序
鵠華五年、三月下旬(夏正)のある日、梅の花も散り、小さな緑色の可愛らしい実がちらほらと見え始めた頃のことである、と、『棠書』には見える。
その朝、戸婢の数人は、東宮内にある彼女達の寝所から起き出して、太子妃の寝起きする殿へと向かっていた。まだ夜も明けやらぬ時間帯である。
榎某というのが手燭を持って先頭に立ち、裙の裾を踏まぬように片手でひっぱりあげて、跫音静かに滑るように走っていた。残りは顔をわずかに伏せ、やはり裙を踏まぬようしかし慎ましやかに裾を軽く上げ、先頭の宮官へ続いた。
途中、眠そうな顔の宦官が風にあたっているのとすれ違ったが、簡単な挨拶をしただけだ。宦官が太子と起き臥しをともにしている者だったから、皆はばかったのである。宦官は眠そうな顔で彼女らが走って行くのを見送り、大欠伸して太子の寝所へ戻った。
太子妃の殿がもうすぐというところで、榎某は速度をゆるめた。おやっと思ったのだ。どうした訳か、良娣のお傍に居る筈の戸婢が、ふたりもそこから出てきた。それも、いやにこそこそしている。
と、妙な匂いが鼻先に漂ってきた。きな臭い。なにかの燃える匂いだ。
彼女はぱっと振り返った。「なんだか様子が変だわ。あの者達を捕らえて」
「かしこまりました」
一緒に居たうちの、大柄なのがふたり、そうでもないのがひとり、そちらへ走っていった。榎某はそれを見て、はやく太子妃の許へ向かわねばと、残りの数人とともに走って行く。胸騒ぎがしていた。勿論、太子妃になにもないよう、殿には幾らも宮官、宦官が詰めている。しかし、なにがあるか、わかったものではない。
殿へ近付くにつれ、匂いが強くなっていった。火事だ、と戸婢らは直感した。榎某はついてくる者らに、水を汲んでこいといいつける。数人がさっと、南北へ別れて走る。
殿へ這入ると、ぱちぱちと火の爆ぜる音がした。宿直だった者達が、碗だの杯だのの頼りない道具で、必死に火を消そうと、水をかけている。榎某は四辺に目を遣り、置いてあった蝋燭が倒れていることと、帳に火がついて燃えていること、燃え落ちた帳から床にまで火がひろがっていることを見てとった。いやに火のまわりがはやい。
彼女は手燭を置き、息を詰めて火を飛び越えると、延焼しそうになっている帳をひっ掴んでとりはずした。いやな音がしたが、火が移るよりましである。帳一枚が破れるのと、この殿が燃え落ちるのだったら、帳が破れるほうがいい。
「なにがあったの」
もう一枚、帳を外して火から遠ざけ、そういう。帳は水の所為か、重たい。宿直の者の泣くような声がした。「わかりません。妙な匂いがすると思って、来てみたら、帳に火がついていたんです。あっという間に燃えひろがってしまって」
「ここには誰も?」
「水を汲みに行っています」
桶に水を汲んで、宮官達がやってきた。更に、宦官も居る。ほっとして、彼ら彼女らが火にめいっぱい水をかけるのを見ていた。
無事に火は消えたが、二間を焼く火事だった。騒ぎをききつけてやってきた東宮内坊所属の宦官達が、黒焦げになって水浸しの帳を運び出し、燃えてなくなった調度品について記録をとり、火事で損傷した床や壁、天井の修理について、穏やかに話している。榎某は、手がべたつくのに気付いて、簡単に洗って拭った。
「榎大娘」
呼ばれて振り返り、榎某は拱手する。相手は例の、太子お気にいりの宦官である。太子と同年輩で、榎某よりも随分若いので、そのような丁寧な口をきく。
宦官はひげのないつるりとした顔を、物憂げに撫でた。
「殿下が、妃殿下のことを心配しておいでです。お報せしたいのですが」
「あっ」
榎某ははっとして、まわりを見た。東宮内坊の宦官達に、宿直をしていた宮官達、自分と一緒にここへ来た者達、火事の報せで集まった者達。
なんてこと! 妃殿下がおひとりだわ!
慌てて、妃殿下の閨房へ向かった。数人、同じくはっとして、ついてくる。なんということだ。消火に必死になっていたといえ、太子妃をおひとりにしてしまった。きっと、おそろしくて震えておいでだろう。
まだ若く、幼くさえある太子妃は、蒲柳の質だ。お美しく、気の強そうな切れ長の目とくっきりした眉をしているが、お顔立ちの印象とまったく違い、実際には傷付きやすい、繊細なおかただった。神経質で、些細なことでも気に病む。ふっくらと豊かな体付きであるが、気は小さく、萎縮しがちだった。
このところ、太子殿下の足が遠のいているからか、寝付けないことも増えた。薬をもらっても効果はいまいちらしく、顔色は不健康に白くなり、ご趣味の裁縫や刺繍をしていても、眩暈で指をついたり酷い息切れを起こしたりして、宮官達に抱えられるようにして閨房へつれていかれる。
そんなおかたをひとりにして、しかも火事の為に悲鳴が聴こえたり、消火の合図の大声が聴こえたりしたら、どれだけ怯えることだろう。
ああ、いや、おひとりではない。
太子妃の閨房、その隣には、太子と太子妃の間に生まれた、郡主の寝ている房がある。生まれて半年程の、愛らしい嬰児だ。太子によく似た面差しをしている。すでに郡主に封ぜられていた。そのお世話をしていた者も、火事騒ぎでお傍をはなれてしまっている。なんぞあったら……。
「殿下、おはようございます」
太子妃の閨房へ這入る。太子妃は、牀へ横たわっていた。うつろな目で空を見ている。宮官達は紗の帳を開ける。
誰しもほっと、息を吐いた。太子妃は体調が優れないようだが、泣き喚いてはいない。お美しい顔があおざめているのは、騒ぎが聴こえたからだろう。ぼんやりした目付きも、血の気を失った唇も、かすかに手が震えているのも。「殿下、お騒がせいたしました」
「……なんぞ、あったのですか」
いつにも増してか細い、苦しげな声で問われ、榎某はひと呼吸置いてから答えた。
「火の不始末でございます。帳など、幾らか燃えてしまいましたが、殿下がお心を砕くような事柄ではございません。蝋燭から燃え移ったのですわ」
宮官達が、太子妃のなよなよとした体を起こした。当帰芍薬散のはいった茶碗を、年若い宮官が持ってくる。太子妃は横目でそれを見た。服用したら少し歩かねばならないから、それを考えて憂鬱になったのかもしれない。しかし、太子妃はすぐにそれを口にした。目を瞑って、ぐっと椀を干す。
清潔な磁器のたらいが運び込まれ、水差しから水が注がれる。「殿下にご報告すれば、すぐに修繕を」
悲鳴が聴こえた。
皆、動きを停めた。
榎某は廊下へ出て、隣の房へ飛び込む。そこには立派な揺籃があり、赤ん坊用の牀があり、その手前に衾が落ちていた。宮官がふたり居る。ひとりは腰をぬかし、もうひとりは牀に手を伸ばしていたが、おそれるように手をひっこめた。
「どうしたの?」
榎某はそちらへ、ゆっくり歩いていく。「なにが……」
なにがあったのか、彼女は目にした。牀の上に居る郡主の首に、裱がわだかまっていた。




