EP13 閑話休題 1
今回は物語的には進みません
単純に日常回です
休日の朝。
田島陽一は、布団の上でスマートフォンを眺めていた。
「……バスドラム?」
画面には、ドラムセットの各部名称を解説した画像が表示されている。
バスドラム。
スネアドラム。
ハイタム、ロータム、フロアタム。
ハイハットにクラッシュシンバル、ライドシンバル。
「……名前、多すぎだろ」
先日、神崎に誘われて訪れたスタジオ。
そこで初めてドラムを叩かせてもらった。
いや、正確には叩かせてもらったというより、叩こうとして四苦八苦したという方が正しい。
右手と左手を別々に動かすだけでも難しいのに、そこへ足まで加わるのだ。
ナオは涼しい顔で叩いていたが、あれは一体どうなっているのだろう。
「……ああ、バスドラムって足で踏むやつか」
画像を見比べ、ようやく一つ理解する。
次に目に入ったのは、電子ドラムという言葉だった。
「……電子?」
調べてみると、どうやら電子音で演奏できるドラムらしい。
ヘッドホンを使えば、大きな音を出さずに練習することもできるという。
「へえ……」
少し興味が湧いた。
もっとも、調べれば調べるほど知らないものが出てくる。
ドラムセットを買わなくても練習できる道具があるらしい。
練習パッド。
丸い板のようなものをスティックで叩いている動画を見つけた。
「……これで練習になるのか?」
見た目は太鼓というより、まな板に近い。
だが、動画の中の人物は随分と器用にスティックを動かしている。
どうやら、手の動きを練習するための道具らしい。
陽一はスマートフォンを置いた。
「……見に行ってみるか」
買うかどうかは、実物を見てから決めればいい。
そう考えて立ち上がった。
◇
CBのエンジンを止め、陽一は店の看板を見上げた。
楽器店。
ガラス越しにギターやベースが並んでいるのが見える。
「……ここか」
神崎たちと知り合うまでは、自分がこんな店に来るとは思ってもみなかった。
少しだけ入りづらい。
とはいえ、ここまで来て帰るのも馬鹿らしい。
陽一は扉を開けた。
「いらっしゃいませー!」
店内には、所狭しと楽器が並んでいた。
壁一面のギター。
ケースに収まったベース。
鍵盤の並んだ電子ピアノ。
奥にはドラムセットも見える。
陽一はそちらへ足を向けた。
「……おお」
実際に近くで見ると、思っていたより大きい。
スタジオではそれほど気にならなかったが、こうして商品として並んでいると、その存在感に圧倒される。
そして値札を見た。
「…………」
もう一度見た。
「……高っ」
思わず声が漏れた。
隣には電子ドラムも置かれていた。
こちらは比較的コンパクトで、普通のドラムセットより場所を取らなさそうだ。
値札には三万円台の数字が並んでいる。
「……三万か」
安いものでも、この値段。
少し立派なものになると七万円を超えていた。
「……七万?」
何かの間違いではないかと思ったが、間違いではなかった。
陽一はしばらく電子ドラムを眺めた。
買えない金額ではない。
だが、まだ一度しか叩いたことのない楽器に、三万円。
それも、自分の六畳の部屋に置くとなると話は別だ。
ようやくCBを外に出して広くなった部屋である。
また大きなものを置く気にはなれなかった。
「……無理だな」
陽一は静かに電子ドラムから離れた。
「あの、何かお探しですか?」
声をかけられて振り返る。
そこには、店員らしい男性が立っていた。
陽一より少し年上だろうか。
柔らかい笑顔を浮かべている。
「あ、ええと……ドラムの練習を始めたいんですけど」
「ドラムですね。もうセットはお持ちですか?」
「いえ。先日、知り合いに一度だけ叩かせてもらって」
「ああ、これから始めるんですね!」
「はい」
「ご自宅で練習される予定ですか?」
「そうです。ただ、アパートなんで……」
「なるほど。でしたら、練習パッドから始めるのもいいと思いますよ」
「あ、それです。調べてたら出てきたんですけど」
「ご案内しますね」
店員について行くと、棚には大小さまざまな丸い板が並んでいた。
「……結構あるんですね」
「ありますよ。材質によって叩いた時の感触も違いますし、音の大きさも変わります」
店員は一つ手に取った。
「例えば、これはゴム製の練習パッドです。比較的静かで、スティックの跳ね返りを使った練習ができます」
「……跳ね返り?」
「はい。実際に叩いてみましょうか」
店員がスティックを差し出す。
陽一は受け取り、パッドを軽く叩いた。
コン。
スティックが跳ね返る。
「……おお」
「どうです?」
「思ったより跳ねますね」
「そうなんです。ただ、実際のドラムとは感触が違いますし、これだけで全部の練習ができるわけではありません」
「なるほど……」
「スティックは何をお使いですか?」
「……まだ持ってないです」
「でしたら、そちらも選びましょうか」
案内された棚には、木の棒がずらりと並んでいた。
陽一は思わず足を止めた。
「……こんなに種類あるんですか?」
「ありますねえ」
「全部同じに見えるんですけど……」
店員は笑った。
「最初はそうですよ。長さや太さ、材質なんかが違うんです」
何本か手渡され、握り比べてみる。
確かに、微妙に重さが違う。
「……こっちの方が軽いですね」
「おっ、分かります?」
「まあ、少しですけど」
「普段、何か手を使うお仕事を?」
「工場で金属加工をしてます」
「ああ、なるほど。工具を使い慣れてるんですね」
「……まあ」
そう言われると、少し照れくさい。
「最初なら、こちらが扱いやすいと思いますよ」
店員が棚からスティックを一組取り出した。
陽一は受け取り、表面に印字された文字を見る。
『5A』
「……ごえー?」
「ファイブエーです」
「あ、ファイブエー」
「はい。太さや長さによって種類が分かれているんです。これは定番のサイズの一つですね」
「……なるほど」
何が五で、何がAなのかは分からなかったが、とりあえず名前だけは覚えた。
店員は別のスティックも取り出した。
「こちらは少し太めです。実際に握って、しっくり来る方を選んでみてください」
陽一は何度か持ち替えた。
太い方は少し重い。
細い方は扱いやすそうだ。
「……こっちですかね」
「いいと思いますよ」
こうして、スティックが決まった。
続いて練習パッドを選ぶ。
机に置いて使えるものがいいと伝えると、店員はいくつか候補を出してくれた。
「音は控えめですけど、夜間は机に振動が伝わることもあるので気を付けてくださいね」
「分かりました」
「ちなみに、普段はどんな練習をされる予定ですか?」
「……ああ、そうだ」
陽一はポケットからスマートフォンを取り出した。
「知り合いが練習メニューを送ってくれたんですけど」
「おっ、経験者の方ですか?」
「はい。バンドでドラムを叩いてる人です」
「それなら心強いですね。ちょっと見せてもらってもいいですか?」
「どうぞ」
陽一はナオから届いたメッセージを開き、店員に見せた。
店員は笑顔で画面を覗き込む。
「はいはい、どれどれ……」
画面には、練習メニューが並んでいた。
シングルストローク。
ダブルストローク。
パラディドル。
アクセント移動。
メトロノームに合わせたテンポ別の反復練習。
さらに、手足を別々に動かすための練習まで書かれている。
「…………」
店員の笑顔が止まった。
画面をスクロールする。
「…………え?」
もう一度、上に戻す。
「……あの、お客さん」
「はい?」
「ドラムの経験は、どれくらいですか?」
「一回です」
「……一回?」
「はい。先週、初めて触りました」
「…………」
店員はスマートフォンと陽一の顔を交互に見た。
「……これ、全部ですか?」
「多分」
「……多分」
「まだよく分からないんで」
店員はしばらく黙り込んだ。
「……ちなみに、これを作った方は?」
「さっき言った、知り合いのドラマーです」
「……何か怒ってらっしゃいます?」
「え?」
「いえ、その……」
店員は言葉を探しているようだった。
「なかなか、容赦のないメニューだなと思いまして」
「……そうなんですか?」
「ええ。基礎練習ではあるんですけど、初めての方がいきなり全部やるには、かなり大変ですよ」
「へえ……」
陽一は感心した。
ナオは随分と丁寧に教えてくれたのだと思っていたが、どうやらそういう問題ではないらしい。
「まずはシングルストロークですね。左右交互に叩く練習から始めるといいと思います」
「右、左、右、左ってやつですか?」
「そうです。最初はゆっくりで構いません。メトロノームに合わせて、一定の間隔で叩けるようにしましょう」
「メトロノーム……」
「テンポを一定に保つための道具です。スマートフォンのアプリでもできますけど、専用のものもありますよ」
「あ、それも買おうと思ってました」
「でしたら、安い電子式のもので十分ですよ」
店員は説明を続けながら、スマートフォンを返そうとした。
その時だった。
「あれ……?」
画面の下に、もう一通のメッセージが見えた。
ナオからの追伸である。
『次のスタジオ練習までに、これ覚えてきてね!』
「…………」
店員の手が止まった。
「……お客さん」
「はい?」
「次のスタジオ練習って、いつですか?」
「まだ聞いてないですけど、多分そんなに先じゃないと思います」
「…………」
店員はもう一度、練習メニューを確認した。
そして、追伸に目を戻す。
「……これ、全部ですか?」
「多分そうだと思います」
「…………」
「……あの、どうかしました?」
「いや、これはさすがに鬼畜……」
「え?」
「あっ、いえ! 何でもありません!」
店員は慌てて咳払いした。
「……ちなみに、その方とはどういうご関係で?」
「この前、知り合った人です」
「……この前?」
「はい。初めてドラムを叩いた時に教えてもらいました」
「…………」
店員は陽一を見つめた。
その目には、先ほどまでなかった感情が浮かんでいた。
――哀れみである。
「……大変ですね」
「……何がですか?」
「いえ……どうか、無理だけはなさらないでください」
「はあ……」
何故だろう。
スティックと練習パッドを買いに来ただけなのに、随分と心配されている。
「でも、せっかく考えてもらったんで、頑張ってみます」
「…………」
店員は何か言いかけた。
しかし、結局何も言わなかった。
ただ、もう一度だけ陽一に哀れみの目を向けた。
そして会計を済ませる間も、店員は何度かこちらを心配そうに見ていた。
「……頑張ってくださいね」
「……はい。ありがとうございます」
結局、陽一が購入したのは練習パッド、スティック一組、それから安い電子式のメトロノームだった。
電子ドラムとは比べものにならない金額だが、それでも陽一にとっては安い買い物ではない。
店を出て、袋の中を覗く。
「……買っちまったな」
誰に頼まれたわけでもない。
仕事に必要なものでもない。
ただ、やってみたくなったから買った。
そんな買い物は、いつ以来だろう。
少し考えてみたが、思い出せなかった。
「……まあ、いいか」
不思議と後悔はなかった。
◇
CBを走らせている途中、陽一は見覚えのある交差点に差しかかった。
「……あれ?」
信号待ちの間、周囲を見回す。
古びた商店。
細い路地。
角に立つ大きな木。
「……この辺だったか」
そういえば、楽器屋の近くには昔よく通っていた教会があったはずだ。
子供の頃は何度も歩いた道なのに、随分久しぶりだった。
信号が青に変わる。
陽一は少し迷ってから、いつもとは違う道へ曲がった。
しばらく走ると、見覚えのある建物が見えてきた。
「……あった」
小さな教会だった。
派手な装飾があるわけでもない。
白かったはずの壁は少しくすみ、屋根の一部には補修の跡が見える。
陽一は邪魔にならない場所にCBを止め、エンジンを切った。
「……懐かしいな」
門の前に立つ。
子供の頃は、ここまで歩いて来るだけでも随分遠く感じたものだ。
今ではバイクに乗れば、あっという間だった。
敷地の中に人の姿は見えない。
陽一は静かに門をくぐった。
礼拝堂の扉は閉まっている。
無理に中へ入ることはせず、建物の周囲を眺めながら歩いた。
そして、入り口の石段に目が止まった。
「…………」
そういえば。
昔はここで、よく加奈と待ち合わせをしていた。
教会での用事が終わると、そのまま二人で遊びに出かけたものだ。
川へ行く日もあれば、ただ町を歩き回るだけの日もあった。
何をするか決めていないことだって珍しくなかった。
それなのに、あの頃は毎日が忙しかった。
「……そういや、あいつ……」
加奈は出かける直前になって、よく忘れ物を思い出していた。
帽子だったり、水筒だったり。
一度など、持ってきたはずのお菓子を家に置いてきたと言い出して、二人で取りに戻ったこともある。
しかも、そのお菓子は結局、加奈の鞄の底から出てきたのだ。
「……ははっ」
思わず笑いが漏れた。
「……何やってんだか」
石段は昔と変わらない場所にあった。
けれど、よく見るとあちこちが傷んでいる。
壁には細いひびが走り、雨樋の金具も一つ外れかけていた。
門扉の蝶番には赤茶色の錆が浮いている。
「……随分くたびれたな」
門扉を軽く動かしてみる。
ギィ、と嫌な音が鳴った。
「……ここ、ガタが出てるな」
しゃがみ込み、金具の状態を確かめる。
錆は出ているが、すぐにどうこうなるほどではなさそうだ。
ただ、このまま放っておけば、いずれ交換が必要になるだろう。
雨樋の方も気になる。
陽一は建物を見上げた。
戦争が終わってから、町のあちこちで建物の修繕が進んでいる。
だが、こうした古い教会までは、なかなか手が回らないのかもしれない。
「…………」
もう一度、石段を見る。
昔、加奈と並んで座っていた場所だ。
「……まあ、直せるところくらいは直してやるか」
小さく呟いた。
もちろん、勝手にいじるわけにはいかない。
今度、管理している人にでも聞いてみよう。
工具も材料も、必要なものを調べてからだ。
陽一は立ち上がり、服についた埃を払った。
「……じゃあ、またな」
誰に言うでもなく呟いて、教会を後にした。
◇
帰宅した陽一は、買ってきたものを机の上に並べた。
練習パッド。
スティック。
メトロノーム。
「……よし」
まずは練習パッドを机に置く。
椅子に座り、スティックを握った。
スマートフォンには、ナオから送られてきた練習メニューが表示されている。
「……シングルストローク」
右、左、右、左。
交互に叩く。
コン、コン、コン、コン。
「……これなら」
ゆっくりならできる。
当たり前だ。
右手と左手を交互に動かすだけなのだから。
そう思って、少し速くした。
コンコン、コン、コンコン。
「……あれ?」
間隔が揃わない。
もう一度。
コン、コンコン、コン、コン。
「…………」
右手が先に出る。
左手が遅れる。
今度は左手を意識すると、右手がおかしくなる。
「……何だこれ」
たった二本の棒を交互に動かすだけだ。
それなのに、思うようにいかない。
陽一はメトロノームの電源を入れた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
一定の間隔で電子音が鳴る。
店員に教わった通り、まずはゆっくりしたテンポに設定した。
「……よし」
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
コン、コン、コン、コン。
「……お」
今度は少し揃っている。
そのまま続ける。
コン、コン、コン、コン。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
コン、コンコン、コン。
「……ああ、くそ」
ずれた。
最初からやり直す。
何度か繰り返すうちに、少しずつ音が揃ってきた。
だが、テンポを上げると途端に崩れる。
「……難しいな」
陽一はスティックを置き、手を開いた。
普段から工具を握っているので、手先にはそれなりに自信があった。
けれど、ドラムはまるで勝手が違う。
力を入れればいいわけでもない。
速く動かせばいいわけでもない。
一定の間隔で、同じように叩き続ける。
それだけのことが、こんなにも難しい。
「…………」
スマートフォンを手に取る。
ナオのメニューは、まだまだ続いていた。
ダブルストローク。
パラディドル。
アクセント移動。
「……パラ……何だ?」
説明を調べてみる。
右、左、右、右。
左、右、左、左。
「…………」
陽一は画面を見つめた。
「……これを覚えるのか?」
試しに叩いてみる。
コン、コン、コンコン。
コン、コン……コン?
「…………」
自分が今、右と左のどちらを叩いたのか分からなくなった。
「……ははっ」
思わず笑ってしまう。
店員が心配していた理由が、少しだけ分かった気がした。
時計を見る。
いつの間にか、随分時間が経っていた。
「……もうこんな時間か」
買ってきたばかりの道具を眺める。
練習パッドの上には、スティックが二本。
まだ曲を叩けるわけでもない。
そもそも、ドラムの名前すら満足に覚えていない。
それでも。
「……面白いな、これ」
陽一は小さく笑った。
明日も仕事だ。
そろそろ夕飯の支度をしなければならない。
スティックを片付けようとして、ふと手が止まる。
「…………」
もう一度、メトロノームに目をやった。
「……あと五分だけ」
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
静かな部屋に、電子音が鳴り始めた。
隣の部屋の住人は、陽一が新しい趣味を始めたことを、まだ知らない。
ドラムのことあまり理解してないため陽一と同じくらいの立場ですw
ぼちぼちギターはしてるのですが素人臭さが出せていいと思ってます
これからもよろしくお願いします




