75日目
「……参ったっちゃね」
僕は薄汚れた天井を見上げた。カビと埃の臭いがわずかにする。
苅田のアパートは電気が使えたのでまだ良かった。ここは宮若のアジトと同じで電気が通っていない。バッテリーから電気を取る必要があるのは、なかなか辛い。
とは言っても、「参った」のはもっと別のことだ。
川口の動きが、想定より早い。それも、かなり。
黒原を使ってくるのは読めていた。僕らの狙いが宮東会だけではないかもしれないことは、黒原を通して伝わっていたかもしれない。
ただ、それにしても、だ。洋さんたちが柏木さんとともに彼の身辺を探り始めたことに対する反応が早過ぎる。
川口は政界のサラブレッドだ。総理大臣を祖父に持ち、炭鉱利権から筑豊で絶大な支持を持っている。
しかも50前と比較的若く、ルックスも整っている。スタンフォード大卒のエリートで、政策にも明るい。
つまるところ、ただのボンボンではない。頭は切れるし、何かしらの問題が自分に降りかかろうとしているのを本能的に察知したのかもしれない。
偶然とはいえ、勇人の彼女のルックスはいい。洋さんの彼女である宮崎記者も、袴田によれば美人とのことだ。
2人とも、川口のお眼鏡にかなっている可能性は高かった。あるいは、そっちが先だったのかもしれないけど。
趣味と実益を兼ねて、彼女らを拐う。そして、これまでの犠牲者同様に犯して、文字通りの闇に葬る。それが、川口の描いたシナリオだろう。
こちらが打てる手は減っている。仲間はもう3人になってしまった。逃がすのが早過ぎただろうか。
しかも、袴田は警察に身元が割れてしまった。来週頭までには逃がしたいけど、間に合うか若干自信がない。
「明日、か」
時間はない。洋さんに仕込んだ盗聴スパイウェアから、宮崎記者の取材時間は把握している。手段を選んではいられない、か。
僕は電話を掛けた。最後の協力者にして、最強の守護者だ。
彼には一番厳しい役割を背負わせてしまった。早く離脱させたいけど、彼もまた命よりも復讐に重きを置く男だ。
何度説得しても、決して首を縦に振ろうとはしない。死ぬのは僕だけでいい、生きることが彼の兄さんの望みだと言っているけど……その意思は、あまりに堅い。
「もしもし」
「俺たい。そっちの状況は」
「読み通り、動かんとです」
「賭けやったけど、良かったたい。で、頼みがあるんやけど」
僕はその計画を彼に告げた。沈黙の後、「正気っすか」と言葉が返ってくる。
「正気っちゃ。一般市民にも被害を出さず、かつ明日宮崎記者の殺害を防ぐには、これしかなか」
「でも、それはあまりにリスクが大きくなかですか?警察だって馬鹿じゃなかです、すぐに捕まってしまうとです。それに……」
「川口を殺せんようになるかも、やろ?確かにガードは堅くなるやろね。
でも、俺の目的は自分で殺すんじゃなか。全てを白日の下にさらけ出し、絞首台に送る。そのためには、むしろガードを固めてもらった方がよか」
「……え?」
計画を遂行すれば、柳澤と黒原との間の膠着状態はさらに長引くだろう。少なくとも、抗争どころではなくなる。
川口も身の回りを固めるだろう。ただ、誰かを拐って沈めるようなこともできなくなる。
後は、僕がある程度逃げ切ればいい。
「まあ、それはそのうち分かることっちゃね。とにかく、言った通りの仕込みを頼むっちゃ」
「了解です」
電話が切れた。
また、引っ越さないといけないんかなあ。そう思い、僕は自嘲気味に笑った。
……恐らく、これが最後の引っ越しになりそうだ。
しかし、まだやるべきことは残ってる。それも、山ほど。




