三
読者諸氏は、「丹丹と珠絇はどうなったのか」と気にしていらっしゃることであろう。ここで再び、後の桍充媛・桍穿耳と、後の柳賢妃・柳緑黛とが、歴史の表舞台に顔を出してくる。
彼女らは掖庭局の官婢、未だ后妃ではない。よって、皇帝の手もついていない。
手がつくかも、という可能性の話であって、そもそも内官ではなく宮官であるから、その可能性は限りなく低い。それでいうのならまだ存命であった桍穿耳の母や、柳緑黛を我が子の如く可愛がってくれた恩ある宮官がお手付きになってもおかしくはないことになる。もしかしたらそのようなことは起こっていたのかもしれないが、何分階級がものをいう世界のこと、かりにお手付きになったとしてもそれですぐに后妃になるという話ではなかった。
そもそも采女ですらない女人は、まず皇帝に見初められない。お傍にまかり出る機会もない。宦官にしても、余程容色がよくなければ、皇帝の目にとまることは稀であった。
加えて桍穿耳、柳緑黛に関しては、玉を洗ったような美貌に育っていたが、なにせ当時は若かった。その為、太子位の混乱に伴って空位となった皇后や、まきこまれて不興を買い廃された妃達の席に、彼女達が座ることはなかった。
皇帝はこの時、五十に手がかかろうかという歳であり、若くてぴちぴちした少女に食指の動く年齢ではなかったのである。男性諸氏には幾つになっても若いおねーちゃんがいいというかたも居ようが、皇帝というのは太子の時分から美女を大勢宛がわれており、恒常的に各地の名門やらなにやらから美女が供給されているのである。そんなことでは飽きも来る。
あまり女色に溺れては体も壊すし、政も疎かになるしでよいことはない。なので妃はもう結構、と、皇帝は官人達にはっきり宣言した。
すでに、十歳ほどはなれた皇后を立てて裏切られたのが、おそらく皇帝にとっては痛手になっていたのだろう。皇帝は官人達の、あらたな皇后を立てよという更なる訴えに耳を貸さず、太子にと見込んでいた四男に殺された宦官の菩提を弔う為にと、寺や道観をやたらに建てはじめた。
史書によってはこれについて、この皇帝は元来、女よりも男を愛したのであり、奇禍によって死んでしまった宦官こそ本当の掌中の珠であったのだとかいう。当時のことをどう捉えるかは年代にもより、大体十世紀頃にはこの説が有力だったようだ。教科書で目にしたことがあるかもしれないが、かの覆面画家・烏萇先生の、『紫笛を拭う宦官』は、この宦官をモデルとしたものだともいわれている。丸顔の宦官が絹の手巾で笛を磨いているやつである。なんとも暗示的だが、筆者はこれに差別的意図はなかったと断ずる。この小説の時代よりも後代の内官・桂修容の逸話をそのまま流用したものであろうからだ。それはつまり、烏萇先生は宦官・棔を、皇帝の妃嬪のような存在と捉えていたという証拠ではなかろうか。
現在はこの宦官・棔の功労に報いただけであり、恋愛感情はなかったとする説が隆盛になっている。要するに、お上が同性愛を目の敵にしはじめたからであるが、実際に皇帝が棔を想ってつくった詩なども残っているので、少なくとも単なる皇帝と宦官という付き合いではなかったのはそうらしい。筆者は断言を避けるが、皇帝がもっとも信頼していたのは棔であったと考えて、間違いないだろう。
棔については、柳緑黛をおもに養育していた宦官と宮官のなかにもその名前があり、おそらく同一人物であろうが、確証はない。宦官ではなく宮官であるとする説もある。この「棔」というのが名前か名字かはたまた通称か、わからぬからだ。この小説では同一人物説を採るので、ご了承戴きたい。理由は幾らかあるが、一番大きいのは、柳緑黛が一度、皇帝の宴に侍ったことがあるという史実である。
これは信憑性の高い史料複数にのっている逸話であり、疑う余地はない。柳緑黛は美しかったものの、皇帝はその幼さに嫌悪感を示され、褒美に蔗を与えてさがらせたというのだ。何故単なる官婢の柳緑黛が、美貌とはいえ宴に召し出されたかについては、宦官が手引きしたとあるのみ。養育していた宦官・棔が母心のようなものを発揮して、彼女を出世させようと目論んだからではないかと筆者は考える。
棔であれば、官婢のひとりふたり、宴に紛れ込ませることは簡単だ。結果、皇帝がまともな大人だった為に相手にされず、また将来的に……などという約束もなかったので、棔はがっかりしたのではあるまいか。
皇帝は宦官を弔うことばかりを優先し、息子達が醜く争ったことに酷く神経を苛まれていた。目下、心配なのは、太子とした沛王である。
原王は母があのようなことをした為、立場が弱い。とはいえ生まれた時には母は皇后であったのであり、誕生時には母が昭容であった沛王よりも上と見られていた。味方につく者は多かろう。実際、すでに原王を見込んで、幕僚となった者もある。成長し、名門の娘を娶れば、更に勢力は増す。
沛王は淑妃の子だが、長く続いているのだけがとりえの椿家の娘を妃としている。冊立に伴って大慌てで椿糈玉の父や伯父、兄達を昇進させたが、椿家が後ろ盾になるだろうかと、皇帝は気をもんだ。太子妃自身は、賄だのなんだのをはねつける、剛直で聡明な娘であるらしいが――と皇帝は考えていたが、実際のところ椿五娘は、飲み喰いできないものへの興味が極端にうすかっただけである。
やたらに絹だの宝石だのを持ってこられても、さしてほしくもないものをもらえないとつっかえしていた。晌が小さかったのもあり、誤って飲みこんでしまうような危ないものを持ってきたと、賄として玉などを持ってきた官人について、太子に泣いて訴えたこともある。太子は陛下へそれを伝え、その官人は地方の刺史に左遷された。
そのように貴金属などをほしがらなかった椿糈玉だが、かといって、食べものを持ってこられたら、それはそれで要らぬと断っていた。沛王府に居た頃、某家から贈られた乾物がまずく、それ以来庖子や宦官以外の目利きは信用しなくなったのだ。銭を持ってくる者には睨みをくれただけだったという。露骨な賄に、不愉快になったのだとされる。或いは、晌が興味を持って飲みこみでもしたらどうするのかと、怒ったのかもしれない。
太子の後ろ盾、太子の味方になってくれる者について、唸りながら考えていた皇帝が不意に思い出したのが、官婢のふたりである。かつて、太子となった沛王が無責任にも結婚を約束した、官婢が居たではないか。
官婢であるから、後ろ盾もなにもない。しかし、桍穿耳、柳緑黛ともに、性質はよく、女らしく慎ましやかで、宮官や宦官の信望篤い。
野心のある娘を娶らせれば、皇后のようなことをしでかすかもしれない。沢王の妻の実家も、沢王の邪悪な計画に加担していた。内廷の外の者達は信用ならぬ。宦官や宮官が完全なる味方であるほうが、安全なのではあるまいか。数でいえば圧倒的だし、あれらは宮城のことも皇城のことも、なんでも知っている……。
筆者はこれについて、おそらく例の宦官・棔のことも頭にあったのではないかと想像する。信頼していた棔が宴につれてきた娘であれば、やはり信頼できると思ったとしても、おかしくはあるまい。
大勢の皇子達が、ぼろぼろと死んでいったのだ。皇帝は弱っていた。更に、各家から太子・親王に娘をやりたいと、熱心に働きかけられていた。しかし、原王はまだ幼子だし、沛王は官人達の勢いに尻込みしていた。太子妃が居るからと拒んでいた。
それを皇帝は、成程太子も同じ気持ちであるのか、と判断した。余計な外戚を背負い込んで、政治の中枢へくいこむような真似をされたくないのだ、と。
それで皇帝は決めた。桍穿耳、柳緑黛ともに、東宮へ遣る。それぞれ良娣、良媛とする。
宣旨により、桍穿耳は直ちに良娣、柳緑黛は良媛となった。
太子は大喜びした。もともと目をつけていたふたりである。それが、良民となって妻になるのだから、文句などあろうものか。太子は桍穿耳も柳緑黛も寵愛し、襦裙や帯、裱、半臂、上等な襪、履などを惜しげもなく与え、鐶や釧や鐲や璫に鈿瓔、釵に簪に歩揺、団扇など、ありとあらゆる装飾品を贈った。
この時代の女性は、襦という上に着る服と、裙というスカートのようなものを身につけている。裕福であれば襦の袖はたっぷりとしたものになったし、裙も裾をひきずるような格好になった。
汗取りの袗の上に襦をつける。襦はほかの時代と異なり、襟を重ねることなく簡単に羽織っただけのように着て、裙を胸の上までひっぱりあげ、そこで帯を結んだ。賤民や庶人は帯で縛るだけだが、良娣や良媛ともなると、珠や琅玕などのさがった錦の帯をまずまきつけ、その上から紗の帯をまいて縛るとか、珠のぬいとめられた帯をつかうとか、随分凝ったことをしていたようである。裙についても、それにつかう布地の幅は階級が上がる程、また時代が下る程、多くなっていった。財力があれば刺繍など施したし、余裕がなければ布をつぎはぎした。黄色い裙がはやったのはこれよりも百年と幾らか後、柏貴妃がきっかけである。また、下袴をはいていた。
更に、半臂という袖のない上着を羽織ったり、裱を羽織ることもあった。貴婦人が持っているものといえば団扇である。木や竹で骨組みをつくり、蝋引きした紙を貼ってつくられたもので、夏場に虫を追うのにつかわれていた。履は、貴人は布製のもので、先が尖ったようなのをはいていた。内官や、高官の妻や娘、公主達などは、刺繍のなされたものなど豪勢なのを好み、珠や玉で飾り立て、はく際には珠を通した紐などを用いた。余談だが柳緑黛の通称の珠絇の「絇」というのは、履飾りのことも指す。
華やかな服装も好まれたが、この時代は男装もはやった。内官に男装をさせ、撃球をさせて見物したのは、このひとつ前の皇帝である。後世の史家、儒家などは、宗室の源が夷狄であったから(聖祖は祖母が梔子氏である)、などと乱暴な理屈をいうが、豊かで華やかな時代である。単純に、余裕があったからだとは考えられぬものだろうか。同じような理屈で宦官の増加、男娼宿の公認などを槍玉に挙げるが、征服王朝においては宦官は少なく、男娼宿も公認されてはいなかったことを記しておく。
男性は、上は襯の上に袍、下は下袴の上に裾の長い袴をはき、腰の部分で帯で締め、足首部分を紐で括って裾を踏まないようにした。官吏となると、立派な絹の袍を着て、腰には裳をつけたが、これは出勤用の服装、制服のようなものである。高官になると普段も絹の袍だが、裳をつけるのは出勤の際だけだった。
庶民は鞋などはき、上流階級は布製の履を好んだようだが、官吏は別で、革製の靴をはいていたらしい。朝衙の折り、朝堂まで走るのには、丈夫で滑りにくい靴がよかったのだろう。朝衙に限らず、皇城の端から端まで書類を持って移動せねばならぬ場合もあり、やわな布製の履では耐えきれなかったと思しい。
女性でも男性でも髪は長く伸ばし、結い上げていたが、男は階級に応じて帽子や冠を被り、女は装飾品で飾った。女であっても、宮官や内官には決まりがあり、皇后のみ身につけることをゆるされる意匠、妃のみゆるされる意匠など、大変にややこしいのでここでは省く。
桍穿耳は象牙に螺鈿を施した釵を好み、髪はいつも頭頂部でまるくまとめる格好をして、そこから珠の額飾りを垂らしていたという。踊りに通じていた桍穿耳は、宴の席でそれを披露することもあり、激しく踊って簪がぬけると、豊かな髪がふわりとひろがり、宮官や内官達が楽しげに拍手したという。
柳緑黛はそれよりも複雑な髪型をしていて、頭の上半分は結い上げて髷をつくり、歩揺という、稲穂のように金の粒がつらなった飾りを垂らし、下半分はおろして、小さな珠と金をつらねた飾りを幾らも垂らしていた。また、生花を飾るのを好んだそうだ。彼女の髪は長く、膝に届くほどで、量もたっぷりしており、さながら雲のようとうたわれた。
粧いには、紅花、或いは貝殻虫からとった赤を紅とした。黛は墨や、乾燥させたハイビスカスの葉が用いられたという。上等な米の粉を白粉にし、当時はやっていた仏教への帰順をあらわす為に、頬を黄色くすることもあった。
花子といって、えくぼのように頬にちょんと紅をつけたり、額に花びらのように紅をつけるのも、后妃達にはよくあることだったようだ。この時代はその化粧の起こりの頃で、月の障りがあって皇帝の閨房へいけないということを、口に出さずに伝える為の方法であった。後、意味が忘れられ、美しさの為に施すようになる。
桍穿耳は白粉をしっかりはたき、黛も紅もつかっていたが、柳緑黛は紅をひいただけだった。美しさを鼻にかけていたといわれるが、単に彼女の肌の色と米粉では、あまりにも乖離していて、白粉をはたくと妙なことになってしまったのだろう。とはいえ、彼女は紅だけでも充分美しかったそうである。
彼女らのその様子は、多く、詩人にうたわれている。桍穿耳は名に違えず、その耳に紅榴の鐶を幾つもさげていたそうだ。彼女らの顔貌や肌の色を云々していた詩人も、その粧いの華やかさ、趣味のよさには、流石にけちをつけることはできなかった。
おしゃれなふたりなので、太子からの沢山の贈りものは、嬉しかったろう。だが、立場を弁え、奢侈と思える場合は理由をつけて冷静に断り、返した。控えめというか、バランス感覚のあるひと達だったようである。太子もまた、断られたくらいで腹をたてたり臍を曲げたりする小物ではなかった。むきになることもなく、ではかわりにと、装飾品と比べればかなり値の下がる甘藷や栗など贈って、ふたりを喜ばせた。
太子は積年の想いが成就し、それも陛下の命での結婚というので周囲も文句をつけず、なんの不満もなかった。桍穿耳や柳緑黛をつれて、禁苑へ散策に行くこともあったそうだ。
一方の太子妃だが、ふたりを排斥することもなければ嫉妬することもなく、太子並の喜びようでふたりを迎えた。椿五娘のあまりにも鷹揚な様子、おっとりとした言動から、当時の世人は彼女を愚かだときめつけた。史家の大半は違い、男を立て慎ましい、女らしい立派な言動だと誉めた。
しかしどうも、筆者の調べた限りでは、椿五娘はただ単に、歩けるようになってその辺を動きまわり、小さなものを片端から口にいれようとする晌の遊び相手が増えたので、喜んだようである。もともと嫉妬ややっかみというものとは無縁の性質で、我慢して慎んでいたのでも、無理に嫉妬をおさえていたのでもない。心底から、子どもを見張る人員、一緒に遊んでくれる人員が増えたと、それを喜んでいたのである。母は強しというやつであろうか。
良娣となった桍穿耳、良媛となった柳緑黛は、いつなにがあるかわからぬ官婢という立場を脱し、おまけに、どうせ口先だけだろうと諦めていたかつての約束どおりに美男子の太子に迎えられて、彼に夢中だったし、あたたかく認めてくれた太子妃には礼を尽くした。晌の遊び相手も積極的に務めたという。桍穿耳も柳緑黛も、晌には何度も噛みつかれ、これだけ食欲があるのならばきっと立派な壮丁になるだろうと笑っていた。
普通、ひとりの男が妻だけでなく数人の媵も持てば、もめごとは日常茶飯事となる。掖庭でも絶え間なくもめごとが起こっているのがあたりまえだった。
だが、椿五娘の絶望的なまでの暢気さがよかったか、桍穿耳の危険を敏感に察して決して近寄らない聡明さがよかったか、柳緑黛の庇護欲をそそるへつらいのうまさがよかったか、三人の仲は極めて良好であった。
太子妃は度々、胡餅や捻頭を拵えてはふたりを呼んで一緒に食べ、晌がふたりに懐くので喜んだ。甘藷の蜜を陛下から下賜された時には、かっきり三等分してふたりと分けたという。嫉妬もないし、賤流に対する忌避感もないようだった。頭が鈍いととるか、懐が大きいととるか、いいひとと思われたくて必死ととるかは自由であるが、筆者はどれも違うと思う。椿糈玉にとってふたりは、同年代の女友達のようなものであったのだろう。桍穿耳、柳緑黛も、太子妃を立て、太子妃よりも豪華な装飾品や衣裳は断じて拒み、太子や陛下からお菓子や蜜などの下賜があれば、太子妃の許へ持っていって献上した。太子妃はそれを三等分して、女三人で分けたという。
このような話がある。ある時、太子が些細なことで太子妃を詰った。僧侶朮峰と、太子の叔母である恵楽長公主との醜聞があった頃だから、太子もなにかと心労があり、いわずもがなのことをいったのであろう。その子細は伝わっておらぬ。
太子妃が目に涙をうかべると、太子は途端におろおろしだした。太子妃が泣き出したと思えば、声をききつけた桍穿耳と柳緑黛がのりこんできて、口々に太子を罵った。柳緑黛にいたっては、詳細を聴き、激昂して太子の冠をひっつかみ、とりさったという。これは当時の感覚では大変な侮辱で、ふたりの身分の不均衡を考えれば、柳緑黛はその場で殺されていてもおかしくはない。しかし太子は平謝りで、驚いた宦官達がかけつけると、ざんばら髪でその場へ這いつくばっていた。桍穿耳が非常に厳しい調子で、それを諭していたという。
宦官を経由してことの顛末を聴いた陛下は、太子の過ちを諫めたのはあっぱれであると、桍穿耳、柳緑黛ともに、褒美として絹を三十疋ずつ下した。また太子妃には、不出来な息子のかわりに償いたいと、凝った意匠の金の鐲をみっつ下賜した。太子が杖で十回叩かれたとも伝わる(『鵄尾子』)。
太子が太子妃を、どんなことを持ち出して詰ったかについて、史書は口を噤んでいる。陛下の指示で、これは記してはならぬと削られた部分だそうだ。ことの顛末を見れば、これは完全に太子の失言で、椿糈玉に罪科があるような話ではないのだろう。椿糈玉の名誉に関わることらしいので、筆者も詮索はよそうと思うが、史家の多くは、椿家の機を見るに敏な性質か、椿糈玉当人の大食ぶり、或いは例のかわった声を詰ったのだろうという。
なお金の鐲は、太子妃が桍穿耳、柳緑黛にひとつずつ選ばせて与え、残りを自分が身につけた。陛下は太子妃が優しい心でもって、桍穿耳や柳緑黛に下賜品を分け与えているのを知っており、その為鐲もみっつくだされたのだ。桍穿耳、柳緑黛も、絹を十疋ずつ太子妃に奉じ(ふたりは十五疋ずつさしだそうとしたが、「六十を三等分するくらいの計算はできる」と冗談まじりに減らされたという)、太子妃はそれで、三人分の襦裙を仕立てさせた。余った絹は、晌の服になった。皇帝からの下賜品を分けるのだから、表向きだけ良好な付き合いなどとはいえまい。
女三人の絆は強く、そして三人ともが太子を非常に愛していた。変わり者の太子は相変わらず、晌が喋ったらはやすぎると怒り、経書に興味を示せば赤子の読んでいい内容ではないと諭し、子どもはその辺を転げまわっていればそれでいいのだから無理に歩かせるななどと、妙なことをいっては宦官や宮官の頭痛をひき起こした。柳緑黛が、では殿下はまだ赤ん坊だから歩かないでくださいといい、桍穿耳は幼い頃から経書を学ぶと殿下のようになるのだったら辞めさせたほうが宜しゅうございますねと続いて、こらえきれずに笑った宦官・樟が太子のお気にいりになった。
東宮の空気はそのように、非常に穏やかで和やかなもので、配属された宮官も宦官もそれを喜んだという。なにせ太子妃が暢気なので、竹篦を持ち出すようなことがない。口では注意するけれど、暴力に訴えることがないのがこの三人の女であった。桍穿耳と柳緑黛に関しては、少し前までは竹篦をおそれる側だったから、気が咎めたのだろう。椿糈玉は諍いにまきこまれた従兄弟が横死しており、暴力をきらっていた。
問題なのは太子のほうで、失態を犯したものに妙なことをさせる。なぞなぞを出せといってみたり、自分と服をとりかえろといってみたり、泳ぎの腕で競おうといってみたり、奇矯である。宦官の樟は太子の趣味である水泳に付き合い、溺れて太医署へ担ぎ込まれた。泳ぎに関しては、鼈の榛が太子の一番の友だったようである。
穏やかな環境の許、晌はすくすくと育っていった。二歳になる頃には、桍穿耳が経書を読んで聴かせるようになり(これに太子は不機嫌であったという)、柳緑黛は笛や箏を教え、椿糈玉は毎日、桍穿耳と柳緑黛と晌が一緒に食べられるよう、工夫しておやつを拵えた。
普通、こういった養育は宮官、また宦官の仕事の領域である。長じて太子、また皇帝となる可能性のある男児だから、母親とのつながりが濃くなるのは防ぎたい。幼子が君主となれば、母親が幅をきかせ、驕り高ぶって淫乱に走り、利益を貪りに外戚が続々のりこんでくる。まったく、どの王朝でもありがちな情況である。
が、太子妃は当然のように我が子を我が手で育てようとしたし、桍穿耳と柳緑黛はかつて掖庭に居た頃のように、幼子を慈しむ気持ちで接した。宮官も宦官も桍穿耳と柳緑黛に心酔していたから、三人のすることには口をはさまず、異例の体制がとられた。
陛下もそれをよしとし、これに関しては高官がなにをいおうとも耳をかさなかった。椿家が忠実な犬のように大人しく、出世した椿糈玉の父や兄達も決して驕らず、粛々と職務をこなしていたのも大きい。椿糈玉も大人しく、嫉妬やなにかとは無縁の性格だが、椿家の一族皆がそうであったのかもしれない。
ちなみにだが、椿家にあるまじき野心を持った椿糈玉の甥も、椿糈玉の太子妃冊命に伴い出世しており、次第に横柄な態度をとるようになったことから、椿糈玉の伯父にあたる当時の椿家の家主に何度も注意されている。それでも態度があらたまらなかったが、ある時姿を消し、その後行方知れずだという。
この失踪事件には、椿家の家主が一枚噛んでいるようだ。どうも、椿家は家の存続を怪しくする存在を、内々で処理することを続けていた一族であったらしい。
しかしこれは、筆者の憶測が多分に含まれていることは、ご承知戴きたい。なにぶん史料が少ない。中原の椿家で一番の出世を果たしたのが椿糈玉であり、王朝の深くにくいこむような活躍もなければ不祥事も起こさないのが椿家なので、史書になかなか登場しないのだ。
ただ、その少ない記述のなかには、その代の出世頭が頓死したとか、今にも正五品になれそうだった者が誤って毒を口にして死亡、家から多量の金銭が出てきた為、遺族がそれをすべて寺へ寄進したとか、疑わしい逸話があるにはある。出世しそうなタイミングで死んだり行方不明になったのは、その者だけではなくて、ほかにも数名居る。病死が多いが、うっかり崖から落ちたとか、うっかり落馬したとかもある。とはいえ早死に、またうっかり者の家系ということも考えられるし、一概にはいえない。
なにはともあれ、天命が革まろうが戦があろうが時の聖上に誠実に仕える大人しい一族として、細く長く、その家門は続いている。その為か活躍する者が少なくとも、時折史書に顔を出す。
椿糈玉も椿家の精神を持っているようで、彼女の権勢を恃んで官職を求めてきた姉の夫に、山椒の粉をぶっかけて追い払ったなどという猛女のような話もあった。柳緑黛の父親とされる柳某の息子達(柳緑黛の腹違いの兄弟ともいう)が、柳緑黛に会いたいと、宜陽里にある彼らの家に招いた時には、柳緑黛とともに椿糈玉もあらわれ、もてなしの食事やなにかに一から十まで強烈な批評を加えて、昔追い出した腹違いの柳緑黛に職官をねだろうとしていた柳家のばかどもはひたすらはじいったという。これらは『鵄尾子』による。政治的な不正、腐敗というものに対しては、嫌悪感を示す一族であるのだろう。
さて桍穿耳達であるが、東宮へうつってからあまり時を置かず、桍穿耳が懐妊した。更に椿糈玉がふたりめを懐妊し、どちらも女の子だった。桍穿耳の子は十駕、椿糈玉の子は潟と名付けられた。少し遅れて柳緑黛も懐妊したが、残念ながらその子は死産であった。後、諡して倉海公主というが、名は伝わっていない。
太子の子、陛下の孫たる晌は、三歳になる頃には経書を自力で読むようになった。血のつながった父母を第一に敬ったが、官婢出身の庶母らを蔑むことはなく、それどころか非常に懐いていたし、母として扱い礼を尽くした。長ずるにつれ、その敬愛はなお深くなっていった。桍穿耳、柳緑黛ともに、椿糈玉を第一に立て、でしゃばることのない性格だったので、晌の反感を買わなかったのだろう。晌にとってみれば、経書について話せるし、時には隠れてお菓子など一緒に食べる、優しいおばさん達であった。
柳緑黛が夏場に肺を病んだ時には、魚の形をした玉を贈り、それを口に含んでいると柳緑黛の症状は幾らか治まったという。桍穿耳に関しても、凍傷から膿んだ手のその膿を吸い出してやったという話が残る。また長じてから、ふたりの容貌について不躾な詩をしたためた詩人達を宴へ呼びつけ、こてんぱんに辱めている。晌は敬愛する庶母達を貶された怨みを晴らしたかったのだろうが、この為に詩が後世に伝わったのだから、皮肉なものである。
桍穿耳、それに柳緑黛、どちらが懐妊しても、まずまっさきに祝いの品を贈るのは晌であった。また彼は、椿糈玉、桍穿耳、柳緑黛の誰が懐妊しても、等しくその安産を祈り、市内の仏寺や道観に寄進した。母親違いの妹や弟が生まれれば一緒に遊んでやり、時には負ぶうてやることさえあった。桍穿耳の娘・十駕が五友郡主に封ぜられる折りには、祖父である当時の陛下に、壮丁の多い戸を優先的に与えてほしいとおねだりしている程である。これについては通ったものの、数年後に十駕自らが半分返している。
読者諸氏はお気付きかもしれないが、晌こそ後の太子、例の事件の当事者のひとりである。龍鬚上将という特別に設置された官をもらったあの太子だといえば、わかるかたもいらっしゃるだろうか。
覚えておいて戴きたいのは、史書を読む限り、桍穿耳も柳緑黛も、前述のように晌との仲は良好であった、ということだ。桍穿耳と柳緑黛はでしゃばらず、晌はふたりを庶母として敬い、愛していた。この時代のことを論ずるにあたり第一に信用度の高い史料とされる『棠書』でも、評判の悪い『鵄尾子』でも、それはかわらない。
あの、掖庭そのものに憎しみめいた視線を向けていた吏卒詩人・森麗も、桍穿耳達に感激して詩をつくっている程である。後の柏貴妃のことはけぎらいしている森麗が、である。彼の目には、ふたりは慎みぶかく己の領分からはみでない、嫉妬をせず良人の妻を心の底から敬愛する、心根の綺麗な女性達と見えていたのだ。
もし読者のなかに、桍穿耳と柳緑黛について、晌につらくあたっていたとか、晌を冷遇していた、晌に刺客を差し向けたなどという印象をお持ちのかたがいらっしゃるのならば、それはすべて後世の創作の責任である。
桍穿耳、柳緑黛ともに、男児も得ている為に、晌の存在が邪魔であったと設定した無責任な小説は、すでに十二世紀頃からあらわれている。『沌海演義』『銀草絶』など最たるもので、桍穿耳と柳緑黛をひたすら悪者として描き、淫婦として徹底的に貶めた。
これらの作品群の取材不足は嘆かわしいほどで、太子は皇后の子で生まれた時から太子だったとか、桍穿耳がお大尽の娘で柳緑黛が官人の娘であるとか、嘘八百を平然と並べ立てている。椿糈玉にいたっては、晌を産んでまもなく騙されて死んだなどという、開いた口の塞がらないようなおそろしい事実誤認を、さも史実のように書いている。これがうけて芝居になり、人口に膾炙していったのだから、腹のたつことだ。椿糈玉は晌を産んで後も生きていたし、その後も数人の子を産んでいる。
重ねて書くが、晌は桍穿耳、柳緑黛の両庶母には懐いており、礼を尽くし、庶母達も晌を慈しみ、晌の世話をなにくれとなく焼き、自分の子が晌の座を脅かさぬよう、慎むことを第一に教育を施した。それが史実である。
桍穿耳達が太子の許へ行って十年ほど後、陛下が崩御した。后妃達は髪を落として多くが道観へはいり、陛下の晩年のよき話し相手だった宮官は志願して、陵墓をまもった。殉死はゆるされず、数人の宮官は太子がその身分を回復し、縁談をまとめて嫁がせた。太子が玉座へ座り、太子妃はそのまま皇后となった。太子の母、すでに歿していた淑妃は、水光皇后を追贈された。
順当に行けば、桍穿耳も柳緑黛も妃に冊命される筈だったのだが、ここで桍穿耳の父のことが蒸し返された。官婢だった者らを妃にしてなるものかという勢力が動いたのだ。その為、はじめ桍穿耳は才人、柳緑黛も宝林という低い身分にされた。
また、沛王の男児はすべて皇子とあらため、晌が太子となった。女児は郡主から公主となり、封戸も増えた(五友公主はじめ、桍穿耳と柳緑黛の娘らはこれを拒んだ)。
その後、太子あらため聖上は、奇矯な言動が嘘のような、堅実で善良な政をしたので、その名声は社稷にとどろいた。明君ぶりに、官人達も段々と、聖上を心から敬うようになっていった。
そうやって足場をかため、皇城内での発言力を増すにつれ、まず柳緑黛が昇進し、続いて桍穿耳も昇進した。これは男児を産んだのがはやい順であった。官人ならば功績で出世するのだが(へつらいによって出世するものもあるが)、后妃は寵愛の度合いと、男児を産んだかどうかで出世するものであったらしい。
ただ聖上は、皇后、桍穿耳、柳緑黛ともに平等に愛しており、桍穿耳と柳緑黛については妃に封じたいと思っていたのだが、それに対してだけは官人達の反対が凄まじかった。
皇后となった椿糈玉は、ふたりが妃になるにはどうしたらよいかと兄に相談し、兄が椿家の力のなさを嘆いたという話が伝わる。椿糈玉の父、兄、弟、従兄弟達は、椿糈玉の皇后冊命に伴い、更に昇進して高位にあったし、母と姉妹も夫人になっていたのだが、もとが気の小さい不正の苦手な一族である。根回しとかなんとかが上手な訳もなく、聖上と高官が、桍穿耳達の冊命についてもめているのにも、おろおろするばかりだった。
柳緑黛を賢妃に冊命できたのは、まったくもって奇跡的なことだったようだ。たまたま、高官のなかでも先帝の代から功績のある、析功というのが賛成にまわった。聖上はこれさいわいと、一気呵成に柳緑黛を賢妃に封じてしまった。析功が何故柳緑黛の味方についたかだが、なにを隠そう、柳緑黛が八歳の頃囲碁で負かしたのが析功なのである。斯様に聡明な女性ならば生まれは関係ないと、析功は考えたようだ。析功はそのあと、特別な褒美として、榧の碁盤と、象牙と翡翠の碁石を賜った。意地の悪い史家は、官婢に負けたことを、若かりし日の賢妃に負けたといいはりたい為にやったことだという。
その後、桍穿耳も充媛となり、太子は名門の娘を娶って子もでき、聖上は善政を敷きその威光は天下にとどろいていたのであるが……。




