EP17 動き出すもの
土曜日、午前十一時五十分。
俺は軽トラックを運転しながら、住宅街の細い道をさまよっていた。
「……本当にこっちで合ってんのか?」
スマホの地図では、もう目的地のすぐ近くにいるはずだった。
しかし、似たような路地がいくつも続いていて、どこを曲がればいいのか分からない。
おまけに道が狭い。
軽トラだからまだいいものの、普通車だったら曲がるのをためらうような角もあった。
「……こっちか?」
慎重にハンドルを切り、一本奥の道へ入る。
すると、画面に表示されていた目的地と同じ場所に、小さな平屋が見えてきた。
「……あった」
少し年季の入った建物だった。
瓦屋根に白い外壁。小さな庭には手入れされた植木鉢がいくつか並んでいる。
表札はない。
邪魔にならない場所に軽トラックを停め、エンジンを切る。
車から降りて玄関へ向かうと、ちょうど扉が開いた。
「あっ、陽一君!」
ナオさんだった。
「こんにちは。すみません、少し早かったですか?」
「全然! ちょうど片付け終わったところ。入って入って!」
「お邪魔します」
玄関で靴を脱ぎ、案内されるまま廊下を進む。
家の中は、想像していた以上に綺麗だった。
古い家ではあるものの、床には埃一つ見当たらない。窓際には小さな観葉植物が置かれ、棚には本や雑貨が整然と並んでいる。
「……綺麗にしてますね」
「えっ、そう?」
「はい。もっとこう……」
「もっと?」
「ドラムのスティックとか、そこら辺に転がってるのかと」
「あはは! 何それ!」
ナオさんが笑った。
「私だって普通に生活してるんだからね?」
「すみません」
「まあ、スティックは結構いろんなところに置いてるけど」
「置いてるんじゃないですか」
「すぐ使えるようにね!」
どうやら本人なりの理由があるらしい。
案内された居間には、小さなテーブルとソファが置かれていた。
壁際には本棚があり、音楽関係の雑誌や教則本が並んでいる。
「お茶でいい?」
「あ、ありがとうございます」
「そこ座ってて。すぐ持ってくるから」
俺がソファに腰を下ろすと、ナオさんは台所へ向かった。
何となく部屋を見回す。
女性の一人暮らしの家に上がるなんて、考えてみれば初めてかもしれない。
もっとも、今日はドラムを教えてもらいに来ただけだ。
余計なことを考える必要もない。
「はい、お待たせ!」
ナオさんがお茶を二つ持って戻ってきた。
「ありがとうございます」
「それで、陽一君。練習は続けてる?」
「一応、毎日少しずつ」
「偉いじゃん!」
「まだ全然ですけど」
「最初はみんなそうだよ。動画見た感じ、結構よくなってたし」
そう言われると、少し嬉しい。
「じゃあ、早速やってみよっか!」
「お願いします」
ナオさんは立ち上がり、廊下の奥にある部屋へ向かった。
「こっちこっち!」
扉を開けると、その向こうにはもう一つ、大きな箱のようなものがあった。
「……何ですか、これ」
「防音室!」
「これが?」
「そう。組み立て式のやつ。中古で買ったんだけどね」
部屋の中に、さらに部屋がある。
防音室の扉を開けると、そこにはドラムセットが置かれていた。
「おお……」
思わず声が漏れた。
バスドラムにスネア、タム、シンバル。
スタジオで見たものと同じような、本格的なドラムセットだ。
「どう? 私のお城!」
ナオさんが得意げに胸を張る。
「すごいですね」
「でしょ!」
「これ、家で叩けるんですか?」
「時間は気をつけてるけどね。完全に音が消えるわけじゃないし」
ナオさんはスネアを軽く叩いた。
乾いた音が小さな室内に響く。
「ここ借りたのも、ドラムを置ける場所が欲しかったからなんだ」
「なるほど」
「アパートじゃ、なかなか難しいからね」
確かに、俺のアパートでこんなものを叩いたら、三浦さんが飛んでくるだろう。
下手をすれば神崎も飛んでくる。
……いや、あいつの場合は喜んで飛んできそうだ。
「じゃあ、座ってみて」
「はい」
ナオさんに促され、ドラムの椅子に腰を下ろした。
目の前にはスネア。
足元にはバスドラムのペダル。
練習パッドとは、ずいぶん景色が違う。
「まず、いつもやってるやつ見せて」
「分かりました」
持参したスティックを取り出し、スネアを叩く。
右、左、右、左。
メトロノームの音を頭の中で思い浮かべながら、一定の速さを意識する。
しばらく叩いたところで、ナオさんが声をかけた。
「はい、ストップ!」
俺は手を止めた。
「どうですか?」
「うん、前よりずっといいよ!」
「本当ですか?」
「本当! ちゃんと練習してるの分かる」
ナオさんは俺の右手を指さした。
「ただ、ちょっと力入りすぎかな」
「力、ですか」
「うん。特に右手。スティックを握り込んじゃってる」
言われて自分の手を見る。
確かに、かなり強く握っていた。
「落としそうで」
「あー、分かる分かる。最初はそうなるよね」
ナオさんは自分のスティックを持った。
「でも、そんなに握らなくても大丈夫。ほら」
軽くスティックを振る。
タン。
スティックがスネアの表面で跳ね返り、そのまま自然に元の位置へ戻った。
「……あれ?」
「分かった?」
「いや、今のどうやったんですか?」
「ふふっ、こう」
もう一度。
タン、タン、タン。
ほとんど力を入れていないように見えるのに、音は綺麗に揃っている。
「スティックって、叩いたら跳ね返ってくるでしょ?」
「はい」
「その力を利用するの。毎回腕で持ち上げようとすると疲れちゃうから」
ナオさんは俺の手元を覗き込んだ。
「ちょっと貸して」
スティックを受け取ると、握る位置を見せてくれる。
「この辺を支点にして、あとは軽く支える感じ。ぎゅっと握らない」
「……なるほど」
「じゃあ、もう一回」
言われた通りに握り直してみる。
タン。
……何か違う。
もう一度。
タン。
今度はスティックが変な方向へ跳ねた。
「あっ」
「おっと!」
ナオさんが笑う。
「最初はそんなもんだよ。無理に動かそうとしないで」
「難しいですね」
「でしょ? でも、できるようになるとすっごく楽になるよ」
何度か繰り返す。
手首の力を抜いて、跳ね返ってきたスティックを受け止める。
最初はぎこちなかったが、少しずつ感覚が掴めてきた。
「おっ!」
ナオさんが声を上げた。
「今の! 今の感じ!」
「これですか?」
「そうそう! もう一回!」
タン、タン、タン。
「いいじゃん! さっきより全然いい!」
ナオさんは自分のことのように喜んでいた。
「……なんとなく分かってきました」
「よし! じゃあ次は左手!」
「まだあるんですか」
「当たり前でしょ! ドラムは両手使うんだから!」
そりゃそうだ。
そこからしばらく、左右の手を交互に動かす練習が続いた。
ナオさんは細かいところまでよく見ていた。
手首の角度。
スティックの高さ。
音の強さ。
少しでも変な癖が出ると、すぐに教えてくれる。
ただ、決して頭ごなしに否定したりはしなかった。
「うん、そこはいいね!」
「今のはちょっと惜しい!」
「そうそう! その調子!」
褒められると、ついもう一度叩きたくなる。
気がつけば、ずいぶん時間が経っていた。
「……ふう」
スティックを下ろす。
額に少し汗が滲んでいた。
「疲れた?」
「結構」
「あはは! 最初は余計なところに力入っちゃうからね」
ナオさんは椅子を持ってきて、俺の隣に座った。
「じゃあ、最後にちょっとだけドラムセット使ってみようか」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん!」
ナオさんが足元を指さす。
「右足がバスドラム。左足がハイハットね」
「はい」
「まず右手でハイハットを一定に叩いてみて」
言われた通りに叩く。
チッ、チッ、チッ、チッ。
「そうそう。じゃあ一拍目と三拍目で右足」
ドン、チッ、ドン、チッ。
……あれ?
右手につられて足が変なところで動いた。
「……難しい」
「でしょ!」
ナオさんが楽しそうに笑った。
「でも、慣れたら勝手に動くようになるから!」
「本当ですかね」
「本当だって!」
今度は二拍目と四拍目にスネアを入れる。
ドン、タン、ドン、タン。
右手はハイハットを刻み続ける。
頭の中が忙しい。
何度も止まりながら、少しずつ繰り返した。
そして、何回目かの挑戦で。
ドン、タン、ドン、タン。
ほんの短い間だったが、全部の音が綺麗に繋がった。
「……おお!」
「できたじゃん!」
ナオさんが手を叩いた。
「今の! ちゃんと八ビートになってたよ!」
「……これが八ビートですか」
「そう!」
俺はもう一度ペダルを踏んだ。
ドン。
足元から響く低い音。
今まで練習パッドでは味わえなかった感覚だった。
「……面白いですね」
「でしょ?」
ナオさんが嬉しそうに笑った。
「ドラムって、楽しいんだよ」
その言葉には、何の飾りもなかった。
本当に好きなんだろうな。
そう思った。
◇
「そういえば、電子ドラム見る?」
「あ、お願いします」
練習を終えて居間に戻ると、ナオさんは隣の部屋から大きな箱を引っ張り出してきた。
「これこれ!」
「……結構大きいですね」
「まあ、ドラムだからね」
箱の中には、黒いパッドや金属製のパイプが入っていた。
「前に使ってたやつなんだけど、今はほとんど使ってないんだ」
「動くんですか?」
「もちろん! 昨日確認したから大丈夫!」
ナオさんはスマホを取り出し、組み立てた状態の写真を見せてくれた。
黒いパッドがいくつも並んだ電子ドラム。
これなら、ヘッドホンを使って練習できそうだ。
「いくらですか?」
「んー……五千円でどう?」
「……安すぎません?」
「そう?」
「普通、もっとするでしょう」
「中古だし、結構古いしね。それに使ってくれるなら嬉しいから」
「でも……」
「じゃあ、陽一君が上手くなったら、何か奢ってよ!」
「……それでいいんですか?」
「いいのいいの!」
ナオさんは笑った。
「押し入れに眠らせておくより、誰かが叩いてくれた方がいいもん」
俺はもう一度、箱の中を見た。
これがあれば、家でもちゃんと練習できる。
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
「はい、毎度あり!」
代金を渡すと、ナオさんは嬉しそうに受け取った。
「そうだ、組み立て方も送っとくね。説明書の写真撮ってあるから」
「助かります」
「あと、ペダルの位置は自分が踏みやすいように調整してね」
「分かりました」
時計を見ると、もう午後二時を回っていた。
「あっ、そろそろ準備しなきゃ」
「今日、練習でしたっけ?」
「うん。夕方からスタジオ」
ナオさんは立ち上がった。
「ヒロト、また変な曲持ってきてないといいんだけど」
「……あいつなら持ってきそうですね」
「でしょー?」
二人で笑った。
神崎のことだから、きっと今日も何かしら騒ぎを起こすだろう。
「じゃあ、積み込みますか」
「うん! 私も手伝う!」
「いや、結構ですよ」
「いいからいいから!」
結局、二人で箱を玄関まで運ぶことになった。
外へ出ると、夏の日差しが容赦なく照りつけていた。
「……暑い」
「ほんとねー」
軽トラックの荷台に箱を載せ、ロープで固定する。
「これなら大丈夫そうですね」
「うん! 気をつけて帰ってね!」
「はい。今日はありがとうございました」
「こちらこそ! また練習したら動画送って!」
「分かりました」
「次はもっと上手くなってるの、期待してるからね!」
「……頑張ります」
ナオさんは笑顔で手を振った。
俺も軽く手を上げ、軽トラックに乗り込んだ。
◇
アパートへ戻ったのは、午後三時前だった。
神崎は夕方からバンドの練習だと言っていた。
あいつは普段、バスで移動している。
車は実家に置いてきたらしく、こちらには持ってきていない。
だから、今日もそろそろバスに乗って出かける頃だろう。
俺は軽トラックを停め、荷台のロープをほどいた。
電子ドラムの箱を降ろそうとしたところで、隣の部屋の扉が開く。
「あれ? 陽一さん!」
「……おう」
神崎だった。
肩にはギターケースを背負っている。
「何してるんすか?」
「……ちょっとな」
「何すか、その箱」
「……買い物だよ」
「へえ! 何買ったんすか?」
「いろいろだ」
「いろいろ?」
神崎が箱を覗き込もうとする。
俺はさりげなく身体をずらした。
「お前、練習じゃないのか?」
「あっ、そうっす! バスの時間が!」
神崎は慌ててスマホを確認した。
「やっべ! もう行かないと!」
「気をつけてな」
「はい! 今日も帰るの十時くらいになると思うんで!」
「おう」
「じゃ、行ってきます!」
神崎はギターケースを揺らしながら走っていった。
角を曲がるまで見送ってから、俺は息を吐いた。
「……危なかった」
あと少し遅かったら、箱の中身を見られていたかもしれない。
別に悪いことをしているわけじゃない。
ただ、あいつに知られたら絶対に騒ぐ。
それだけは避けたかった。
俺は箱を抱え直し、部屋へ運び込んだ。
それなりに重かったが、一人で運べないほどではない。
箱を開ける。
中からパイプを取り出し、ナオさんから送られてきた説明書の写真を確認する。
「……これがこっちで……」
金属製のフレームを組み立て、パッドを取り付けていく。
配線を繋ぎ、音源モジュールを固定する。
機械の組み立てなら多少は慣れている。
もっとも、エンジンと違って、どの部品が何の役割をしているのかはまだよく分からない。
四十分ほど格闘して、ようやく形になった。
「……おお」
部屋の隅に、黒い電子ドラムが鎮座している。
なかなかの存在感だった。
椅子に座り、ヘッドホンを繋ぐ。
電源を入れると、小さな画面が光った。
試しにスネアを叩く。
タン。
ヘッドホンの中に音が響いた。
「……すげえ」
もう一度。
タン、タン。
ちゃんとドラムの音がする。
今度はバスドラムのペダルを踏んでみた。
ドン。
思わず笑ってしまった。
「……面白えな、これ」
ナオさんに教わったことを思い出す。
手首の力を抜く。
スティックの跳ね返りを利用する。
右手でハイハットを刻み、右足でバスドラム。
左手でスネア。
ドン、タン、ドン、タン。
途中で何度も間違えた。
それでも、さっきより少しだけ上手くできた気がした。
しばらく夢中になって叩いていたが、ふと足元が気になった。
ヘッドホンから聞こえる音とは別に、ペダルを踏むたび床へ振動が伝わっている。
「……これ、下に響くよな」
幸い、俺の部屋は一階だ。
とはいえ、隣室には神崎がいるし、三浦さんに怒られるのも面倒だ。
何か敷いた方がよさそうだな。
とりあえず、今日はあまり強く踏まないようにしておこう。
時計を見る。
まだ夕方だった。
神崎が帰ってくるまで、ずいぶん時間がある。
「……もうちょっとやるか」
俺は再びスティックを握った。
タン、タン、タン。
さっき教わった動きを、一つずつ確かめていく。
何度も失敗する。
そのたびに、もう一度。
気がつけば、外はすっかり暗くなっていた。
「……やべ、飯食ってねえ」
時計は午後七時を回っている。
腹も減ったし、そろそろ休憩にしよう。
スマホを取り出し、ナオさんにメッセージを送った。
『無事に組み立てられました。ありがとうございました』
しばらくして、返信が来た。
『おー! よかった! いっぱい練習してね!』
続けて、もう一件。
『今度は曲に合わせて叩いてみよう!』
「……曲か」
まだ先の話だと思っていた。
でも、いつかできるようになったら。
神崎たちと一緒に演奏するのも、面白いかもしれない。
……いや。
まだあいつには内緒にしておこう。
知ったら絶対に騒ぐ。
◇
それから約一週間が経った。
「陽一さーん!!」
土曜日の朝。
玄関の向こうから、聞き慣れた声が響いた。
「……うるせえな」
扉を開けると、神崎が大きな段ボール箱を抱えて立っていた。
「来ましたよ!」
「何が?」
「部品っすよ! 部品!」
「ああ、FTRのか」
「そうっす!」
神崎は嬉しそうに箱を持ち上げた。
「これで公道走れますね!」
「まだだ。取り付けて確認して、登録も済ませなきゃならん」
「分かってますって!」
「本当か?」
「……たぶん!」
「分かってねえじゃねえか」
俺はため息をつき、作業着に着替えた。
駐車場には、例のFTR250が置かれている。
レース用として使われていた車両だ。
エンジンは動くが、公道を走るための装備が足りない。
今日はその保安部品を取り付ける予定だった。
「じゃあ、まず中身確認するぞ」
「了解っす!」
箱を開け、注文した部品を並べていく。
ヘッドライト。
ウインカー。
テールランプ。
ナンバー灯。
ホーン。
ミラー。
スピードメーター。
配線関係の部品も一通り揃っている。
「おお……なんかバイクっぽくなってきましたね!」
「まだ並べただけだろ」
「気持ちの問題っすよ!」
「そうかよ」
俺はヘッドライトを手に取った。
「まずこいつから付けるか」
「はい!」
ライトステーの位置を確認する。
フロント周りはレース用に変更されている部分もあり、そのまま取り付けられるわけではなかった。
「……ちょっと加工が必要だな」
「マジっすか?」
「ステー作れば済む」
「おお! さすが陽一さん!」
「まだ何もしてねえよ」
寸法を測り、使えそうな材料を探す。
工場で余っていた金具を加工すれば、何とかなりそうだった。
神崎にはウインカーの取り付け位置を考えてもらう。
「ここなんかどうっすか?」
「ハンドル切って当たらないか確認しろ」
「……あっ」
「当たったか?」
「当たりました!」
「だろうな」
「じゃあ、こっち!」
「配線の取り回しも考えろよ」
「……奥が深いっすね」
「普通に付けるだけでも、考えることはあるんだよ」
そんなやり取りをしながら、少しずつ作業を進めていく。
途中、神崎が配線を一本間違えた。
「陽一さん!」
「なんだ?」
「ウインカー点きました!」
「おお」
「でも、反対側が点きます!」
「……左右逆だな」
「なんでっすかね?」
「お前が逆に繋いだからだろ」
「なるほど!」
「感心してる場合か!」
昼を挟み、作業は夕方まで続いた。
ヘッドライトとウインカー、テールランプはひとまず取り付けられた。
スピードメーターやフロントブレーキ周りは、まだ調整が必要だ。
「……今日はここまでだな」
「えー! もうちょっとやりましょうよ!」
「暗くなる。配線の確認は明るい時にやった方がいい」
「うーん……」
神崎はFTRを眺めた。
朝よりずいぶんバイクらしくなっている。
「……でも、いいっすね」
「ああ」
「なんか、自分のバイクって感じしてきました」
神崎は嬉しそうに笑った。
「早く乗りたいっす」
「焦るなよ。ちゃんと仕上げてからだ」
「分かってますって。でも、毎回バスで移動するの、結構面倒なんすよ」
「まあな」
「スタジオ行くにも買い物行くにも、いちいち時刻表確認しなきゃいけないし」
「車、実家に置いてきたんだっけ?」
「そうっす。こっちに持ってくるつもりもないですし」
「だったら、バイクがあればだいぶ楽になるな」
「そうなんすよ!」
神崎はFTRのタンクを軽く撫でた。
「早くこいつで走りたいっすね」
「……そうだな」
俺もFTRを眺める。
まだ完成には程遠い。
それでも、一つずつ形になっていくのは悪くない。
昔、山本さんとCBを直していた頃を思い出した。
あの時も、こんなふうに少しずつ部品を取り付けていたっけ。
「陽一さん?」
「ん?」
「何笑ってるんすか?」
「……別に」
「えー、気になる!」
「いいから片付けろ」
「はいはい!」
神崎は笑いながら工具を片付け始めた。
◇
同じ頃。
街外れの古い倉庫の前に、一台のトラックが停まっていた。
「おお、源ちゃん! 本当に来たのか!」
倉庫の奥から、野太い声が響いた。
声の主は荒牧大悟。
大柄な身体に、白髪交じりの髪と髭。かつてレースの世界で腕を振るった、山本源一の古い友人である。
「来るって言っただろうが」
「いやあ、まさか本当に持って帰るとは思わなくてな!」
「お前が持っていけって言ったんだろ」
「そうだったか?」
「……もうボケ始めたのか?」
「ガハハハ! まだまだ現役だっての!」
荒牧は笑いながら山本の背中を叩いた。
「いてえな! 加減しろ!」
「おっと、すまんすまん!」
二人の視線の先には、一台のバイクがあった。
低く構えた車体。
大きなカウル。
市販車とは明らかに違う、独特の造形。
かつて鈴鹿のサーキットを走った、ワンオフのレーシングマシン。
搭載されているのは、ZX-12Rをベースにしたエンジンだった。
「……しかし、よく残ってたもんだな」
山本が呟く。
「あいつが大事にしてたからな」
荒牧の声が、少しだけ静かになった。
倉庫の中には、古い油と埃の匂いが漂っている。
「……源ちゃん」
「なんだ?」
「こいつ、また走らせるつもりか?」
「ああ。そのつもりだ」
山本は短く答えた。
荒牧はしばらく黙って車体を眺めていた。
そして、口元を大きく歪める。
「……いいねえ!」
「なんだよ」
「面白えじゃねえか! 何年ぶりだ? こういう話は!」
「さあな」
「で、どうするつもりなんだ?」
「まあ、見てろって」
「おいおい! 俺にも教えろよ!」
「うるせえな。いいから積むぞ」
「ったく、相変わらず人使いの荒い野郎だ!」
荒牧はそう言いながらも、嬉しそうにトラックの荷台を開けた。
「よし! 久しぶりに、こいつを外へ出してやるか!」
山本も車体へ近づき、カウルに手を置く。
かつてサーキットを駆け抜けた一台のレーサー。
もう二度と走ることはないと思われていた機械が、再び動き出そうとしていた。
「……さて」
山本は小さく笑った。
「久しぶりに、面白くなりそうだな」
「ガハハハ! そうこなくっちゃな、源ちゃん!」
古い倉庫に、二人の笑い声が響いた。




