16日目
「……簡単なミスが多いな」
洋さんが渋い顔をした。
「すみません」
「いや、ケアレスミスは誰にでもある。ただ、ちょっと集中できてないんじゃないか」
僕はギクリとした。兄ちゃんのことや、藤木先輩のことがまだ心に残っているのかな。
「大丈夫です、今度はしっかりやります」
「ならいいが」
洋さんも少し疲れの色が見える。新聞記者って昼も夜もない仕事って聞いてるけど、息抜きする余裕ってあるのだろうか。
貴重な休日を僕の指導に充てさせているのは、とても申し訳ない気がした。しかもただで。
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「勇人、洋君、休憩する?」
「ああ、すみません」
母さんがコーヒーとケーキを持ってきた。「葡萄の木」のかな。
「どう、勇人は。ちゃんとやってる?」
「ええ。基本的に真面目ですし、教えやすいですよ。後は彼がどこの学部に行くかですね。文系だとは思うんですが」
洋さんが僕を見る。……学部か、漠然としか考えてなかった。
できればK市の外の大学に行きたいとは思っているけど。
悩んでいる様子の僕を見て、洋さんが微笑んだ。
「まだ受験まで10ヶ月ある。秋ぐらいまでに決めれば大丈夫だ、焦る必要はないさ」
「やりたいこと、探さなきゃいけないですかね」
「いや、日々の生活からそういうのが見えてくるものさ。そもそも、大学に行ってから進路が変わることもある」
洋さんがコーヒーを一口飲んだ。
「そうなんですか?」
「ああ。私は法学部だったが、入学した時は官僚になりたいと思っていた。
ただ、調べるうちに退屈そうだと思うようになってね。それで、新聞記者になった。毎日退屈しそうもないからな」
「大変じゃないですか」
「まあ、な。イライラすることもある。出会いもない。だからお勧めはしないよ」
「勇人はもう可愛い彼女がいるから大丈夫っちゃ。洋君みたいな文才があるかは知らんけど」
母さんの言葉に僕はむくれた。
「母さんは茶々入れんでくれん?」
「ほう、彼女がいるのか」
「……洋さんも乗らんと。ほら、母さん」
母さんは「じゃ、勉強頑張ってね」と去っていった。
「新聞記者になったこと、後悔しているんですか」
洋さんが少し黙った。
「……そうだな。思った通りの仕事じゃないな。退屈はしないが。
それでも、自分の記事が誰かの人生を変えるかもしれない。そう思いながらやってるさ」
……やっぱり、どこか納得してないのかな。洋さんみたいな「成功者」でも、悩みってあるのか。
僕の考えてることに気付いたのか、洋さんが苦笑する。
「誰にだって悩みはある。君にも、俺にも。ただ、とりあえず走りながら考えるしかないんだよ。
立ち止まってしまうと、動けなくなるからな。特に若いうちは。じゃ、勉強に戻るぞ」
走りながら考える、か。……そんなものかもしれないな。
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「よし、今日はここまで」
2時間の授業が終わり、僕は大きく伸びをした。
「今日もありがとうございます」
「ああ、こちらこそ。とりあえず、宿題はちゃんとやってくれ。そろそろ新学年だったか」
「ええ。7日からっす」
「そうか。何か教材渡されたら教えてくれ。推薦で大学に行く道もあるし……あ」
洋さんの顔が急に険しくなった。何だろう。
「な、何すか」
「右手の中指。見せてくれ」
微かに嫌な予感がした。僕の指を、洋さんがじっと見ている。
「……え」
「これ、大きくなってないか。1週間前に比べ、微妙に」
「……そ、そうですか」
「痛みは」
「少し」
……確かに、右手中指の爪にできた血豆は、ごくわずかに大きくなっているような気がする。形も少し歪だ。
痛みもまだたまにある。耐え切れないほどの激痛じゃないけど、疼くような痛みだ。
でも、たかが血豆だ。何でそんなに深刻そうな表情になるんだろう?
「……そうか、分かった。身体には、気を付けてくれ」
洋さんが無理して笑ったような気がした。
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その意味を僕が知るのは、もう少し後だ。




