見えない敵との戦い 四
2026年9月17日
「差し出がましいことを申し上げます」
そう言われ麻木は目の前の男を見た。初めて会う男だった。黒い髪は両サイドを刈り上げられ、前髪がおでこを隠すような長さをしている。麻木を見る男の瞳は黒い。
「僕に対して、なにか」
男はより麻木をじっと見ると、麻木の顎を指で押し上げ、男の瞳が麻木の顔をよく見ることが出来るようにされた。麻木よりも身長が高い男だった。上を向く形になる。麻木はじっと見つめられるのも嫌であるし、この状況が何なのかよくわからない。とにかく早く男の関心を自分からそらしたかった。
「さすがに嫌です」
「そうですか。まあなんといいますかね。そろそろ一度、影を出したほうがいいと思います」
診察室から麻木が戻ってくるのを待合室で主人が待っていた。主人もこのあと診察を受ける。
診察室の扉を開け、麻木が中から出てきた。
「嫌なやつでした」
「麻木君は病院が嫌いですからね」
「ちょっと嫌のベクトルが違います」
「新任の先生ですかね。まあ僕たちの業界も長い。いろんな先生がいますよ」
話していると主人の名が呼ばれ、診察室に主人が入っていった。
主人を待つ間麻木は窓の外を見ていた。外は雨だった。
雨の中をいくつかの影が飛んでいる。遊んでいるわけではないのがわかる。病院から出る誰かを狙う影だろう。この病院に影の気配はない。この病院の外のどこかに影の印がある。それは今日つけられたものだろう。
「あの影の行く先の患者は…あ。あの妊婦か」
病院から傘を差しながら出る妊婦のあとをゆらゆらと動く影が追っていた。麻木はそれを気に止める様子もなく壁にうなだれた。いま眠れば追いつける。
診察室から主人が出てくると、壁にもたれて眠る麻木にため息をついた。
「話は聞きましたよ。僕が保護者役ですけど、これは怒られる」
主人は麻木の頬を叩いた。反応はない。
「遠くに行ってますね」
主人は麻木の肩を担ぐとそのまま診察室に連れていった。
麻木は暗闇の中を走っていた。闇雲に走っているのではなかった。目的はある。ただ、見つけられなかった。探しているのは明るい部屋だった。そこにあるはずだった。この暗闇の中にはいくつかの部屋がある。そのどの部屋も真っ暗だった。扉は開いている部屋もあれば鍵がかかった部屋もあった。鍵がかかった部屋はありえなかったのでドアノブを触るだけで済んだ。開いている部屋は、その先の扉があるか目を凝らす。なければ次の部屋へ移った。どこかにある。しかし見つけられなかった。
「さすがにそろそろ帰らないと怒られる。時計は…見つからない…?」
懐を探したが時計がなかった。それはあり得ないことだった。
麻木はその時初めて、自分が自分の肉体から遠く離れすぎていることに気づいた。
「やっちまったな」
バスに乗ったことが考えられた。そうなるともうどうしようもなかった。
「しょうがない。まあ…困る。でももう明るい部屋探すしかないか」
そう思うと麻木は暗い部屋の片隅で腰を落ち着けるしかなかった。
「どの辺にいそうとかわかりますか?」
主人はベッドに横になった麻木を見ながら診察室にいる男に尋ねた。
「この病院に来た患者さん。大体最寄りのバス停とタクシー、それか徒歩です。今日は産婦人科、小児外科、内科、心療内科、外科、あと循環器系の患者を受け入れてます。予約があった患者さんのうち、どなたかでしょうね。まあ、予約外のこともします」
「若いってこういうことです」
「まあ、骨が折れる」
それから二日後。麻木は病院で目を覚ました。件の妊婦が産婦人科を訪れたからだった。妊婦は破水をし、緊急で病院にやってくることになった。お腹のこどもは流産だった。




