70日目
兄ちゃんが、美里の前に現れた。
その事実を知った時、僕は嬉しさと驚きと混乱で、思わず叫んだ。病院の6人部屋にいるにもかかわらず。
すぐに注意され謝ったけど、鼓動は全く収まらなかった。久しく興奮することも運動することもなかったから、胸が少し苦しく感じたほどだ。
兄ちゃんは、やはり僕らをちゃんと見ていたのだ。……なら、僕の前に現れることはあるのだろうか?
僕の治療は、曲がり角を迎えようとしていた。
#
「……難しいですな」
笹川教授がモニターを見ながら呟いた。
「治らない、んですか」
「いえ、オプジーボの効き目は非常に良く出てます。想像以上に勇人君の身体に合っているとすらいっていい。
問題は、『効きすぎている』ことなんです」
「……え?」
母さんが呆気に取られた顔をした。
「ガンマーカーは非常に良く下がってます。もう一度投与すれば、ひとまず寛解と言っていい状態になるでしょう。
ただ、肺がやはり良くない。機能が落ちてます」
「肺、ですか」
「オプジーボはとても強力な薬です。身体の免疫を強めることで、癌細胞を殺す薬です。
ただ、強くなりすぎた免疫細胞は、ところ構わず健康な細胞を攻撃してしまうこともある。肺の線維化は、その一例です」
「線維化」
「攻撃の結果、肺が固くなってしまう。前にも話したことがあるはずですが、それは肺炎を引き起こします。
そうなると、正直に言って厳しい。進行はオプジーボを止めれば治まりますが、一度線維化した肺は元にはなかなか戻らない。
癌ではなく、薬によって勇人君が死んでしまう場合がある。それを恐れる局面に来ています」
「……だったら、投与を止めて下さい!」
母さんが叫ぶ。笹川教授は、静かに目を閉じた。
「……ここからは、賭けです。寛解するか、間質性肺炎になるか。
あと1回の投与で、どちらに転ぶか分かります。ただ、投与しなかったなら、勇人君の癌は遅かれ早かれ転移するでしょう」
「……………」
重苦しい沈黙が部屋を包んだ。教授が僕の目を見る。
「君は、どうしたい」
「え」
「もう高校3年だ。未成年とはいえ、君の意思が尊重されるべきだと私は思う」
脳裏を色々なことがよぎった。兄ちゃんのこと、美里のこと。父さんや母さん、姉ちゃんのこと。
……僕が選ぶべき選択は……
#
僕は数時間前、1つの決断を下した。どちらが正しいのかは分からない。ただ、それに悔いはない。
天井をぼーっと見る。兄ちゃんは、どういう想いで美里の前に現れたんだろうか。
少なくとも、僕に兄ちゃんと同じ悲劇を受けさせたくはないというのは確かだろう。
ただ、美里はまだ安全ではない。どうなれば、兄ちゃんは満足するのだろうか。
兄ちゃんは銃を持っていたと、美里はメッセージを送ってきた。
ただ、発砲事件のニュースは、僕が知る限りどこにも流れていない。何かが変だ。
僕はスマホを耳に当てた。今日は比較的気分がいい。話すだけの体力はある。
「勇人か」
「洋さん、今お時間は」
「大丈夫だ。そっちの具合は」
「今日は調子いいです。それより……」
「久住さんの件だな」
……やはり、洋さんは知っていたか。とすると、マスコミは敢えて報じてない?
「どうしてどこも昨日のことを報じてないんですか」
「警察も信用ならなくてな。君も会っている善村刑事と、その上司にしか情報を上げてない」
「……え?」
「彼女を誘拐しようとしたのは、宮東会で間違いはない。ただ、前と違って主導したのは黒原じゃない。
宮東会と繋がりが深い、川口財務大臣だと私は踏んでいる。君も薄々分かってるかもしれないが」
「……あっ」
そうか。川口財務大臣なら、警察の捜査すら握り潰せる……。
「そういうことだ。警察に言えば、狙われるのは辰夫だ。拐おうとした宮東会ではなく。
それが読めてるから、私も警察の一部も動かない。決定的な尻尾を捕まえるまでは」
「それは、どうやって」
「今動いてもらってる所だ。ただ、心配なのは久住さんだな」
美里は飯塚にいると伝えてきていた。小倉まで通学するのは、かなり大変になったらしい。
「……ええ。大丈夫なんですか」
「気になるのは柳澤だ。彼がどうしているのか、正直に言って分からない。那珂川が誘拐されてからあちこち探し回っているらしいが……」
「そもそも、彼が味方かはかなり怪しいですよね」
「そうだな。彼には頼れない。……ちょっと待ってくれ」
洋さんが、電話の向こうで何かガサゴソやっている。そして「あっ!!!」と叫んだ。いつも冷静な彼にしては、とても珍しい。
「どうしたんですか?」
「……今、警察から連絡が来た。那珂川が、射殺体で発見された」




