第9話 第三皇女様は、俺が他の女性と話すだけでも少し不機嫌になるらしい
腕輪の完成まで、あと二日。
その日の午後、第四近衛騎士団の詰所には、いつも通りのようでいて、どこか少しだけ落ち着かない空気が流れていた。
午後の巡回を終えた騎士たちが順番に戻り、装備を外し、護衛記録をまとめ、次の担当者へ引き継ぎを行っている。窓の外では午前中に空を覆っていた薄雲が少しずつ流れ、傾き始めた陽射しが長い回廊の床を淡い橙色へ染めていた。
そんな中、カイは自分の机へ向かい、午前中の護衛記録へ目を通していた。
白銀宮周辺に異常なし。
東回廊にも問題なし。
来訪者三名、全員身元確認済み。
庭園方面にも不審者なし。
どれも普段ならほとんど考えることなく処理できる内容だ。それにもかかわらず、今日は何度も同じ行へ視線が戻り、気づけば筆先まで止まっていた。
「……まただ」
小さく息を吐きながら、カイは自分の右手首を見る。
今はまだ何もない。
だが二日後には、そこへ空雫石を使った腕輪がつく。
その石を選んだのは自分であり、金具の裏側にはソフィーという名前が刻まれる予定だった。
最初は、護衛の証のようなものだと考えていた。
お忍び先で恋人向けの商品を選ぶ流れになり、ソフィアが欲しがったから付き合っただけ。そう説明すれば、それで終わるはずだった。
なのに今は。
完成が楽しみだった。
早く見たい。
早く腕へつけてみたい。
そして何より、ソフィアが自分の名を刻んだ腕輪を身につける姿を、思っていた以上に待ち遠しく感じている。
「……本当に何なんだろうな」
呟きながら、カイは右手を軽く握った。
以前なら、皇女から私的な贈り物を受け取ること自体にもっと戸惑ったはずだ。
身分。
立場。
周囲の目。
そして何より、ソフィアにはすでに婚約者がいる。
そう考えて距離を取ろうとしていたはずなのに、最近はその理由が少しずつ弱くなっている気がする。
「おーい、カイ」
少し離れた場所から声をかけられ、カイは顔を上げた。
詰所の入口に、第四近衛騎士団の女性騎士リナが立っている。
「何だ?」
「団長が呼んでる」
「また?」
「またって何?」
「いや、昨日から妙に呼ばれることが多いなと思って」
「今回は姫様関係じゃないよ」
「それなら少し安心した」
何気なく答えると、リナの眉が上がる。
「姫様関係だと不安なんだ?」
「予想できないからな」
「でも最近、姫様と一緒にいる時は楽しそうだけど」
その言葉に、カイは一瞬返事を止めた。
まただ。
昨日から、周囲の人間が妙に自分とソフィアのことを観察している気がする。
マリア。
リナ。
エマ。
ほかの女性騎士たち。
全員が何かを知っているような顔をする。
「お前たち、本当に俺へ隠してることない?」
「ないよ」
「即答なのが怪しい」
「じゃあ考えてから答えればよかった?」
「それはそれで怪しいな」
「でしょう?」
リナは楽しそうに笑った。
「なら気にしない。とにかく団長のところへ行って」
「分かった」
カイは書きかけの記録をまとめ、椅子から立ち上がった。
詰所の奥へ進み、簡素な仕切りの向こう側へ入る。そこではマリアが数枚の書類を机いっぱいに広げ、警備配置を確認しているところだった。
「来たか」
「はい」
「座れ」
促されるまま、カイは向かいの椅子へ腰掛けた。
「何です?」
「明日の警備配置についてだ。婚姻準備に関する商人や職人の出入りが増える」
「ああ」
その言葉で、カイもすぐに事情を理解した。
婚姻衣装。
式典用の装飾。
祝宴で使う食器や卓布。
贈答品。
第三皇女の婚姻式まで二月しかない以上、準備が本格化すれば皇城へ出入りする人間が増えるのは当然だった。
「白銀宮周辺の警備を少し厚くする」
「分かりました」
「お前には午後から白銀宮内部の警戒へ入ってもらう」
「午後から?」
「ああ」
「午前は?」
「通常訓練だ」
「……そうですか」
マリアが顔を上げる。
「何だ?」
「いえ」
「不満か?」
「そういうわけではありません」
「なら何だ」
カイは少しだけ迷った。
自分でも、なぜそれを聞こうとしているのかよく分からない。
「午前中、姫様から呼ばれる予定は?」
「ない」
「そうですか」
「残念か?」
「違います」
ほとんど反射的に否定した。
マリアの口元がわずかに上がる。
「そうか」
「何です?」
「何でもない」
「またそれですか」
「便利な言葉だろう」
「最近、皆使いすぎなんですよ」
カイが苦い顔をすると、マリアは少し楽しそうに笑った。
「とにかく、明日は昼食後から白銀宮へ入れ。それまでは通常通りでいい」
「分かりました」
「それと」
マリアは別の書類を一枚持ち上げた。
「今日の夕方、白銀宮へ行く予定なのだろう?」
カイの眉が少し動く。
「何で知っているんです?」
「姫様から確認が来た」
「確認?」
「『カイは本当に夕方来ますか』とな」
カイは数秒黙った。
「そんなことまで団長に?」
「三回」
「三回?」
「朝一回、昼前に一回、つい先ほどもう一回だ」
カイは思わず額へ手を当てた。
「俺、行くって言いましたよ」
「姫様は心配なのだろう」
「何を?」
「お前が忘れることを」
「忘れません」
「なら問題ないな」
マリアは平然と答える。
その顔を見ながら、カイは深く息を吐いた。
「本当に、そんなに待つようなことなんですかね」
「お前にとっては、ただ会いに行くだけかもしれないな」
「姫様にとっては違う?」
「それを私へ聞くのか?」
「……聞いても答えてくれませんよね」
「よく分かっている」
「やっぱり皆何か知ってるでしょう」
「気のせいだ」
「便利すぎません、その言葉」
呆れていると、マリアは話を進めた。
「今日は白銀宮へ向かう前に、一度騎士団の倉庫へ寄れ。婚姻準備期間中、お前には小型通信石を常時携帯してもらう」
「通信石?」
「ああ。今後は姫様の外出も増えるからな。万が一の際、騎士団本部へ即座に合図を送れるようにしておけ」
「分かりました」
「それから、姫様から女性用の護身具について相談が来ている」
「護身具?」
「お忍びの際、自分でも扱える小型の物を持ちたいらしい」
「必要ないでしょう」
即答した。
マリアが少し驚いたように目を上げる。
「ずいぶん早いな」
「俺がいますから」
「ほう」
「城下へ出る時は俺が傍につく。周囲にも第四近衛の人員を置くんでしょう。それなら姫様自身が武器を持つ必要はないです」
「なるほど」
「それに、中途半端に武器を持たせて本人が使おうとした方が危ない」
「姫様が聞いたら怒るぞ」
「でも事実です」
「本人へ言えるか?」
「言います」
マリアはしばらくカイを見ていたが、やがて小さく笑った。
「随分、即答するようになったな」
「何がです?」
「姫様のことになるとだ」
「護衛ですから」
「そういうことにしておこう」
「またその言い方」
「気にするな」
マリアは書類をまとめる。
「用件は以上だ。夕方、忘れるなよ」
「だから忘れませんって」
「姫様が待っている」
その一言で。
さっきと同じように。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……分かってます」
カイはそれだけ答え、席を立った。
仕切りの向こうへ消えていく背中を見ながら、マリアは小さく息を吐く。
「本人が思っているより、ずっと変わってきたな」
その声は、カイには聞こえなかった。
◇◇◇
その頃、白銀宮ではソフィアが珍しく落ち着きを失っていた。
私室の大きな卓には、婚姻式に関する書類がいくつも広げられている。招待客一覧、衣装の仮縫い日程、宝飾品の候補、祝宴料理の確認表など、第三皇女本人が目を通さなければならないものだけでも相当な量があった。
それなのに。
「姫様」
「何です?」
「先ほどから、ずっと同じ頁をご覧になっております」
エマに指摘され、ソフィアは手元へ視線を落とした。
婚姻式の招待客一覧。
確かに。
先ほどからほとんど頁が進んでいない。
「確認しています」
「何をでございますか?」
「名前です」
「十分以上も?」
「大切ですから」
エマは何も言わなかった。
ただ。
少しだけ笑っている。
「何です?」
「いえ」
「言いたいことがあるなら言ってください」
「では」
エマは書類を整えながら、穏やかな口調で続けた。
「カイが来るまで、まだ二刻ほどございます」
ソフィアの肩がわずかに動く。
「……別に待っていません」
「そうでございますか」
「はい」
「では、先ほどから扉を七度ほどご覧になっているのは?」
「数えていたのですか?」
「長年お仕えしておりますので」
ソフィアは頬を少し膨らませた。
「カイは来ると言いました」
「はい」
「忘れないとも言いました」
「はい」
「だから気にしていません」
「では、マリア様へ三度確認したのは?」
「念のためです」
「なるほど」
「何です、その顔は」
「何でもございません」
「最近、皆そればかりですね」
ソフィアが不満そうに言うと、エマの口元が少し緩んだ。
「婚姻準備自体は順調でございます。姫様の衣装の仮縫いは五日後、式典用の宝飾品は来週。祝宴の料理については明日、料理長から最終候補が参ります」
「分かりました」
「それから」
「何です?」
「婚約者様用の礼装についても、そろそろ最終寸法を取る必要があるそうです」
ソフィアの動きが止まった。
「……もうですか?」
「婚姻式まで二月でございますので」
「分かっています」
「カイの寸法は騎士団側にも記録がございますが、婚姻礼装用として改めて測る必要があるとのことです」
「はい」
返事をしたあと。
自然に。
口元が緩む。
「姫様」
「何です?」
「嬉しそうですね」
「そう見えますか?」
「とても」
ソフィアは自分の頬へ軽く手を添えた。
「カイの礼装……」
小さく呟く。
婚姻式当日。
正式な礼装を身につけたカイ。
自分の隣。
騎士としてではなく。
夫として。
その姿を想像するだけで、胸が熱くなる。
「……楽しみです」
「でしょうね」
「でも、まだ本人へ言ってはいけません」
「承知しております」
「絶対にです」
「はい」
「マリアにも」
「マリア様も承知しております」
「騎士団の皆にも」
「皆様、本当によく耐えておられます」
「本当に?」
「はい」
エマはどこか遠い目をした。
「特に昨日、カイが『もし俺が婚約者なら』と口にした件では、かなり危なかったようでございます」
「……聞いていたのですか?」
「リナ様から」
「もう!」
ソフィアは顔を赤くした。
あの言葉。
今でも思い出すだけで胸が熱くなる。
自分が婚約者なら、別の男の名前入りの腕輪は嫌だ。
ほんの少し。
ほんの少しだけだが。
カイの独占欲に見えた。
「エマ」
「はい」
「カイは……少しは私を女性として見ているでしょうか」
その問いは、とても慎重だった。
第三皇女としてではない。
幼い頃から守るべき主君としてでもない。
一人の女性として。
エマは少し考えてから、静かに答えた。
「少なくとも、以前よりは確実に」
「本当に?」
「はい」
「でも、本人は気づいていません」
「カイですから」
「その一言、万能すぎませんか?」
「便利でございます」
ソフィアは堪えきれず小さく笑った。
その時、扉が控えめに叩かれる。
「姫様」
「はい」
「エレナ様がお見えです」
侍女の声だった。
ソフィアは少し驚く。
「エレナ?」
「はい」
「通してください」
しばらくして入ってきたのは、淡い金髪を肩のあたりでまとめた若い女性だった。
年齢はソフィアより二つ上。
落ち着いた緑色のドレスを身につけ、柔らかな笑みを浮かべている。
エレナ・フォン・クラウゼル。
帝国伯爵家の令嬢。
そして、ソフィアが幼い頃から親しくしている数少ない友人の一人だった。
「ソフィア様」
「エレナ!」
ソフィアの表情が一気に明るくなる。
公の場なので愛称こそ使わないが、その声には明らかな親しさが滲んでいた。
「突然ごめんなさい」
「いいのです。どうしたのです?」
「婚姻が決まったと聞いて」
エレナが微笑む。
「お祝いを言いたくて」
「ありがとうございます」
「それと」
その笑みが少しだけ悪戯っぽくなる。
「ようやくですね」
「エレナ」
「ごめんなさい」
何かを知っている顔。
ソフィアはすぐに分かった。
「どこまで聞いていますか?」
「大体は」
「誰から?」
「お父様です」
「クラウゼル伯爵……」
エレナの父は皇帝とも親しい。
事情を知っていても不思議ではなかった。
「カイ様には?」
「まだです」
「本当に?」
「はい」
「すごいですね」
「何がです?」
「そこまで気づかないことが」
ソフィアは思わず額へ手を当てたくなった。
「皆、同じことを言います」
「だって、七年ですよ?」
「はい」
「ソフィア様、昔からかなり分かりやすかったと思いますけど」
「分かりやすいですか?」
「とても」
「……」
「子供の頃から」
「もう」
ソフィアは頬を赤くする。
そんな彼女を見ながら、エレナの表情が少し柔らかくなった。
「でも、本当に良かったです」
「ありがとうございます」
「婚姻式、楽しみにしています」
「はい」
ソフィアも穏やかに微笑んだ。
◇◇◇
夕方。
白銀宮へ向かう前に、カイは騎士団倉庫へ寄り、小型通信石を受け取った。
直径は指先ほど。
青色の石を金属枠へ埋め込んだ簡素な道具で、専用の魔力を流すことで騎士団本部へ短い信号を送れる仕組みになっている。
「これでいいな」
動作確認を終え、腰の小袋へ収める。
あとは白銀宮へ向かうだけ。
約束した。
夕方。
ソフィアのところへ行く。
護衛日誌の確認という名目もある。
仕事。
それだけのはずだった。
なのに。
廊下を歩く足が、普段より少しだけ軽い。
「……」
自分で気づき。
わざと歩調を落とす。
「何やってるんだ、俺」
誰が見ているわけでもないのに、妙に恥ずかしい。
それでも。
約束の時間に遅れたいとは思わなかった。
白銀宮へ着き、入口の侍女へ声をかける。
「姫様はいらっしゃいますか?」
「はい。ただいま、ご友人がお見えになっております」
「友人?」
「クラウゼル伯爵令嬢でございます」
「エレナ様か」
名前は知っている。
直接話したことは数えるほどしかないが、ソフィアの友人として何度も白銀宮へ訪れている女性だった。
「では、俺は外で待ちます」
「少々お待ちください」
侍女が室内へ確認へ向かう。
ほどなくして戻ってきた。
「姫様が、そのままお入りくださいとのことです」
「いいんですか?」
「はい」
カイは少し迷ったが、扉を開く。
「失礼します」
室内では、ソフィアとエレナが向かい合って座っていた。
卓上には紅茶と菓子。
カイが入った瞬間。
ソフィアの顔がはっきりと明るくなる。
「カイ」
「お待たせしました、姫様」
今は二人きりではない。
だから。
姫様。
正しい呼び方。
それでも。
ソフィアの口元がほんの少しだけ下がった。
すぐに隠したが、今のカイには分かる。
以前より。
ずっと。
「こちらへ」
「はい」
カイは一礼し、エレナへも騎士らしく頭を下げた。
「エレナ様、お久しぶりです」
「カイ様」
「様は不要です」
「では、カイ」
エレナは柔らかく笑った。
「お久しぶりです」
「はい」
「少しお話したかったのです」
「俺と?」
「ええ」
その瞬間。
隣にいたソフィアの眉がわずかに動いた。
「エレナ?」
「何です?」
「カイと、何のお話を?」
「少しだけです」
「私も聞きます」
「もちろん」
エレナは楽しそうに答える。
カイには、ソフィアの声が少しだけ硬くなった理由が分からなかった。
促された席へ向かう。
ソフィアの隣ではなく、卓を挟んで斜め向かいへ座ろうとしたところで。
「カイ」
「はい?」
「そこではなく」
ソフィアが自分の隣を指した。
「ここへ」
「エレナ様がいますよ」
「構いません」
「でも」
「座ってください」
どうやら拒否権はないらしい。
「……失礼します」
結局。
ソフィアの隣へ。
座る。
ソフィアの表情が少しだけ柔らかくなった。
その変化を見ていたエレナは、明らかに笑いを堪えている。
「何です?」
カイが尋ねる。
「いえ、何でも」
「最近、その言葉流行ってるんですか?」
「何がです?」
「何でもない、って」
「便利ですから」
「皆同じこと言うなあ」
エレナは楽しそうに笑った。
「カイは、本当に変わりませんね」
「そうですか?」
「はい」
「エレナ」
ソフィアの声が少し低くなる。
「余計なことは」
「言いません」
「本当に?」
「約束します」
カイは二人を交互に見る。
「何の話です?」
「女性同士の秘密です」
エレナが答える。
「また秘密」
「カイは秘密が嫌いですか?」
「最近、周りが秘密だらけなので」
「ふふっ」
ソフィアも小さく笑った。
「それで」
エレナは改めてカイへ向き直る。
「先日、城下へ行かれたそうですね」
「はい」
「ソフィア様と」
「護衛で」
「恋人として?」
カイの動きが止まった。
ソフィアも固まる。
「どうして知ってるんです?」
「聞きました」
「誰から?」
「秘密です」
「また!」
エレナは楽しそうだった。
「どうでした?」
「何が?」
「恋人役」
「難しかったです」
「それだけ?」
「最初は」
カイは少し考える。
「途中からは、あまり意識してなかったです」
ソフィアがすぐにカイを見る。
昨日も似たようなことを聞いた。
それでも。
他人の前でカイ自身の口から聞くと。
やっぱり。
嬉しい。
「自然だったということですか?」
エレナが尋ねる。
「まあ」
「手も繋いだとか」
「……はい」
「ずっと?」
「ほとんど」
「食事も一緒に?」
「はい」
「食べさせ合いも?」
「何でそこまで知ってるんですか!?」
カイの声が思わず大きくなる。
ソフィアは顔を赤くし、少し俯いた。
「エレナ」
「ごめんなさい」
謝っている。
でも。
まったく反省していない。
「でも」
エレナは少し声を柔らかくした。
「楽しそうですね」
カイは黙る。
「嫌そうには見えません」
「嫌ではないです」
即答した。
自分で言ってから。
少し驚く。
「あ」
ソフィアも顔を上げた。
「嫌ではない?」
「いや」
「カイ」
「昨日も言っただろ」
「もう一度聞きたいです」
「人前だぞ」
「言ってください」
ソフィアの目。
逃げられない。
カイは少し照れたように視線を逸らす。
「……楽しかったです」
「誰と?」
「それ聞く必要あります?」
「あります」
「ソフィア様と」
ソフィアの口元が緩む。
「昨日はソフィーでした」
「今は違うだろ」
「では」
そこへ。
エレナが口を挟んだ。
「二人きりだと、ソフィーと呼ぶのですか?」
沈黙。
カイ。
ソフィア。
ほぼ同時にエレナを見る。
「……何で知ってるんです?」
「今、顔に書いてありました」
「顔?」
「はい」
エレナは笑った。
「お二人とも、とても分かりやすいです」
「俺も?」
「はい」
ソフィアは両手で顔を覆った。
「エレナ」
「ごめんなさい」
「本当にもう」
でも。
怒ってはいない。
恥ずかしいだけ。
「では、私はそろそろ帰ります」
エレナが立ち上がる。
「もう?」
「長居しては、お邪魔でしょう?」
「邪魔では」
カイが言いかける。
「邪魔です」
ソフィアが即答した。
「姫様?」
「エレナ」
「はいはい」
エレナは楽しそうに笑った。
「また来ます」
「次は余計なことを聞かないでください」
「約束はできません」
「エレナ!」
笑いながら扉へ向かう。
カイも立ち上がった。
「お送りします」
「大丈夫です」
「でも」
「カイは、ソフィア様のお傍へ」
エレナはそこで一度、カイをまっすぐ見た。
表情がほんの少しだけ真面目になる。
「ずっと」
その言葉に。
カイが目を瞬いた。
「……はい?」
「何でもありません」
「またそれですか」
エレナは柔らかく微笑むと、一礼して部屋を出ていった。
扉が閉じる。
静かになる。
二人だけ。
ソフィアがカイを見る。
「……」
「何です?」
「二人きりです」
「ああ」
「呼び方」
期待。
隠さない。
カイは少し笑った。
「分かったよ、ソフィー」
その瞬間。
ソフィアの表情が柔らかくなる。
「おかえりなさい、カイ」
「ただいま?」
「はい」
「城の中だけど」
「ここへ戻ってきてくれたので」
戻ってきた。
その言葉。
妙に胸へ残る。
「……ただいま」
言い直す。
ソフィアはとても嬉しそうに笑った。
「お待ちしていました」
「団長から聞いた」
「何を?」
「今日、三回も来るか確認したって」
ソフィアの顔が一気に赤くなる。
「マリア!」
「心配だったのか?」
「……少しだけです」
「忘れないって言っただろ」
「分かっています」
「なら」
「でも」
ソフィアは視線を少し落とした。
「来ると言ってくれたから」
「うん」
「待っていたのです」
その声。
とても素直。
カイは返事に詰まる。
ただ会う。
それだけ。
自分が来る。
それを。
こんなに楽しみにしてくれる。
「来てよかった」
自然に口から出た。
ソフィアが顔を上げる。
「本当ですか?」
「ああ」
「私が待っていたから?」
「それもある」
「他には?」
カイは少し考えた。
護衛日誌。
仕事。
それ以外。
「……俺も来たかった」
自分で言って。
少し驚く。
ソフィアはもっと驚いていた。
「もう一度」
「言わない」
「お願いします」
「今のなし」
「駄目です」
ソフィアが身を乗り出す。
「言ってください」
「恥ずかしい」
「カイが?」
「悪いか」
「いいえ」
ソフィアは嬉しそうに笑った。
「では、今の言葉を大切にします」
「忘れてくれ」
「絶対に嫌です」
「だろうな」
カイも笑った。
昨日の続き。
今日も。
少しずつ。
でも。
確実に。
二人の距離は。
近くなっていた。
◇◇◇
紅茶を飲み始めてしばらく経った頃。
ソフィアがふと思い出したように口を開いた。
「エレナ、綺麗でしょう?」
「ん?」
「さっきの話です」
「まあ、綺麗な人だな」
カイは何も考えず答えた。
その瞬間。
隣の空気が少しだけ変わる。
「……そうですか」
「何?」
「綺麗だと思うのですね」
「一般的に」
「一般的に?」
「ああ」
「では、好みですか?」
「何で?」
「聞いているのです」
声が少しだけ硬い。
カイは不思議そうにソフィアを見る。
「好みって言われても」
「女性としてです」
「考えたことない」
「本当に?」
「ああ」
「では、今考えてください」
「無茶だな」
「どうなのです?」
カイは困ったように眉を寄せた。
「綺麗だとは思うけど」
「けど?」
「別に、それ以上は」
「本当に?」
「何でそんなに気にするんだ?」
聞いた。
ソフィアが止まる。
「それは……」
少し。
言葉に詰まる。
「友人だからです」
「友人だから、俺の好みが気になる?」
「はい」
「何で?」
「婚姻準備です」
「もう何でもそれだな」
カイは笑う。
ソフィアは笑わない。
「では」
「何?」
「カイの好みの女性を教えてください」
「急だな」
「重要です」
「婚姻準備に?」
「はい」
「俺の好みが?」
「参考です」
「何の?」
「秘密です」
「また秘密」
カイは腕を組み、少し考えた。
今まで。
恋人はいない。
誰かを好きになった自覚も。
ない。
「難しいな」
「髪は?」
「何色でも」
「目は?」
「気にしない」
「身長は?」
「それも」
「性格は?」
「そこは大事だな」
ソフィアの表情が少しだけ真剣になる。
「どんな人ですか?」
「一緒にいて疲れない人」
「……」
「よく笑う人」
「はい」
「我が儘すぎない人」
ソフィアの眉がわずかに動く。
「今のは重要ですか?」
「かなり」
「……」
「でも」
カイは少し笑った。
「多少我が儘でも、分かりやすい方がいいかもな」
「分かりやすい?」
「ああ」
「例えば?」
「思ったことを溜め込まず言ってくれるとか」
「……」
「嬉しいなら嬉しい」
「はい」
「嫌なら嫌」
「はい」
「寂しいなら寂しい」
ソフィアの目が少し柔らかくなる。
「そう言ってくれる人」
カイの中に。
昨日。
泣いたソフィア。
浮かぶ。
自分に昔のように笑ってほしい。
寂しかった。
そう。
素直に。
伝えた。
「分かりやすい人の方が、俺は助かる」
「……そうですか」
ソフィアの機嫌が少し戻る。
「では、容姿は本当に?」
「気にしない」
「銀髪は?」
「綺麗だと思う」
即答。
ソフィアの頬が赤くなる。
「青い目は?」
「好きな色だな」
さらに。
赤い。
「色の話だけど?」
「分かっています」
「顔赤いぞ」
「夕方だからです」
「関係あるか?」
「あります」
絶対ない。
でも。
カイは追及しなかった。
「それで、何で急に好みなんて聞いたんだ?」
「確認です」
「何の?」
「何でもありません」
「またか」
「重要な確認です」
ソフィアは紅茶へ口をつけた。
口元には。
少し。
笑み。
「ソフィー」
「何です?」
「さっき」
「はい」
「エレナ様を綺麗って言ったら、不機嫌になった?」
ソフィアの手が止まる。
「なっていません」
「なっただろ」
「なっていません」
「分かりやすい人がいいって言った直後なんだけど」
「……」
「嫌だった?」
ソフィアはしばらく黙った。
でも。
最近。
分かりやすくする。
努力。
してる。
「少しだけ」
認めた。
「どうして?」
「……カイが」
「うん」
「他の女性を綺麗だと言うのが」
「うん」
「少しだけ嫌でした」
頬が赤い。
視線も合わない。
でも。
言った。
「ごめんなさい」
「何で謝る?」
「勝手ですから」
「別に」
「嫌ではありませんか?」
「全然」
「本当に?」
「ああ」
カイは少し笑った。
「むしろ」
「むしろ?」
「ちゃんと言ってくれて助かる」
ソフィアが目を丸くする。
「好み通りですね」
「そういう意味では……」
言いかけ。
止まる。
妙な流れ。
「……あれ?」
「何です?」
「いや」
カイの胸。
少し。
変。
ソフィアが。
自分が他の女性を褒めることを。
嫌がった。
そのことが。
なぜか。
少し嬉しい。
「カイ?」
「何でもない」
「便利ですね」
「本当に」
笑って誤魔化す。
でも。
胸の奥は。
さっきまでより。
少しだけ温かかった。
◇◇◇
その夜。
詰所へ戻ったカイは、寝台へ入る前に自分の右手首を見ていた。
あと二日。
腕輪。
ソフィーの名前。
昼間。
リナに聞かれた。
もしソフィアが、婚約者とお揃いの腕輪を作ったら。
そして。
今日。
逆に。
自分が他の女性を綺麗だと言っただけで。
ソフィアは嫌だったと。
言った。
カイは寝台へ腰掛けたまま、しばらく右手を見つめる。
「……嬉しかったんだよな」
小さく。
認める。
どうして。
護衛だから?
違う気がする。
七年一緒にいるから?
それなら。
少し。
近い。
でも。
全部ではない。
カイは寝台へ横になり、天井を見上げた。
ソフィアの笑顔。
今日の不機嫌。
赤い頬。
自分を待っていたと言った声。
そして。
ソフィー。
その名。
「……何なんだよ」
自分でも分からない。
ただ。
婚約者。
その言葉を考えると。
前より。
少し。
面白くない。
ソフィアの隣へ。
自分ではない誰か。
立つ。
その未来。
胸の奥へ。
小さな棘のように。
残る。
まだ。
名前はない。
でも。
確実に。
大きくなっている。
◇◇◇
同じ夜。
白銀宮では、ソフィアも寝台の上で枕を抱きしめていた。
カイの好み。
一緒にいて疲れない。
よく笑う。
思ったことをきちんと言う。
多少我が儘でもいい。
銀髪は綺麗。
青い目は好きな色。
「……かなり近いです」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
嬉しい。
とても。
でも。
「我が儘すぎない人……」
そこだけ。
引っかかる。
しばらく考える。
「私は、少しだけです」
自分へ言い聞かせる。
「少しだけ」
誰も答えない。
エマもすでに下がっている。
「明日から少し控えます」
一度。
決意。
数秒。
「……でも、多少ならいいと言いました」
すぐ撤回。
枕を抱きしめる。
それから。
今日。
何より。
嬉しかった言葉。
『俺も来たかった』
その一言。
何度思い返しても。
胸が温かい。
「少しずつ」
ソフィアは小さく笑う。
本当に。
少しずつ。
カイは気づき始めている。
まだ。
恋。
ではない。
自覚。
でも。
自分の中の変化。
そこまでは。
もう。
触れている。
「明日も会えます」
午後から白銀宮の護衛。
それだけでも。
嬉しい。
婚姻式まで。
あと二月。
腕輪の完成まで。
あと二日。
ソフィアは枕へ頬を寄せ、ゆっくり目を閉じた。
「おやすみなさい、カイ」
小さな声。
そして。
少し離れた騎士団詰所でも。
眠りへ落ちる前。
カイが誰にも聞こえない声で。
「……おやすみ、ソフィー」
そう呟いていた。
二人はまだ。
互いが同じ夜に。
互いの名を呼んでいることを。
知らなかった。




