二
皇后は沛王の実の母ではなく、また、かわったところはあるものの活発で武に通じ、更に経書をほとんどすべて暗誦できるような賢い沛王を疎ましく思っていたので、力の弱い嫁がほしかったのである。
皇后自身については、筆者は批判的に見てはいない。継室で、慎ましやかに陛下に仕え、男児を産んだ、皇后らしい人物である。自らの父や兄に官職を与えるよう陛下にねだるのも、当時としてはおかしなことではない。寧ろ、それをしなければ親不孝のそしりをうけた。
家柄のいい彼女が、自分の子は太子になって当然、その座を脅かしそうなほかの皇子達は成る丈冷遇したい、というのも、普通の思考である。なので、皇后らしい皇后であったといえよう。この時期までは。
瑕疵のない皇后に睨まれたくない椿家は、皇后の意を汲んだ。
政治的な均衡であるとか、力関係に敏感で、なにより不正を病的な程にきらったので、椿家は傑物がおらずとも長い間生き延びてきたのだ。有能な太子の母である皇后として当然の動きに、異を唱えるなどありえない。それで、沛王に釣り合う年齢の娘のなかでも、いつもにこにこしているだけで気迫もなければ威厳もなく、興味といえば美食ばかり、丈夫な体と饅頭のような福々しい顔だけがとりえの娘を沛王へ嫁った。
椿糈玉、椿五娘とも粿粳とも呼ばれ、幼名は鯢子。椿家庶流の三女である。凰爾六年の生まれであるというから、鷂鵲元年生まれの七公子より二歳上だ。
椿家といえば南柎朝の椿義臣が有名だが、それとはなんの縁もゆかりもない、中原で細く長く続いてきたほうの椿家である。時代は異なるが、かの勇将・枇炎に嫁いだのも、この椿家の娘だという。
正七品から九品辺りを永遠にうろついているような、気が優しく真面目で不正に手を染めず、それ故にうだつの上がらない男達と比べれば、この家の女達には箍が外れたようなのが幾らか居て、その為に後世に名が残っている。ごく真面目な吏卒の父・兄弟・伯叔父・従兄弟達が、彼女らを優しく養育したからともいえよう。椿糈玉もまた、庶流の娘なのだが、家主からも可愛がられていたようで、おかしな行動もゆるされていた。
椿糈玉は、福々しい体付きと福々しい顔で、おいしいものの大好きな、なんとも暢気な娘であった。
趣味は散歩と美食、名門の娘らしくなく自ら厨に立つこともあり、まだ十歳と少しだったのにその腕前ときたら庖子も顔負け。女らしくなく胡服を身にまとって馬にのり、買い求めた食材をのせて東市から邸のある永寧里まで、のんびり走ることもあったという。大口を開けて笑い、両手で鷲掴みにして胡餅を食べ、猿のように木登りして木の実をとってくるし、弟達と一緒に撃球まで楽しんでいた。令嬢としてはまあ、だいぶ落ちこぼれの類いである。
椿家の家主はしかし、病になってもすぐにけろりとしていて、怪我にも怯えない彼女を、頼もしい娘だと誇っていたようだから、どこか妙な一族であったのかもしれない。
とはいえ、政治的になにかできる娘ではないと判断はしていたようで、その為に七公子の妃にとさしだした。健康で子どもを沢山産めそうな、いつもにこにこしている暢気な妻のほうがよいであろう、と思っていたとも伝わる(『棠書』后妃伝)。どちらにせよ、政治的には無能であると思われていたのは間違いないようである。
椿五娘は、七公子といえ、殿下に嫁ぐことなど考えていなかった。どこかの士族に嫁ぐか、褒美だとかで家主の配下の胥吏に与えられるか、功臣の後添いなどになるかするのだろうと思っていたのだ。
その為、ふってわいた話に怯え、嫁した当初、福々しい顔からはめっきり笑みが消えていた。項垂れて、趣味の料理も乗馬もせず、溜め息を吐いてばかり。思い出したように食事をとるが、実家に居た頃のような食欲もなく、豊かな体付きは徐々にほっそりとしていった。当時はふくよかな女性がもてはやされた時代なので、口さがない幕僚達が、たったひとつの魅力も搔き消えたといったそうだ。
七公子は絵に描いたような――否、絵にも描けないような美しい男児であるが、椿五娘は怯えていた。相手が美男子でも関係などない。ほんの少し前まで見も知らなかった、歳下の男児である。おまけに信じられないほどに位が高い。
椿五娘の父は当時、承議郎行国子助教。春秋二期に支給される禄は百斛、月俸は二千文である。椿家の家主とて、そのひとつ上の朝議郎太学博士であった。椿家は当時、学問を云々する役職についているのがほとんどで、椿五娘の兄、従兄などは、国子学の学生であったようだ。庶人と比べれば豊かな暮らし向きであるが、士族としては下級といってさしつかえなかった。一品官は禄が七百斛だから、比べものにもならない。
ちなみに、精白米が一升(当時の一升は約1.6ℓ)で二十から三十銭、一斛は十斗=百升。安く見積もっても、銭に換算すると一品官は千四百緡(一緡は千文)、椿五娘の父は二百緡となるので、桁違いである。月俸も、一品官は八千文であった。
更に諸経費も支給されるが、この大都市にあって、奴婢や使用人を置き、出勤に便利なように皇城近くの坊に居を構えれば、出ていくものは多い。椿五娘はそれなりに裕福だったが、毎日三食豪勢な食卓を整えられるような暮らしではなかったと思ってもらえればよい。
七公子は沛王で、文字通りに格が違う。椿五娘が嫁いだ為に、父が昇進することが決まったが、彼女自身はひたすら萎縮していた。一緒に食事をとるのもおそろしければ、同衾などとんでもない。
七公子のほうも、面白くはなかった。掖庭に居る美少女ふたりと遊び、甘藷の蜜のかかった油条など食べ、楽しい時間を過ごすのが好きだったのに、それをとりあげられたのだ。面白い訳がない。
成婚に伴い、沛王府がひらかれ、彼は幕僚とともにそこで過ごすことになった。内廷から追い出されていたのである。饅頭のような顔の怯えた妻と、口を開けば勉学々々と煩い幕僚達に、沛王は鬱屈としていた。
ある夜のこと、寝付けなかった沛王は閨房を出て、世話係として王府へつれてきた宦官を複数従え、院を歩いた。と、厨から灯がもれている。さては奴婢のつまみぐいかと、さほど面白くもない一日を過ごしていた沛王は、足どり軽くそちらへ向かった。酷い話だが、この時代の上流階級の楽しみには、奴婢をいじめることも含まれていた。時代の価値観であるので、それらは成る丈枉げずに描写する。ただし沛王の場合、これが事実奴婢の失態であったとしても、どう転んでいたかはわからない。後述するが、この皇子は妙な人物だからである。
ひょいと覗きこめば、妻が饅頭を拵えている。
饅頭のような顔、と思っていた椿五娘が、真剣に饅頭を拵えていたので、沛王はこらえきれずにふきだして笑った。それで、椿五娘は郎君に気付き、さーっとあおざめた。昼間、食の細っていた彼女は、夜半に目を覚ましては厨でなにがしかのものをつくり、食べるのが癖になっていたのだ。
縮こまる妻を見て、沛王はおやっと思った。饅頭のように不器量だと思っていたが、よくよく見てみればそうでもない。いや寧ろ、美人だ。くるくるした大きな目に、方額広頤、雅やかな眉、ふっくらした頬。ちょこんと小さな鼻ばかりに目がいっていたが、全体を見てみれば美人であった。豊かな髪も、女らしい。背が高いのもいい。簡素な寝間着で、少々痩せたといえまだまだふっくらした体付きがわかった。成程、怯えていなければ可愛い子なのだなと、沛王は納得した。
それで、沛王は厨へ這入りこんだ。宦官達が椅子を用意し、沛王はそれに座って、饅頭を寄越せと妻へ要求した。正六品の娘が、親王に逆らえようものか。椿五娘は怯えつつ、蒸かし終えたばかりの饅頭を殿下へ奉じ、社稷一番の美味との讃辞を戴いたのである。
その後、急速に夫婦仲は深まった。
椿五娘の拵える饅頭や、燉、羹、胡餅などはどれも美味で、沛王はそれを食べたがった。椿五娘も、拵えたものをうまそうに平らげる殿下に、愛らしいものを覚え、次第に緊張も解れた。良人の好みをさぐりだし、工夫して韮菜炒肝片や浄蛋炒飯なども器用につくっては、七公子から庖子よりもうまいとの褒め言葉をもらった。
そもそも、椿五娘は随分な美人であったらしい。『棠書』后妃伝及び『鵄尾子』によればそうである。七公子の前に縁談がひとつもなかったのは、椿家が大した家柄ではないこともあったろうし、その辺転げまわって遊ぶような活発さ、子どもっぽさがきらわれたのだろう。
椿家が『棠書』著者の柳貢や、『鵄尾子』の著者・椒蘭腊(椒蘭乾骼)にそこまで気を遣われる程の家かといえばそうでもないので、実際美人だったのは間違いない。桍穿耳や柳緑黛のように、同時代の詩人にほとんどよまれておらぬのは、彼女が女としての位を極め、詩人としては扱いにくい題材であったからだ。誰しも、聖上の不興を買って処罰されるなど、ご免だろう。
椿糈玉は美しい女性だったと伝わるが、ただその声は、「鹿か雉のよう」或いは「猫の苦しむさまに似る」とも記され、どうもかわった声をしていたらしい。当人、はずかしがって口をきかぬこともめずらしくなかったともいう。
厨をのっとられた格好になり、しかも七公子がやたらに誉めるので、庖子達は面目を失った。それで最初の頃こそ椿五娘を恨み、声のことを悪くいうこともあったが(『棠書』)、福々しい顔でいそいそと良人の食卓を整えているのを見ているうちにいつしかその怨みも消え、健気で愛らしい少婦を、彼らは次第に応援するようになった。
幕僚達も、七公子がいつ、掖庭から丹丹と珠絇をつれてこい、などと無理をいうか、怯えていたので、殿下が椿五娘を愛するようになってからは、ほっと胸をなでおろした。やはり、男の心を掴むのにはうまい喰いものが必要であるらしいと、知ったような口をきいていたものである。
椿五娘はまもなく懐妊し、沛王は喜んで、立派な揺籃や沢山の褓などを用意させた。やっと完全に官婢から心がはなれたと、幕僚達は喜んだ、その頃だ。京城を疫病が襲ったのは。
感染力の強い疫病であった。
ただ、理不尽というか、当然の帰結というか、栄養をたっぷりとっている上流階級の多くは死を、或いは感染すらも免れ、死んだのは賤流か、庶人達がほとんどであった。天街にまで誰にも弔ってもらえない遺体が多数遺棄され、烏や野良犬がたかり、さながら地獄の様相を呈した。篤志家が私財を投じて炊き出しをし、悪辣な金持ちが薬を買い占める。有名な筋斗伎が死んで詩人がそれを詠み、金吾衛で集団感染が起こって上好坊へ遺体が運ばれる。
感染者の服を焼く、遺体を街の外へ出すなど、対策はとられた。施粥も行われた。副都からの支援物資も届き、疫病の嵐がようやっと収まってきて、家族に犠牲の出なかった皇帝はほっとした。
ところが、天は皮肉なことをなさるもので、城内がほとんどいつもどおりに戻ったところで、太子が病を得た。太子として、寝る間も惜しんで働いていたのが祟ったのだろう。そのままはかなくなられ、太子位は空席になった。諡して綾安太子という。著名な星霜図の陵墓は、綾安太子のものである。
当時の陛下には、男児が七人うまれていた。
長男・呉王はすでに歿し、体の弱い次男が太子だったが病歿。
三男・秦王、四男・沢王、五男・魏王、六男・許王、そして七男・沛王。
更に、皇太子の死後すぐに生まれた八男・原王も、すぐさま政争にまきこまれることとなった。このうち、鬼籍にはいっている以前の皇后(富泉皇后)の子が長男と五男、死去した綾安太子と原王が時の皇后の子、沢王は妃の子で皇后の養子である。三男は才人、六男は修容の子で、沛王は淑妃(太子誕生時には昭容)の子だ。
有望だったのは、四男沢王だ。病歿した母は妃(正確には、生前は昭儀であったが、死してのちに追贈された)、幼くして皇后の養子となり、名門から妻を迎え、監国を務めたこともあった。皇后には実の子である綾安太子が居たが、いざという時の為に沢王も確保していたのである。沢王にしても、皇后の後ろ盾はありがたかった。
三男は沢王よりも歳が上で、学もあり温厚篤実で明君の器といわれていたが、母親は官婢出身の采女だったので、見込みなしとされた。流石に母が采女では、皇后も目をかけてやらなかったらしい。三男・秦王の母は、男児を産んで采女になっただけで、それ以降昇進することはなく、産後しばらくして亡くなっている。追贈もなかった。秦王となっているのは、破格の待遇であったのだろう。
五男六男はそれぞれ、数年前に不祥事があり、すでに京城から遙か遠くへ流されていて、望みはまったくない。五男は手頃な大きさの石を投げて賤民を殺すという悪癖があり、六男は女とみれば見境がなく、四男の妃を犯して自殺に追い込んだ。これを戻して太子になど、できる訳がない。
これらの所業は資料価値の低い、枳荊による『風天花後伝』からの引用であるが、まったくなにもないところからわいてでた話ではない。五男六男については、その性暴虐にして周囲を顧みることなく、酒食にふけり淫蕩であったと、なにをしたかはともかく信憑性の高い史料達でも口を極めて罵られているので、実際素行の悪い者らではあったのだろう。
また、沢王の妃のひとりは実際に「憂死」しており、情況から許王との関係を咎められて死を賜ったものであるらしい。無理矢理であったのか、同意の上の不倫であったのかはわからぬが、兄の妃に手を出すのが問題行動なのは間違いない。叡明年間に著された著者不明の『旄頭』には、魏王が殺し損ねた奴婢の語った話というのがのっている。それが事実かどうかはともかく、魏王が死んで百年経たずにそういった言説が本に書かれるのだから、民に好かれた親王でなかったのはわかる。
さて沛王は、難しい立場になった。王府を構え、朝衙にも参加しているし、なにしろ家族のことである。重いあしどりで皇城へ参ると早速官人につかまり、陛下の相談相手としてとめおかれることになった。
秦王か、沢王か、の問題は長引いて、その間に椿五娘は長男・晌を出産した。彼女が十六歳、沛王は十四歳であった。おそろしいほど安楽な出産であったという。あっという間にこの世へ出てきた晌は、まるまるした立派な男児で、母譲りで喰い意地がはっており、乳をやってもやっても泣くので乳母が数人必要だった。彼の人生において、最も多くの女性と交流があったのが、この頃である。
残念ながら、太子位についての紛糾はまだ終わっておらず、沛王は出産の報せを皇城で聴いた。名は、男児であれば晌、女児であれば潟と決めてあったので、さて幼名は、などとまだ見ぬ我が子の顔を想像して、沛王は胃の痛い話し合いをのりきった。
またしても急転直下が起こったのは、その直後のことである。秦王がなにを血迷ったか、沢王を襲撃しようとした。太子になりたかったようだが、それにしてはお粗末な計画であり、当然だが秦王は捕らえられて配流となる。順当な処分であった。この事件については、楓生仁先生の説が正しいように思う。秦王は沢王に挑発され、沢王の息のかかった幕僚にそそのかされて兵を挙げたのだ。
ところが沢王もまた、王府に武器をためこんでおり、尚書左僕射襲撃を計画していた。襲撃対象になったのは、沢王立太子に反対している派閥の大物だ。襲撃計画を知った宮官と宦官五人ずつを殺し、手下の官人数人とともに遺体を遺棄した。集団で無理心中したように見せかけたとある。
しかし、被害に遭ったそのなかに、陛下お気にいりの宦官・棔が居たものだから、陛下は烈火の如く怒った。そうして、棔が女と死ぬものかと、刑部に徹底的な捜査を命じた。
厳しく調べると、沢王は皇后と結んでいたとわかった。皇后の実家が武器を買う為の資金源だったのだ。皇后は廃されて別院へ幽閉、沢王も妻・子ともども廃されて配流、皇后の実家や沢王の実母の実家、更に沢王の妻の実家も関係していたと、大勢が刑死や流罪の憂き目に遭った。
史書によっては、沢王が皇后と男女の関係であったと書いている。沢王からすれば実の母ではないが、皇后からすれば良人の息子であって、忌避感はあろうから、これは悪事をあとから付け加える、歴史著述者の悪い癖であろう。
生まれたばかりの原王は宮官と宦官らで育てることになり、物心つく前に原王府を構えてそちらへうつされた。
本来、原王も親王の座を追われ、配流されてもおかしくない。皇后がおそろしい事件に関わりがあり、廃されたのだ。随分な温情であるのは、すでに陛下の男児が、沛王と原王しか、実質残っていなかったからである。
秦王は皇宮内で刃傷沙汰を起こそうとした凶悪犯だから恩赦などできないし、魏王と許王は横暴甚だしく民の評判は最悪で、こちらも配流から戻すことなどできない。その三人ともに子があったが、父がやったことがやったことである。叛意があるかもしれぬと、やはり宮廷へ来させることは憚られた。病弱だったが聡明な綾安太子には子がおらず、温和で人望のあった長男にいたっては成婚前に死んでしまっている。勿論子は居ない。
太子としてすぐに立てるのは沛王のみ。しかし、沛王になにかあれば……。それで、陛下は原王を残したのだ。
ほんの数日の間に、椿五娘こと椿糈玉は図らずも、太子妃となったのである。
椿五娘はあまり、産後の肥立ちがよくはなく、その頃は伏していた。良人が朱雀門を越えたっきり、戻ってこないのもあって、くさくさした毎日であった。彼女らしからぬ、奴婢を怒鳴りつけたという逸話が残っている。後にも先にもこの一度だけな上に、幕僚達が目をむいて驚いたというので、やはり温和な娘だったのだろう。
やっと起き上がって、我が子晌の面倒を見ながら胡餅を拵えていると、宮廷からすぐに参るようにと遣いが来た。宦官や宮官達に身支度をしてもらい、やたらに乳をほしがり頻繁におしめをとりかえねばならない、愛らしい晌を抱いて、椿五娘は車へのった。胡餅も別の車で運ばれた。
皇城では宮官に晌をとりあげられ、すぐに儀式が執り行われて、なにがなにかわからぬうちに、彼女は太子妃となっていた。沛王あらため太子殿下は、さめた胡餅をたらふく食べ、晌の顔を見て、思っていたよりも饅頭には似ておらんと残念がったという。幼名は阿饅を予定していたが、饅頭に似ていないので餺飥(すいとんの類い)にすると、奇矯なことをいった。
息子の顔を見て饅頭似ではないから残念がる、息子に幼名といえすいとんと名付けるなど、かわった話である。この太子(沛王)はかわり者らしく、成婚前からよくわからん逸話に事欠かない。
為に、現代の人間はこの話を真面目に信じている。なんとか鹿に乗ろうと苦心惨憺してうまくいったとか、泳ぎが好きで、内廷の北海池、西海池、南海池と泳いでいって、鼈に噛みつかれて指が千切れそうになったとか、梅の枝を折って恋文らしきものをくっつけた上で老臣へ送ったとか、ややもすればどうかしていると思われるような逸話に比べれば、子どもが饅頭に似ていないと拗ねるくらいは可愛らしいものだから、というのもあろう。驢馬にのって撃球をしたという話もあるが、それは近年になって証拠が出、事実と認定されたので、もしかしたらこの太子の尋常ならざる逸話は、すべてまことのことなのかもしれない。
変わり者といえ、太子は兄弟と比べればまったくといっていいほど凶暴性はなく、官人の喧嘩を見て泣いて停めにはいったなどという心温まる(?)逸話もある。失態を犯した奴婢になぞなぞをだすよう命じ、解いて遊んだなどという話も、まったく以て意味がわからないが伝わっている。奴婢達は太子のそのなさりようをおそれ、失態を犯さぬよう気をひきしめたというので、奇矯だが効果はあったらしい。たしかに、叱責されるよりも、なぞなぞを出せ、と迫られるほうが、幾分かおそろしい気もする。
太子は妙なところはあるものの、温厚で、暴力だの刃傷沙汰だのはきらう人間であったらしい。奴婢をいじめ殺したとか、女に乱暴して死なせたとか、動物達を残虐に殺したとか、そういう胸の悪くなるような逸話はない。例の鼈にしても、剛毅な奴よと讃え、榛なる名をつけて南海池の主とし、時折一緒に泳いだという。
また、どの史書においても、その顔貌、また体の格好は、絵に残すことなど到底できない程の美しさであった、と書かれている。
随分な美男子であり、詩人の楠二十二郎が女性に成り代わって詠んだ詩のなかにも、古今の美男子で第一等の人物として書きあらわしてある程だ。ただ、ちびであった。彼が后妃とした女人のすべてが、彼よりも大柄だ。




