七
気の滅入る、鬱々とした夜が過ぎて、桍穿耳は朝、薬を所望した。昨夜ほとんど眠れず、気分が悪かったので、処方された薬を飲んで、什錦泡飯を幾らかすすった。宮官のひとりが、太子妃の薬房の生薬が数種類なくなっていたのは、火事場泥棒だったと報告した。宦官のひとりが、火の勢いが衰えた頃、こっそり薬房へ行って、くすねていたらしい。ただし、ふたつだけ、盗っていないと否定している。
それから桍穿耳は、外へ出た。
柳緑黛と約束があったのだが、桍穿耳は少し歩きたかった。彼女は随分、活発な女性だったようだ。なにか心にひっかかりがあれば、運動をするという口である。桍穿耳はせかせかと、金水河のほとりを歩いた。
と、橋の上に、五友公主と爽旦公主(聖上と皇后の長女・潟)が居るのを見付けた。随分はやい時間だが、少女達にはそのようなこと関係ないようで、楽しげだ。爽旦公主が小さく笑っている。傍付きの宮官、宦官達が、日傘をさしかけたり、顔の汗をそっと拭ってやったりしていた。
爽旦公主が、桍穿耳に気付いた。桍穿耳は拱手して、そちらへ向かう。少女達も橋を渡りきり、桍穿耳の許へととことこ向かう。
目の前まで来た爽旦公主に、桍穿耳はもう一度拱手した。「殿下、ご機嫌麗しゅう」
「桍姨母、十駕とお花を摘んでいたの」
爽旦公主は微笑んでいたが、不意にその表情が曇った。「わたし達の可愛い姪っ子に、お供えするのよ」
爽旦公主の顔を見て、微笑んでいた五友公主が、項垂れた。桍穿耳は、少女達の楽しげな朝の遊び程度に捉えた自分を羞じ、深く頭をさげた。
「殿下、妾も、一緒に花を摘んで宜しいでしょうか」
「勿論。桍姨母は木登りが得意だから、わたし達と違う花を摘めるわね」
爽旦公主は屈託なくいう。そこに、桍穿耳が散歩していると聴いて、柳緑黛もやってきた。彼女も花摘みに参加することとなった。
ふたりは木に登って、幾らか花を手折ってきた。爽旦公主は喜んで、自分達が摘んだ花とあわせた。「あの子も喜ぶと思うわ。ありがとう、桍姨母、柳姨母」
「滅相もございません」
「妾どももご一緒できて、嬉しゅうございます」
「……太子妃は伏せっているそうね」
爽旦公主は不安げだ。「姨母達がお見舞いをしたときいたわ。どのような具合なの?」
桍穿耳は答えかね、柳緑黛が小さく返した。
「随分堪えているようでしたが、いずれ立ち直るでしょう」
「本当に?」
まだ幼い顔立ちの公主に、真剣な目で問われて、ふたりは詰まった。
「心配していても仕方ないことかしらね。わたしもお見舞いに行こうかと思うの」
爽旦公主の表情が曇った。「でも、わたしは結婚していないから、彼女のつらさは本当にはわからないだろうし、無神経なことをいってしまいそうで躊躇っているわ」
「殿下がお運びになれば、太子妃も喜びます」
桍穿耳がいったのは、なにもおべんちゃらではない。さほど歳のはなれていない姒に、爽旦公主は懐いていた。このところは一緒に過ごさないようだが、太子妃が嫁いでしばらくは、度々、東宮を訪れていた。
爽旦公主はにっこりした。
「わたしと十駕で、お見舞いしてみる。ね、十駕」
爽旦公主は五友公主へ、顔を向ける。「太子妃のお見舞いに行きましょう」
「はい」
五友公主は控えめにいう。爽旦公主は嬉しそうにしたが、すぐにまた、顔を曇らせた。
「原王府の者が来ていないといいんだけど。あのひと達はきらいから」
爽旦公主はお花を供えてくるといい、踵を返した。五友公主もそれに続く。宮官や宦官が一緒に行こうとしたが、桍穿耳はそのうちのひとりを捕まえた。
原王府から度々、東宮への献上があった。
それ自体はおかしなことではない。親王達も、公主達も、東宮へなにかをさしあげることはあったし、大長公主、長公主、先帝の兄弟で存命のかた、聖上の弟である原王も、太子成婚以来、折りにつけ贈りものをしていた。
東宮には、男性でも這入れる。勿論、ゆるしを得ていることが前提だが、掖庭、内廷へ這入るよりは、余程簡単だった。
爽旦公主のお世話をしている宮官によれば、東宮へ赴いた折、原王府の者が来ていることがよくあったという。原王は名門の棗家から妻を迎えており、その棗家は枰家と縁戚関係にある。それもあってか、枰四娘が良娣となって以来、原王府の者が横柄な態度をとるようになった。
太子不在の東宮へ訪れると、太子妃ではなく枰良娣へ挨拶をし、持ってきた品を恭しく献上するなど、舐めた真似をしていた。それで爽旦公主は、序列を無視し、気が強く大きな顔をしている枰四娘にばかりへつらう原王府の者を、かなりきらっている。太子妃を排除し、良娣を東宮の女主人にしようとしているように見えるからだ。
桍穿耳達は宮官を労って、時間をとらせたことを詫び、解放した。それから身支度を調え、ふたりで車へのり、長楽門へ向かった。目指すは東宮内坊である。
ふたりが皇城へ足をふみいれるのは久々だった。
桍穿耳達は基本的に内廷に居て、時折禁苑へ遊びに行くとか、節句でお参りに行くとか、聖上の行幸に同道するとか、それくらいしか外へ出ることはない。皇城への用事もなかった。ほしいものがあれば、傍に居る宦官か宮官にいいつければいい。
そもそも彼女らは大変慎ましやかに過ごしており、贅沢もしないので、なにが足りないのどこへ行きたいのということは稀だった。史家達が彼女らを評価する理由のひとつである。無欲であり、わがままをいわない、と。筆者の私見だが、彼女らには欲がないのではなく、愛を注いでくれる聖上と優しい皇后とを慕い、愛らしい子ども達に囲まれ、それ以上にほしいものがなかったのだろう。
車を降り、東宮内坊へのりこむ桍穿耳達を、官人達が呆然として見ていた。ふたりは宦官達にいいつけ、必要なものを持ってこさせた。
東宮内坊になければ内府局、それでもなければ中書外省へ行こうと思っていたが、さいわい東宮内坊に記録は残っていた。少女めいた声の宦官がひっぱりだしてきたそれを見ると、原王府から東宮へと贈りものを携えて這入った遣いが、枰四娘が良娣となって以来、ほぼ倍に増えているのがわかった。節句やなにかでもないのに、太子妃と良娣の健康の為になどと理由をつけ、おもに海味山珍を贈っている。
一応、内府局の記録も調べ、異同がないかたしかめたが、ない。内府局の宦官は怯えた顔だったし、たまたま前年の節句の記録をとりに来た官吏は、華やかな装いの美女ふたりが書類と睨めっこしているのに、目を白黒させた。
柳緑黛は銀の符を握りしめる。「葉珠の兄は、どこに務めていたかしら」
「尚書省よ。尚書左丞」
内府局から尚書省までは、さほどはなれていない。
きらびやかな絹の襦裙、紗の裱、絇の煌めく履、錦の帯にぶらさがる沢山の琅玕、上等な米の白粉につやめく燕支、結い上げた髪に挿した沢山の釵、簪、歩揺、耳には鐶、鈿瓔はちりちりと音をたて、先帝の下賜品である鐲も身につけ、団扇を持った貴婦人ふたりは、沢山の宦官や宮官をつれ、猛然と、尚書省へ向かった。
尚書省では、妃嬪のお出ましに、官人達はびっくり仰天していた。胥吏達など、顔を伏せ、桍穿耳達を見ないようにしている。柳緑黛が符を見せ、桍穿耳がいった。
「聖上のおゆるしを得て来た。太子妃の兄、尚書左丞をこれへ」
「はっ」
官人達が数人奥へひっこんだ。ふたりは案内されて、上等な房へ通され、榻に座って待つ。
すぐに、朱蒼児の兄がやってきた。深緋の袍と金の帯を身につけた尚書左丞は、ふたりの前まで来ると、恭しく拱手した。朱蒼児とはあまり似ていない兄で、かなりの上背があり、恰幅もよかった。厳しい印象を与える妹とは反対に、優しい顔立ちであったという。
彼は父と違い、桍穿耳達を官婢と思ってはいなかった。その態度はこの後も一貫して、丁寧である。また、朱蒼児当人ではないからか、郡主の事件についても、もう折り合いをつけているらしかった。
「柳賢妃、桍充媛、臣になにかご用でしょうか」
柳緑黛が目を遣り、桍穿耳が手を振って、尚書省の官人達をさがらせる。尚書左丞はびくついたが、停めはしない。
房内には、桍穿耳達とそのお付きの宮官、宦官、そして尚書左丞だけになった。桍穿耳は深呼吸してからいった。
「尚書左丞、あなたの一族に、生まれついて障碍を持っているひとは居る?」
「はあ……?」
尚書左丞はなにをいわれたのかわからなかったらしいが、寸の間考え、こっくり頷いた。桍穿耳達はそれを見詰める。
「それは、どのような?」
「さあ、はっきり覚えておりませんが。ええと、祖父の従兄弟のどなたかの子どもが、生まれついて片脚がなかったそうです。右だったか、左だったか、忘れてしまいました。残念なことに、二歳になる前に死んでしまって、嘆きのあまり父親は衰弱して死んでしまい、母親は仏尼となったとか」
「ほかには?」
「ええと……たしか、母の係累に、目の開かないひとが居ました。今は卞州に居て、琴の先生をしています。それから……ああ!」
思い出せて嬉しかったか、尚書左丞は微笑んだ。「遠いご先祖さまの兄弟の息子が、少々知恵が足らなかったと聴いています。読み書きができなくて、計算も、簡単なものでないとできなかったとか。まだ、朱家が蘇州に住んでいた頃の話です。そのひとは家で薪割りやなにかの力仕事をしていて、随分目端の利くひとで、毎年燕窩を見付けては、年老いた父母に食べさせていたそうです。結婚して子宝にも恵まれて。でも、これは昔のことですので、はっきりとはいたしません。父母に尽くした誇らしいご先祖さまのひとりですが、この手の話はどの家でも、幾分、美しく飾り立てられるものですから……」
にこにことなんの屈託もなく話す彼にとって、そういったひと達は軽蔑するものではないのだ。寧ろ、その孝行でもって、尊敬の対象であるらしい。
桍穿耳達は顔を見合わせる。桍穿耳が尚書左丞へ訊いた。
「尚書左丞、そのような者は、お前の親族にほかにも居るの?」
「それほどの孝行者は、なかなかおらぬと思いますが」
「そうではなくて……読み書きの苦手な者は」
尚書左丞は頭を振った。「聴きませぬ」
「本当に?」
「ええ」
「では、朱家にそういう者が居ると、噂があるのは知っていて?」
朱蒼児の兄は、きょとんとしていった。「いいえ」
ほかの部署にも朱家の者が居る。朱蒼児の従兄弟達だ。彼らを呼ぶよういうと、尚書左丞は畏まって、その通りにした。その者らに問うても、答えはかわらなかった。たしかに遙か昔、孝行者として朱家の人々には記憶されている知的障碍者が居たが、現在は居ない。ご先祖さまの例があるので、仮に生まれたとしても殺すようなことはないとも、朱家の男達は語った。それについては朱蒼児の兄も、質問が不愉快であったようで、らしからぬ鋭い声で答えたという。
朱家の男達を労ってさがらせた時、噂について調べさせていた宮官と宦官が合流した。皇城でも一部の者達が噂している。また、内廷には噂はひろまっていない。
皇后には一時、そのような噂が立った。それが理由だろう。
太子妃時代、桍穿耳や柳緑黛に優しいので、はじめ官吏達は、優しくしておいて聖上にあれこれ吹き込んで鼻を削ぐつもりだろうと、鄭袖をひきあいに出して噂し、それを期待した。ところが椿糈玉にそのような動きが一切なく、桍穿耳達を妹の如く扱ってまったく粗末にはしないのを見るや、なにも考えておらぬ愚か者、足りない者だと陰口をたたいた。後世の小説、芝居などでも、椿糈玉は知的障碍者のようなそうでないような人物と描かれ、騙されて死ぬのがおなじみになっている。それも、書いた人間の悪意たっぷりの、妙な行動をさせられてから、だ。
椿糈玉に関しての噂はなかなか消えなかったし、内廷に居る人間は噂が消えてからも覚えている。朱蒼児の家族にこのようなひとが……などとうっかり噂しようものなら、罰せられるとでも考えたのだろう。
ならば当時、その話をしていた者を捕らえていてもいいだろうに、それをしていないのだから推して知るべしである。聖上も皇后も、そのような噂を気にされなかった。それもまた、この夫婦の少々かわったところである。桍穿耳や柳緑黛も気にしていなかったらしいし、晌含む子ども達も同様であるので、かわっているよいえようか。いやしかし、そういう噂を気にするほうが、もしかしたら変なかもしれない。
とにかく、内廷にその噂はひろまっていない。なので、桍穿耳達も、そのような話は聴かなかった。気にしていないといえ、耳にはいれば覚えている。その覚えがない。
掖庭に居る幾らかは、つまり東宮で勤務している者達は知っていたが、内廷では話せぬことだと思っていたから話さず、桍穿耳達は勿論聖上にもしらせようとはしなかった。それ以外は、知らないから喋りようがない。噂はおもに東宮と、皇城の一部でひろまってる。内廷にひろまったら罰せられるかも、と考えているようなのに、それでも東宮や皇城にはひろめているのだから、どうしても噂をひろめたかったのだ。
更に、掖庭局令が、別の噂も仕入れてきた。やはり、掖庭、それに内廷にはまったく伝わっておらぬ噂である。それを聴いて、桍穿耳、柳緑黛は、東宮へと向かった。宦官、宮官に、誰某を呼び出せと命じてからだ。きらびやかで華やかな嵐のようなふたりが、車にのるのももどかしく走って行くさまは、官吏達に非常な恐怖を与えたという。
聖上が七公子であった時代、鞦韆やつなひきで遊び、太子となってからも子ども達と一緒に木登りや乗馬、撃球を楽しみ、今でも内廷中をうろついているふたりである。そのような距離はなんでもない。
貴婦人はあまり歩かない。しかし、彼女らはもともと官婢であり、体を動かすのが習い性になっていた。小走りで東宮へ行っても、幾らか息切れしたくらいですんだ。
門の内給使達がまっさおになって脇に避け、ふたりの走行を邪魔しなかったのも、無駄に息切れせずにすんだ理由である。もし停められていたら、怒鳴っていただろう。
東宮では、ふたりが符をつかって呼び出した宮官、宦官などが待っていて、ふたりに付き従った。彼らは何故、自分達が呼び出されたのかわからず、戸惑い顔だったが、位の高い桍穿耳達に逆らう術はない。
「桍充媛、柳賢妃」
太子妃の殿へ向かう途中、太子・晌が、訝しげにしながらやってきた。数人の官人と、宦官、それに将も一緒だ。柳緑黛は、聖上から戴いた符の力をつかって、太子を呼びつけたのである。父親よりも頭ひとつ半ほど大きく育った太子は、威厳のある顔に戸惑いの表情をうかべていた。
「わたしに用があると……」
「殿下、お運び戴いてありがとうございます」
ふたりは頭をさげ、位の高い柳緑黛が代表していった。「事件の犯人がわかったかもしれません。太子にも聴いて戴きたく、ご足労願いました」
太子は無表情でふたりを見た。幾らも考えてから、小さく頷いた。それで、ふたりは、太子を先頭に太子妃の殿へと向かっていった。
向かう先から、宦官数人が顔面蒼白で走ってくる。太子が声をかけた。「どうした!」
宦官達は太子の眼前に這いつくばった。
「た、太子妃が……」
将が顔色をかえ、走り出した。桍穿耳、柳緑黛も走った。宦官達、宮官達、晌の官人らも続く。桍穿耳も柳緑黛も、二十歳かそこら程度の将に足の速さで勝ったというが、彼女達が東宮の地理にくわしいからであろう。
晌が怯えたような声を出して立ち停まり、桍穿耳達も足を停めた。閨房のなか、太子妃は牀の上で、血を流している。足許に宦官がひとり、宮官達におさえこまれていたが、どうやらすでに事切れているらしい。宮官達は動揺のあまり、それに気付いていない。
太子妃は額に傷を負い、宮官がそれをおさえていた。白い指の間から、たらたらと血が流れている。「はよう薬を!」
十歳を過ぎたくらいの宮官達は、がたがた震えて役に立たない。桍穿耳は身を翻して走り、薬坊へはいると、豚脂と胡麻油、紫根を刻んだものを煮て漉した傷薬と、さらしをさがしだして、持ってきた。柳緑黛がそれを塗ってやって、さらしでぎゅっと結び、血はなんとか停まった。
かたまっていた太子は、おずおずと閨房へ這入ると、いった。
「なにがあった?」
「この者が……」
宦官をおさえこむのを辞めた宮官達が、怯えた顔で、床に伏せたそれを示す。「太子妃殿下に、突然きりかかったのです。そ、袖のなかから刃ものをとりだして」
「何故」
「存じませぬ」
宮官達は手も襦も血塗れだ。がたがたと震え、声も裏返っている。柳緑黛は宮官に手を拭われて、転がっている宦官を見た。「この者は? 名はなんというの?」
怯えた顔の宦官が答える。それによると、朽という宦官で、少し前にはいった自宮者。よく気が付き、力もあるので重宝されていた。
「出身は?」
「さあ……記録はありますが……あまり喋らぬ者でしたので」
「助けなくてもよかったのに」
投げやりな口調でいったのは、太子妃だ。晌が顔色をかえる。「朱蒼児、なにをいう」
「もういいのです。あの子を苦しめて、生きてなどおられぬのですから」
晌は口を開けたが、なにもいわない。桍穿耳が牀に腰掛けて、太子妃の手をとった。
「葉珠、いい? 本当のことをいって頂戴。嘘を吐かないでね。郡主の首に裱をまいたのは、あなたでしょう?」
朱蒼児はあおざめた顔で桍穿耳を見、唇を震わせた。「はい」
「なんと」太子に付き従っていた官人がいった。「太子妃が犯人だったとは」
柳緑黛は眉を寄せ、桍穿耳は落ち着かせるように、朱蒼児のせなかに手を遣った。晌が頬を紅潮させ、ぶるぶると拳を震わせる。「桍充媛、なにをいう。我が妻が、娘に手をかけたといいたいのか」
「殿下、落ち着いてください」
柳緑黛が、朱蒼児を見たままいう。
「話はこれからです」
「は……なにを」
「葉珠、それでどうしたの?」
「……あの子の首を絞めました」
朱蒼児はいやに淡々とした口調で答える。太子の口がぽかんと開いた。朱蒼児はぼんやりと、宙を見ている。「火事だと声がして、誰も居なくなったのです。わたくしは、あの子の様子を見に行こうと思って、そうしたら、あの子はひとりで……裱をまいて、両手でひっぱったら、うごかなくなって。薬房へ行って、わたくしの症にあわない生薬を、幾らか食べました」
朱蒼児は、震える手で、なにかを掴もうとするような仕種をした。「おそろしいことをしてしまいました。あの子はどんなに苦しかったか……夢だったかと思ったのに……」
郡主の首に裱をまき、殺害を試みたのは、太子妃であったのだ。彼女はそのまま、自らも死のうと、自分にとって毒となる薬を口にした。薬に毒がまぜられていたのではなかったから、お毒味役はなんともなかった。
桍穿耳は丁寧に訊いた。
「葉珠、あなたは火事の騒ぎが起こってすぐ、郡主の許へ行ったのね。すぐだったのね?」
「はい」
「あなたは閨房へ戻ったのでしょう。それから皆が来るまで、どれだけ時間があったの?」
「半時辰ほど」
「間違いはない?」
「漏刻がございましたので」
桍穿耳は頷く。それならば、薬を服んで直後に症状が出、倒れたのもわかる。本当はそれよりも前に毒になるものを口にしていたのだ。宮官達は最初、郡主のことを聴いて倒れたと考えたそうだし、医者が診るまで毒のことなど誰も考えなかった。
太子が顔をまっかにして、牀へと向かう。柳緑黛が停めようとしたが、突き飛ばされて転がった。
「何故だ! 何故だ、朱蒼児! 何故わたしの子を殺した!」
朱蒼児は顔を伏せ、それを見ない。
「宗室の為に」
「なにをいっている。俺の子を、俺の娘を殺すのが何故、宗室の為になるというのだ。いってみろ!」
朱蒼児は口を噤み、太子は桍穿耳もおしのけて、妻に掴みかかった。「まただんまりか。お前はいつもそうだ。俺に不満があったのか? だから俺の子を奪ったのか!?」
「殿下、殿下おやめを」
桍穿耳達が、太子と太子妃の間に割ってはいった。我に戻った宦官達が、太子に飛びつく。桍穿耳は声を張り上げた。「違います、殿下。今のでわかりました。朱蒼児は郡主を手にかけておりません」
太子の動きが停まる。
朱蒼児は不思議そうに、桍穿耳を見る。
桍穿耳は帯を整え、息を吐いた。
「刑部から報告がございませんでしたか。郡主を見付けた宮官達の申したことを」
その場には、櫓万、柚花影も居た。おそらく、榎宮官もだ。彼女の証言と思しきものが出てくるからである。
「郡主はどのような様子だったの」
桍穿耳が問うと、おそらくは榎某が答えた。「あの……まだあたたかく、生きていらっしゃるようでした。首に裱が結ばれ、くいこんでいて、わたくしがそれを噛んで端をほころばせ、そこからひきさきました」
「結ぶ?」
太子妃が事件以来初めて、表情をうかべた。非常に訝しそうにしたのだ。「わたくしは結んでなどいないわ」
「それに、殿下、お考えを」
柳緑黛が落ち着いた声を出す。
「もし、太子妃が郡主の首に裱をまきつけた時に、郡主が亡くなっていたとしたら、半時辰も体があたたかいままでしょうか」
まだ、春である。朝は肌寒い。
太子は噛みつくようにいった。
「衾をかけていたのだろう。半時辰というのだって本当かわからない」
「衾は落ちていた筈です。半時辰が正しいかどうかは、医者に聴けばわかることですわ。太子妃が口にした生薬が効くまで、どれだけの時が必要か」
太子が命じて、すぐに医官が呼ばれた。太子妃がどの生薬を口にしたかは、減ったりなくなったりした生薬と付き合わせればわかる。火事場泥棒が盗んだのを否定した生薬を太子妃が食べたと仮定した場合、どれだけの時間で効くかと問われ、医官は答えた。「半時辰から一時辰でしょう。しかし、なんということを。どおりでお体が回復せぬ訳です。処方を変えましょう」
医官は太子妃が何故生薬を食べたかなど気にしていないようで、そういって戻っていった。
しばらくの沈黙の後、朱蒼児はいった。
「わたくしは、あの子を殺していないの?」
桍穿耳が頷いた。朱蒼児は気を失ってしまった。
医官が呼び戻され、気絶した朱蒼児を介抱した。太子はまだ顔が赤かったが、それでも落ち着いた声を出そうとしているようだった。「桍充媛、柳賢妃、乱暴をしてすまない」
「いいえ」
「教えてくれ。犯人がわかったかもしれないと、さっきいっていただろう。誰なのだ。誰がわたしの子を殺した」
桍穿耳は櫓万を指さした。指さされた宮官は、きょとんとしている。
「あの者ならばできます。郡主の首に裱がまきついているのを見て、とっさにやったのでしょう。それが、葉珠の裱だったのをさいわいと、彼女に罪を着せたのです」
宮官数人が、逃げようとした櫓万を捕まえた。太子は呆然としている。桍穿耳は続けた。
「更に」
皆が桍穿耳を見た。
「これは、枰家、棗家も関わった、陰謀がその遠因であると考えます。この子に郡主を殺させようとするのがその陰謀です。殺さぬまでも、冷遇させようと」
太子に付き従ってやってきた官人、枰家と棗家の者が、顔色をかえた。「なっ、なにをいうか!」
「証拠はあるのか、桍充媛」
「ございません!」
桍穿耳のきっぱりとした声に、官人達が一瞬怯んだ。桍穿耳は立ち上がって、枰家の官人を指さした。
「妙な噂を立てて、わたし達の可愛い嫁を、よくも苦しめてくれたわね。証拠などなくとも、お前達が噂を立てたのはわかっているのよ。噂が流れていたのは枰家か、棗家の者が居る部署がほとんどだった」
「桍充媛、噂とは?」
「朱家に、読み書きも計算もできない者が居る、という噂です」
柳緑黛が答える。「それはかまいませんわ。だからなんだというのかしら。でも、もうひとつは看過できません。宗室はそういう者を毛嫌いしていて、それと疑わしい子を殺してきた、というのはね。妾や桍充媛の子も、その為に殺され、死産や病死ということになった、などというのです。手や、足がなかったり、耳が聴こえなかったり、声を出せなかったり、妾どもはそういう子を殺してきたそうですよ」
その、大変な侮辱に、桍穿耳達は腹をたてていた。子どもを好き好んで殺す親など、いようものか。
桍穿耳は微笑む。目に力がはいり、ひきしまった晌の表情が、自分達を信じるほうへ傾いたことを教えてくれた。
「それは、事実無根、悪意のある中傷だ。そのような無責任なことをいっていたのか」
「申しておりませぬ」
「嘘は吐かないほうがいいわ」
皆、ぎくりとした。
帳を、上等な服に身を包んだ宦官が、そっとおしのけた。やってきたのは、皇后だ。その傍らには、皇后より頭ひとつ分ほど小さな聖上もいらっしゃる。
桍穿耳達はあっと声をあげ、晌が息をのみ、そちらへ走った。「霓児!」
聖上の腕には、亡くなった筈の郡主が抱かれていたのだ。
読者諸氏には、なんとアンフェアな、とお怒りのかたも居るだろう。おゆるしいただきたい。『棠書』にしても『鵄尾子』にしても、このような描きかたをしているのだ。なので、そのままそれを踏襲することにした。石を投げるなら、柳貢や椒蘭腊などを狙ってもらいたい。筆者は地の文ではできる限り、郡主が殺されたとか、亡くなったとかの言葉は避けているつもりである。
さて、太子・晌は愛しい娘、愛らしい郡主を抱いて、涙を流して喜んだ。郡主は手をばたつかせ、父の頬をぺたぺたと叩いてご満悦だ。まだ乏しい髪の毛がふわふわしている。
皇后がいった。「丹丹、珠絇、ありがとう。あなた達が命じた宦官が、噂のでどころをつきとめてくれたわ。太子小保の推薦で官人となった者だったの」
桍穿耳、柳緑黛ともに力をぬいた。
「怪しい者は捕らえたわ。官人でも、胥吏でも、宮官でも、宦官でも」
皇后は、官人らをひややかに見た。その大きな目に、彼らは怯えた。「情けないこと、棗家の若者達よ。お前達一味には、なんの結束もなかった。余が話をきいたら、あっという間に吐いた」
皇后はぎろりと、彼らを睨んだ。暢気で頭の弱い女と、皇后を見下していた彼らは、震え上がってひれ伏した。
「ち、違うのです、陛下。臣どもは宗室を思い、頭の鈍い子を産みかねない太子妃を」
「黙れ」
皇后が静かにいうと、官人達は黙った。宦官がそれをひっぱって立たせ、外へと出した。彼らは即時、大理寺へ送られた。
晌は可愛い娘を抱きしめて、その娘が泣き出したので、どうしたらいいかとおろおろしだした。宮官達が、郡主の為にうすい粥をつくろうと、喜び勇んで厨へ向かう。太子妃はまだ気を失っていたが、安静にすれば大丈夫だと医者がいった。柳緑黛が甘えるような顔で聖上の許へ行き、桍穿耳はほっと息を吐いて、今夜あたり娘子の燉でも戴かなければ割に合わない、と思うのだった。




