皆の幸せの為に
「ミレイユ、少し外に出て夜風に当たらないか?」
プレゼントを貰い皆から祝福を受けていたミレイユへと、フィルンハルトがそう声を掛ける。
彼女はその誘いを受け、二人は連れ立って人目から離れた廊下を抜け、中庭へと出ていく。
夜の庭園に出れば、会場からの喧騒も幾らか和らぐ。月の光が芝生を淡く照らし、池の水面に銀色の道を描いている。遠くに見える噴水の水音だけが、規則正しいリズムを刻んでいた。
涼やかな夜風がミレイユの頬を撫でる。庭園の緑の匂いを含んだ風は、広間の香水や料理の匂いに少し酔っていた彼女を優しく包み込むように感じた。
「少し冷えるかもしれないね」
「いえ、とても心地よいです」
フィルンハルトの気遣いに微笑みで応えるミレイユ。彼と共に石造りのベンチに腰掛けた彼女は、少し落ち着きを取り戻す。
「あの、フィル様」
「なんだいミレイユ?」
「フィル様も私の誕生日を知っていらっしゃったんですね。私は今日初めて自分が八歳になったことを知りました」
「ああ、すまないね。君を驚かせたくて大叔父様達と皆で秘密にしていたんだ。喜んでもらえたかな?」
「はい、嬉しかったです。それにお義父様達も友達も、皆が私の為に準備していてくれたなんて……本当に幸せです」
隣に座る彼女の横顔には、さっきまでの涙の跡はなく晴れやかな笑顔が浮かんでいる。
その表情を見つめるフィルンハルトもまた自然と笑みが零れていた。
彼女の笑顔を見るたびに、自分の心の奥底にある冷たい塊が溶けていくような感覚を覚える。
「ねぇ、ミレイユ。今日、ハーロン・オクトラドに声を掛けられたそうだね」
「ええ、神殿派の方々が何か企んでいるようでした。気を付けます」
「うん、そうだね。もし彼がしつこく迫ってくるようなら僕に言って。すぐにオクトラド侯爵家に……」
フィルンハルトはそこまで言って口を噤んだ。自分の立場を忘れて個人的な感情で動こうとしている事に気付いたからだ。そんな彼の様子をミレイユは微笑ましく見つめていた。
「フィル様、ご心配ありがとうございます。でも私も大公家の娘ですから、自分で何とかしてみせます」
「そうか……君は強いね」
「いいえ、そんな事はありません。皆が支えてくれるから私も頑張れるんです」
そう言って笑う彼女の姿は初めて会った頃よりもずっと頼もしく見えた。フィルンハルトは彼女の成長を嬉しく思うと同時に、自分も彼女の隣に立つに相応しい男になろうと決意を固める。
庭園に流れる夜の静寂が、心地よい噴水の音と風に揺れる木々の葉擦れだけが二人の沈黙を優しく包んでいた。その沈黙は気まずいものではなく、むしろ互いの存在を確かめ合うような温かい時間だった。
「そろそろ戻ろうか、あまり長い間離れてると大叔父様達が心配しそうだ」
「ええ、そうですね」
二人は立ち上がり広間へと戻るため歩き出す。月明かりの下で並んで歩く二人の影は、まるでこれから始まる長い道のりのようにも思えた。
彼女はふと空を見上げる。前世からずっと虐げられ続けた人生、けれど今はこんなにも満たされている。
貴族の娘として試練のように起きる出来事もあるだろうけれど、大切な家族と友人達が支えてくれているから、どんな困難も乗り越えられる気がした。
彼女の心には新たな決意が宿っていた。未来に向けての一歩を踏み出すために……。
盛大な夜会も終わりを迎え、招待客の挨拶を家族達と共に受けるミレイユ。最後の招待客が会場を後にすると、彼女は大きく息を吐いた。
ここへ来た時はこんな大勢の集まりに参加する事も、自分が主役として祝われる事も想像していなかった。けれど今はこの日を迎えられた事を心から嬉しく思っている。
前世の記憶を取り戻した時、自分の置かれている境遇に絶望し彼女は涙を零した。だけど優しい人達が、精霊が自分をその地獄から救い出してくれた。
自分に宿ったこの力、そして前世の記憶を使って皆も幸せにして欲しい、かつて光の精霊王リモーネから告げられた言葉だ。
「頑張ろう私。私に幸せをくれた人達に恩返しが出来るように」
自分に幸福をくれた優しい家族や友人達に応えたい。胸に宿った思いを言葉にしながら、彼女は両手をギュッと胸元で握り締める。
夜会の余韻がまだ館の空気に溶けている。最後の馬車が石畳を遠ざかっていく音を、ミレイユは二階の窓辺で聞いていた。広間の灯りが一つ、また一つと落とされていくのを眺めながら彼女はようやく今日という日が終わろうとしているのだと実感した。
部屋に戻るとメイドのマーサとリンディが手際よくドレスを解き、風呂で身体を洗い寝間着を整えてくれた。髪を梳かれる感触が心地よくて、ミレイユはうとうとと微睡みに落ちかけ目を細めていた。
「お嬢様、本日はお疲れ様でした。そして、お誕生日おめでとうございます」
「ミレイユ様、おめでとうございますっ」
「ありがとうマーサ、リンディ、そろそろ眠くなってきたから休むね」
「はい、ゆっくりお休みくださいませ」
二人が深々と一礼して部屋を辞した後、ミレイユは一人寝台の端に腰かけた。窓の外では月が傾きはじめ、庭園の木々が銀の縁取りを纏っている。夜会の華やぎが去った後の静けさは、まるで別世界のようだった。
ベッドに横になったミレイユはうとうととしながらも、今日一日の出来事を静かに振り返る。大公家の養女となってから訪れた、初めての誕生日。愛する家族と友人たちに囲まれ、自分がこんなにも愛されていると実感できた特別な日。
「こんなにも幸せな日が来るなんて、思ってもみなかった……」
『ミレイユちゃんにはその権利があるんですっ、ミレイユちゃんのお陰で沢山の人が幸せに、笑顔になったんだからっ』
「ふふ、ありがとうユーリィ……そうだと、いいなぁ……」
小さく呟く声が微かな欠伸と共に途切れる。瞼が重くなり、意識が薄らいでいく中、ミレイユは柔らかな布団に包まれ深い眠りへと沈んでいった。
長い睫を閉じたその顔には穏やかな微笑みが浮かんでいる。甘い夢の世界に誘われ眠りに落ちる直前、ミレイユは静かに微笑んだ。
明日からの新しい一年もきっと今日のように素晴らしいものになるはずだという予感が、彼女の胸を暖かく満たしていた。
部屋の中は静寂に包まれていた。時計の針が小さく時を刻む音だけが、暗闇の中響いている。ミレイユはすやすやと寝息を立てながら、無防備な表情で眠り続けていた。
『おやすみなさい、ミレイユちゃん』
安らかな寝顔で眠る友人の頬へとそっとキスをする小さな精霊。ミレイユのお陰でこの世界は破滅的な未来から救われたと自分の主人リモーネは語っていた。
だからどうかこの子にも幸せな未来が訪れるように、とユーリィはミレイユの髪を優しく撫で微笑むと、彼女もベッドの側に設けられた机の上にあるバスケットに敷かれた布団へと潜り込む。
暖かな夜がゆっくりと更けていく、愛に満ちた一日の終わりを静かに見守りながら……。
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