第一章 第九話:休むことも職務
夜が明け、活動を再開する。朝の山中は静かで、鳥の声だけが響いていた。東雲は既に装備を整えて待っており、雪月が合流するとすぐに歩き始めた。昨夜の出来事については何も触れない。雪月もそれに倣った。
山中を移動しながら、雪月は昨夜のことを頭の片隅に追いやるよう努めていた。頬の熱はとっくに引いているはずなのに、思い出すたびにわずかに戻ってくる気がする。それよりも今は、目の前のことに集中するべきだ。地面の状態、周囲の音、風の向き。東雲が歩きながら自然に確認しているものを、雪月も意識して追いかけた。
道なき山中を進むのは、訓練の比ではなかった。傾斜、湿った地面、低い枝。一歩ごとに判断が必要だ。それでも東雲の歩みは淀みない。雪月は黙ってその背中を追いながら、少しずつペースを掴んでいった。言葉がなくても、背中が語っていた。焦るな、足元を見ろ、音を立てるな。
目標に向かって歩き始めて二時間ほど経った頃、木々の間から開けた場所が見えてきた。予定通り昼前には駐屯地跡が見渡せる場所についた。跡といっても更地ではなく、ところどころに壊れた庁舎型の建物が点在している。人が踏み入れなくなって一世紀近く経つはずだが、ここまで原型を残していることに感心する。木造や軽量素材で作られていたであろう残骸も見えるが、それが何だったのかを知るすべはない。当時の航空画像を漁ればわかるのだろうが、それには諜報部本部サーバーへのローカルアクセスが必要だ。こんな僻地では調べようがないし、そもそも興味もない。
「よくある古い官庁の建物に見えますね」
「見た目に拘っていられなかった頃の遺物だからな。同じ設計を使い回すことで短期間に量産でき、単純な構造だからこそ耐久性にも優れていた」
「面白みはないですけどね」
「だからこそ、ある程度安定した今では外見にも拘るんだろう。見た目を変えるだけで人を惹きつけられるなら、やらない手はない。商業施設なんかはとくにそうだろう」
「確かに、見たことないデザインだとなんの建物なんだろうってなりますね」
雪月は廃墟をじっと見つめながら、そう答えた。かつてここに人が居て、動いて、任務を果たしていた。そう思うと、この朽ちた建物も少しだけ違って見えた。今の自分たちと、何かが重なる気がした。
「まあ余談はさておき……。逆探に反応は?」
「何もなしです」
雪月の手には小型電波探知機、通称逆探と呼ばれる装置が握られている。携帯型である以上、電波の有無と種類、方向と強度程度しかわからない代物だ。しかしここで拾える電波など限られているからこそ、それで十分だと判断して装備に加えてきた。軍用規格であれば発信距離の特定や暗号解析もできるが、とても携帯できるサイズではない。
「常時発信するなんて、ここに居ますと言っているようなものだからな。目視と並行して待つとしよう」
二人は草木の陰に身を潜め、廃墟を見渡せる位置に落ち着いた。風が吹くたびに、朽ちた建物のどこかがきしむ音がする。生き物の気配はない。少なくとも、表からは。
「その目視にも今のところ何も映りませんけどね」
「本当に何も居ない可能性もあるからな」
「確率的には?」
「3%以下だな」
「微妙な」
「神代が人を派遣して本当に何もなかったことがそのぐらいだ」
「何もなかったら?」
「さっさと帰って神代を煽るだけだ」
「性格悪っ!?」
雪月の声に東雲は特に反応せず、視線を建物へ向けたままだ。こういった監視任務では、適度に気を抜いていたほうがいいというのが東雲の持論だった。四六時中緊張を保てば、本当に必要な場面で集中力が底をつく。人間は疲れる。疲労は出せる力の最大値を削る。休むことも職務のうちだ。
とくに経験の浅い者はその加減がわからない。無理に気を張り続けた結果、肝心なところで判断を誤る。諜報部以外の部署では、朝に食卓を囲んだ仲間が夕方には戻らないこともある。諜報部であれば、その結末はより単純だ。単独または少数で動く以上、一つのミスが全員の終わりに直結する。誰も生き残らなければ、夕方を迎えることすらない。
だから、今は雪月に笑わせておいていい。緊張するべき場面は、すぐにやってくる。それまでは、このままでいい。東雲はそう判断しながら、建物から視線を離さなかった。
東雲はそのことを、頭でではなく身体で知っていた。15年という時間が、それを刻んでいた。隣に座る雪月は、まだそれを知らない。知らないままでいられるなら、その方がいい。しかし、この仕事を続ける限り、いつかは知ることになる。だから今は、できる限り安全に、経験を積ませる。それが今の東雲の役割だった。木陰の涼しさの中、二人の呼吸だけが静かに続いていた。時間が経つにつれて、廃墟の輪郭が目に馴染んでくる。変化があれば、気づける。そういう状態になるまで待つことも、任務のうちだ。雪月もそれをわかり始めているようだった。最初は落ち着かない様子だったが、今は静かに廃墟を見据えている。呼吸も乱れていない。悪くない。
「……」
「東雲さん。……東雲さん?」
雪月が声をかけるが、東雲はすでに一点を見据えて動かなかった。その視線の先に、何かがある。雪月も慌てて同じ方向へ目を向ける。一見、何も変わらない廃墟の景色だ。だが、東雲がこうなるときは必ず理由がある。雪月は息を潜め、目を凝らした。
風が草を揺らす。木々がざわめく。
そして雪月は気づいた。廃墟の一角、崩れた窓枠の隙間に、わずかな動きがある。人影だ。一つではない。少なくとも二つ、いや三つ以上の気配がそこにある。
東雲がゆっくりと小銃に手をかけた。雪月も無言でそれに倣う。言葉はいらなかった。次に何をすべきか、身体が自然と答えを出していた。




