73日目
「こんにちは……」
帽子を目深に被った美里が玄関にいた。手には何かの袋を持っている。
「誰かに尾行られてなかった?」
「うん、大丈夫だった」
後ろから母さんが顔を出す。
「あら、美里ちゃん。少し早かったのねぇ」
「あっ、はい!おば様、こんにちは。こちら、お見舞いの品です」
「あらあら、これは?」
「飯塚の『スペリオーレ』のプリンです。皆さんでお食べください」
「『スペリオーレ』!小倉からわざわざ飯塚にって、大変じゃなかと?」
「あ、今ちょっと飯塚に少し引っ越したんで……」
「……そうなん?まさか」
母さんの顔が曇った。美里はハハハと笑って誤魔化す。
「いえ、ちょっと事情がありまして」
「ならいいんやけど。ここで立ち話もなんだし、上がってっちゃ」
拐われかけた話も兄ちゃんの話も、母さんに話すには刺激が強すぎる。美里もそこは心得ているようだった。
「母さん、まだ出掛けなくていいん?」
「あ、何かあるんですか」
「巴の……勇人の姉の結婚式が来週やから、その打ち合わせっちゃ。本当は勇人も連れていきたいんやけど、まだそんなに外出できる体力はなかけん」
「そういえば。結婚式、実は初めてなんですよ」
ふふっと母さんが笑う。
「次は勇人と美里ちゃんの順番になるといいねぇ。ささ、こっちっちゃ」
僕らはリビングに通された。母さんがお湯を沸かし始める。
「夕方までには帰ってくるけん。変なことしたらあかんよ?」
「そんなことせんって」
身体の具合は少し良くなったけど、とてもそんなことをする状況でもない。
それに、今日来てもらったのには、もっと別の理由がある。
母さんが紅茶の入ったポットと、美里からもらったプリンを置いた。
「じゃ、行ってくるっちゃ」
「うん、気を付けて」
玄関のドアが閉まる音がした。その瞬間、空気が少し重くなったように感じる。
「……身体、本当に大丈夫なん?」
「うん。癌は消えかけてる。あと一回抗がん剤を投与すれば、大体終わりだろうって先生が」
「そうなん!!?良かった……!!」
目が潤んでいる美里を見て、僕は複雑な気持ちになった。
僕が下した決断は、賭けだ。僕の身体が、僕自身の免疫細胞に勝てるかどうか。
幸い、ここ数日の体調は悪くない。明日は学校に通えそうなくらいだ。
ただ、油断ができる状況でもない。間質性肺炎になったなら、その時点で命はそう永くないという。
根本的な治療は、ほとんどない。肺移植という手はあるらしいけど、そう都合よくドナーは現れないという話だ。
「……どうしたの?」
「や、何でもなか。美里こそ、大丈夫なん?」
「うん、一応……それにしても、お兄さんはどこにいるんやろね」
「そやね……それに、何で今現れたんやろ」
兄ちゃんは、美里を見守るにも仲間を使っていた。それぐらい今までは用心深かった。
それが、直接美里を助けたのは何でだろう?そして、飯塚という場所に、美里たちの「避難場所」を用意していた理由は?
洋さんによると、兄ちゃんの協力者の人が田川にいたらしい。飯塚も田川も筑豊地区だ。兄ちゃんがあの近辺にいる可能性は高い。そこまではいい。
じゃあ、今まで現れなかったのに、今現れた理由は。美里が危険に晒されたから?……何か引っ掛かる。
美里がプリンを口にして考え込んだ。
「……お兄さん、死ぬつもりって言ってたっちゃ?」
「うん」
「パパのこと、思い出したん。もう永くないって分かった時、想い出の場所に行ったり、親戚や友達に会ったりしてた」
「……だから、自分から?」
「どうなのか分からないっちゃ。でも、結婚式に全然出ないってことはないと思う」
……美里の言うことはもっともだ。僕も、いつまで生きられるか分かったものじゃない。
だからこそ、兄ちゃんに会いたかった。会って、不安や恐怖を全てさらけ出したかった。このまま会えないで逝くのは……あまりに辛すぎる。
どちらが逝くかは、今は分からないけど。
……いや、僕も、兄ちゃんも、死なない。少なくとも、兄ちゃんをこのまま死なせるわけにはいかない。
とすれば……
僕の頭に、ある考えが浮かんだ。どうやってるか分からないけど、僕の行動は大体兄ちゃんに把握されてる。でも、それは恐らくはスマホの音声を通してだ。画像じゃない。
もし画像なら、カメラが立ち上がっているはずだ。そうじゃないとしたら、GPSと音声だろう。
スマホを変えてしまえば、兄ちゃんに僕の行動は把握できなくなる。ただ、それはリスクも高い。
とすれば……筆談だ。兄ちゃんが来週の日曜、姉ちゃんの結婚式の会場である小倉Rホテルに現れると、事前に警察に言えば……?
警察に捕まるなら、兄ちゃんは少なくともすぐ死ぬことはない。そして、兄ちゃんの復讐の本命である川口財務大臣を、その間に倒してしまえば……?
大それた考えだと、自分でも思う。ただ、洋さんならこの考えをもっと上手く遂行してくれるはずだ。
実際、洋さんたちは洋さんたちで、川口財務大臣を追い詰めようとしている。悪い考えじゃない。
「……どしたん?ニヤニヤして」
「あ、ごめん。ちょっと……な」
明日は学校に行けるはずだ。放課後、洋さんに会おう。
そこからは筆談だ。……兄ちゃんは、死なせない。




