見えない敵との戦い 十二
2026年9月21日
麻木と主人はとあるビルの一室にいた。ビルの中は家具ひとつない。このフロアが空いているわけではなかった。家具が何ひとつ置けなくなっている。水が入ったバケツがいたるところに置かれていた。
「はじめますか」
「はい」
主人の言葉に麻木は水の入ったバケツを一つ手に取った。水に向かって麻木は叫んだ。
「やめろ!」
すると建物が地響きを立てだした。
「す…す…」
何処からともなく声のような物音とも聞こえるような音が聞こえる。音は最初は一つだけだった。だが次第に増え、重なり合い、反響するようになっていった。
「麻木君、必ずバケツを手から離さないで」
そういって主人は傘を差した。
「やめろ!」
もう一度麻木はバケツの中の水に向かって叫んだ。
すると今度はぴたりと地響きが止んだ。そして水の入ったバケツだけが振動し始める。
バケツの水が同心円の揺れを作り、中心に水の柱が立ち始めた。それは不自然に次第に上に伸びていく。そして水が口々に話しだした。
「変わったね」
「まだ遊んでんの?」
「つまらない仕事はしたくない」
「家事育児で大変なのはわかるけどさぁ」
「仕事つらい」
「はかないねぇ、転職するなんて」
「ゾンビのお出ましです。僕は引きます」
主人が言うやバケツから水が飛び散った。次の瞬間、麻木が主人の前から消えていた。
麻木は白い空間の中にいた。手にはバケツを持っている。そして麻木の目の前には小さな女の子が立っていた。後姿を麻木に見せ、女の子は上を指差していた。
「かわいそうだけど、こうしないと終わらない」
そういって麻木は指輪を少女に差し出した。
「これでいいかな」
小さな銀色の指輪だった。指輪には赤い石がついていた。少女は振り向かない。しかし一言つぶやいた。
「はぁい」
麻木の手から銀色の指輪が消えると麻木の足元がゆがんでいく。まだ帰れない。次がある。麻木は少女が向いていた方向へ走った。バケツは右手で持って、できるだけこぼさないように気を付けて走る。次の場所にはおじいさんがこちらに後姿を見せて立っていた。杖をこちらに向けて立っている。
「もういいですよ」
麻木はおじいさんに語りかけた。
「まだ、まだ」
おじいさんの言葉は震えていた。
「これどうぞ」
そういって麻木はお守り袋を差し出した。
おじいさんはこちらを振り向いた。目はくぼんで髑髏のようになっている。おじいさんの眼窩は真っ黒になっていた。
「遅くなりました」
麻木の言葉におじいさんは杖を降ろした。
「そうか。かたじけない」
麻木の手からお守り袋が消えた。おじいさんも次の瞬間には消えていて、床におじいさんが持っていた杖が転がった。麻木はその杖を手に取った。麻木は右手で杖を持つ。そしてその場にバケツを置いた。
「これで帰ることが出来ます」
そういって麻木は杖の先端を水の中につけた。すると白い空間が割れて元いたビルの一室に帰ってきていた。
「おかえりなさい」
主人の言葉に麻木は主人を見た。主人は全身がずぶ濡れだった。
「…へぇ。うん。ただいま帰りました」




