第80章「戻れない距離」
クロは、走っていた。
朝の空気は冷たく、
肺が痛む。
それでも、
止まれなかった。
(……退いたはずや)
自分に言い聞かせる。
(……皆、分かってる)
街道を抜け、
森に入る。
足元の土が、
昨日より柔らかい。
誰かが、
通った跡がある。
逃げた跡。
急いだ跡。
胸の奥が、
ざわつく。
段丘を越えた先。
遠くに、
黒い煙が見えた。
一本ではない。
二本、
三本。
胸が、
強く打たれる。
(……違う)
(……砦やない)
(……村や。どこか別の)
そう思おうとして、
足が速くなる。
途中、
荷を捨てて座り込む老人がいた。
「……おい」
クロが声をかける。
「何があった」
老人は、
ゆっくり顔を上げた。
目が、
焦点を結ばない。
「……砦か」
クロは、
息を整える暇もなく頷く。
「退いたはずや」
「皆、
逃げたやろ」
老人は、
首を横に振った。
「……逃げんかった」
その一言で、
足元が崩れた気がした。
老人は、
唇を震わせて続ける。
「退去命令が出た」
「正義や言うてた」
「残ったもんは
悪や、
言うてな」
少し間が空く。
老人の視線が、
どこか遠い。
「……盾の女も」
「最後まで立っとった」
クロの喉が鳴る。
「……勇者は」
「まだや」
「でも、
来る言うとった」
クロは、
礼も言わず走り出した。
森を抜ける。
あの角を曲がれば、
見える。
残灯の砦。
そう思った瞬間。
匂いがした。
焦げた木。
血。
鉄。
砦が、
見えた。
門は、
倒れている。
壁は、
黒く焼けていた。
人影が、
動かない。
知っている背中。
知らない背中。
「……ミケ」
名前を呼ぶ。
返事はない。
風が吹く。
何も返らない。
「……ヨル」
ない。
「……レイン、
カイ……」
答える者はいない。
クロは、
一歩、
中に踏み出した。
足元で、
何かを踏む。
金属音。
矢。
折れた弓。
視界が、
歪む。
「……嘘やろ」
声が、
自分のものに聞こえなかった。
そのとき。
「いたぞ!」
兵の声。
剣が抜かれる音。
「ネクロマンサーだ!」
クロは、
ゆっくり杖を握った。
地面が、
わずかに震える。
空気が、
沈む。
胸の奥で、
音がした。




