62日目
「……………」
レントゲン写真と何かの数値が映ったモニターを見て、笹川教授が黙りこんだ。
「息子の具合、良くないんですか」
「……いえ。恐らくは癌については順調です。ちゃんと癌細胞は減っている。……ただ」
教授がある数値を指差した。
「パルスオキシメーター。血中酸素濃度があまり良くない。97%以上が平常時ですが、96%。ちょっと微妙なんです」
「どういうことですか?」
「肺機能が落ちているかもしれない。兆候は前回から少しあったんですが、肺活量も落ちているので気になります」
「……まさか」
母さんに笹川教授が「とんでもない」と慌てたように笑った。
「肺転移ではないです。短期間に再発ということなら相当に危険ですが、レントゲンを見る限り心配は無用です」
「じゃあなぜ」
「副作用です。オプジーボの副作用に『間質性肺炎』というのがあります。平たく言えば、肺の組織が固くなり呼吸困難になってしまうというもので、予後は正直良くありません。
その可能性は、現状排除できない。可能性も小さいですが」
「そうなったら」
「オプジーボの投与は即刻中止。間質性肺炎の対症療法に切り替えざるを得ません。
メラノーマの治療は、そこで仕切り直しです。今のところかなり効きはいいので、何事もなければ寛解が見えてくるのですが」
診療室の空気が重苦しい。僕は思い切って口を開いた。
「これから、どうなるとですか」
「3クール目はとりあえず予定通り。ただ、ちょっと慎重に見ていきたいと思う。
繰り返すが可能性は小さい。それでも、体調管理は気を付けて」
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「本当に、大丈夫なんね」
帰りの車の中で、母さんが言う。表情は冴えない。
この前の土曜から、ずっとこうだ。50前にしては若々しい母さんだったけど、急に老け込んだ気もする。
「大丈夫って、俺のこと?」
「両方っちゃ」
「……俺については、まあ。肺機能が落ちているって言っとったけど、自覚症状もないし」
「本当ね」
「……うん」
これは嘘じゃない。相変わらず身体はだるいし体力は落ちたけど、そこまで強烈な違和感があるわけじゃない。
ただ……
「辰夫はどうなんね」
……来た。正直、母さんに何を伝えるべきか、僕は迷った。
洋さんから、昨日宮東会の幹部が誘拐されたらしいという話は聞いた。洋さんの推理では、それは兄ちゃん「たち」の仕業らしいと。
しかし、だとしたらそれはあまりに無謀だ。そんなことをして、兄ちゃんたちが無事でいられるわけがない。……普通に考えたら。
僕はサイドミラーから後ろを見た。いつもなら尾行ている黒塗りのシーマは、なかった。
洋さんの言う通り、柳澤は僕らのことどころじゃなくなったらしい。今のところ、その幹部を誘拐したのは宮東会内部の別のグループだと思い込んでいるらしかった。
この前の爆発騒ぎで、兄ちゃんの師匠と思われる人たちを柳澤は救出したという。その際、一緒にいたのが奴と対立する一派だとすれば、向こうには幹部を拐う動機がある。
「……勇人、どうなん?」
母さんが語気を強めた。僕は小さく首を振る。
「……分からん」
「分からんって?」
「兄ちゃんが何を考えとるか。何してるか。さっぱり分からんたい」
それは本音だ。そもそも、幹部を誘拐したのが兄ちゃんだという保証もない。不確かなことは言えない。
母さんの目から、一筋涙が溢れた。
「……あの子は……ずっと抱えすぎなんよ。辛いことがあっても、いつもニコニコして……何もないふりして傷付いとる。
せめて、少しくらい……頼ってもよかっちゃ?」
「……うん」
兄ちゃんの真意はどこにあるのだろうか。一つ言えそうなのは、洋さんの推測が正しいなら……宮東会と刺し違える意思は、相当堅いのだろうということだ。
僕は、土曜に皆で見た2つめのフォルダの中身をふと思い出した。開けるなと言われたけど、それで開けない人はいない。
その中には、サイズが1ギガもする拡張子がよく分からないファイルがあった。洋さんも色々調べたけど、分からずじまいだったものだ。
あれは、この件と何かしら関係があるのだろうか。あのタイミングで僕らにパスワードを送った、ということには絶対に意味があるはずだ。
1ギガもするファイルということは、普通のプログラムじゃない。動画か何か、なのだろうか。
だとしたら、何でそんなものを僕に委ねたのだろう?しかも見れないファイルを預ける意味なんて、さっぱり分からない。
……いや、見れないと思い込んでいるだけ?
例えば拡張子を少し変えれば見えるかもしれない。そんな単純なことだとしたら……
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その思い付きを、僕は後悔することになる。




