第一章 第八話:到着前夜
山中へ入って二日目の夜。明日の昼前には目的の駐屯地跡へ到着する予定だ。焚き火を起こすほどの余裕はない。月明かりだけを頼りに、東雲は黙々と装備の確認を進めていた。武器をはじめとした道具類のメンテナンスも兼ねて、一つひとつ手に取り点検する。戦闘が起きても問題のないように。それと同時に、明日の目的も頭の中で整理しておく。
「戦闘になると思いますか?」
「どうだろうな」
「……随分と適当ですね」
雪月の声には呆れが滲んでいた。それでも、不安そうな色はない。東雲は手を止めることなく、銃の遊底を引いて確認する。
「到着したらまずは監視だ。何も知らずに突入はできない」
「最終目標は?」
「工作員を含む不穏分子の捕縛及び排除だ」
「了解です」
「捕縛が望ましいが、相手の数がわからない。排除を前提に、リーダークラスを一人か二人捕縛できれば十分だ」
「それは……容赦なしですね」
「俺たち二人で安全に捕縛できる人数には限りがあるからな」
より多くの情報を得ようとして、こちらが壊滅しては意味がない。攻めることも必要だが、引き際を誤らないことはそれ以上に大切だ。情報は持ち帰ることができなければ、ないのと同じだ。月明かりの下、東雲の声は静かで、淡々としていた。
明日が正念場だ。東雲は小銃を傍らに置き、静かに目を閉じた。
「先に休め。最初の見張りは俺がやる」
「……お言葉に甘えて。少し外しますね」
そう言って雪月は茂みの向こう側へ消えていく。あまり目の届かない場所へ行かれるのは好ましくないが……まあ、しょうがないだろう。山中での生活において、そういった事情は避けられない。東雲は小銃を膝に置いたまま、周囲の暗がりへ視線を走らせた。虫の声。風の音。それ以外は静かだった。
……明日は荒れるかもしれないな。こちらはまだ相手が何者かすら知らない。いくつかの候補は挙げられるが、それはあくまで推測に過ぎない。候補が多いということは情報が足りていないということだ。目標が定まっていない以上、どれだけ想定を重ねても浅いままだ。明日、その答えを確かめる。
「……それにしても、なかなか帰ってこないな。もう10分は経つか」
耳を澄ます。風が木々を揺らす音、遠くで虫が鳴く声。それ以外に物音はしていない。戦闘に関わる音は皆無だ。通常であれば問題ないと判断するところだが、夜の山中で単独行動が10分を超えれば話は別だ。……それに、初任務の新人を一人で放っておくのも気が引ける。確認しに行くか。
物音ひとつしない森の中、東雲の足だけが音もなく地を踏んでいく。雪月が消えていった茂みへ踏み込み、警戒しながら歩くこと5分ほど。やがて木々の合間から、月明かりを映した小川が見えてきた。そして雪月を見つけた。
……一糸纏わぬ姿で、川の中に立っている。
ふと視線をずらすと、衣服が近くの枝に丁寧に掛けられていた。雪月は背中を向けているため、東雲にはまったく気づいていない。月明かりが水面を銀色に照らし、そこに映る白いシルエットがゆらゆらと揺れている。濡れた白髪が肩と背中に張り付き、細く華奢な輪郭を縁取っていた。月明かりに透けるような白い肌、水面から出た肩は想像以上に細く、濡れて際立つ鎖骨が月光を受けてかすかに光っている。くびれた腰から膝へと続く線が、揺れる水面にぼんやりと映し出されている。水は膝ほどの深さだろうか。川底の石が透けて見えるほど澄んでいる。東雲はすぐに視線を周囲の暗がりへ移した。出発の前夜、しばらく風呂に入れないことを嘆いていた顔を思い出す。澄んだ川を見つけて、洗い流しに行かずにはいられなかったのだろう。
気配を消したまま、東雲はあえて声をかけずに待つことにした。下手に声をかければ余計な騒ぎになる。それだけの判断だった。視線は雪月ではなく、周囲の木々と水辺の暗がりへ向けている。万が一、この場所に敵の目があれば。そちらの方がよほど問題だ。
「んっ……少し冷たいけど、気持ちいい。汗を流せるだけ良しとしましょう」
水音に混じって、小さな吐息が夜の空気に溶けた。東雲は視線を川から外し、背後の森へと向けた。水音が聞こえる限り、雪月の無事は確認できる。それで十分だった。
あれからさらに五分ほど経った頃、不意に水音が止まった。雪月の水浴びが終わったのだ。濡れた白髪が月明かりを受けて光り、水滴が肩から背中へと伝って落ちていく。そして振り返った雪月と、東雲の目が合う。
「はあ……さっぱりした……」
振り返った雪月の正面が月明かりに晒された。細い肩、水滴が伝う鎖骨、胸は慎ましく、全体として華奢という言葉がよく似合う体つきだ。東雲は一瞬で視線を雪月の目へ戻した。暗くてよく見えないが、長年の経験が次に起こることを静かに告げていた。
「なっ……あっ!?」
考えるより先に、身体が動いていた。素早く距離を詰め、東雲は雪月の口をふさぐ。濡れた肌はひんやりとしていた。雪月の身体がびくりと震え、次の瞬間には必死に抵抗し始める。
「叫ぶのはまずい。落ち着け」
しばらく雪月は抵抗するが、やがて観念したのか、少しずつ呼吸を整え始める。そして最後に、深く息を吸って吐いた。
「……いつから居たんですか」
「水が冷たいと言っていたところからだな」
「最初からじゃないですか!」
「川に入るところは見ていないが……」
微妙にズレた回答をする東雲に、雪月は力尽きたようにため息をついた。
「声をかけてくれればよかったじゃないですか」
「10分以上戻ってこなかった駄賃だと思えば、安いものだろう」
「駄賃って……人の裸で駄賃はないでしょう」
とはいえ、戻ってこなかった自分にも落ち度があることは否めない。休息中に相方が10分以上戻ってこなければ、警戒するのは当然だろう。……そう、当然のことだ。雪月は自分にそう言い聞かせながら、枝に掛けていた衣服を手に取った。濡れた肌に布が張り付く。髪からはまだ水が滴り落ちていた。
「それで……見た感想は?」
「気持ちよさそうにしていたな」
「またなにか違う……」
最後までズレていた東雲であった。夜の森は静かで、二人の声を吸い込むように木々がざわめく。明日、あの廃墟で何が待っているかはまだわからない。二人は元の場所に戻った。先に仮眠を取るよう東雲に促され、雪月は黙って目を閉じた。




