呪い
森の奥深く――
追っ手の気配が完全に消えたことを確認し、リオンはようやく足を止めた。
「……ここまで来れば、大丈夫だと思う。」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れたようにリコリスの膝から力が抜けた。
彼女は深く息を吸い、目を閉じた。
静寂の中、空気がわずかに揺らぐ。
淡い光が舞い、耳元で囁く声が重なっていく。
……精霊たちの声。
リコリスは両手をレインの胸元にかざし、力を解き放った。光が、血と傷を包み込む。
「……っ」
だが、次の瞬間、
冷たい声が彼女の意識に直接響いた。
「この者の魂は、深く呪われている」
精霊の声が聞こえた。
リコリスの指が、わずかに震える。
「肉体を癒しても、長くは生きられない。」
「……それでも……!」
リコリスは歯を食いしばる。
「こんな最期は……あまりにも、残酷です!」
しかし、精霊の声は容赦がなかった。
「もし、このまま死んでいた方が幸福だったと後に思う運命が待っていたとしても……君は、その責任を取れるのか?」
胸が、締め付けられる。
脳裏に浮かぶのは、未来の世界。クロウを死なせた記憶。正義の名の下に作った薬で、亜人たちを苦しめた過去。
……私は、あの人を殺した時と、同じ選択をしているんじゃないの?
それでも……
「……それでも、私は……!」
リコリスは力を緩めなかった。
「もう……誰かが死ぬのを、見たくない……!」
精霊の光が強まり、闇を押し返す。
やがて――
レインの瞼が、かすかに動いた。
「……?」
意識が戻ったことに、リオンが息を呑む。
「レイン……!」
リオンは思わず彼を抱き寄せた。
「君を助けに来たんだ! 仲間を見捨てるなんて……僕たちにはできなかったから!」
レインは戸惑いながらも、微笑んだ。
「……ありがとう……」
その小さな笑顔が、リコリスの胸を痛ませる。
…この先に、何が待っているか分からない。
これが正しかったかなんて分からない。
その時だった。
重い足音。
木々の影から現れたのは
――血に濡れたクロウだった。
「……クロウさん!」
リコリスは反射的に駆け寄る。
「ひどい怪我……すぐ、治療を……!」
「触るな!」
冷たい声。
「治療は要らねぇ。これは全部、人間の血だ。」
その一言で、すべてを悟る。
クロウの瞳には、もう迷いはなかった。
そこにあるのは、澱んだ憎悪だけ。
「……分かっただろ?」
低く、抑えた声。
「人間は、残酷で愚かな種族だ。」
剣を握る手に、力がこもる。
「この世界は、弱いものを踏み潰すことで成り立ってる。だったら、壊すしかないだろ。俺たち獣人と同じように……この世界から、消してやる。」
リコリスは、言葉を失った。
彼は、かつて出会ったクロウではない。
それでも――否定できない。
人間が彼にしてきたことは、事実だった。
クロウは、レインに視線を向ける。
「で……レイン」
淡々とした声。
「お前は、残り少ない人生をどう生きるつもりだ?」
レインは、しばらく黙り込み、やがて目を伏せた。
「……故郷で……静かに、死にたい。」
その願いは、あまりにも静かで、重かった。
その選択を、否定する者はいなかった。
だが――
「クロウさん!」
リコリスは、必死に声を上げる。
「…人間のすべてが、悪いわけじゃありません!」
クロウは、冷笑した。
「甘いな」
鋭い視線が突き刺さる。
「お前だって、未来の俺を殺した。」
「……!」
「薬を作っただけ?知らねぇよ。毒だと分かってて俺に渡したんだろ。俺が死ぬまで薬を飲ませ続けたんだろ。なんでお前が被害者ぶってんだよ!!」
リコリスの心が、音を立てて崩れる。
「クロウ、それは……」
リオンが割って入る。
「人間にも、善意や愛情を持つ者はいる!僕たちは、それを信じたい!」
「綺麗事だ。」
クロウは、吐き捨てる。
「だが……お前らがそう信じたいなら、勝手にしろ。」
彼は背を向けた。
「俺は、俺のやり方で、この世界を変える。」
振り返らない。
止まらない。
森の闇に、クロウの背中が溶けていく。
リコリスは、ただ立ち尽くす。
――これが、過去のクロウとの別れ。
愛した人が、憎しみに生きると決めた瞬間。
「……クロウさん……ごめんなさい……」
その声は、もう届かない。




