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第二部 第十章「選択」

 二〇一八年。五月。

 星乃花学園。一年A組教室内。五限目。

 授業科目:倫理

「それじゃあ、まずは四人一組のグループを作ってください。」

 教師の合図とともに、教室内は喧騒に包まれた。

「想志、一緒にグループ作ろっか。」

「そうだな、ありがと。」

 美鮮は軽く頷き、周囲をぐるりと見渡す。

「想乃華ー。私も同じグループに入っていい?」

 ポンと美鮮の肩に手を置く。それに驚いたかのように、彼女は少し身を引く。

「びっくりした~。なんだ茜かー。」

「『なんだ』は失礼だよ~。」

 茜と呼ばれた女子生徒は、その返答に不満を示すかのように漏らす。

「はいはい、ごめんねー。」

 こういったやり取りには慣れているのか、お互いにさっきまでの事が無かったかのように軽く流す。

「ところで、輝井君は私のこと覚えてる?」

 一瞬、脳内にノイズが走る。いつかの光景。忌まわしいような、そうでもないような記憶を振り払う。

「もちろん。結城茜さん‥‥‥だよね。」

「おー。覚えててくれたんだ!ありがとー。」

 名前を覚えていたことがそんなに嬉しかったのか、結城はパチパチと手を叩く。

「そりゃあね。だって、中学の時に美鮮とよく一緒にいたし、何より中二の時にクラスメイトだった。」

「まあ、一緒のクラスになったのはその時だけだったし、お互いにあんまり話したことが無かったけどねー。」

 結城は『あははー』と乾いた笑いを浮かべる。

 その明るい表情に少しの笑みを向け、一つの疑問をつぶやく。

「一グループ四人なら、あと一人入れないとだよな?」

「そうだね。誰かいないかな‥‥‥。」

 そこへ、一人の男子生徒が声をかけてきた。

「なあ、人数が足りないのなら俺も混ざっていいか?」

 綺麗に上げられた前髪。地毛なのか、髪は茶色がかっている。また、すっと整った目鼻立ち。まさに青少年を体現したかのような風貌の生徒。

「あ、うん。いいよ。」

 咄嗟に声をかけられたからか、想乃華は少し驚きの表情を見せる。

「たしか―――」

「工藤想太だ。」

 名前を思い出そうとする前に、彼は名乗った。

「よろしくな。」

 工藤は柔和な笑みを浮かべ、手前の椅子を引く。

「ああ、よろしく。」


 そうしていると、他のクラスメイトも仲の良い者同士が率先してグループを作り始める。当然のように数名が残り、幾つかのグループに一名ずつ補填する。

「―――」

 その光景に、一瞬だけ心に陰りが差す。

「今回の授業ではグループディスカッションをしてもらいます。先生が提示したお題について各グループで話し合ってもらって、そこで出た内容をそれぞれの代表者に発表してもらいます。」

「そして、お題ですが―――」

「愛する人一人と、顔も名前も知らない人が二人。計三名は二つの固い扉の中に閉じ込められています。片方の扉にはあなたの愛する人。もう片方には赤の他人が二人。」

 嫌な予感がした。というより、確信と言ってもいい。ここまで説明されれば、言いたいことは理解できる。本当に、授業で扱う題材の中でも相当醜悪な部類。

「扉の中に食料や水分を摂取できるものはありません。そして、時間と共に段々と二つの扉の中の酸素が薄くなっていき、十分後には中にいる人を死に追いやってしまう状況です。」

 教師は言葉を区切り、ふっと息を吐く。そして、先ほどよりも引き締まった表情を向ける。

「そして、あなたの手には扉を開けることができる鍵があります。ただし、開けることができるのは片方の扉のみ。その選択権はあなたにあります。」

「では、あなたはどのような選択をとりますか?」


 あぁ―――本当に質の悪いお題だ。忌々しいことこの上ない。何が一番そう思わせるかなど、考えるまでもない。ただ、その選択の本質は世の中、日常に溢れていて当たり前のように受け止めているものだということ。状況が特殊なだけで、何もおかしいことではないということ。


「想志、想志!」

 誰かに呼ばれたような気がして顔を上げる。

「顔色悪いけど、大丈夫?」

 美鮮が心配そうに顔を覗き込む。

「ごめん、大丈夫だよ。」

 ニッと笑顔を向ける。つい、ちゃんと笑顔が出来ていたかなと思ってしまう。

「さて、私らも話し合い始めますか!」

 結城は努めて明るい声色で話す。

「誰から意見言ってもらおうか‥‥‥」

 そう切り出すと、しんと重苦しい空気が漂う。お題がお題だ。無理もない。

「じゃあ、言い出しっぺの私からってことで!そんで、時計回りに工藤君、想乃華。想志君で行こうか。」

 手際よく段取りをまとめた結城は、こほんと一つ咳払いをした。

「んーと、私の意見はね。」

 少しの沈黙。目線は宙に向けられている。しかし、悩みが晴れたかのようにパッと前を向く。

「んー。うん‥‥‥。やっぱり無理だな~。選べるわけないよ。こんなの‥‥‥」

 ああ、全くもってその通りだ。これはあまりにも残酷過ぎる。彼女がそのような結論を出すのは無理のない事だ。

 そして、そんなことは誰もが分かっていた。だからこそ、誰一人として彼女の意見に口を出すことはしなかった。

「はい、次!工藤君!」

「おお、俺か‥‥‥。」

 工藤はいきなりの順番交代に面食らったようだったが、すぐに平静を装う。

「そう‥‥‥だな‥‥‥。俺はどっちか片方は選ばない。」

 思わず息をのむ。

「でも、工藤君。それは―――」

「別に。先生は片方を選べなんて言ってないだろ?」

「それは、そう‥‥‥だけど。」

「先生がお題として出したのは、『どのような選択をとるか』だ。だったら、両方を助けられる手段を探す。」

 それに異を唱えるかのように、美鮮がスッと手を挙げる。

「でもさ、中にいる人が亡くなってしまう状況になるまで、あと五分しかないって言ってなかった?」

 その問いに工藤は沈黙してしまう。

「分かってる。でも、どっちか片方を見捨てられるわけないだろっ。」

「それは‥‥‥そうだけど‥‥‥。」

 工藤のあまりの剣幕っぷりに、美鮮は呆気に取られていた。

「まあまあ。これはあくまで授業のお題だし、もうちょっとぐらい肩の力を抜いてもいいんじゃない?」

 工藤をなだめるかのように、結城は割って入る。

「そうだな。悪かった‥‥‥。」

 工藤は目線を下に向け、謝罪する。

「はい!じゃあ次、想乃華!」

 陰鬱とした空気を晴らそうとしてくれる心遣いはとてもありがたい。正直、この手の話題は暗い話になりがちだ。結城の意図を察してか、想乃華も努めて明るく振舞う。

「そうだなー‥‥‥。うん。」

「私は愛する人を助けるよ。」

 深く、強い瞳。それを見れば、彼女がどれだけの覚悟でそう発言したのかを理解することができた。

 そして、何より―――

 ―――それはいつかの返答にも聞こえた気がして―――

「そっか‥‥‥。」

 彼女の答えに安堵する。

 いつかの教会での問答を思い返す。

 

 ―――ああ、そうだ―――


 美鮮みたいな奴が本当の意味で誰かを助けることができて、誰かを幸せにすることができる。だから、彼女がそう答えてくれたことが心の底から嬉しかった。

「ちょっと。何ニヤニヤしてるの想志君?」

 思わず笑みを浮かべてしまっていたのか、結城にジロジロとした目線を向けられる。

「想乃華も!」

「え、私はニヤニヤしてないよー。」

 美鮮はすぐさま言い返す。

 そこへ

「たとえ、扉を開けようとしている時に隣の扉から『助けて』って何度も言われても、愛する人を助けるって言うのか?」

 再度の沈黙。

「すまない。空気を読んでないってことは自覚してる。あくまで授業の一環だという事も理解している。」

「それでも、俺は聞きたい。」

 芯のこもった言葉。だが、想乃華は気圧されることなく答える。

「うん。それでも私は愛する人を助ける。」

「そうか―――」

 工藤はふっと笑みを浮かべる。

「アンタは‥‥‥その‥‥‥強いんだな。」

 美鮮は驚きの表情を浮かべるも、すぐに否定する。

「そんなことないよ。私がこうなれたのは‥‥‥誰かさんのおかげ‥‥‥。」

 ほんのりと頬を朱に染める。結城はどこか悲しそうな表情をしていた。


 再び、脳内にノイズが走る。

 『大丈夫』と心を落ち着かせる。


「それで、輝井君はどういう選択をとる?」

 工藤が問いを投げかける。

「そんなの―――」

『答えは決まってる』と言おうとして―――

 再びノイズが走る。唐突に、中学の時の光景が走馬灯のように駆け抜けた。

 ああ―――わかってる。結局、何も変わっていない自分を、今でも正しいと思えてしまう。だから、迷う必要は無かった。

「俺は愛する人ではなく、二人の方を助ける。」

 瞬間。美鮮がそっと下を向いたような気がした。

「愛する人なのに?」

 結城がそっと問いかける。

「そうだ。人でなしと言ってもらって構わない。それでも俺は、より多くの人を助けることができる可能性があるのなら、それに賭ける。」

 工藤は唇をきつく締め、俺をじっと見つめる。

「俺の意見はこれだけだ。」


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「よう。ちょっといいか?」

 帰りのホームルームが終わった直後に、工藤から声をかけられた。

「いいよ。」

 正直、今日の五限目の倫理の授業の時に、彼の言動、様子から少しの違和感を抱いていた。それを確かめるのも悪くないと思い、返答する。

「そうか、よかった。」

「ここじゃあなんだ‥‥‥。隣の空き教室にでも行かないか?」

 どうやら、あまり他人に聞かれたくない話らしい。

「構わないよ。」


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 工藤は空き教室へと入り、歩みを進める。窓から見える茜色の光景を目にし、彼は尋ねる。

「倫理の時のグループディスカッションの事で、ちょっと聞いてみたくてな。」

 やはりそのことか、と軽く息を吐く。思えば、俺が意見をしている時の彼の瞳は尋常ではなかった。少なくとも、たかが授業での話し合いで向けるような気迫ではなかった。

「輝井君は確か―――」

「想志でいい。」

 お互いのことを知り合ってからまだ一ヶ月しか経ってないが、彼とはもっと仲良くなれる気がした。

「そうか。なら、俺のことも想太でいいからな。」

 想太は笑みを向け、なおも続ける。

「想志は愛する人ではなく、より人数の多い二人を助けると言ってたよね。それはなぜ?」

 その問いに窮することはない。そんなものにはとっくに答えが出ている。

「全ての人を助けることはできない。それに、俺には『愛する人』とやらがイマイチピンと来なくてな。それがどういうものなのかあんまり分からないんだ。だから、たとえそれが顔も名前も知らない人だったとしても、より多くの人を助けることができる手段があるのなら、そうするだけだ。」

「愛する人がわからない‥‥‥か。」

 想太は俺の言葉が意味するところを理解しようとするかのように、ゆっくりとそれを飲み下そうとしていた。だが、こちらとて聞きたいことはある。

「俺からも、一つ聞いていいか?」

「ん、もちろん。」

 これを聞いてしまってもいいのかと不安に駆られるが、授業中の彼を思い出し、意を決する。

「想太は昔、何かあったのか?」

「授業中、やたらと熱くなってただろ?君のそれは異常とまでは言わなくても、何かを感じさせるものがあった。」

「わかりやすく直球に尋ねよう。」

「想太は、『誰かを見捨てて誰かを助ける』そんな地獄みたいな状況に置かれたことがあるのか?」

「―――」

 深い。とても深いため息。

「まったく‥‥‥。想志は勘が鋭いね。隙を見せたら全てを見抜かれていそうだ。」

 外への視線を切り、俺の方へぐるりと身体を向ける。

「なあ‥‥‥数年前の大地震を覚えているか?」

 数年前。具体的に何年前と言わないことに違和感を感じたが、きっとあの地震のことを指しているのだろう。おそらくは、マグニチュード九。二万人以上の死者・行方不明者が発生した大地震。それとともにやってきた、最大遡上高が四十にも昇る津波。それらの映像がメディアを通じて沢山取り上げられた。

「俺はその震災を経験して、偶々、運良く助かった一般人だ。」

 思わず息をのむ。

「本当に酷い地震だったよ。一つの選択が命取りになる状況。今思い出しても吐き気がする。」

「ただな、俺は本来ここにいるべきじゃあない人間なんだ。」

「地震がようやく収まって高台へ逃げようとした時のことだ。」

 とても遠い目。その瞳に何が映っているかなど、俺には理解することはできない。

「瓦礫の下で、妹が倒れていたんだ。瓦礫と言っても、運が良かったのか、俺でも頑張ればどかせるぐらいの物だった。それだけならまだ良かった。」

「でもよ‥‥‥笑えないのはこっからだった。妹から数メートル離れたところに‥‥‥いたんだよ‥‥‥。近所の人とその子供が別の瓦礫の下に。」

 想像するだけで心が張り裂けそうになる。

「妹は捻挫やら打撲やら、おまけに出血もしていた。でも、近所の人たちは、その時見た限りでは軽症で、瓦礫さえどかせれば普通に逃げられるような状況だった。」

「そして、家が海沿いだったから時間的にも余裕が無かった。瓦礫を一つどかすにも一苦労なことは一目瞭然だった。ましてや、それら二つの瓦礫を俺一人でどかしている暇なんてある筈が無かった。周りの人たちはとっくに避難していたようで、近くには誰もいなくて助けなんて呼んでも来なかった。その傍で声も出せずに苦しんでいた妹と、『助けて』と必死に叫ぶあの人たちの声が、ずっと脳内に響いていた。」

「時間的にも助けられるのはどちらかだけ。妹を助け出したとしても、出血があまりにひどくて、応急処置をしたところで避難するまで耐えられるかもわからない。」

「確実に人を助けたいのなら、迷わず近所の人を助けるべきだった‥‥‥。でも―――」

「俺にはそれが出来なかった。きっと妹は助からないと薄々気づいていても、愛する妹を助けないなんて選択は‥‥‥俺にはできなかった。」

「結局、その中で生き残ってしまったのは‥‥‥俺だけだった‥‥‥。」

「俺は、自分の選択を後悔してはいない。それでも‥‥‥もし、あの時と同じ状況がもう一度来てしまったのなら、俺はどちらを選べばいいかなんてわからない‥‥‥。だから、今日の授業中に、あんなどうしようもない意見をしてしまった。」

「必ず‥‥‥どちらかを選ばなければならない。どちらも助けるなんて、そんな物語でしか通用しないおとぎ話なんてのは現実には存在しない。」

 彼の瞳が真っ直ぐに俺の目を射貫く。

「だから、聞きたかった。迷わず多数を助けると言った、君の真意を知りたかった。それだけなんだ‥‥‥」

「君だったら、迷うことなく救う事が出来ていたのかな、なんてどうしようもない話だ。すまない、重い話に付き合わせてしまって‥‥‥。ホント、入学して一ヶ月しか経ってないのに、こんな話を暴露しちまうなんてな。」

 想太のその表情がとても見ていられなくて。

「バカ言うんじゃねえ‥‥‥。それは‥‥‥想太だからこそ、できた判断だ。常人には出来ねえよ。普通だったら自分の身を最優先にして逃げ出してもおかしくない。」

「そうか?俺には、想志ならきっと俺よりもずっと正しい選択をとることができるような気がするんだ。」

 そうして、いったいどれだけの時間が過ぎたのだろう。夕日は沈みかけ。下校時間を知らせるチャイムが鳴り響く。

「それは買いかぶりすぎだ。俺にはただ単に大切な人とか愛する人とかがいないから、多数を助けているだけだ‥‥‥。」

「愛する人を知らない‥‥‥か。」

「なら‥‥‥いつか、想志に愛する人ができたとしてだ。」

「その時にどんな判断を下すのか俺は見ていたいよ。」

「バカ野郎。そんな時なんて来ないほうが良いに決まってんだろ。」

「それもそうだな。」

 想太は苦笑いを浮かべる。


 愛する人。愛する人。

 ああ、想像もつかないけれど。

 想太の言う『その時』が来たのなら、俺はどんな選択をとるのだろうと、ふと思った。

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