EP11 禁断の果実
すみません仕事が中々終わらず少し遅くなりました
よろしくお願いします
翌朝。
陽一は、ドアを叩く音で顔を上げた。
朝飯を食べ終え、流しに皿を置いたところだった。
ドンドンドン。
「陽一さーん! 起きてますー!?」
「うるさい」
返事をしながら玄関へ向かう。
扉を開けると、予想通り神崎が立っていた。
「お、起きてた」
「起きてるよ」
「昨日結構遅かったのに」
「お前もだろ」
「俺は慣れてるんで」
「じゃあ俺が寝てると思ってドア叩くなよ。隣なんだから」
「だから起こしに来たんじゃないっすか」
「近所まで起きるよ」
昨日の帰り際に、十時頃に出るとは聞いていた。
時計を見る。
まだ十五分ほど早い。
「早くない?」
「暇だったんで」
「俺も暇だと思うなよ」
「暇でしょ?」
「……否定はしないけど」
「ほら」
「嬉しそうにすんなよ」
陽一は一度部屋へ戻った。
財布とスマホをポケットへ入れる。
玄関脇に置いていた、小さな十字架を手に取った。
いつもの癖で、指先で包む。
目を閉じる。
父と。
母と。
もう一人。
昔と変わらない姿を思い浮かべて、ほんの少しだけ黙る。
「……行ってきます」
十字架を首に掛けた。
顔を上げると、神崎がこちらを見ていた。
「……何?」
「いや」
神崎は十字架へ一度だけ目をやる。
「ふーん」
それだけだった。
何をしていたのかも、誰に向けたものなのかも聞いてこない。
「行くぞ」
「はい」
二人で部屋を出る。
神崎の部屋は、すぐ隣だ。
わざわざ十五分も早く人の部屋を叩く距離ではない。
「なあ」
「なんすか?」
「やっぱ一回帰れば?」
「なんで!?」
◇
昨日、あれだけ騒いだのだ。
ライブをやって。
打ち上げで食って、飲んで、馬鹿な話をして。
帰ったのは夜も遅くなってから。
だから陽一は、今日の練習というのも、もう少し軽いものを想像していた。
昨日の反省を話して。
適当に何曲か音を出して。
そんなものだと思っていたのだが。
「ワン、ツー、スリー、フォー」
ナオのカウント。
次の瞬間、小さなスタジオいっぱいに音が広がった。
神崎のギター。
黒川のベース。
相沢のキーボード。
そしてナオのドラム。
陽一は壁際の椅子に座り、その様子を眺めていた。
昨日とは違う。
客はいない。
照明もない。
歓声もない。
それでも四人は、昨日のステージとほとんど変わらない勢いで演奏していた。
少し音がズレても止まらない。
誰かが一瞬ミスをしても、そのまま進む。
最後まで一曲を通す。
やがて最後の一音が消えた。
「…………」
陽一は無意識に息を吐いた。
近い。
ライブで聞いた時より、ずっと音が近い。
壁に反射した音が体まで震わせる。
「ヒロト」
ナオがスティックを膝へ置いた。
「サビ前のAメロ」
「あー」
神崎が頭を掻く。
「やっぱズレてた?」
「ちょっと走ってた」
「俺も思った」
黒川が言った。
「マジか」
「ほんのちょっとだけどね」
「じゃあそこもう一回やる?」
「その前に」
ナオが黒川を見る。
「純之助」
「何?」
「途中から何してたの?」
「ベース」
「それは知ってる」
神崎も黒川を見る。
「お前、途中から十六にしただろ」
「した」
「やっぱり!」
「こっちの方がメタルっぽい」
「この曲を勝手にメタルにすんなよ!」
「悪くなかっただろ」
「途中で曲変わったのかと思ったわ!」
陽一も途中から妙にベースが忙しくなったのは気付いていた。
あれはミスではなかったらしい。
「次も十六でいく?」
「八だよ!」
「……十二」
「値切るな!」
黒川は少し考えた。
「じゃあ八で」
「最初からそうしろよ!」
陽一は思わず笑った。
昨日の勝手なベースソロといい、この男は隙があれば自分のやりたい音楽へ持っていくらしい。
「じゃあサビ前から一回」
ナオがスティックを構える。
今度は問題の箇所だけを合わせる。
一度。
二度。
「今のいいんじゃない?」
「俺も大丈夫」
「じゃあもう一回頭から」
「了解」
再び一曲を通す。
昨日、ステージの上で好き勝手に暴れているように見えた四人が、同じところを何度も確認していた。
演奏して。
終わって。
気になった場所を話して。
合わせて。
また通す。
派手さはない。
むしろ、かなり地味だ。
それでも誰一人、面倒そうにはしていなかった。
あれだけの演奏をするのだから。
見えないところでは、こういうことをやっている。
「…………」
陽一はしばらく四人を眺めていた。
そのうち。
自然と、一ヶ所へ視線が向くようになった。
ドラム。
右手。
左手。
右足。
時々、左足。
全部が違う動きをしている。
右手が一定に動いているのに、左手は違う場所を叩く。
そこへ足まで入る。
どうなっているんだろう。
仕事で使う機械なら、何となく分かる。
一つが動けば次が動く。
決められた工程を経て、決められた結果になる。
だが、これは違う。
四肢がそれぞれ別の仕事をしながら、一つの音になっている。
「…………」
気付けば、ナオではなく、その手足の動きばかりを見ていた。
◇
「ちょっと休憩しよっか」
一時間ほど経ったところで、ナオがスティックを置いた。
「あっつ……」
神崎がその場に座り込む。
「昨日よりマシだろ」
「純之助はなんで平気なんだよ」
「慣れ」
黒川は平然と答えながら、鞄を漁った。
出てきたのは、バナナだった。
「……バナナ?」
陽一が聞く。
「トレーニーの愛用品」
「スタジオにも持ってくるものなの?」
「安い。食いやすい。腹に入る」
「そこだけ聞くと優秀だな」
「優秀だぞ」
黒川が一本もぎ取る。
「純之助、私も一本ちょうだい」
「ん」
投げられたバナナを、ナオが片手で受け取った。
「ありがと」
皮を剥く。
「…………」
相沢が見ていた。
ニチャッ。
「昌利」
「何?」
「その顔やめて」
「何もしてない」
「まだね」
「信用ないな」
「昨日の今日でどこに信用があるんだよ」
神崎が呆れる。
陽一も昨日の一件を思い出した。
淡い金髪と言っただけで、勝手にダイナマイトガールを完成させた男である。
「相沢って、喋らなくても駄目なんだな」
「失礼だな」
「今の顔で言われてもな」
「ただナオがバナナ食べてるなって」
「だからその先を考えるなって言ってんの!」
「考えてない」
ニチャッ。
「その顔が考えてるんだよ!」
ナオがバナナを食べながら睨みつける。
相沢は何事もなかったように視線を逸らした。
「あ、そうだ」
ナオが何かを思い出したように鞄を開ける。
中から出てきたのは、赤いリンゴだった。
「これ貰ったんだよね」
「リンゴ?」
「うん。何個かあるから、みんなで食べようと思って」
「いいじゃん」
「ナイフないから帰ってからになるけど」
ナオが一つ取り出した。
右手にリンゴ。
左手に食べかけのバナナ。
それを見た神崎が笑った。
「なんかナオ、バナナ食ってリンゴ持ってるとゴリ――」
パキャッ。
「…………」
「…………」
「…………」
陽一は、目の前で何が起きたのか分からなかった。
ナオの右手。
そこにあったはずのリンゴが、割れていた。
皮が裂け、果肉が潰れている。
指の間から果汁が垂れた。
陽一の喉が鳴る。
ごくり。
「……ヒロト」
「はい」
「今、何て言った?」
「何も」
「ゴリ、何?」
「ゴリ……」
神崎の目が泳いだ。
「ゴリゴリ練習してるなって」
「…………」
「昨日ライブだったのに。偉いなって」
「…………」
「本当に」
ナオが笑った。
「そっか」
「はい」
助かった。
陽一は心の中で神崎の無事を喜んだ。
そして同時に。
さっきまでドラムを叩いていたナオの腕へ視線が向く。
細く見える。
だが、よく見ればそれなりに締まっていた。
――思ったより筋肉あるな。
「田島さん」
「はい」
「今、腕見た?」
「見てません」
反射的に答えた。
「見たよね?」
「見てないです」
「なんで急に敬語なの?」
「気のせいです」
今は何も言わない方がいい。
本能がそう告げていた。
「ナオ」
相沢が口を開いた。
「何?」
相沢は割れたリンゴを見る。
次に。
果汁に濡れたナオの右手を見る。
ニチャッ。
「俺のも握――」
がしっ。
「ん゛っ」
最後まで言わせなかった。
ナオの右手が、相沢の顔面を正面から掴んでいる。
「昌利」
「ん゛ー……」
「それ以上喋らなくていいから」
「ん゛……」
ぎりぎりと指に力が入る。
相沢の頬が歪んだ。
陽一は思わず自分の顔を押さえた。
さっきリンゴを割った手である。
「あれ、大丈夫なの?」
「多分」
黒川は平然とバナナを食べている。
「多分なの?」
「昌利が悪いっす」
神崎にも助ける気はないらしい。
「…………?」
不意に。
ナオの表情が変わった。
怒っていた眉が、わずかに寄る。
「……え?」
相沢は喋れない。
顔面を掴まれたまま、何かをしている。
「ちょ……」
ナオの目が見開かれた。
「えっ!?」
ばっ、と手を離す。
相沢の顔が現れた。
頬には、くっきりと赤い指の跡。
そして。
ぺろ、ぺろ。
「…………」
ぺろ。
「…………」
陽一は相沢を見る。
神崎も見る。
黒川も見る。
三人とも、何が起きたのか分からない。
「……何したの?」
「俺も見えなかったっす」
「俺も」
黒川まで首を振る。
ナオだけが、相沢から一歩下がった。
自分の右手を見る。
相沢を見る。
もう一度、右手を見る。
「――キッッモ!!」
「何したんだよ!?」
「こいつ! 舐めた!!」
「何を!?」
「手!!」
「なんで!?」
三人の視線が、一斉に相沢へ向いた。
相沢はまだ舌を口の中で転がしている。
やがて、ごくりと飲み込んだ。
「リンゴジュース飲みたかった」
「リンゴ食えよ!!」
神崎の声がスタジオに響いた。
「ちょうど付いてたから」
「どこに!?」
相沢がナオを指差す。
「そこ」
「指から飲むな!!」
「もったいない」
「そういう問題じゃない!!」
ナオは右手を服で何度も拭っている。
「最悪! 洗ってくる!」
「リンゴ味だったよ」
「感想言うな!!」
ナオがスタジオから飛び出していった。
扉が閉まる。
「…………」
沈黙。
相沢がニチャッと笑った。
「甘かった」
「もう喋んな」
神崎が真顔で言った。
陽一は相沢を見る。
昨日。
黙っていれば格好いい男だと思った。
訂正しよう。
黙っていても駄目だった。
◇
「じゃあ、やってみる?」
「俺が?」
休憩が終わった後。
陽一がドラムを眺めていることに気付いたナオが、そう言った。
ちなみに右手は、念入りに洗ってきたらしい。
「ずっと見てたじゃん」
「どうやって手と足を別々に動かしてるのかなって」
「やってみた方が早いよ」
「壊さない?」
「普通に叩いて壊れるようなもの使ってないから」
ナオが椅子から立つ。
陽一は少し迷ってから、そこへ座った。
目の前に並ぶ太鼓とシンバル。
見る側にいた時より、妙に多く感じる。
「はい」
スティックを二本渡された。
「こう?」
「握りすぎ。もっと軽く」
言われて力を抜く。
「まず右手でこれ」
ナオがハイハットを指す。
「一定に刻んで」
タン、タン、タン、タン。
「で、左手をここ」
「同時?」
「違う。二と四」
「…………?」
「やれば分かる」
「説明が感覚派なんだよな」
「私もそうやって覚えたから」
やってみる。
右。
右。
左。
「あ」
右手が止まった。
「止まったね」
「止まった」
「もう一回」
今度は右手を動かす。
そこへ左手。
さらに右足。
「…………」
足を踏む。
手が止まった。
「無理じゃない?」
「みんな最初そうだよ」
「人間の体ってこんな別々に動く?」
「動くよ」
「俺のは動かないんだけど」
後ろからギターの音がした。
「陽一さん、そのまま!」
「待って。まだ無理」
「大丈夫っす!」
「何を根拠に?」
神崎が笑いながら簡単なコードを鳴らす。
黒川までベースを持った。
「お前もやるの?」
「合わせた方が分かりやすい」
「八で頼むよ」
「分かった」
「本当に?」
「信用ないな」
「さっきの見た後だからね」
陽一は疑いながら、教わったリズムを刻む。
タン、タン、タン、タン。
ドン。
タン。
少しずれる。
「あ、待って」
「止まらない!」
ナオの声が飛ぶ。
「間違っても続けて!」
「無茶言うなよ……!」
それでも叩く。
神崎のギターが重なる。
黒川のベースが下から支える。
少しずつ。
本当に少しずつだが、音が一つになっていく。
「…………」
不思議だった。
昨日は外から聞いていた音の中に、今は自分の音がある。
自分が叩いた一発に、誰かの音が重なる。
ずれれば分かる。
合えば、もっと分かる。
ほんの数秒。
全員の音が、綺麗に噛み合った。
「……お」
陽一の口元が緩む。
面白い。
その瞬間。
黒川の音が急に忙しくなった。
「……おい」
さらに忙しくなる。
「黒川」
「何?」
「十六にしただろ!」
「メタル」
「初心者相手にメタル化すんな!」
「いける」
「いけないよ!」
陽一のリズムが崩壊した。
神崎がギターを止める。
「純之助!」
「客がいたら盛り上がる」
「客いねえよ!」
「俺たちがいる」
「お前らを盛り上げる練習じゃねえ!」
陽一はスティックを持ったまま笑った。
昨日までなら。
こういう場所に自分がいることすら、想像していなかった。
「どう?」
ナオに聞かれる。
「……面白いな、これ」
「でしょ?」
神崎がなぜか得意そうに言った。
「なんでお前が答えるんだよ」
「俺が連れてきたんで」
「そういう問題?」
「陽一さん、ドラム始めましょうよ」
「まだ一回触っただけだよ」
「もうメンバーみたいなもんでしょ」
「ナオさんいるだろ」
「私をクビにしないで」
「そういう意味じゃないよ」
また笑いが起きた。
◇
帰る頃には、陽一のスマホに連絡先が三つ増えていた。
ナオ。
黒川純之助。
相沢昌利。
ついでにリノリウムの連絡用グループにも入れられた。
「俺、バンドじゃないけど」
「いいじゃないっすか」
「何枠?」
「見学者」
「弱いな」
「じゃあドラム候補」
「だからナオさんいるだろ」
「私まだ辞めないよ?」
「誰も辞めさせようとしてないって」
「じゃあ雑用」
黒川が言った。
「急に扱い悪くなったな」
「荷物持ち」
相沢も続く。
「お前の荷物だけ置いて帰るよ」
「ひどい」
「今日の後でよく俺に言えるな」
神崎が笑う。
昨日は、四人の話を少し離れたところから聞いていた。
今日はもう、そこまで遠く感じなかった。
◇
家へ帰る。
飯を食べ、シャワーを浴びる。
いつもの夜。
の、はずだった。
「……足まで疲れてる」
大して長く叩いていない。
それなのに、普段使わないところが妙に重い。
ドラムというのは、見た目以上に体を使うらしい。
布団へ座ったところで、スマホが震えた。
「ん?」
画面を見る。
ナオ。
今日交換したばかりの名前だった。
開く。
『今日やったやつ』
その下に、画像が一枚送られてきた。
「…………」
練習メニューだった。
八ビート。
右手だけ。
右手と左手。
そこへバスドラム。
テンポまで細かく書いてある。
「俺、始めるって言ったっけ……」
スマホが震える。
『毎日やれば慣れるよ』
「やる前提なんだ」
さらに震えた。
『あと』
「ん?」
『今日』
『私の腕見て』
『何か言いかけたよね?』
「…………」
陽一の頭の中で。
パキャッ。
昼間の音が、鮮明に蘇った。
「…………」
返信欄を開く。
『思ったより筋肉あるなって』
そこまで打った。
止まる。
「…………」
消した。
『なんでもないです』
送信。
すぐに既読がついた。
「早っ」
『本当に?』
『はい』
『ふーん』
「…………」
数秒。
またスマホが震えた。
『練習してね』
「…………」
陽一は画面を見つめた。
「はい……」
誰もいない部屋で、思わず返事をした。
スマホを置く。
しばらくして。
机の上に置いた右手が動いた。
タン。
タン。
タン。
タン。
「…………」
一度止める。
少しして、今度は足が床を踏んだ。
タン。
タン。
ドン。
「…………」
陽一は自分の手を見る。
それから、少しだけ笑った。
「……面白いな」
誰に言うでもなく、もう一度。
指で机を叩いた。




