見えない敵との戦い 十九
2026年9月23日
主人は本を読んでいた。自分の書斎にいて、机の上にはコーヒーがある。主人が読んでいる本のタイトルは 『明日までのイノチ』。自分でもなぜこの本を買ったのかよくわからなかった。本屋に行ったとき、このタイトルが目についた。それで購入をしたに過ぎなかった。本の作者は 『井上陽 Inoue Hiroshi』 というそうだ。聞いたことない名前の作家だった。
「“命に価値はない。ただただ無意味だ。たゆたう水の上に落ちた虫。そのようなもの。沈むだけ。だがそんな命でも、私の手にかかれば輝ける。さあ、一緒に来ないか?” こんな文章よく思いつきますね」
とある宗教団体のことを元にした小説らしい。後味が悪い集団自殺を起こした宗教団体がかつて存在していた。もう10年も前になる。その団体の構成員がイメージ元と思わしき登場人物の数々。報道されていた顔写真が主人の脳裏に浮かぶ。
「めんどくさかったなぁ、あのときは」
主人は本にしおりを挟んで椅子に深くもたれかかった。
当時麻木はまだ修行中で一緒に仕事も生活もしていなかった。山崎もこの業界にいることは知っていたが、一緒のスペースで過ごすということをしていなかった。かつての主人は顧問先の付き人をしていた。仕事道具として配布されていたショルダー式のピストルホルダーを常に装備している。そういう頃の事件だった。
「あの頃の思い出、なんもいい思い出ない…」
主人はあの宗教団体の引き起こした集団自殺の現場に行くことを顧問先の指示によりしていた。当時の現場を思い出して主人は目をつぶった。
現場の状況は集団自殺というよりも処刑だった。信者はみな目に包帯を巻いていた。その包帯は赤く染まっていて、だれが見ても明らかに犠牲者だった。全員背中をナイフで刺されていた。だがなぜか司法結果は自殺ということになった。他殺の形跡が見当たらなかったからだ。みな自分で自分の背中を刺していた。
主人は影の形跡を調べる調査員のひとりとして現場に踏み込んだが、異様な光景にすぐに現場から離れた。主人のような人が他にも数人いた。
影の調査は難航を極めた。影の仕掛けが複雑すぎたからだった。現場の保存をして、数年かけて調べていくという方針になった。
「いやだなー、こいつ。井上陽。俺の知らないあの事件のこと知ってる奴ってわかるから嫌だ」
そういって主人は引き出しに本をしまった。
このとき主人は大きな過ちを犯してしまった。この本の作者はのちに強大な組織を率いて麻木たちの親組織と戦うことになる。主人は小説を買ってこの本の作者の名前を覚えてしまった。そのことにより、麻木たちの力を封印する役をさせられることになってしまうのだった。




