▼13-まるで天使のように
▼13-まるで天使のように
あれから、長い年月が過ぎ去った。
カーチャが主犯となって行ったクーデターを境に、グラッテンという国は大きく変貌した。
まず当時の政権と軍上層が軒並み粛清され、電撃的に新体制へと移行した。各部門の新任は、カーチャ達に協力してくれた有力者や〝戦争賭博〟に反発する意思を持っていた人間の中から選出された。
カーチャは自身の意思と、周囲の強い勧めもあって『首相代行』という地位に就いた。その地位に就くにあたって、【代行】の二文字だけは譲れないとカーチャは強く主張した。自分は権力が欲しくてクーデターを起こしたのではないのだから、と。
嘘ではない。実際、カーチャのとった一連の行動は根本的に感情の発露でしかなかった。彼女が正しく政権を簒奪しようとするならば、守るべきルール、破るべきではない決まりごとがあったのだ。だがカーチャはそれらを慮ることなく、望むがままその手を血で汚してしまっていた。
彼女が望んだのは、この国を変えるという約束を守ること。そして、皆の仇を討つことだけだったのだから。
とはいえ、端から見ればそれは『独裁政治』以外の何物でもなかっただろう。カーチャが最高権力の座についたことは、後に内乱の原因となった。
同じ頃、敵国であったスペルズでも大きな動きが生まれていた。グラッテンの軍事クーデターを耳にしたスペルズ内部の反乱分子が、触発されて表立った行動に出たのだ。
スペルズはスペルズで火種を抱えていたのだ。何せ大きな会戦があったわけでもないというのに、ある日突然、スペルズ国軍総戦力の三割を超す戦死者が出たのだ。しかも最新鋭と謳われていた航空戦艦までも失われたというのに、その原因と経緯については政軍双方の上層部は口を噤むばかりで、公式な説明はなかったという。あまりにも不自然で、かつ巨大すぎる犠牲に、スペルズ国内は大いに紛糾した。
当然だった。当時のスペルズ上層にしても、まさかたった四人を相手にした〝戦争賭博〟で、あれほどの被害が出るとは誰も予想していなかったのだ。相手があの英雄ジェラルディーンのクローンであることは勿論知ってはいたが、それが本当に伝説通りの力を持っていようとは夢にも思わなかったのだろう。あの四万という数字と最新戦艦はあくまでも演出と保険を兼ねていただけで、実際には大した被害もなくあっさり決着がつくものと高をくくっていたに違いない。
少ない犠牲で大きな利益。そのはずだった。しかし、その目論見は完膚無きまでにひっくり返った。そして、彼らにその失態をあしらうだけの手腕は備わっていなかった。故に歪な形で押さえ込まれていたスペルズ国民の感情が、グラッテンのクーデターを機に爆発したのである。
グラッテンの新しき伝説、時の人であるエカチェリーナ・ファン・ヴォルクリングは、世界へ向けてグラッテンとスペルズの暗部である〝戦争賭博〟を大々的に公表していた。まずその発表こそがスペルズの国民感情へ火を点けるどころか、爆弾を放り込んで誘爆させたと言っても過言ではないだろう。
グラッテンで起きたことを〝軍事クーデター〟と呼ぶのなら、スペルズのそれは、言うなれば〝市民革命〟であった。
スペルズを支配していた者達はたちまちに失脚、失踪、私刑、監禁といった様々な末路を与えられ、表舞台から姿を消した。その後、グラッテンと同じく突貫工事で新体制の編成が行われ、スペルズもまた大きく変容した。
ほぼ同時期に歴史的変動を経験した両国は、ほどなくして休戦協定を結び、それが事実上の終戦となった。
本来ならば、いくら国のトップが入れ替わったからといって一度始まった戦争――しかも百年以上も続いてきた――がそう易々と終わるわけがない。無論、そこには理由がある。というのも、グラッテンもスペルズも、国の有り様が変わってもなお双方共に内紛の火種を抱えていたのだ。
二つの国の変化は大きく、そして早すぎた。そのツケが出たのだ。
グラッテンにおいては民主主義の原理主義者が、カーチャを不当な行為の挙げ句に最高権力を手にした賊であると断じ、その退陣を要求した。彼らはその要求が受け入れられないとなるや、かつてのカーチャ達のように反乱軍を形成し、実力行使に訴えようとしたのだ。
幸いそれは実現に至る前にカーチャ側が先手を打って潰すことが出来たのだが、それは全ての解決を意味しなかった。
新しい酒は新しい革袋に盛れという。あるいは『首相代行』という中途半端な肩書きに拘り、積極的に国の根本を変えようとせず、あくまで国民の生活をクーデター前と同じ水準で保持しようとしたのが間違いだったのかもしれない。徹底されないそのやり方こそが隙となり、不満分子の反発心を一層高め、あわよくば引きずり下ろしてやろうという魂胆を野放しで成長させてしまったのかもしれない。
カーチャは徹頭徹尾、【独裁者】となるべきだったのかもしれない。完膚無きまでにグラッテンを滅ぼし、新しい国を作るぐらいの気概でいたのなら、あるいは結末は変わっていたかもしれない。
だが、それはどこまでも仮定の話だ。現実には、もう遅きに失したのだから。
ある日のことである。
とうとう、あの頃のイオナと同い年になってしまったカーチャは、久々にラーズグリーズ本部へと足を向けた。
実を言うと、イオナ達の死を知ったあの時から、一度も近寄っていなかったのだ。
否、近寄れなかった、と言った方が正確だろう。
ここへ来ると、どうしても自分が【弱いカーチャ】に戻ってしまうような気がして、足を踏み入れる勇気が持てなかった。
――だが、今なら。
あの頃とはまるでサイズは違うが、それでも深紅のグラッテン軍服に身を包んだカーチャは、震える手をドアノブに伸ばす。
鍵は、開いていた。
あの時、四人の誰かが来ても良いようにとカーチャが開けっ放しにした状態のままだった。
久しく人の出入りが無かった内部は、淀んだ空気で満ちていた。どことなく、埃臭い。
窓のカーテンは開けたままだった。日光が差し込んでいるが、それでもやや薄暗い。カーチャは記憶を頼りに壁に指を這わせ――しかし照明のスイッチが見つからない。
――ああ、そうか。私の背が伸びたのか……
昔は本当に小さかったのだな、と疲労が濃い顔に自嘲の笑みを刻む。
手の位置を下へ修正すると、確かにスイッチは見つかった。指先でオンにするが、勿論、反応はない。
――そうか、そうだった。ここのは昔のままだったな。
カーチャが研究していた喪失技術は、昔と比べて注目度が飛躍的に上昇し、今や人々の生活の一部に溶け込んでいた。特に精霊核がまだ安定しない赤子や、極端に力の弱い母親でも扱える電気式スイッチは世界的に重宝されていた。現在のカーチャの収入のほとんどが、その特許料であったりもする。
埃に足跡を残しながらゆっくり廊下を歩き、階段を使って三階へ上がる。真っ先に、談話室へ向かった。
当然、誰もいない。そこにあったのは、想い出だけだった。
あの頃は、座れば足が床につかなかった椅子がある。だが、今では笑ってしまうほど小さい。そういえば天井も近いな、と気付いた。
自分は変わった。そんな自覚を、今更のように得る。
そう。変わった。変わってしまった。
時間はどうあっても流れ続け、進み続け、最後には何もかもを彼方へ追いやってしまう。
そんな事を考えていたら、不意に鼻腔に匂いを感じた。
懐かしい香りだった。
イオナの、アイリスの、ベルの、サイラの匂いだった。
そう感じた瞬間、涙が溢れた。
「……っ、ふっ……!」
反射的に歯を食いしばる。あの日以来、一度も泣いたことなどなかったのに。みんなの匂いが、想い出が、胸をこれでもかと締め付けた。
カーチャは自らの体を抱き締めて、嗚咽をこらえようとした。
我慢したい、と思った。しかし、我慢できそうにはなかった。いつかのように凍り付いた心の氷が溶けて、何年も溜め込んでいた感情が一斉に溢れ出したのだ。
震える声で、誰にともなくカーチャは呟く。
「……もう、いいですよね……? ――ごめんなさい……!」
後はもう、言葉にはならなかった。
カーチャはその場に膝をつき、迸る感情のまま慟哭した。
どうして自分がこんなに泣いてしまうのか、その理由はもうカーチャ自身にもよくわからなかった。相変わらずカーチャは、自分の中にある【巨大な感情】が理解できないままだった。本音を言えば、自分のこれまでやってきたことが、正しいことだったのかどうかすらわからない。未だに、自分は悲しめば良かったのか、怒れば良かったのか、憎めば良かったのか、絶望すれば良かったのか、そんなことにすら答えを出せていなかった。
なのに、自分は汚れてしまった。きっと誰よりも汚いもので全身を、否、心を、人生全てを、塗りつぶしてきてしまった。
けれど、きっと許してくれるはずだ。カーチャはそう思う。
約束は果たした。自分は、どんな形であれ、この国を変えてみせた。
だから、きっと褒めてくれる。泣くことを認めてくれるはずだ。
生きていたなら、キスしてくれたり、抱き締めてくれたり、香茶を淹れてくれたり、一緒に泣いてくれたり、手を繋いでくれたに違いない。
自分にはそんなことをしてもらう資格などないというのに、きっと、彼女たちが生きてたら絶対にそうしてくれる――そんな確信があった。
そう確信できる自分が、嬉しかった。
不意に全身から力が抜け、カーチャはそのまま崩れ落ちた。まるで砂塵のように埃が宙を舞い、かび臭い床面に赤い液体が飛び散る。
カーチャの背中には穴が開いていた。右の肩胛骨の上部に二つ、左の肩胛骨の下辺りに三つの銃創があった。
畢竟、何をしても禍根も遺恨も世界から消えはしなかった。カーチャを取り巻く悪意と憎悪の火は、どれだけ時が流れても絶えることはなかった。それが今日、ついに形を取り、彼女に魔弾を撃ち込んだ。得体の知れぬ暗殺者に襲撃されたカーチャは、死力を尽くしてなんとかこのラーズグリーズへと逃げ込んだのである。
背中に傷を負ったその姿は、どこか翼をもがれた天使のようにも見えた。
そろそろ死神がカーチャを迎えに来る。その足音を耳にしながら、カーチャは最期の言葉を呟いた。
「……そういえば……一度も言ってませんでしたけど……私、皆さんのこと……大好き、で、し……た……よ……」
閉じた瞼の裏で、イオナが、アイリスが、ベルが、サイラが、笑ってくれたような気がした。
そんなことはとっくに知っていたさ、と言ってくれたような気がした。
そんな気が、した。




