか?」
「持ってますよ! 全員!」
「へえ」
「みんなでツーリングして、うまいもん食って、温泉でも入って! 最高じゃないっすか!」
「……楽しそうだな」
「でしょ!? じゃあ決まりっすね!」
「まだ誰にも聞いてないだろ」
「大丈夫っすよ! あいつら暇なんで!」
「勝手に決めるなよ……」
神崎は楽しそうに笑った。
そういえば、あいつらとはまだ知り合って間もない。
ライブで演奏を聴き、打ち上げに参加して、奈緒さんにはドラムまで教わっている。
けれど、昔のことはほとんど知らなかった。
「……そういや、お前らのバンドっていつからやってるんだ?」
「高校の頃っすね。最初は俺と黒川の二人だったんすよ」
「へえ。黒川さんとは長いんだな」
「そうっす。あいつ、昔からあんな感じなんすよ。何考えてんのか分かんないし、返事も適当だし」
「……今と変わらないんだな」
「全然変わんないっすね」
神崎は笑いながらコーヒーを飲んだ。
「で、途中から奈緒が入ってきたんすけど……」
そこで、神崎の表情が変わった。
「……どうした?」
「陽一さん」
「何だよ」
「あの頃の奈緒は、マジでヤバかったっす」
「……そんなに?」
「ヤバいなんてもんじゃないっすよ! 今の奈緒なんか、あれでも相当丸くなった方なんすから!」
「……そうなのか?」
「もう鬼っすよ、鬼! まともに会話できなかったっすからね!」
「ははっ。大げさだな」
「いやいや! ちょっと当時の奈緒を再現してみますね!」
「……再現?」
神崎は飲みかけの缶コーヒーを地面に置いた。
そして突然立ち上がると、両足を大きく開いた。
「……何してんだ?」
「ちょっと待ってください。喉作ってるんで」
「……喉?」
神崎は大きく息を吸い込み、何度か咳払いをした。
それから首を左右に振り、腰を落とす。
「……よし。いきますよ」
「お、おう」
「これが当時の奈緒っす!」
次の瞬間。
神崎は腹の底から、凄まじいデスボイスを響かせた。
「ヴォ゛ォ゛ォ゛イ!! テメ゛ェ゛ラ゛ァ゛!! レ゛ン゛シュ゛ウ゛シ゛テ゛キ゛タ゛ン゛ダ゛ロ゛ウ゛ナ゛ァ゛!!」
「ぶっ!?」
思わずコーヒーを吹きそうになった。
「カ゛ン゛ザ゛キ゛ィ゛!! キ゛タ゛ァ゛ヘ゛タ゛ク゛ソ゛ォ゛!!」
「ははははっ! 待て待て!」
「ク゛ロ゛カ゛ワ゛ァ゛!! ヘ゛ェ゛ス゛ユ゛カ゛マ゛セ゛ン゛ナ゛ァ゛!!」
「何言ってんのか分かんねえよ!」
「ヴォ゛ォ゛ォ゛ォ゛!!」
「はははっ! 最後の何だよ!」
神崎はぴたりと動きを止めた。
そして何事もなかったかのように缶コーヒーを拾い上げた。
「『もう一回、頭から合わせるぞ』っす」
「分かるかそんなもん!」
「いやあ、懐かしいっすね。毎日こんな感じだったんすよ」
「はははっ! お前、絶対盛ってるだろ!」
「何言ってんすか! ほぼ完コピっすよ!」
「……本人に聞いてみるか?」
「それだけはマジでやめてください!!」
神崎が慌ててこちらを向いた。
その必死な顔がおかしくて、また笑ってしまう。
「はははっ! そんなに怖いのかよ!」
「怖いっすよ! 今でも怒らせたらヤバいんすから!」
「……じゃあ、なんでそんな物真似するんだよ」
「本人がいないからに決まってるじゃないっすか!」
「最低だな、お前!」
「陽一さんだって笑ってたじゃないっすか!」
「……ははっ、まあな」
しばらく二人で笑っていた。
神崎は缶コーヒーを飲み干すと、海の方へ顔を向けた。
「……でもまあ、奈緒がいなかったら今の俺はいないっすね」
「……そうなのか?」
「ええ。散々怒られましたけど、あいつのおかげでちゃんと音楽やるようになったんで」
「……へえ」
「黒川も含めて、ずっと一緒にやってきた仲間っすからね」
神崎は少し照れくさそうに笑った。
「だから陽一さんにも、もっと仲良くなってほしいんすよ」
「……そうか」
「あいつら、変な連中っすけど、いいやつらなんで!」
「……お前も十分変だと思うぞ」
「ええっ!? 俺もっすか!?」
「自覚なかったのかよ」
「ひどいっすよ、陽一さん!」
また笑い声が上がった。
気づけば、辺りは随分暗くなっていた。
「……そろそろ帰るか」
「えー、もうっすか?」
「明日も仕事だぞ」
「あっ、そうだった!」
「……忘れてたのか?」
「いやあ、楽しくてつい!」
神崎は立ち上がり、砂を払った。
「じゃ、今度はみんなで来ましょうね!」
「ああ」
空になった缶をゴミ箱に捨て、二人でバイクの方へ戻る。
エンジンをかけると、夜の海辺に二台の排気音が響いた。
俺はヘルメットを被り、神崎に手を上げた。
「行くぞ」
「うっす!」
帰り道、神崎はもう蛇行運転をしなかった。
……少しは懲りたらしい。
*
家に帰り着く頃には、すっかり夜になっていた。
風呂を済ませ、久しぶりに祈りを捧げる。
そういえば、ここ最近は随分とご無沙汰だった気がする。
それから電子ドラムの前に座り、スティックを手に取った。
ふと、海辺での神崎の物真似が頭をよぎる。
「……ふっ」
思わず笑いが漏れた。
あいつ、奈緒さんの前でもあれができるんだろうか。
……今度、聞いてみよう。
そんなことを考えながら、俺はペダルに足を乗せた。
軽くスティックを振り下ろす。
いつもの部屋に、小気味よいリズムが響き始めた。




