第一章 閑話三:お互いについて
【雪月 凪 視点】
雪月は割り当てられた部屋でお風呂を堪能していた。明日からは最低でも数日は入れないのだ。今のうちに楽しんでおくべきだと、いつもより長風呂になっている。そして今日一日の出来事と、とある情報について思い返していた。
「今朝まで第1エリアにいたのに、昼には第3エリアに到着して、夜まで歩き回って……。それでも、なんとかなってる」
教育課程と実践では勝手がまったく違う。無論、学んできたことが無駄というわけではない。しかし、一つひとつの事象に対してすべき対処方法がある。柔軟に思考し、固定観念に縛られないこと。
「特務室にセオリーはない……か……」
自身の視野の狭さに課題を感じる。だが、まだ初日だと意識を切り替える。それにしても……。
「神代課長に見せられた東雲さんの人事ファイル、あれが本当なら15年もこんな仕事をしていることになるのか……」
偽物だと疑う理由はない。彼はこの世界で15年も生きてきたのだ。補遺のほとんどが塗りつぶされた情報を思い出す。9歳で発見されたとあった。低体温症と栄養失調が懸念されるほどの状態で、しかし極めて健康体だったと。山の中で一人で、どうやって生き延びていたのか。そしてなぜ、そこにいたのか。塗りつぶされた部分には、何が書いてあるのだろう。今日一日一緒にいた東雲さんの姿と、ファイルの記述がうまく結びつかない。それでも、補遺2の一行だけが、ひどく気になっていた。補佐官が、何かをした。それだけがわかる。それ以上は、わからない。
お風呂から上がって、改めて部屋を見渡す。簡素だが、清潔だ。ベッドに腰を下ろすと、今日の疲れがまとめてやってきた。目を閉じると、海岸線の潮風と、崖で見つけた痕跡と、東雲さんの背中が、順番に浮かんでは消えた。
明日からは山の中だ。東雲さんと二人で。どんな任務になるのかはわからない。でも、今日一日を振り返ると、不思議と怖くなかった。訓練で叩き込まれたことが、少しずつ形になっている気がした。それがわかるだけで、今夜は十分だと思った。
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国防軍諜報部執行課特務室
人事ファイル(秘匿)
No.E3206 東雲 逢凰
年齢:25歳 生年月日:新暦83/05/26
所属年月日:新暦93/01/13
国防軍諜報部執行課特務室に属している執行官である。
所属時の年齢は9歳である。
旧暦後の荒廃世界においても子供の軍務所属は忌避されているが、
特筆した能力を見込まれ採用された。
《閲覧許可レベル:執行課長許可者に限る》
上記職員はとある山中で特殊活動中の機動課により発見された。
当時の天候は雪であり、低体温症と栄養失調が懸念されるほどであったが
当人は極めて健康体であった。
当該の部隊は彼を保護し、■■拠点へ移送した。
記憶障害もなく、高度な教育を受けた特殊軍人と遜色ない知識と経験則、
身体能力を発揮した。また、分析能力や環境適応能力も高く、
監視を兼ねての組織への組み込みが打診された。
保護対象へ当組織への所属を提案しこれを承諾した為、
教育課程を経て特例で執行課特務室へ配属。
現在当職員は単独で活動している。
これは当職員が補佐を拒否している為である。
但し、今後の活動へ必要と判断し、補佐官を派遣することとした。
情報は執行課長へ通達済み。
補遺
特殊活動中の部隊の任務は■■■■である。
当該任務は失敗、捕獲対象の死亡を確認、撤収している。
補遺2
執行課事案652号にて、補佐官■■■■が■■。
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【東雲 逢凰 視点】
東雲は神代から送られてきた情報を確認していた。新たに判明した重要な情報はなし。不審船が沈没してからまだ一日、サルベージにもしばらく時間がかかるだろう。今日の行動を神代に報告する。併せて雪月の教育状況についても忘れずに。しばらくして返答があった。継続して東雲に一任するといった内容だった。特段気にすることもなく、確認していなかった雪月の人事ファイルに目を通し始める。黒塗りされている部分があるが、それは知らなくてよい情報ということだ。東雲ほどの信用があろうと任務関連は伏せられることが多い。拠点保全や担当職員の保護のためでもある。
「………」
ファイルを閉じ、端末を伏せた。しばらく天井を見つめる。補佐官が配属されるのは、これで二度目だ。前回がどう終わったかは、補遺に書いてある通りだ。今回は違う結末になるとは限らない。だが、それを理由に動きを止めることもできない。
雪月 凪。19歳。工作員に発見され、組織への所属を承諾した。それが、彼女の始まりだ。東雲は窓の外の暗がりを見つめた。自分の始まりと、どこか似ている。発見されて、組織に拾われて、今ここにいる。違うのは、自分には帰る場所がなかったということだ。彼女には、どうなのだろう。ファイルには、家族が事故で亡くなったとあった。
似た境遇だから、うまくいくとは限らない。むしろ、そういうものほど難しい場合がある。だが、今日一日を見た限りでは、使えないとは思わなかった。飲み込みが早く、観察眼がある。判断にも筋が通っている。補佐官としては、申し分ない素質だ。
東雲は目を閉じ、明日の行動を頭の中で整理し始めた。死なせない。それだけは、決めていた。前回は守れなかった。今回は、そうはならない。窓の外では、虫の声がしている。夜が更けていく。
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国防軍諜報部執行課特務室
人事ファイル(秘匿)
No.EA5049 雪月 凪
年齢:19歳 生年月日:新暦89/03/31
所属年月日:新暦108/04/01
国防軍諜報部執行課特務室に属している補佐官である。
新任教育及び執行官への補助充足を目的に
『東雲 逢凰』執行官へ割り当て。
《閲覧許可レベル:執行課長許可者に限る》
上記補佐官は■■■街で活動中の工作員により発見された。
発見時は室内にて気を失った状態であった。
当該の工作員は彼女を保護し、■■拠点へ移送した。
尚、当該の工作員は犯罪組織の拠点を制圧及び捜索中であった。
情報漏洩の危険性排除のため、記憶処置または組織への所属を打診。
保護対象へ当組織への所属を提案しこれを承諾した為、
教育課程を経て執行課特務室へ採用。
現在、同じく監視対象である『東雲 逢凰』執行官へ割り当てられている。
情報は執行課長へ通達済み。
補遺
当補佐官の家族は死亡している。
警察記録によると事件性はなく、
交通事故により即死であった。




