第一章 第四話:(雪月にとっての)事案対応
雪月は東雲に会ってから初めて焦っていた。それも、恥ずかしい方向に。そういえば早朝に呼ばれたせいで朝ご飯すら食べていない。雪月にも言い分はある。初任務に集中していて、食事のことをすっかり忘れていたのだ、と。──いや、この言い分には無理がある。思考がまとまっていないことに気づいて、焦りと恥ずかしさがさらに増した。よりにもよって今日初めて会った異性に、腹の虫を盛大に聞かせてしまった。雪月の思考は完全に空転していた。
「この町は前に来たことがあるからな。おすすめの店がある。ついてこい」
その言葉で、ようやく落ち着きを取り戻す。
「……はい」
そう返すのが精一杯だった。頬がまだ少し熱い気がした。
東雲に連れられて雪月は町の裏手の飲食店に入った。店内には店主らしき人物が一人いるだけで、客は誰もいない。
「……誰かと思ったらおまえさんかいな」
「おやっさん、元気してるか?」
「まだまだくたばるには早いな」
そう会話しながら、店主は東雲と雪月を一番奥の個室へ案内する。
「おまえさんが人を連れてくるのは珍しいな。それもべっぴんさんの女の子ときた」
「上に押し付けられたもんでな」
「難儀なことだ」
そこまで話して雪月を置いてきぼりにしていることに気づいた東雲は、説明を始めた。
「おやっさんは諜報部の現地防諜官だ。休暇で街に繰り出す兵士からの情報漏洩を監督している。また、現地で不審な噂などを収集し上層部へ報告する役割も担っている。これを知っているのは諜報部でも関係者だけだ」
「おやっさんなのはなぜですか?」
「俺もおやっさんの名前は知らん。ここで働くときも偽名だからな」
「では私もおやっさんと呼ばせてもらいます」
「好きに呼びな。それで、おまえさんが来たということは情報か?」
「それも、だな。実は緊急で派遣されてな。朝から何も食ってない。なにか用意できるか?」
「それはできるが、いつものでいいか?」
「それで頼む」
「お嬢ちゃんはどうする?」
「えっと……東雲さんのおすすめで……」
「なら同じやつだな。少し待ってろ」
そう言っておやっさんは厨房へ入っていった。雪月には何が来るかわからない。個室は静かで、外からかすかに話し声と食器の音が聞こえてくる。店内に客はいないはずだが、それだけ壁が薄いのかもしれない。ソワソワしながら待っていると、東雲が話し始めた。
「仕事が仕事だからな。顔だけは広いんだ。まあお互い深く付き合ったりはしないがな。情報は細分化して管理されている。もし一人が捕まったとしても、一網打尽になることを防ぐためだ。こういった協力者は本部から必要に応じて開示される」
「居ることは聞いていましたが、こんな近くにいるとは思っていませんでした」
「情報を扱う以上、人との関わりは必要だからな。店に偽装することは少なくないし、もしものときはすぐに脱出する手はずも整えている。情報を集め、情報を守ることが任務だ」
「会って半日の私に開示してよかったのですか?」
「今回は教育もある。おやっさんは基本的に友軍の監視が任務だし、接触における安全も保証されているからな。今後こういったリソースを使うことがあるが、それが諜報部職員だけとは限らない。裏社会の情報に頼る場合も少なくない」
「……東雲さん、結構過保護ですね?」
「教育で危険を犯す必要はない。訓練ならともかくな。とにかく、凪が今集中すべきことは情報と知識のインプットだ。特務室にセオリーはない。やり方は執行官に一任されている。少なくとも私が担当している間は死なせはしない」
「急に重くなりますね」
「例えだ、例え。それぐらい安全に行くぞってことだ」
その後は他愛もない話をしながら待った。といっても、雪月が話題を提供して東雲が返すという形だが。自らは必要なこと以上は話さない人なんだなと雪月は感じていた。しかし、話はしっかり聞いてくれる東雲に対して、少しずつ信頼感が増していた。個室の中は静かで、遠くから厨房で何かを炒める音と、いい匂いが漂ってくる。空腹を思い出しそうになるのを、雪月は意識的に無視した。
「あの、東雲さんはいつからこの仕事を?」
思い切って聞いてみた。東雲は少し間を置いてから答えた。
「15年ほどになる」
「……そうですか」
それ以上は聞けなかった。人事ファイルに書いてあった内容が頭をよぎる。15年ということは、9歳のときから。雪月はその事実を飲み込むように、静かに頷いた。
15分ほど経った頃、厨房の方からいい匂いが一段と強くなり、おやっさんが料理を手に出てきた。
「待たせたな。これが東雲のおすすめだ」
雪月の前に並んだのはカツとじ丼定食だった。程よく分厚い衣をまとったカツを半熟の卵でとじてある。漬物などの小鉢と味噌汁がついた、定番セット。空腹には十分すぎる。一つ難点があるとすれば、量が特盛を優に超えていることだが……。
「おやっさん、普段からこの量なんですか?」
「いや、これは東雲用の特別だ……な?」
そこでおやっさんは気づいたのだろう。右手で顔を覆いそうになっている。明らかに華奢な体型の女性に出す量ではなかった。
「残ったら俺が食うから安心しろ」
雰囲気を変えようとしたのか、東雲が口を開く。
「量に関しては俺も頭になかった。同罪だ。判断ミスは許せ」
「おまえさんなら食い切れるから心配はいらねぇか」
東雲とおやっさんが和やかなムードに移行し始めたとき、
「まあお嬢ちゃん、安心して食べられるだけ食べてくれればいいから」
声をかけられた雪月は、そのまま一心不乱にカツ丼をかき込み始めた。二人は唖然として、みるみる空になっていく器を見つめていた。
「ごちそうさまでした。東雲さんも早く食べたらどうですか?」
「あ……ああ……いただきます」
いったいどうしたのか、納得しかねる東雲だったが、言われるままカツ丼を食べ始めるのであった。結局二人とも完食した。おやっさんはそれを見て満足そうに頷き、空になった器を下げていった。「また来い」というおやっさんの言葉は短かったが、それがこの人なりの歓迎なのだと雪月は思った。店を出ると、午後の日差しが眩しかった。朝から動き続けていたせいか、光の強さに少し目が眩む。雪月の気力もいくらか戻っていた。腹が満たされるというのは、単純だが確実に効く。




