38日目
「……クソッ」
空が白みはじめてきたのに気付き、僕は思わず毒づいた。
手術の後ずっと気分がすぐれない。熟睡できないまま、僕は一夜を過ごした。
「リンパ節を取った影響は多少ともある」と笹川教授は言っていたけど、きっとこれはそれだけじゃない。
原因は分かっている。昨日洋さんが連絡してきた件だ。
兄ちゃんは、死ぬつもりだ。
どういう理由か、何をしたいのか。それはさっぱり分からない。
ただ、兄ちゃんは逃げるのを諦めている。少なくとも、洋さんからの情報が正しいのなら。
僕にできることが、何かあるだろうか。一晩ずっと考えていたけど、全く答えは出なかった。
そして、一番気になったのは……このことだ。
「僕が闘病中である限り、柳澤は僕にも兄ちゃんにも手を出さないだろう」
つまり、治らない方が兄ちゃんにとってはいいのだろうか?もちろん、死んだ場合は兄ちゃんは殺されるらしいのだけど。
かといって、治った場合でも柳澤は兄ちゃんを殺しに行くだろうという。あの洋さんすら、その意味を理解しかねている。
僕はどうすればいいのだろうか。答えのない堂々巡りに、僕は疲れ果てていた。
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「随分気分が悪そうだね」
僕を見るなり、笹川教授が眉をひそめた。
「ええ……すみません。どうも気分が晴れなくて」
「不安なのは分かるが、病は気からという。気持ちを強く持ってほいい。免疫力に大きく関わってくることだからな。
もし何かあるなら、いつだって相談に乗るよ。小児がん用のカウンセラーもいる」
「あ、ありがとうございます……」
と言われても、こんなことを教授に言えるはずもない。かといって何かできるわけでもない。
色々な不安だけが、僕の中で膨らんでいく。頭がどうにかなりそうだった。
そんな僕に関係なく、笹川教授は話を進めていく。
「とにかく、今日からオプジーボの投与を始めていくぞ。オプジーボは平たく言えば『体の免疫機能を高めて癌細胞への攻撃力を高めさせる』薬だ。
前にも説明したが、投与は2週間に1回。今回はリンパ節郭清の手術もあるから入院期間を長くとったが、今後は定期検査を含めての1泊2日になる。点滴を1時間ぐらいかけて行うだけで終わる」
「……抗がん剤だから、副作用とかあるんですよね」
「もちろんある。大体は怠くなったり、皮膚に発疹ができたりするね。かなり厳しい怠さと気持ち悪さだから、そこは覚悟してくれ。
最悪なのは間質性肺炎だ。即命に関わるから、そうなったらオプジーボを止めてしばらく治療を止めないと話にならなくなる。
怖がらせるつもりはないが、これは事実だ。既に君のお母さんには話したことだが、その上で同意してほしい」
「……はい」
副作用の重さなど、今抱えている不安に比べれば大したことはない。治すことに集中するんだ。僕は自分に言い聞かせた。
「了解だ。じゃあしばらくしたら投与を始めようか。面会は普通に受けていいから、安心していいぞ」
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オプジーボの投与は実にあっけなく終わった。あんな少しの点滴だけで治るんだろうか?
とりあえず、今のところは副作用らしい副作用は感じられない。まあ、そりゃすぐに出るものでもないのだろうけど。
ぼんやりと天井を眺める。……答えが出ないことを悩んでもしょうがないのだけど、やはり心は落ち着かない。
「面会ですよ」
例のギャルっぽい看護師の声が聞こえた。入口に目をやると、美里がいる。
「勇人、元気?」
「あ……うん。元気っちゃ」
つい強がりが出た。しかし、こんな状態でそれが通るほど、美里は鈍くない。
「手術終わって大変じゃなかと?あんまり寝れてないみたいっちゃ」
「……ごめん」
心配そうな顔で彼女はベッドそばの椅子に腰かけた。バッグから何かの包みを取り出している。
「これ。千羽鶴は迷惑らしいから、とりあえず」
中にはフルーツゼリーが幾つか入っている。それと、この前の「アマビエ」のキーホルダーだ。
「ゼリーなら体調悪くても食べられるけん。キーホルダーは、お祈りも込めてっちゃ」
「……ありがと。……本当に」
思わず目頭が熱くなった。……やっぱり精神的に弱ってるんだな。
「前向こ?きっとよくなるけん。私も……そう信じてるっちゃ」
美里の声も震えている。……僕は悩んだ。兄ちゃんのことを伝えるべきかどうかを。
しかし、この病室には他にも人がいる。伝えるにしても、できれば2人きりで話したかった。……どうしよう。
「……どしたん?」
「……ちょっと大事な話があ……」
「戸倉さん、お母さんが来ましたよ」
看護師の声とともに、母さんの顔が見えた。姉ちゃんと高杉さんも一緒だ。……これは話す雰囲気ではないな。
「勇人、調子はどうね……って美里ちゃんやっけ??」
「あ、お母様。はじめまして」
美里が立ち上がり、深々と礼をする。母さんは「あらあら」と彼女に近づいた。
「こちらこそ挨拶が遅くなってごめんっちゃ。本当にかわいらしい子ねえ。勇人にもったいないくらいっちゃ」
「えっ、そんな……」
「わざわざお見舞いに来てくれてありがとね?あ、こちらが姉の巴、それと婚約者の高杉君だっちゃ」
姉さんと守さんが続けて挨拶する。
「ど、どうも……」
美里が困ったように答えた。……これは、今は言うべき時ではないということなのかもしれないな。
もう少し、様子を見よう。美里まで危険に巻き込むべきじゃない。




