32日目
「……よしっと」
信号待ちの僕は右手の中指を見た。まだ糸で縫われているから違和感はあるけど、痛みはかなり引いた。
こうやって原チャを運転していても、もう大分問題はない。
さすがにすぐには無理だけど、抜糸が済んで抗がん剤治療が一服すれば、とりあえず部活にも戻れるはずだ。
勿論、試合に出たりは当分無理だろうけど、「春高」の県予選が始まる秋までには何とかなるかな。
T畑高校から自宅のあるO尾方面に向けて原チャを走らせる。……背中の辺りに圧を感じた。
「……え」
黒塗りのシーマだ。見た瞬間、これが堅気のものでないのが分かった。
煽られてる?いや、そんな運転はしていない。とすると、これは……
僕の背中に、冷たいものが一気に流れた。
逃げる?いや、原チャの速度で逃げ切るなんて絶対に不可能だ。そもそも、仮に逃げ切れたとしても今度は家にやってくるに違いない。
手段を選ばないことでは全国的にも定評がある宮東会だ。そんなことになったら母さん、引いては巴姉ちゃんたちにも被害が及ぶ。
僕はチラリとバックミラーを見た。運転席の人物の表情までは分からないけど、僕を事故らせようとする意図はなさそうだ。
国道沿いのコンビニの駐車場に入る。シーマがそれについてきた。
緊張で心臓の鼓動が高まる。その場に座り込んでしまいたくなるほど、僕は恐怖を覚え始めていた。
そして、シーマの後部座席から眼鏡をかけた男性が出てきた。
30代から40代ぐらい。身長は僕より少し低いぐらいで細身だけど、筋肉がしっかりついているのは見ただけで分かった。
ヤクザらしい見るからに粗暴な感じはないけど、眼鏡の奥の目はナイフのように尖っていて、それがとても威圧的だ。
「戸倉勇人君、だね」
「……はい」
「怖がらなくていい。私は君の味方だ」
標準語?……しかし、もちろんこの言葉は真に受けられない。僕はその場に固まっていた。
「……少し、話をしよう。後部座席に乗ってくれ。用が済んだらすぐに返す」
僕はよろめきながら彼の後をついていった。……殺される。藤木先輩のことが、頭に浮かんで視界が滲んだ。
「泣く必要はない。おい、田袋。例の場所へ」
「はい」
僕の原チャを置いて、シーマはゆっくりと走り出す。
「……兄ちゃんのこと、ですか」
「そうだ。君が知っていることを正直に話してくれ。そうすれば、何もしない」
話さなかったら殺すんだろう?口まで出かかったけど、それを言うことは自分の死を意味しているように思えてやめた。
「藤木先輩に話した通りです。東に行くとしか」
「それだけではないだろう。どこだ」
「……中部です」
もう、全てを黙っているわけにはいかない。僕は震えながら打ち明けた。
眼鏡の男が舌打ちする。
「砂川組か……いよいよまずいな。手土産を用意している、となると……」
男の目が僕に突き刺さる。僕はつい「ひっ」と声を上げてしまった。
「本当にそれだけか。渡されたものは」
「……ありません」
「……本当か」
男の顔が近付いてきた。……嘘を見破られている!
僕は思わず目をつぶった。これ以上は耐えられない……
ごめん、兄ちゃん。本当にごめん。
その時だ。
「あ……ああ……げふっ。げふげふっ!!」
胸の奥に、酷く気持ちが悪いものを感じた。それは気管から強烈な痛みとなって吐き出される。
……苦しい。まるで、溺れているみたいだ。
男の顔が歪む。でも、咳はまるで止まってくれない。
「げふげふっ、げーっふげふげふっ!!!ひゅーっ、げふげふげふ……」
「風邪か。喘息持ちなのか」
「ちがっ、げふげふっ!!違うんで、げーふげふ!!!」
3分ほど咳が続き、それはようやく収まった。……こんなに苦しいのは初めてだ。
そして、それが一体何かに思いが及んだ時……僕は絶望した。
……肺転移??
「ううっ、うううっ!!!うわああああああ!!!!」
「泣くな」
ぐいっと胸倉を掴まれる。目には明らかに怒りの色があった。
「違うんです、これは違うんです!!」
「何が違うんだ!!正直に言わなければ埋めるだけだぞ!!?」
「……本当に違うんです……俺、癌なんです」
「……は?」
男が掴む手が緩んだ。
「本当です、調べてもらえばすぐ分かります……九大病院にも通ってます。
どのぐらい悪いか、知らんとです。でも……もう先がないかもしれんと、今思って……」
男がじっと僕の目を見る。そして不意に溜め息をついた。
「……田袋、車を適当な所に停めろ」
「え、でも兄貴っ」
「いいから停めろ。予定変更だ。こいつは、嘘を言ってない」
「……分かりました」
シーマが空き地に停まった。周囲が結構な山の中なのに、今更気付いた。
「俺もこの稼業は長い。嘘を見抜くか見抜けないかは、命に直結する。
お前の言うことは本当のようだな」
男の目が柔らかくなっている。僕はそれを不思議に思った。
「……はい。明後日、検査結果が。その後……入院すると思います」
「何の癌だ。肺か」
「……分かりません。でも、メラノーマって」
「そうか……」
男は懐からアイコスを取り出すと、一息吸った。そして、窓を開けると白煙を外に吐き出す。
「お前の命、俺が預かる」
「え??」
「辰夫がお前に何かを残したのは間違いない。だが、病人を手に掛けるほど、俺も堕ちちゃいない」
「ちょっと待って下さいよ兄貴!?藤木みたいになりたいんすか??」
「田袋、俺を信じろ。親父には適当に言っておく。
弱り切った者をいびって無理矢理吐かせるのは、俺の主義じゃない」
「でもっ」
「でももこうでもねえっ!!てめえが埋められたいのかぁ!?ああんっ!!?」
運転席の男が震えあがったのが分かった。眼鏡の男が、またこちらを向く。
「すまねえな。ヤクザといっても、筋を通さねえといけない。
……弟、か。因果なものだな」
「どういう……」
「お前には関係のないことだ。田袋、戻るぞ」
シーマはもと来た道を戻り始めた。車内は重い沈黙で包まれている。
それを破ったのは、眼鏡の男だった。
「その咳、いつからだ」
「……今日、初めてです」
「そうか。……なら間に合うだろう。治ったら、全て吐け。これが俺の連絡先だ」
名刺入れから取り出された紙には、「K-PRODUCTION 社長 柳澤隆光」とあった。
「治りそうなら一報くれ。黙ってても無駄だから、そのつもりでいろ」
僕を元のコンビニに残すと、薄暗くなった道をシーマが走り去っていった。




