87日目
勇人の余命は、長くない。
一昨日その話を谷川さんから聞いた時、私は膝から崩れ落ちそうになった。願いは届かなかったのだと。
病名は「間質性肺炎」という聞き慣れないものだった。でも、谷川さんの声から、それがどれだけ深刻なものかはすぐに分かった。
癌の進行によるものではなく抗がん剤の副作用ということだったけど、どちらにせよ命に関わるものであるのには変わりがない。そして……肝心なのは、これが「不治の病」であるという点だった。
私には、医学についての詳しいことは分からない。ただ、一回なると不可逆的に肺機能が戻らなくなるという病気らしい。癌にもなりやすくなるということだった。
思えば、異変は最近感じていた。
日曜の結婚式の後、「近々会える?」と電話したけど「そのうち、な」と返された。こんな素っ気ない態度は、今までなかった。既にその時から少し苦しそうだった。
体調が悪いのではと思い、LINEで送ると「そのうち治るけん、ごめん」と短く返ってきた。きっと、彼なりに私に気を遣っていたのだろう。
そのLINEも水曜からは返ってこなくなった。一昨日からは未読のままになっていた。
そこで、谷川さんに電話したのだ。お母様だと、動揺するかもしれないと思ったのだ。
嫌な予感は、必ず的中する。私はそれを痛感した。
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「美里、どうしたっちゃね?」
ママの声が居間から聞こえた。土曜日なのに、昼過ぎまで自分の部屋に娘がこもっていたら、それは心配にもなるだろう。でも、返事をする気力すらない。
「……何かあったとね?勇人君と?」
「……しばらく、一人にさせて」
「ご飯、ここに置いとくから。食べないと辛かよ」
コトリ、と部屋の外に何かが置かれた。食欲なんて、湧くはずもない。
一昨日、そして昨日と私はずっと泣いていた。学校に行く気力すらなかった。でも、ズル休みももう限界だ。
……前を向かなきゃ。辛い時ほど、パパは笑っていた。その真似をするのだ。
作り笑いをしてみる。でも、それはすぐに涙で崩れる。涙は枯れ果てるなんて嘘だ。本当に辛い時は、泣いても泣いても足りないのだ。
パパは、凄かったんだな。……そう思うと、なおさらに泣けてきた。私は……パパみたいにはなれそうもない。
ティロン
LINEの受信音が鳴った。……誰だろう。
「DRAGON」
……勇人のお兄さんから??スマホをタップして確認する。
『今、家の近くにおる。少し、出てきて話せんか』
……どういうことだろう?確かに、彼は私の家を知っている。ここを「隠れ家」として用意したのは、他ならぬ彼だ。
しかし、話したいことがあるって……
私は1分ほど考えて、メイクを始めた。勇人のことを、彼が知らないはずはない。彼の考えを聞いてみたい。そう思ったのだ。
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「おお、来たね」
フルフェイスのヘルメットを被ったまま、勇人のお兄さんは言った。
「外さないんですか?」
「一応念のため、な。まあ『まだ』安全やと思うけど」
勇人のお兄さんは、軽く辺りを見渡した。
「ここじゃなんですから、お上がりになっては」
「や、ここでいい。すぐに逃げられるようにしときたいけん」
大型バイクにまたがったまま、彼は言った。やはり、追われる身のままらしい。
「……用事は、何なんですか」
「2つある。まず、勇人のことっちゃ」
ゴクリ、と私は唾を飲み込んだ。そっちから切り出してくるとは思わなかった。
「え……?」
「心配なか。俺が何とかするけん」
「何とかって、できるんですか!?」
お兄さんは小さく頷いた。
「ただ、詳しくは言えん。そう遠くないうちに分かる。勇人にも、俺から伝えるっちゃ。数日耐えられれば、大丈夫」
「……え?」
声には惑いはない。嘘や慰めではないみたいだ。
「だから、君も勇人を信じて、励ましてやってほしいん。あいつは病気に負けん。そう信じてるし、君にも信じてほしい」
私は思わず首を縦に振った。お兄さんって、こんな力強い人なのか。
「……よかよか。で、もう一つ。できたらでええんやけど……」
その後の言葉に、私は絶句した。
「そんなの、できるわけがっ!!?」
「川口を、天岩戸から引きずり出すには必要なんや。頼む」
「……そんな」
彼の提案は、余りに危険だ。彼は私の身を危険に晒そうとしている。
お兄さんが、自分の恋人を川口に殺されたのは聞いていた。一連の出来事の目的が、彼と宮東会への復讐であることも。
ただ、それにしてもこれは、賭けだ。それも、勝算がとてもなさそうな、危なすぎるギャンブルだ。
「迷うのは分かる。ただ、君の身には傷一つ付けさせん。そう、手配する」
「手配?」
「おっと」と、お兄さんは口に手をやった。
「喋りすぎたたい。とにかく、君がすべきなのは、1本の電話。後は、向こうから居場所を教えてくれる。
川口は、法だけでは裁けん。物理的にも、社会的にも殺さんといかんっちゃ」
誘拐されかかった時の恐怖が思い出され、私は身震いした。
言わんとしていることは、よく分かる。あんなことをする人が、マトモであるはずがない。
私はしばらく考え、聞き返した。
「本当に大丈夫なんですよね」
「俺が保証するっちゃ」




