一
「丹丹、ちょっと失礼してるわよ」
内廷、桍充媛に与えられた房である。一番いい椅子に当然のように座り、卓に紙をひろげてなにやら書き込んでいるのは、柳賢妃だ。豊かな胸の上に、錦の帯をまき、張りのある紐で結んでいる。その紐は、柳賢妃自身がつくったものである。
桍充媛は、しずしずと、己の房へ這入った。先程、はばかりの為に席を外したのだが、戻ったらこれだ。「柳賢妃、妾の房になんのご用でしょう?」
「そう堅苦しい口をおききなさんな。わたし達、幼なじみでしょう」
にまにまとして、顔を上げる。桍充媛は仏頂面でそれを見下ろした。充媛の世話をする宮官が、怯えた顔で椅子をひく。桍充媛は、それに腰掛けた。
柳賢妃は紙へ一瞬目を戻し、桍充媛を見詰めた。先程までのにやにや笑いはなりを潜め、真剣な表情だ。「丹丹、東宮で起こったことは耳にはいっているかしら」
耳にはいっているどころではない。桍充媛は顔をしかめ、つい昨日の、不愉快な出来事を思い起こした。
数日前、「東宮で嬰児が怪死した」と、桍充媛は聴いていた。赤ん坊が不意に死んでしまうことは、哀しいがない話ではない。嬰児といわずとも、幼い皇子や皇女が死んでしまうことはあり、それだけで即ちおかしいとはいわない。
しかし、被害に遭った郡主の首には、裱が結びついていた。不審な情況であったのだ。更に、その発見直後、太子妃が倒れた。はじめ、娘のことを聴いた衝撃でかと思われたが、医者が診て、気持ちの問題ではない、毒を盛られたらしいといいだした。結果、太子妃が毎日服んでいる薬に毒がはいっていたと断定された。その為、聖上の指示で、刑部が動いた。
官人といえ、簡単に内廷にははいれない。昨日、その代理だという内侍伯がやってきて、不愉快な話をしていったのだ。宮官になにか命じなかったか、だの、東宮へ行ったことはあるか、だの、まるで、桍充媛がその事件に関わっているかのような口振りだった。
桍充媛は、もとは官婢である。父に罪があり、没官して、生まれる前に掖庭局に所属することとなった。父は散騎常侍という、かなりの高位にあったのだが、そのようなことなんにもならない。
寧ろ、高位にある為に恨みを買っており、些細な罪が重大なものになった、ともいう。当時、政治的な争いがあったのだそうだ。敵対していた某通議大夫にはめられたのだとか、立后に最後まで反対した為に当時の皇后陛下の不興を買ったのだとか、いやいやそうではなく雲客になってすぐの頃に袖にした女の一族が積年の恨みから罪をでっち上げたのだとか――まあ、桍充媛の父がやったことがただ単に流刑に相応しいものであった、と書いてある史書もある。罪のくわしい内容は、現代ではわからない。信憑性の高い史料にはただ、罪を得て嶺南へ流さる、とあるのみである。
いずれにせよこの時、桍充媛はそれについて、くわしくは知らなかったようだ。すでに先帝の時代の話であり、誰も詳細を覚えていなかった。よくわからないのである。桍充媛にしても、調べようとも思わなかったであろう。彼女は九嬪となって、我が世の春を謳歌していたのである。父親の罪を雪ごうとか、そのようなことは考えてもいなかった。そのように動いた形跡がない。
内廷であろうと外廷であろうと、宮廷に関わっている者達は、覚えていたとしてもそれをすすんで口にはすまい。いまや聖上の寵愛甚だしい桍充媛の父に、なんの罪科があったなどと、口を滑らしたら大事だ。聖上の耳に届けば、不敬千万と、杖で打たれることになるかもしれなかった。下手をしたら、市へひったてられて、斬される。
桍充媛、姓は桍、名は穿耳、通称は丹丹、また桍大娘とするものもある。幼名は蹴といったそうだが、由来はわからない。生まれたのは前述の通り、掖庭である。
母は女児であることを願っていた。男児であれば、かならずとりあげられる。母は機織りができ、その為に司農寺ではなく掖庭局に所属していた。掖庭には女か、宦官しか居ない。男児であれば、父の罪も鑑みて、嶺南辺りに流された可能性もある。
桍穿耳の父は、嶺南へ流されて後、十年ほどは生きながらえた。あちらには茘枝だの芭蕉だの檬果だの、おいしいものが沢山あるそうだし、性に合えばつらいところでもない。寒いところに追いやられるよりはあたたかいところでよかった、と、長じて父の流刑先を聴き、彼女はそのように思ったものである。
実際罪を犯したにせよ、下手を打ってはめられたにせよ、父の立ちまわりは決してうまくなかったとわかっていたから、可哀相だという気持ちはさほど起こらなかったのだ。実に冷静というか、理が先んじて、少々さめたようにまわりには感じさせる女人であった。ひとによっては親不孝者であるとか義心がないとかいうが、政に口をはさまず、驕り高ぶらず、良人に父の名誉回復を頼むようなことをしないというのが、生まれが官婢である彼女の処世術であったのだろう。
これらは『棠書』の后妃伝による。これより後、后妃の性格であるとか、外見であるとかの描写は、大体がここからひいたものである(性格についてはそれを許に、筆者が想像したことを幾らか付け加えたものと思われたし。外見についてはほぼそのままの描写であることを記しておく)。
また、補助的史料として『卯陰雑俎』、更に『鵄尾子』を用いることをおゆるし願いたい。『卯陰雑俎』は読者諸氏もご存じだろう。『鵄尾子』も悪い意味でご存じかもしれない。
こちらは評判の悪い史料ではあるものの、現存する同時代資料のなかでは『棠書』に同様身許のはっきりしたものであること、官人の禄・月俸などについてかなり正確であること、多くの后妃に対して批判するでも賞賛するでもなく中立の立場から記述していることなど、よい点も多い(それにより文章が無味乾燥になっており、それを残念とする声もあるのは知っているが、筆者は評価したい)。
更に、これから描写することになる事柄について、あらゆる資料のなかで一番辻褄が合っており、納得感が強い。先に書いてしまうが、この小説で描写する事件の経緯と顛末は、おおよそを『鵄尾子』によっている。先にそちらを読まれると筋がわかってしまうので、この小説を読み終わるまでは手を出さないでもらえると、筆者の文章の不備が露見せずにすむのでありがたい。
読者にはもうおわかりのことだが、さいわい(?)もと・散騎常侍の妻が産んだのは女児だった。その為そのまま、掖庭での養育をゆるされた。おそらくは鷂鵲二年のことである。
彼女の生年については、鷂鵲元年とするもの、鷂鵲二年とするもの、顕瑩元年とするものがあるが、ここでは鷂鵲二年説を採る。彼女は位を得て後、複数の厭勝事件にまきこまれているが、彼女に見たてた兎を殺し、呪いとするものが数例あった。鷂鵲二年は卯年である。その為、兎を彼女に見立てたのではなかろうか。まるでだじゃれだが、厭勝というのはそのように、干支であるとか、名前であるとかにひっかけて行うのが当時の普通であった。
もと・散騎常侍の妻は、娘を穿耳と名付け、名の通りに耳朶には幾つかの穴を穿ち、ほかにも居る女児達との区別としたという。先にも書いた通り、幼いうちには蹴と呼ばれていたが、由来はわからぬし、十歳になるころには丹丹と呼ばれていたようなので、今後は蹴とは表記しない。幼名というのは些細なことからつくので、年端も行かぬ女児同士喧嘩になって、蹴りでもしたのかもしれぬ。これについてはまた書こうと思う。
桍穿耳はすくすくと育ち、なんとも美しい娘になっていった。長くてふさふさした睫に、優しそうな眉、雪の肌。額は秀で、鼻筋はほどよく通っている。残念ながら貧弱な顎をしており、それだけは同時代の男性詩人達にこきおろされた。
宮廷での宴に招かれた高名な詩人達は、彼女の生まれをよく思っていなかったのもあってだろう、官婢らしく貧弱で貧乏くさい、と、詩人なのに風流もなにもない詩を残している。しかし、それをさしひいても充分に美しく、玉を洗ったような美女であったのは間違いない。完璧な美女ではないからと、生まれまであげつらう男性詩人達は、そのはずべき性根が後世にさらされているので、桍穿耳には溜飲を下げて戴こう。
彼女は聡明で物覚えもよく、日々の仕事だけでなく、内文学館で勉学にも励んだ。なかでも飛白書の腕前は一級品、また運動も得意であったという。
当時、成績で争っていたのが柳緑黛、通称は珠絇である。幼名は阿緡で、彼女は機織りや紐を編むのに通じていたそうだから、それが由来の名であろう。実際、現代にも、彼女が編んだという紐が幾らか残っており、博物館で見ることもできる。こちらの幼名も一般的ではない為、今後この名では呼ばない。後の柳賢妃である。
こちらも、桍穿耳同様聡明な女性であった。八歳の頃には棋(囲碁のことであろう)で内教博士に負けなくなり、その話を面白がった官人が陛下に願って特別に勝負をしたが、こてんぱんにやられたというから、相当頭の回転がはやいようだ。運動でも桍穿耳と張り合っていた。
そして、桍穿耳とはまた違った系統の美女であった。額はひろく、理想的な生え際をしている。太い眉はしかし、野暮ったくはない。大きな切れ長の目で、ひとをじっと見詰める癖があった。小さな唇は愛らしく、顎も理想的。ふっくらと女らしい体型をしており、ぎすぎすしていない。ただし、彼女は少々色黒だった。色浅黒かったがしかし、天女もかくやの美貌であった、と伝わる。
こちらは男性詩人からだけでなく、当時流行だった女性詩人にもからかうように詠まれており、肌の白さが如何に当時の社会において美人の条件であったかを知ることができる。生まれ持っての肌の色などどうにもできぬが、それをわざわざとりあげて笑いものにするのが流行りであった、ともいう。
彼女らがもともと官婢であるのも、詩人達の筆を走らせたのだろう。当時は階級社会であり、士人どころか庶人が賤民を殺しても、いいのがれできさえすれば罪に問われないような時代であった。詩人達が彼女らを見たのは、彼女らがすでに、官婢から解放され、良民となって嫁いだあとのことであるが、生まれが賤しいと下に見る向きはあったのであろう。賤流に対する儔類の片腹痛き偏見である。
柳緑黛は京城のお大尽、柳某の娘だという。といっても、母が侍児だった。その為、父が歿してからは母とともに邸を追い出され、母があらたに仕えた官人が罪を犯してその邸の女が全員、掖庭へ移ってきたのだ。柳緑黛の物心つく前の話である。当時はこのようなことはよく起こった。大抵は、父、夫、息子の罪に連座して官婢となるのだが、不倫した為に娘とともに掖庭へ送られた、などという変わり種まで居る。柳緑黛の境遇は、別に酷くめずらしいことでも、突飛なことでもない。
柳緑黛は幼い頃から目をひく美貌で、おまけに仕種なども愛らしいので、宮官達にも宦官達にも可愛がられていた。ちょっと頭でっかちで気難しいところのある桍穿耳と違い、素直に笑い素直に泣く柳緑黛には、子どもらしい愛らしさがあったのだ。宮官は嫁ぐ希望などないし、宦官は子を持てないので、疑似的な子どものように慈しまれていた。
掖庭へ来てすぐに母を喪った柳緑黛にとって、可愛がられるのはありがたいことだった。また柳緑黛は肺を病みやすく(おそらく喘息であろう)、湿度があると、酷いと咳で寝られなくなる程だった。なので、酷い症状が出た時に助けてくれる大人達は、彼女にとってはまさしく命の恩人であった。
それで、きらわれないように働き、学び、世話をしてくれた宮官が病に伏せば看病をしたし、宦官が后妃にむちうたれるなどして怪我をすれば、乏しい知識で治療してあげた。柳緑黛の優しさに、宮官も宦官も目を細めたものだ。
柳緑黛は心優しい女性であるとする史家と、機を見るに敏、権力者に媚を売る陰険な女だとする史家が居る。筆者としてはその中間であろうと思う。もともと優しい性質なのだろうが、賤流出身の彼女はいつでも、力のある人間に従わなければ生きていけなかった。その為、上の人間に幾らかへつらう、おもねるようなこともあった。しかし、後々のことを考えれば、これらの行動が完全な偽善でないことはわかるだろう。
このおもねりのうまさについて、性質が賤しいと断ずる史家も居るが、筆者はそれはいいすぎだと考える。奴隷の存在しない、現在の価値観で語るのはおかしなことだからだ。当時奴隷は下に見られ、社会的な差別にさらされていた。些細なことで殺されていたのだ。生まれついての奴隷であった彼女が、多くの場面で保身に走るのは、当然のことではないか。
ふたりが十歳くらいの頃、鞦韆の腕を争っていると、当時掖庭で病気療養中だった、世話係の宮官を見舞いにやってきた七公子殿下、沛王が、それに目をとめた。
殿下はふたりと同い年で、ちょっとかわったところのあるかたであった。双鬟のふたりが楽しげに鞦韆にのって漕いでいるのを見て、どうやら淡い恋心を抱かれたらしい。それから見舞いだと、掖庭へ足繁くいらっしゃるようになった。桍穿耳は奚官局の宦官達がかしこまっているのをよく目にした。
桍穿耳にも柳緑黛にも、殿下の動きはどうにもできるものではない。一緒に遊ぼうといわれれば、断ることなどできずに鞦韆を漕ぎ、その辺で走りまわって、蜥蜴やなにかを捕まえた。七公子殿下は蜥蜴を数匹捕まえて、足を競わせるのがお好きだったという。
殿下についてきた宦官が、お勉強を、と停めにはいっても、桍穿耳も柳緑黛も、それに沛王自身も、もう経書の類いは随分頭にはいっているから、暗誦して、宦官が目を白黒させるだけだった。それだけは、桍穿耳はちょっと面白く思っていたし、柳緑黛もいつか笑っていた。
世話係の病が癒えてからは、隠すことなく、丹丹と珠絇に会いたい、とおっしゃるようになった。宦官達はそれとなく意見を翻すように促し、官人もまた諫めたけれど、七公子はそれを歯牙にもかけなかった。わたしが会いたいといっているのだから会わせろ、とねばるので、皆仕方なく、掖庭から丹丹と珠絇を呼び出して、七公子の遊び相手をさせた。桍穿耳も柳緑黛も、次第に七公子と親しむようになった。七公子はそれを機に、ふたりに結婚を約束し、その辺で積んだ草花を贈った。
お付きの宦官も官人も、そのような途方もない話に銭もなにもつかわせてくれないので、七公子はご自分で内廷を駈けずりまわり、綺麗な草花を集めていらした。
ただまあ、これについてはふたりとも、口先のことだろうと、さほど期待はしていなかった。喜ぶのは喜んだが、七公子もいずれ飽きて忘れるだろうと考え、そのようにもらしたと『棠書』にはある。
七公子殿下は沛王に封じられていたけれど、まだ成人ではなく、内廷を幾らうろついても叱られることはない。掖庭にも、理由があればはいれる。まだ大人の男ではないからだ。ひまをもてあました庶母達と、つなひきなどして遊ぶこともあった。
だが、官婢にご執心とあらば、話は別である。
間違いが起こってからでは遅い。結婚の約束までしたと聴くにいたり、時の陛下はそれに頭をなやませ、時の皇后に相談した。皇后は、身をかためれば沛王も落ち着くでしょう、と応じ、早速嫁選びがはじまった。
といっても、形だけのものである。皇后はすでに、心を決めていた。長く長く続いているが、数代大した功のない、これといった功臣を輩出した訳でもなく、傑物もいなければ野心も乏しい、大人しい犬のような椿家へ、沛王の妃をさしだせと命じたのだ。




