第一章 第六話:一日の終わり、宿にて
時刻は22時を過ぎた頃。夜の帳が完全に降りた町は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。遠くから微かに笑い声が聞こえてくる。まだ飲んでいる軍人がいるのだろう。何事もなく町まで戻ってきた二人を迎えたのはおやっさんだった。
「日付が変わる頃に帰って来るのかと思っていたぞ」
「遅くならないと言ったはずだ」
「世間的には十分遅い時間なんだがな」
そう小言を言い合いながら昼間と同じ席に座る。雪月もそれに続いた。帰ってくると伝えていたからか、すでに軽食が用意されていた。湯気の立つ汁物と、手軽につまめる小皿が二人分。長時間歩き続けた身体には、それだけで十分すぎるほどだった。雪月は汁物の椀を両手で包むようにして持った。温かさが手のひらから伝わってくる。今日一日、ずっと動き続けていたのだと、改めて実感した。
「それでなにか見つかったか?」
おやっさんの声は低く、落ち着いている。情報を引き出す側の人間の聞き方だと雪月は感じた。自然に、しかし確実に核心へ向かっていく。
「今のところ侵入箇所は南の崖と見ている。草木にいくつかの痕跡を確認した。装備類などは見当たらなかったが」
「そうなると東に行ったか。明日はそっちに向かうのか?」
「その予定だな。いくつか物資の用意を頼んでもいいか?」
「いつものことだ。明日の朝までには用意しておこう。いつも通りでいいか?」
「それで頼む」
東雲とおやっさんの会話は短く、淀みない。長い付き合いの中で培われた阿吽の呼吸だ。雪月はそれを横目で見ながら、汁物を一口すすった。出汁の利いた温かさが、疲れた身体に染み渡っていく。昼にカツ丼を食べてから、ずいぶん時間が経っていた。それなのに、また空腹だった。これだけ歩けば当然かもしれない。雪月は小皿の一つに箸を伸ばしながら、東雲さんがこの生活を15年続けてきたという事実を、静かに咀嚼していた。
「何の用意ですか?」
またしても話についていけない雪月が質問する。東雲とおやっさんが当たり前のように話している内容に、まだついていけていない自分を感じた。この二人の間には、積み重ねがある。自分にはまだない。それが少し、寂しいような、悔しいような気がした。
「装備の用意だな。詳細は明日の朝に確認しよう。明日からは数日から2週間程度、山の中だ」
「えっ……」
覚悟はしていたが、配属二日目で山中に籠ることになるとは思っていなかった。過保護だと思っていたが、目的に対してはハードな人なのかもしれないと認識を改める。一日でここまで状況が動くとは、配属前には想像もしていなかった。雪月は軽食の小皿に視線を落とし、小さく息を吸った。
「早ければ3日ほどで引き返せるだろう。状況次第だ。それと、しばらく風呂には入れないから、ゆっくり入っておけ」
その言葉に別の意味でショックを受けた雪月であった。山の中で数日。当然、着替えも限られる。食事もレーションになる。そういう話は訓練で聞いていたが、いざ現実として提示されると、じわじわと実感が滲んでくる。
おやっさんが席を立ち、「風呂と部屋の用意をしてくる」と言い残して奥へ引っ込んだ。東雲は静かに水を飲んでいる。その所作に無駄がない。グラスを持つ角度も、置くときの音さえも、自然に静かだ。雪月はその横顔を、少しだけ見つめた。明日から数日、この人と二人で山の中にいる。訓練では想定していなかった状況だが、不思議と不安は薄かった。それが東雲さんのせいなのか、自分の鈍感さのせいなのかは、まだわからなかった。軽食を食べ終えた頃には、疲労が一気に押し寄せてきた。おやっさんに案内された宿の部屋は、簡素だが清潔だった。木製のベッドと小さな机、窓の外には暗い町並みが広がっている。遠くから微かに酒席の笑い声が聞こえてきた。荷物を下ろして初めて、今日一日がどれほど濃密だったかを実感した。朝まで第1エリアにいたのに、もう第3エリアの宿にいる。
浴室は小さかったが、お湯は十分に出た。東雲の言葉通りゆっくりと入っておくことにする。湯に浸かると、足の疲れが一気に溶け出すような感覚があった。今日どれだけ歩いたのだろう。第1エリアを出て、海岸線を歩いて、崖まで往復して、また町に戻った。距離にすれば相当なものだ。
湯に浸かりながら、雪月は今日のことを順番に思い返した。神代課長の部屋、東雲さんとの初めての会話、海岸線での観察、崖で見つけた痕跡。どれも訓練では経験しなかったことばかりだ。教官の言っていた「判断の重さ」という言葉が、また頭をよぎった。今日一日で、少しだけその意味に近づいた気がする。東雲さんの言っていたことが、少しだけわかった気がした。特務室にセオリーはない、というのは本当のことだと。
湯から上がり、ベッドに腰を下ろす。明日からは山の中だ。風呂にも入れない。しばらく風呂に入れないという事実を、改めて実感する。今日ゆっくり入っておけという東雲さんの言葉は、そういう意味だったのだ。雪月は天井を見上げながら、明日への緊張と眠気が混ざり合うのを感じていた。初日で既に、訓練では経験しなかったことがいくつもあった。明日は何があるのだろう。考え始めたところで、意識が遠のいていった。それでもいつの間にか、目が閉じていた。




