五
東宮の内向き、良娣がとじこめられた殿のまわりには、幾人もの宮官、そして宦官が配備されていた。なかには、棒を持っている者、腰に縄などさげている者もある。逃げようとしたら縄を打っていいといわれているのだろう。
宮城は東西に長い四角形をしており、東西約2.7㎞。普通に歩いて移動できるが、ふたりは車にのって東宮を訪れた。急いでいたのであろうし、貴婦人はさほど歩かないのである。
ついでに、車を降りてすぐ、付き従っている宦官に枰四娘のことをきいた。太子妃を陰で罵っていたこと、厭勝じみた行いは、いずれも枰四娘付きの宮官、宦官達、それから東宮を出る際にかならず随従する金吾衛の兵幾らかが、尋問によってあっさり打ち明けた。尋問はごく簡単なもので、良娣が太子妃に害意を持っていたかどうかを彼らは訊かれた。それで答えた、というだけの話だ。
良娣は、内廷の仕組み、内廷に居る人間の力関係というものに、まったく以て無頓着であった。名門の娘であり、鳴り物入りで嫁いできた彼女は、宮官だとか宦官だとかには目もくれていなかったのだ。その辺の草花程度にしか認識しておらず、湯浴みや食事、日常のなにからなにまで補助してもらうのが当たり前、いや、補助してもらっているという意識もない。だから礼もいわぬし、ありがたいとも思わぬし、失敗をすれば叱り飛ばして竹篦で酷く打つ。
お気にいりの宮官や宦官には褒美をあげたりしていたようだが、銭を幾らかとか、絹を幾らか程度である。そんなもの、内廷が長い彼らには、屁のようなものだった。
これが娘子であったら、金目のものをくださるか、運がよければ手ずから胡餅や捻頭を拵えてくださって、食べたいだけ食べられる。柳賢妃さまであれば、惜しみなく緡銭をくださるか、見たこともないように綺麗な、珠や翡翠などあみこんだ紐をくださる。桍充媛さまであれば、めずらしい宝飾品を分けてくださるか、気晴らしの催しものをと聖上へおねだりしてくださって、自分達も楽しめる――と、彼らは度々、良娣と、信賞必罰、罰も褒美も納得のいくものをくれる皇后らとを比べ、なんとさもしい根性であるかと内心蔑んでいた。
くれるものの量の問題ではない。良娣と違い、皇后らは常々宮官や内管を見て、人間らしく扱っていた。不機嫌からあらさがしをして竹篦を持ち出すようなことは、まるでない。皇后らのことを宮官も宦官も、気骨のある一筋縄ではいかない女達だと評価していた。
宮官や宦官が一番軽蔑するのは、頭の悪い、立ちまわりの下手な、すぐに感情に振りまわされて、自分の意見も一貫できない内官であった。経書や計算に通じているかいないかは関わりなく、自分の頭で考えて判断できない内官は、どれだけ位が高かろうと、愚か者と見下していたのだ。
皇后には皇后の、桍穿耳には桍穿耳の、柳緑黛には柳緑黛の基準があって、それに従って褒美を与えたり、叱正したりする。彼女達は意見を翻す場合、翻すというし、諭されたり諫められて自分の非に気付けば、気付かせてくれた相手に礼をいい褒美を与える。その根幹、根っこのところの基準がはっきりしているので、不機嫌だろうと体調が悪かろうと、彼女らは八つ当たりもしないし、不意に竹篦を持ってこさせることもなかった。それは、お仕えする宮官や宦官にとっては、非常にありがたいことなのだ。今日、お仕えしている内官が不機嫌ではないか、などと怯える必要がない。真面目に正しく過ごしていれば、毎年秋口にはこれまでの勤めに報いたいからと、かならず上等な絹をくれるし、不正に手を染めればそれまでの功績など無視してそれ相応の罰をくださる。常に一貫した姿勢であることが、宮官や宦官に安心感を与えていた。
それにひきかえ良娣は、そのあたりの配慮がまるでなかった。気前のいい顔をしていても、いたるところでぼろが出る。太子妃が優先されるのは当然なのに、儀式に出席してもただ席をあたためるだけだった時など、目付きが悪いなどと難癖をつけては宮官宦官を竹篦で打ち、あることないこといいたてて追い出すようなことをしていた。
かと思えば、機嫌のいい日にはなんでもないことで突然褒美を渡す。といっても、内廷の長い者からすればあまりにも些少な金や、粗末な宝飾品で、余計に彼女は評判を落としていた。
そのような態度を続けていた良娣だから、捕まっても家族以外は誰も味方をしてくれなかった。
彼女のお傍に侍っていた宮官が太子妃の殿へ火をかけ、良娣の指示であるといった。それに追随し、ほかの者達も、これまであえて口に出さなかった良娣の所業を、あっさり話した。これまで話さなかったのは、誰かに報告して信じてもらえなかった場合、良娣とその一族から報復があるのは目に見えていたからだ。良娣が幽閉され、実際に火事など起こっている以上、なにを話してもまもられると安心したから彼らは話した。
宦官の短く、端的な口調でそれらを聴き、桍穿耳は呆れたし、柳緑黛は不愉快そうに目を瞑っていた。
もとより彼女らは、良娣を好いてはいなかった。太子の庶母として敬うように見せて、実際は下に見ているのがまるわかりだったからだ。官婢出身の彼女らは、そういった空気、眼差しに敏感だった。皇后も、慇懃なようでいてそうでもない、枰良娣の桍穿耳達への態度には、不快感を覚えていた。幾度も、良娣であることを思い出させるような注意をしたが、枰良娣はそれを聴き流していた。
不愉快な娘ではあるが、良娣である以上無視はできない。枰家の力も考えて、桍穿耳達は晌の為に、必要最低限の付き合いをしてきた。太子妃とは大違いの憎たらしい上に浅はかな子だと思っていた。不思議なことに、あの父親の娘であるのに、朱蒼児は桍穿耳達に礼を尽くしていたし、見下したような態度は一切ない。
もともと、朱蒼児の父は自らの節を枉げぬ、意思の強い人間だと桍穿耳達は思っていた。聖上に直諫し、いざ柳緑黛が妃となっても婢扱いして、しかし職務はまっとうしていたのだから、相当な根性である。主義主張で相違があっても、聖上の為に身を粉にしている朱蒼児の父を、桍穿耳達は敬っていた。朱蒼児はだから、尊敬する人物の娘でもあるので、桍穿耳達はどうしても太子妃贔屓であった。
「まあ、底の浅い娘だったこと」
しばらく瞑目して、ぱっと目を開け、柳緑黛はそういった。桍穿耳も同感だった。太子妃になりたいならなりたいで、根気よく太子に尽くして外堀を埋めるか、もっと器用にあくどくたちまわればいいものを、結局良娣は損しただけだったのだから。
太子・晌は政務で、東宮府に居る。良娣の顔も見たくないと腹をたてているというのは、出発前に宦官から聴いた。桍穿耳はその猛烈な怒りと、あの気の優しい晌が良娣を殴ったというのに納得がいかなかったが、余程のことなのだろうと考えた。良娣の本性がわかって、幻滅したのかもしれない。
柳緑黛が符を見せると、建物を囲む宮官も宦官も、かしこまった。柳緑黛は威厳を込めていった。
「枰良娣に会うわ。戸をお開けなさい」
宦官達がかしこまって戸にとりつき、開く。宮官がふたり這入っていって、別の宮官が桍穿耳達の傍に立った。宦官も数人集まった。彼らの同席なしでは話せない。一緒に来るつもりだ。それはおかしなことではないので、桍穿耳も柳緑黛もなにもいわなかった。
と、俄に騒がしくなり、顔を向ければ、太子・晌のお気にいり、檗が、払子を手に走ってくるではないか。桍穿耳と柳緑黛は顔を見合わせる。
檗は羊脂玉のような肌をしており、唇は紅をひかずとも赤く、濡れたようであった(この時代、宮廷では男であっても、少しは粧うのが普通であるので、この時檗は紅をひいていたであろう)。澄んだ目に、白い歯、額の形は女っぽい。背は男としては低く、撫で肩で腰は細い。眉は黒々しているし、輪郭も女らしいとはいえないが、全体的にやわらかい印象を与える容貌であった。幼い頃に浄身したので、その声は男らしく太く低くなりはせず、澄んで高いままだ。
檗は寵姫達の前まで来ると、畏まって礼をした。甲高い、澄んでよく通る声を出す。
「柳賢妃、桍充媛、ご機嫌麗しく」
「檗、用件をおいい」
ぴしゃりと桍穿耳はいう。檗は口を半分開けた格好で停まった。
ふたりは今から、良娣に話を聴こうとしていたのだ。檗は太子のお気にいりで、太子は打擲の理由を語りたくないといっている。檗がなにをしに来たのかは、明らかだった。良娣の口を封じるのが目的だ。
檗はかすかにふたりを見て、やわらかな微笑みをうかべた。「通訓門の内給使が、おふたりがいらっしたと、殿下にお報せいたしました。それで、殿下は奴にお命じになったのです。おふたかたの力になるようにと。なんでもお申し付けください」
ここは東宮である。東宮の主は太子だ。幾ら、東宮府で政務の最中であるといっても、賢妃が来たのならその耳にはすぐに伝わる。
失敗したかと思ったが、しかしここへ来ないと良娣の話は聴けない。檗が来る前なら、気兼ねせずに話せたが、これでは良娣が口を噤んでしまう。
檗は宦官で、どう足掻いても、桍充媛よりも位は低い。この時期の宦官の最高位は正三品であったし、そもそも檗は太子内房の所属で、儒林郎守東宮内坊坊事。もともとは宮闈局にあり、宮闈丞であった。いずれにせよ、桍穿耳達にああせよこうせよと命ぜられれば、本来断れる立場ではない。手助けは要らぬ、ですむ話だ。
が、彼には太子のご威光があった。太子の命令に従って行動している、という大義名分が、あったのだ。
柳賢妃も桍充媛も、太子には逆らえない。幾ら庶母といえ、というか、庶母は飽くまで庶母である。皇后でもないふたりに、太子に無理に喋らせる手段もなければ、太子の手助け(と見せかけた妨害)をどうにかする手段もない。彼女らは太子にとって、「父の下妻」にすぎない。内命婦として冊命されても、生まれついて高貴な皇子であり、現に太子である晌に、なにを逆らえよう。
しかし、収穫はあった。太子は政務の手を停めてまで、ふたりの動きを警戒した。お気にいりの宦官を送り込み、良娣を喋らすまいとしている。
太子とて、ふたりが疑われていることはわかっていよう。ふたりが揃って東宮へ赴くことなど、宴でもなければない。それがやってきたのだから、良娣の話を聴く為だとわかる。何故そのようなことをするかといえば、ふたりが疑われているから、だ。
晌はばかではない。この件を調べている者らが、桍充媛や柳賢妃に偏見があり、晌の子を殺そうとしたと考えていると、わかっている筈だ。晌は優しいから、本来であれば、庶母達の汚名を雪ごうとしてくれる。桍穿耳達がなにかを調べているのを邪魔するようなことはない。
ふたりが疑われてることは承知で、それでも良娣との会話を阻止したい。晌は、そう思って、檗を走らせたのだ。やはり良娣と晌の不愉快な会見になにかがあるのだと、桍穿耳、そして柳緑黛も考えた。
「そう。よいところに参ったわ」
桍穿耳がいうと、檗は眉をぴくりとさせたが、微笑んだ。「では、奴をお役に立ててくださいますか」
「そうね」
桍穿耳は柳緑黛を覗い、柳緑黛は頷いた。桍穿耳は建物を示す。
「今から良娣と話をしようと思っていたの。例の火事についてね。宮官達が認めているから、あの娘が幾らいいのがれしてもどうにもならないけれど、その態度を見てみたいの」
「態度を? で、ございますか?」
「ええ。わたくし達は、それを娘子へお伝えしたいと思っているのよ」
檗は口を開けたが、閉じた。桍穿耳はそれを見詰める。柳緑黛もだ。
「柳賢妃は素晴らしく記憶力が宜しいから、誰がなにをいったか覚えていられるの。娘子は殿下を心配しておいでだし、わたくし達にできることはないかしらと思ってね」
「さ……さようですか」
「では、参りましょうか、柳賢妃」
「そうね。檗、お前も同席するのでしょ?」柳緑黛はいう。「あの愚かな娘が暴れたりしたら、お前がとりおさえるの。いいわね」
それには、檗はぶるっと身を震わせた。良娣に竹篦で叩かれたことがあるのだ。か弱い筈の名門の娘が、娘らしからぬ力で竹篦を振り下ろすものだから、檗はしばらくそれを喰らった掌が痛くて仕方なかった。良娣が暴れるかもしれないとなって、途端に檗は尻込みした。
しかし、聖上の寵姫ふたりが平然と歩いていくので、ついていくしかない。この麗しい宦官は、そっと溜め息を吐きながら、ふたりを追った。
良娣はふてくされ、脚を投げ出すようにして、床に座っていた。逃亡阻止と、暴れられぬように、調度もなにもなくした部屋である。寒々しい床には申し訳程度の筵が敷かれ、良娣はすべての装飾品を奪われ、衣裳も実に簡素であった。所業が所業なので、本来なら別院送りのところ、ここに残されているのは、実家が頑張っているからだろう。太子小保は、娘が捉えられて以来、太極殿の前で座り込みをしているとかで、非常に迷惑だと宦官達がいやそうに語っていた。
ふたりが枰良娣と会うというので、慌てて宮官達が身支度をさせた。顔を洗わせ、口を漱がせ、服をかえたのだ。数日幽閉されているにしては、いやに清潔そうだったので、桍穿耳はそれに気付いた。ただし、武器にされてはたまらぬからだろう、髪は結っておらず、即ち釵の類いもない。「何故、わたくしがあの賤しい女どもに――」
「あら、思っていたよりも元気だこと」
ふたりが帳を避けて這入ってくると、良娣は口を噤んだ。慌てて立ち上がり、頭をさげる。粧っていない枰良娣は無様で、折角の美しい髪は艶を失いみすぼらしかったと、辛辣な評価が史書には記されている。
桍穿耳が傍らの宮官へいった。
「椅子を持ってきなさい」
宮官達が頭をさげて出て行く。すぐに椅子を持って戻り、貴婦人ふたりはそれに腰掛けた。勿論、序列はまもり、柳賢妃が上等な椅子である。
枰良娣はそれを、恨めしそうに見た。桍穿耳は柳緑黛の裱が曲がっているのを指先で直して、良娣を見る。かつて自分もその位にあったことを、彼女は思い出していたのかもしれない。
「枰良娣、わたくし達は聖上のゆるしを得て、ここに来ているわ」
桍穿耳がいうと、枰良娣の眉が激しく震えた。怒りを覚えているらしい。桍穿耳はつんと顎を上げ、殊更ばかにしたふうに続けた。
「なんなのかしら、その顔は。お前、自分がしでかしたことをわかっていないの?」
「なにもしておりません!!」
枰良娣の声は、普段のしおらしい様子はどこへやら、割れ鐘のようだった。柳緑黛が顔をしかめ、桍穿耳は左耳を塞ぐ。枰良娣は感情を昂ぶらせ、ぶるぶると震え、ぶんぶんと腕を振りながら続ける。「まったく、なにも、妾の知らぬことです! 太子妃にはめられたのだわ! 妾を辞めさせようとして……!」
「声が大きいわね。ほんとに元気じゃないの」
桍穿耳は呆れていい、団扇で口許を多う。枰良娣は、ふたりがひややかな眼差しをくれているのに気付いて、口を噤んだ。一歩、ふたりに近付いていたが、足をさげる。
「お前の宮官がしでかしたことでしょう。お前の指示だともいっているのよ」
「嘘ですわ。あれらは太子妃の息がかかっていたのです。妾は存じませぬ。それにあの晩は、あの、殿下に酷く叩かれて、痛くて痛くてたまらなくって、皆に看病してもらっていたのです」
という割に、まだ数日前の出来事だろうに、粧っていない枰良娣の頬は腫れてもいなければ色もかわっていなかった。大袈裟にいっているのは一目瞭然だ。
「あれは太子妃が、妾に嫉妬して起こしたことです。妾が殿下の寵をうけているのが悔しくて、妾に汚名を被せたのです」
「では、お前は、自分が宮官の統御すらまともにできぬというのね」
枰良媛は詰まり、少々考えて、くちばやにいった。
「ああ! もしかしたら朱家が黒幕やもしれませぬ!」
「朱家がそんなことをして、なんの得があるというの」
「それは、だって、朱家は殿下が妾を愛するのをよく思っていなくて」
「太子妃には子が居て、お前には居ないのに?」
特に理由など考えず、単に太子妃の実家だから名前を出しただけだったのがまるわかりだ。しどろもどろになって、枰良娣は余計なことを口走った。
「子どもだって自分で殺したのかもしれないではありませんか」
「はあ? お前、自分がなにをいっているか、わかっているの?」
「あの家は、だって」
ぱた、と音がして、枰良娣は口を噤んだ。
桍穿耳達が目を遣ると、檗が手にした払子を落としている。檗はさも申し訳なげに、そそくさとそれを拾い上げた。綺麗な顔に笑みをうかべ、少女めいた高い声を出す。「失礼をば。どうぞ、お続けくださいまし」
桍穿耳は横目に枰良娣を見る。少々、顔色が悪い。桍穿耳達はそれに向き直った。「あの家がなんですって」
「え?」
「太子妃の子どものことです」
枰良娣の目が泳ぐ。口がぱくぱくと動いてから、声がやっと出た。
「だって、朱家の先代は、おふたかたを認めていなかったのでしょう? きっと複数の妻を持つ男をきらっているんです。わ、わた」
「思い上がりも甚だしい」
柳緑黛が、それはもう、いやそうにいった。あの、大きな切れ長の目で、じとりと枰良娣を見ている。枰良娣はびくついて、一歩さがった。
柳緑黛は、眉を寄せていた。枰良娣を見ている。「お前、自分が殿下の妻だといいたいの? なにをばかなことを。太子殿下の妻は太子妃です」
枰良娣が口をまた、ぱくぱくとさせた。魚のようだ。柳緑黛はぴしゃりといった。
「お前は良娣でしょう。下妻ではないの」
その瞬間、枰良娣は顔をまっかにした。激昂したのがわかって、常から彼女の傍にいる宮官、宦官達は、はっとして身をすくめた。
実際のところ、良娣と太子妃とでは、その立場は大きく違った。儀式で役割があるのは太子妃だけだし、公的な宴に夫婦として出席する場合も、皇帝と皇后、太子と太子妃、親王と親王妃、と決まっている。どれだけ愛されようと、どれだけ褒美をもらおうと、どれだけ父や兄弟や従兄弟が高位にのぼろうと、良娣は世間一般の言葉でいえば、つまりは下妻であった。
しかし、妙に自尊心の高い枰良娣は、それを受け容れていなかった。先程、ふたりをひきあいに出して「妻」としたのも、単に彼女自身が自分を太子の正当な妻と思っており、聖上の寵姫ふたりも同じだろうからこれで同情をひけるだろう、と口にした、おべんちゃらに過ぎない。
枰良娣は口角泡を飛ばして喚いた。
「なにを! わたくしは殿下の妻です! あの肥婢が退けばわたくしが太子妃になるのだもの! 殿下がきっとそうなさるわ! あんなみっともない猪!!」
もはや、口調に気を配る余裕もないようだ。ここまで浅はかな娘だったかと、桍穿耳も柳緑黛も呆れた。宮官、宦官が、あまりにもあまりな内容の喚きに、顔色を失っている。
枰良娣は、きっとふたりを睨み、指をつきつけた。「そういうお前達はどうなの! 婢どもが! 賤しい女の娘と罪を犯した官人の娘が、なにを大きな顔をして、聖上の妻をきどっているのかしら!」
この年若い、世間知らずの娘にとっては、痛打と思える言葉であった。人間、相手をやり込めようとか、相手に損害を与えようとか思って出てくる言葉は、自分がいわれたくないものであることが多い。枰良娣は正式な太子妃ではなく、良娣という身分にされたことを、余程にいやがっていたのだろう。なおもいいつのろうとしたが、彼女が果たしてなにをいいたかったか、後世それを知る術は失われてしまった。
「あら、わたくし達は自分を聖上の妻だなどと思っていなくてよ」
柳緑黛にさらりと返されて、枰良娣の動きが停まった。おかげで枰良娣の愉快とはいえない悪罵は停まったが、果たしてなにをいいたかったのか、気になるところである。桍穿耳達を罵っても平然としているので、聖上を罵ろうとしたのかもしれない。
妃嬪へのとんでもない侮辱に、宮官も宦官も今にも卒倒しそうな顔だったが、宦官がおずおずとふたりすすみでて、枰良娣の腕を一本ずつとる。宦官達に跪かされ、枰良娣は、吃驚したような顔で柳緑黛を見ていた。柳緑黛は肩をすくめる。不思議げな表情をうかべ、桍穿耳を見る。
「先帝に良民に戻して戴けたから、一応は下妻でしょうね。そうよね、桍充媛?」
「そうですわ。わたくし達は、律令格式に則って、聖上の下妻です。とってもありがたいことに」
桍穿耳は枰良娣を見下ろす。「聖上の妻は娘子ただひとり、その座を脅かす愚か者どもはわたくし達が蹴散らしてやりますとも。それが下妻の勤めですわ。主人だけでなく、その妻にこそ、真心を尽くして仕えなくては」
柳緑黛が笑い、軽く手を叩きながら枰良娣へ目を戻した。
「その通り。枰良娣、わたくし達は聖上と結婚したのではないの。聖上と娘子のご家庭に、畏れおおくもちょっとした居場所を設けてもらって、下妻らしく家事をこなしたり、子どもらの世話をしたり、娘子のお話相手になったりしているのよ。なんと名誉なことでしょう! 聖上にお仕えできて、娘子はわたくし達を妹のように可愛がってくださるのですもの。本当に心のひろいおかたなのよ。お前には想像もつかないのでしょうけれど」
声音が厳しいものになった。柳緑黛のあの、大きな切れ長の目に見詰められて、枰良娣は金縛りに遭ったように動けなくなってしまった。
「わたくし達、そんなに思い上がっているように見えて? 失礼ですこと。わたくし達は下妻よ。お前と同じ。賤しい女の娘と、罪を得た官人の娘と、お前の立場はさほどかわりないの」
枰良娣がしゃっくりをした。桍穿耳は気の毒げにいう。
「枰良娣、口を慎んだほうがあなたの為だわ。わたくし達はもう、掖庭局の所属ではないの。官婢の籍からはぬけているのよ。どなたがそうしてくださったか、あなたみたいにお勉強をしているひとが、知らないとは思えないのだけれど?」
枰良娣は呆然としていたが、はっとして、見る間にあおざめた。
「わたくし達は、先の帝に良民に戻して戴いたのよ。お前がわたくし達を婢と罵るのは、先の帝の決定を侮辱しているのも同じ。わたくし達を下妻というのは、本当のことだからかまわないけれど、先の帝を侮辱するのは……お前のさとではそういう教育をしているのかしらね。ともかく、お前のいったことは、すべて聖上へ伝えるわ」
枰良娣が腰を落とした。力なく項垂れ、そのまま泣きはじめる。柳緑黛が小さく、みっともない、といって、立ち上がり、外へと向かう。桍穿耳もそれに続いた。
「元気だったわねえ」
柳緑黛は金簪の位置を調整し、欠伸をした。「つまらない女。悪さをするのに向いていないわ。やっぱり、火事はあの子の仕業でしょうね。おいたわしい郡主のほうは、わからないけれど」
「同意いたします」
桍穿耳はいい、枰良娣の泣き声が断続的に聴こえてくる殿を見遣る。檗が畏まる。
「失礼ですが、どうしてそう思われるのでしょう」
「あれが猪を殺した話は、お前はもう知っているのでしょ」
檗が頷いたのを見て、桍穿耳はいう。
「それが厭勝だったのは間違いないのでしょう。あの子は太子妃を肥婢と見下し、その姓の音から猪と裏で呼んでいた。猪を焼き殺したのは、あの子が太子妃をそうしたかったということ。それでこの間起こったことは? 火事よ。火をかけた。猪を焼くように」
「ああ……」
納得したようなのに、柳緑黛が続ける。
「殿下のご機嫌を損ね、叱られたあの子は、好機だと思ったのでしょう。大袈裟に痛がって、看病をさせた。その間自分は太子妃の許へは絶対に行けない。手の者に命じてやらせた。それだけのこと。まったく、計画性もなにもない」
「勿論それだけではなくってよ。証言もあります。宮官らには嘘を吐く理由はない」
「太子妃の閨房へ火をかけろといわれたが、宮官や宦官が大勢居たので近寄れなかった。それにそんなことをしたら死を賜るだろうと思って、這入ってすぐの間を燃やした、といっていますね」
檗がめずらしくそんなに喋ったので、桍穿耳は吃驚した。柳緑黛が小さく笑う。「あらそう。でも、それくらいはしないと、あの女に笞で打たれるんでしょうね。おそろしい命令をされたのなら、誰かに訴えればよかったのに、ばかな子達。いずれにせよ死を賜るでしょうに」
柳緑黛はいい、桍穿耳を見た。「丹丹、次はどこへ?」
「そうですね」桍穿耳は小さく息を吐いた。「気は滅入りますが、葉珠に話をきくことは必要でしょうね」
太子妃は伏せっている。火事にまきこまれた上、子が居なくなってしまったのだから、そうなっても仕方あるまい。
火事の日まで寝起きしていた殿は、修繕工事中だ。工部の者らが粛々と働いているのを横目に、ふたりは仮に太子妃に宛がわれた殿へ這入っていった。すでに、先触れはしてある。ふたつもの衝撃が襲った太子妃を、先触れもせずに訪問して、驚かせたくはなかったからだ。
太子妃は、這入ってきたふたりに挨拶しようとしたか、牀をおりようとした。控えている医者が停めたので、牀の上で体を起こしただけだった。げっそりと面やつれし、おろした髪はばさばさとして、まったく艶がない。唇の色は悪く、表面はささくれだっていた。
「柳賢妃、桍充媛、このような格好で、失礼をいたします」
太子妃の声はか細い。最初の妊娠前までは、その年頃の少女らしい、ふっくらした頬をして、唇も多少は血色があり、髪もつやつやと光っていた。朗らかな笑みを見せ、礼儀正しく、物静かで口の重たい子だった。今はそれに輪をかけて、口を開かない。つわりの酷さとお産の疲れが重なったか、産後は一気に十歳も老けたようで、皇后も心配していた。
今はもっと酷い。衝撃故か、太子妃の顔付きは、老婆のようだった。
嫁いできてすぐの頃は、柳賢妃が誘って、南海池に船をうかべ、甘藷の蜜を垂らしたつめたい餅を一緒に食べたものである。太子・晌は仲間外れ、聖上も参加をゆるされない、女同士の付き合いだ。餅は皇后が拵えてくれて、漕ぎ手は桍穿耳と数人の宮官が務めた。夏場に二度は、そういう遊びをして、親交を深めていた。太子妃は、南海池の主、鼈の榛を見て、その大きさに驚いていた。少女らしい、素直で、愛らしい反応だった。
秋には蟋蟀を捕まえ、金盒へいれて聖上へさしあげ、菊を摘んで酒にし、冬には四人で紅焼豆腐や蛋花湯をつくって、寒いなか仕事をしている宮官や宦官を労った。春には花見をし、夏へ向けて袗を縫い、官奴婢達へ毎年支給される服や履に不備がないかを確認した。
女同士のそういった、ほのぼのした付き合いのなかで、太子妃は将来の皇后として、様々のことを学んでいた。桍穿耳も柳緑黛も、葉珠は蒲柳の質で気の弱い、優しい子だけれど、きっといつかは立派な皇后となってくれるだろうと思っていた。椿糈玉は、長子晌の妻として、朱蒼児のことを頼もしく思っていた。
一昨年以来、太子妃は塞ぎ込むようになった。顔色は悪く、船遊びや花見、節句の鞦韆やつなひきにも参加しない。枰良娣が来てからは、萎縮していた。朱家と張り合うほどの名門だからか、とってかわられるのではとおそれているようだった。
晌の足が遠のいたのも、太子妃の表情から明るさがなくなっていった理由のひとつであった。晌は、体調の優れない太子妃に遠慮していたのだが、太子妃にしてみれば、枰良娣に夢中になっているとしか見えない。けれど、太子妃は慎ましく、口の重たい性質なので、太子を詰ることすらできない。
桍穿耳が促すと、柳緑黛が優しい声できりだした。
「葉珠、体調の優れないところにおしかけて、悪いのだけれど、火事の起こった日のことをききに来たの」
朱蒼児の眉が、かすかに寄った。柳緑黛は優しく、続ける。
「誰かが、あなたの房の近くを通ったのを、見てはいない? 跫音を聴いたとか、影を見たというのだけでもいいの」
朱蒼児は目を伏せ、膝の上に置いた自分の手を見た。肌がかさつき、血管はういていた。少女の手のようには見えない。
朱蒼児は答えずに、ゆっくりと首を巡らし、窓の外を見る。そこには、彼女の為に用意された、幾種類もの花を植えた院がある。もともと寝起きしていた殿からなら、全貌が見えた筈だ。ここからでは、その隅のほうが幾らか見えるに過ぎない。
「妾はもう、生きてはおられません」
朱蒼児は不意に、そういった。柳緑黛は痛ましげに項垂れ、桍穿耳もなにもいえない。この当時、上流階級といえど、子を喪うことはめずらしくなかった。桍穿耳も柳緑黛も、それを経験している。
めずらしいことではないから、あっけらかんとしてすぐに忘れる女も居る。次の子をまもってくれるよう、きちんと祀ればいいという女も居る。それほどではなくとも折り合いをつけ、しばらくは毎日亡くなった子の為に祈り、哀しみを抱えたままであっても日常へ立ち戻れる女も居る。一年二年と泣き暮らし、生きている子どもの為に、どうにかもとの暮らしらしきものをとりもどす女も居る。
だが勿論、立ち直れないほどの痛手を負う女も居た。めずらしいことではない、誰にだって起こりうることだとわかっていても、それが我が身に降りかかれば、何故自分なのかと嘆くものだ。桍穿耳も、柳緑黛も、嘆き、泣き喚き、納得などできなかった。できるものではなかった。未だにしていない。胸のなかにずっと釘でも刺さっているように、彼女達は常に、喪った子のことを痛みとともに覚えていた。
朱蒼児は真顔で、ふたりを見た。「あの子はどんなにか痛かったでしょう。どんなにか苦しかったでしょう。苦しい思いをさせる為にあの子を産んだようなものです。妾の為にあの子は死にました。最初の子だって……ああ、今すぐ地が割れて、この身を飲みこみ、潰してしまえばいいのに。妾のような女は惨い死にかたをするべきです」
朱蒼児はぶるぶると震え、気を失ってしまった。
朱蒼児はあの日以来、まともに食事をとっていない。医官が煎じた薬だけは、宮官達が無理にでも服ませている。お毒味はもっと厳密になり、椀を底からかきまぜるようにして三口分服み、問題ないとわかってから太子妃にさしあげている。太子妃は日がな一日牀に居て、郡主の服を握りしめ、ぼんやりと窓の外を見ている。
宮官達から報告されて、桍穿耳と柳緑黛は目を交わしたが、すぐに目を逸らした。ぼそりと柳緑黛がいう。
「葉珠にばかり、災難が降りかかっているみたい」
桍穿耳も同意見だったので、頷いた。それから、頭を振って、いう。
「とにかく、あの子にも話はきけました。まだ、会わないとおけない者達が居ます」
「ああ……そうね」
朱蒼児のあれだけ弱った様子を見て、なお調査を続けるというのは、気の滅入る話だが、しかし桍穿耳達はやらねばならなかった。このままでは、おぞましい罪の濡れ衣を着せられかねない。郡主の母が朱家の娘であるというのも、ふたりの立場を悪くしていた。朱蒼児の父は、死ぬまで桍穿耳達を妃嬪と認めなかったのだ。その怨みを娘へ向けた、といわれるかもしれない。
今だって、聖上がもと・官婢を妃嬪としているのは、多くの官人、胥吏から反感を買っている。証拠が乏しくとも、桍穿耳達を内廷から排除できる絶好の機会と、そういう者らは考えている。
この時、桍穿耳達は知らないが、一部の官吏が、ふたりが犯人であるかのような上書をしていた。その数は日に日に増え、聖上はそれを読んでは誰の書いたものか記録させ、文章の出来で順位をつけていたという。
奇矯な行動であるが、後にこの順位をもとに、下らぬ中傷をした者達は失脚・左遷の憂き目にあっているので、聖上なりの意趣返しの、その下準備だったのだろう。事実のみの列挙、加えて文章の出来は一番だった楽客勲だけは、科挙に通ったものの吏部で足止めされていたのが刺史になったので、唯一の昇進であった。その後も彼は二度(『棠書』。『鵄尾子』『卯陰雑俎』では三度)、桍穿耳達について、辞めさせるようにと聖上へ上書したが、文章が巧みなので聖上は笑って終わらせ、働きもよかったので徐々に昇進し、県令で生涯を終えた。
柳緑黛は桍穿耳へ訊いた。「どうしましょうか。次は、誰に話をきくの?」
桍穿耳は少し考えてから檗を向き、檗は目を剥いた。




