再び触れる音楽
大公城に戻ってから淑女教育と魔法の勉強をする日々を送るミレイユ。
カヴァネスであるフレイ・オルソン伯爵夫人は、大公女に相応しい作法と教養を身に着けさせる為に指導をしていく。
今日はその一環で、音楽の指導を受ける事になった。淑女の嗜みとして、幾つか楽器を演奏できるようになっておくべきだというフレイの方針だ。
「わぁ……ピアノにヴァイオリンだ」
城内の一室に置かれた大きなピアノや、用意されている楽器を前に思わず声を漏らすミレイユ。
ゲーム、『スターライト・ロンド』を元にした世界だからか、この世界の楽器は前世で見た物と寸分違わない。大公家で開かれた夜会で楽団が持つそれを見た時少し驚いたものだ。
「殿下にはまず何が良いかしらね……」
「フレイ先生、私あのピアノを触ってみたいです」
「ピアノを? 難しいと思うけど……準備をしてちょうだい」
まず何から触らせてみようか、用意された幾つもの楽器を前に思案顔のフレイへと、ミレイユはピアノを指さす。
ピアノには良い記憶も辛い記憶もある。前世である田村美咲だった時、彼女は妹や弟達にばかり構う両親に自分を見て欲しくてピアノの練習に打ち込んだ。
その甲斐あって彼女は才能を開花させ、学生の頃には幾つかのコンクールでも優秀な成績を収めた。
しかし両親はそれでも自分を見てくれる事はなく、コンクールに来て欲しいと頼んでも曖昧な返事をされ、当日には妹達を優先して誰も来てくれなかった。やるせなさや悲しみと共に努力が報われない記憶がある。
それでもピアノは嫌いになれずずっと弾き続けていた。高校の音楽の先生は彼女の腕を評価してくれて、本格的に音楽の道を目指してみないかと言われたが、両親の反対によってそれが叶う事はなかったものの、先生からの賛辞は美咲の心に自分にも努力すれば何かが出来るという希望を抱かせるには十分なものだった。
あの人からの賛辞や後押しがあったからこそ、美咲は自立して自分を蔑ろにする両親から離れようと決意したのだ。
「殿下、準備が整いました」
まだ幼いミレイユの為に補助ペダルが取り付けられ、準備が整いましたとメイドが告げると、彼女はピアノの前に腰かける。ほんの少しの恐怖と、もう二度と触れられないと思っていた楽器に触れられる喜び。
そっと鍵盤に指を置けばスッと指が自然に動いた。前世と同じようにピアノが弾ける。これは能力ではなく記憶、魂に刻まれた物なのだろう。
(懐かしい……)
目を閉じて鍵盤を叩けば音が響く。指は覚えている物だ。自然と思い浮かぶ曲がある。美咲が一番好きだったショパンのノクターン、その中でも特に好きだった曲。指は勝手に動き軽やかな音色を奏でる。
前世で何度も耳にし、そして演奏した軽やかな音はミレイユを懐かしさに浸らせる。
「……まぁ」
「殿下、いつの間に……」
メイドの一人が小さく声を上げる。他のメイド達もフレイも驚いた顔だ。今までピアノに触れた事のない筈のミレイユが、聞いた事も無い様な曲を奏でていくのだから。
ミレイユはそんな事を気にしないまま一心不乱に音を紡ぐ。ああ楽しい、ピアノを演奏していると心も踊るように軽くなる。やっぱり自分は音楽が好きなんだ。彼女は心に生まれる衝動のままにピアノを弾き続けた。
やがて演奏が終わると同時にメイド達の拍手喝采が響く。
「殿下! いったい何処でその様な曲を?」
「えっと、これは前せ……いえ、夢の中で聞いた曲です。とても素敵で忘れられなくて」
メイドの一人からの問いかけに、つい前世で聞いたと言いそうになった口を慌てて紡ぐ。危ない危ないとミレイユは心中で声を漏らす。
「まぁ、夢で? なんて素敵なの……それに、とてもお上手」
その声に顔を上げれば、フレイが扇子を握りしめたまま珍しく目を丸くしてミレイユを見つめていた。淑女教育の厳格な指導者として常に落ち着き払った彼女にしては、随分と素直な驚きようである。
「殿下……失礼ですが、本当にピアノは初めて?」
「はい。触るのも今日が初めてです」
ミレイユが頷くと、フレイは扇子で口元を隠しながらしばらく考え込む様子を見せた。それからゆっくりと近づき、鍵盤の上に置かれたミレイユの小さな手をしげしげと眺める。
「私も聞いた事もないような素晴らしい曲を、しかもあれだけの表現力を伴って弾くなど、並の才能ではありませんわ。殿下は音楽の神に愛されているのかもしれないわね」
フレイの言葉にミレイユは少しだけ照れくさそうに俯いた。前世での努力の積み重ねを褒められたようで、悪い気はしない。
「フレイ先生、もっと弾いていいですか?」
「ええ、貴方の思うように弾いてください殿下。教材に用意した楽譜の曲でも貴方ならすぐに弾けてしまいそうですね」
フレイの許可にミレイユは小さく頷くと再び鍵盤へ指を滑らせる。今度は先ほどとは違う曲、美咲が学生の頃に音楽の先生から特に褒められた曲を選んだ。少し難易度の高い、技巧的な曲だ。
それでもミレイユの小さな指は淀みなく動いていく。指が小さい分の不利を補って余りある技術と記憶が、彼女の演奏を支えているのだ。その様子にフレイも感嘆の吐息を漏らす。
(凄いわ……この子は本当に才能があるのね。私の知るどんな貴族の令嬢よりも)
フレイは扇子を口元に当てミレイユの演奏を凝視しながら思案する。これは淑女教育の一環として始めた筈が、とんでもない掘り出し物を引き当ててしまったのかもしれないと。
ミレイユは心の赴くままにピアノを弾き続ける。大好きだった音楽にまた触れられた事が嬉しくて堪らない。それを表現するように軽やかなメロディーを奏で続け、音を聞きつけた使用人達が部屋の外に集まり始めている。
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