見えない敵との戦い 三
2026年5月9日
布団の中で丸まったまま眠る麻木は夢を見ていた。
暗闇の中で光る球がゆらゆら揺れている。上下に揺れている光の玉は白かった。
いつもそうなのだが、近づいても触れることはできない。一定の距離を保っていて、それ以上近づこうとしても玉は自分と一定の距離を保って離れる。だから後ろを向いて離れようとしたこともあった。するといつもこう言われるのだ。
「さらば死ね」
それがいつも夢から一番早く出る方法で肉体が目覚める方法だった。
そしてこの夢を見る日というのはだいたい影が自分の周りにやってくる日だった。それは依頼がやってくるという意味だ。
時刻は朝の四時。備え付けの時計を見て手足を伸ばした。また眠ったとしても光の玉が出てくる。見つめ合うだけの夢。それなら起きて本を読むか、布団の中でだらだらするかの方がいい。その日はだらだらを選んでいつの間にか眠っていて、そして夢の中でもぼんやりと光の玉を見ながら寝そべっていた。夢でも目をつぶれば光の玉に現実へ追い出されるように目を覚まさせられていた。気づけば朝の八時だった。
麻木は普段から居候をしている。影の仕事を共にしている仲介人の住む屋敷の二階。その一部屋に住まわせてもらっていた。
麻木はこの屋敷の主人の名前を呼ぶことはない。それには理由がある。
麻木にはいろいろな制限がつけられている。その制限に主人が引っ掛からないためだ。制限は制約とは異なる。制限は自分が自分に対して課すものだ。制約は相手が自分に対して契約として課すもの。主人に対して制限を自分が持つことで麻木は身の安全を確保してもらっていた。
この制限は麻木が持つ大きな特性で、過去に施されたものだった。そして自分では抑えられないものを抑えるために流用をしている。
「くだらない朝だなぁ」
麻木は起き上がるとその勢いのまま部屋の戸を開けた。
起きてそのまま居間に行く。いたのは山崎だけだった。
主人がいると思っていた。麻木は山崎と軽く挨拶を交わすとソファに座った。
主人があとからやってきて午後から仕事の予定を入れられるんだろう。
そう思ってそこに置いてあった新聞を広げることにした。
山崎は朝食を済ませると席を立った。
麻木は淹れてきたコーヒーを飲みながら新聞を読んでいたが、あらかた読み終えて畳んで机の上に置いた。
しばらくすると麻木はうとうとしてきた。窓の外は曇り空で、室内はいつもより暗かった。
眠ればまた同じ夢を見た。しかし居間に人が現れる気配はなく、そのまま正午を知らせる時計の鐘がなった。
「主人を探す方が早そうかな」
麻木は主人の部屋の前まで来た。そこで初めて麻木は主人が留守であることを知った。
「そうか。一人で?それとも夜になるのかな」
麻木は主人の留守を知ると自室に帰ることにした。
このあと影と対峙することなるとしても時間がわからない。さっさと終わってほしいと思っても依頼の内容もまだわからない。
「散歩、行こうかな」
暇でやることもない。主人からあらかじめ何も言われていない。急ぎのことではないんだろうと思い至って麻木は外に出ることにした。
玄関を出ると空の雲の厚みが先ほどよりも増したようで一層暗くなっていた。
犬を散歩しているおじさんが麻木の前を歩いていた。
麻木は犬のしぐさをじっと見ていた。犬は柴犬だった。飼い主を先導する形で歩いて、そしてたまにきょろきょろと首を動かしている。
「なにを探してるの?」
麻木は犬や飼い主に聞こえない距離でつぶやいた。犬はきょろきょろをやめると再び歩き始めた。
「ふーん。この辺で見かけない人がいたから他の犬に教えるかどうか考えてる…か」
犬の情報網はしっかりしている。麻木も見かけない誰かが気になった。
「教えてあげたらいいよ。なにかだれか他の子が知ってるかもしれないから」
そう麻木がつぶやくと犬は路肩でおしっこをし始めた。
散歩から帰るとさすがに主人が帰ってきていた。
麻木の顔を見ると主人はびっくりした。
「おや?あれ?今日は帰らないって言ってましたよね」
「いや、今日初めて会いましたよ?あなたと」
主人と麻木は顔を見合わせた。
「まさか、僕じゃない僕とお仕事してきましたか?」
「いや…そうか。危ないことになるかもしれなかったんだね。肝が冷えた。君の顔を見て肝が冷えるのはまずいね」
麻木は主人から今日一日有ったことを聞いた。
主人は前日に麻木に仕事についてのことを話していたらしい。
当の麻木はまったく聞かされていない話だった。ニセモノの麻木がこの屋敷の中にいたことになる。
「俺はその気配を感じませんでした」
「そうでしょう。僕も麻木君だと信じて疑いませんでした」
「どこにあると思います?」
「家の中にあるわけがない。玄関先かな?」
「それはあり得ない。俺、家の周りは毎日確認していますから」
「それではだれかを媒介にしたものでしょうね。家の周りを確認してみましょう」
二人は玄関から出ると、ぐるっと一周、気配を探して二人で歩いた。
「わかったのは、新聞配達…かな。なんとなく」
麻木が言うと主人が首を振った。
「投函受けに気配があっただけですから。まだ何とも言えない」
一軒一軒の投函受けの中身を確認するわけにもいかない。今朝の新聞を確認する。そこには影の痕跡はなかった。そうすると、考えられるのは誰かへの手紙だった。
「僕という影をわざわざ作り出している。正体がわかっているのか」
「いや…影の濃い人物への擬態をたまたましてしまった線もありえます。僕と一緒に行動していた麻木君なんですが、特に変わった様子はなかったんです。今日は影のことを調べる仕事ではなかったんです。今日の仕事は護衛でした」
麻木は目を丸めた。そして夢の意味を知った。影が麻木の形をして歩いていた。つまり、あれは麻木への警告だった。
「相手は夢遊病者と同じです。麻木君、焦ってますね」
誰かの手紙についていた影が麻木という濃い影の持ち主に引き付けられ、麻木の形を擬態した。それがこの事件の結果だった。この近辺は主人が特別な施しをして、影を寄せ付けないようになっていた。手紙などの外部から寄せられたものに付いていた影が、施しによって剥がれ落ち、それが固まって麻木の形を作って動いていた。麻木は主人に苦笑いをした。
「傍から見たらあなたが今日は独り言を話していたようにも見えていたのかもしれませんね」
「嫌だなぁ。でもなぜかお金をたくさんもらった。なんでかなと思ったよ。消えた麻木君っぽいもの、どこへ行ったのかな」
「わからないですね、こればっかりは」




