第一章 閑話四:月光のもとに晒されて
山中へ入って二日目の夜。東雲さんが装備の確認をしている傍らで、私は明日のことを考えていた。
到着したらまず監視。相手の数も素性もわからない。それでも東雲さんは淡々と答えを出していく。容赦ないとは思うが、それが正しいのだということも、頭ではわかっている。わかっていても、少しだけ息が詰まる気がした。自分ならどう答えただろう。同じように答えられるだろうか。まだわからない。でも、それを知るために、ここにいるのだとも思った。
先に休むよう言われた。ありがたい申し出ではあったが、正直なところ眠れる気がしなかった。目を閉じても、明日のことが頭をぐるぐると回り続けるだろう。せめて汗だけでも流せれば、少しは落ち着けるかもしれない。そう思いながら周囲を歩いていると、思いがけず小川を見つけた。月明かりに照らされた水面は透き通っていて、手を浸してみると想像より冷たかった。それがかえって心地よかった。
しばらく風呂に入れないのだ。今のうちに、と決心した。周囲に人の気配がないことを確認してから、衣服を一枚ずつ脱いでいく。夜風が素肌を撫で、思わず身をすくめた。脱いだ衣服を近くの枝に丁寧に掛け、恐る恐る川へと足を踏み入れた。
冷たさが足元から全身へと広がった。川底の石が足裏を刺すように感じられたが、それも悪くなかった。水は膝ほどの深さで、肌に触れるたびに汗と埃が流れていく。思わず声が漏れる。しばらくそのまま立っていると、冷たさに身体が慣れてきた。山の中の夜に、こんなに澄んだ川があるとは思わなかった。月明かりが水面を照らし、川底の石がぼんやりと光って見える。緊張していた肩の力が、少しずつ抜けていった。
「んっ……少し冷たいけど、気持ちいい。汗を流せるだけ良しとしましょう」
月明かりが水面を銀色に照らしている。静かで、美しい夜だと思った。明日のことも、任務のことも、この瞬間だけは少し遠くなる気がした。冷たい水が肌を撫でるたびに、緊張がほどけていくようだった。
そして、水浴びを終えて振り返った瞬間。
東雲さんと目が合った。
「はあ……さっぱりした……」
思考が、止まった。
いつから居たのか。どこから居たのか。暗がりの中、じっとこちらを見つめるその目が、月明かりの中でも静かに光っている。全身が一瞬で固まった。月明かりの下で、私は今、何も身に纏っていない。その事実が遅れて頭に追いついてきた瞬間、喉の奥から声が飛び出そうになった。東雲さんの視線が一瞬だけ私の正面を捉え、すぐに逸れた。その一瞬が、妙に長く感じられた。どこまで見えていたのだろう。鎖骨か、それとも胸元まで視界に入っていたのか。考えれば考えるほど顔に熱が集まってくる。確かめる勇気も、聞く勇気もなかった。
「なっ……あっ!?」
だが、それより早く東雲さんの手が口をふさいだ。冷えた肌に触れる手のひらは、思ったより温かかった。その温度差に、一瞬だけ意識が持っていかれる。静かで、低い声だった。抵抗しようとしたが、力の差は歴然だった。もがいても、びくともしない。やがて、抵抗することの無意味さを悟り、呼吸を整えることだけに集中する。深く息を吸って、吐く。もう一度。冷たい水に浸かっていたはずなのに、顔だけが燃えるように熱かった。
落ち着いてきたところで、ようやく口が自由になった。
「……いつから居たんですか」
「水が冷たいと言っていたところからだな」
「最初からじゃないですか!」
信じられない。いや、信じたくない。全部見られていたということだ。せめて声くらいかけてくれればよかったのに。そう思いながらも、戻ってこなかった自分にも落ち度があることは否めない。夜の山中で10分以上姿を消せば、警戒するのは当然だろう。……そう、当然のことだ。私は自分にそう言い聞かせながら、枝に掛けていた衣服を手に取った。手が、少し震えていた。濡れた肌に布が張り付く。髪からはまだ水が滴り落ちていて、首筋を冷たく伝っていった。
それにしても、気になることがある。
「それで……見た感想は?」
意趣返しのつもりで聞いてみた。少しくらい狼狽えてくれれば、こちらの溜飲も下がるというものだ。しかし東雲さんは、ほんの少しも動じなかった。
「気持ちよさそうにしていたな」
「またなにか違う……」
呆れを通り越して、少し笑いそうになった。どこまでもズレている人だ。でも、その視線に下心がなかったことは、私にもわかっていた。東雲さんはただ、私の無事を確認しようとしていただけなのだ。それがわかるから、怒りきれない自分がいる。……それがまた、少し悔しかった。
元の場所に戻ると、東雲さんに先に休むよう促された。粗い毛布を頭まで被って目を閉じる。遠くで虫が鳴いている。川の冷たさがまだ肌に残っていた。頬の熱は、まだ引いていなかった。背後で東雲さんが静かに見張りを続けている気配がする。その存在を感じながら、じわじわと眠気が押し寄せてきた。
月明かりの下で、東雲さんはまだ見張りを続けているのだろう。晒されたのは身体だけじゃなかったかもしれないと、そんなことをぼんやり考えながら、私はいつの間にか眠りに落ちていた。明日には廃墟へ向かう。何が待っているかはわからない。それでも、あの背中がそこにある限り、なんとかなるような気がした。根拠のない確信だったが、今夜はそれで十分だった。
夢は見なかった。少なくとも、覚えていない。気づいたら朝だった。それでいい。今日も、動き続けるだけだ。




