第8話 第三皇女様は、二人きりならソフィーと呼ばせたいらしい
翌朝、第四近衛騎士団の訓練場には、いつもより少しだけ柔らかな空気が流れていた。
昨夜降った雨の名残で地面には薄く湿り気が残っていたが、空はすでに晴れ始めている。東の城壁を越えて差し込む朝日が訓練場の半分を淡い金色に染め、木剣を振るう騎士たちの影を長く石壁へ伸ばしていた。
そんな穏やかな朝の空気を切り裂くように、乾いた木剣の音が連続して響く。
「はっ!」
正面から振り下ろされた一撃を、カイは半歩だけ身体をずらしてかわした。
相手の剣先が肩口を掠めるように通り過ぎる。カイはそのまま踏み込み、相手が剣を引き戻すより先に手首へ木剣を軽く打ち込んだ。
「うわっ!」
衝撃で握りが緩み、青年騎士の木剣が地面へ落ちる。
「そこまで!」
審判役の声が響き、周囲で見ていた騎士たちから小さなどよめきが起こった。
カイはすぐに木剣を下ろし、悔しそうに自分の空いた手を見つめている青年へ右手を差し出した。
「昨日より踏み込みは良かったぞ」
「それ、昨日も言われました」
「昨日よりさらに良かったって意味だ」
「俺、いつになったらカイさんに勝てるんですか?」
「知らない」
「そこは励ましてくださいよ」
青年は呆れた顔をしながらもカイの手を取り、立ち上がった。
その様子を見ていた周囲から笑いが上がり、カイ自身もつられて笑う。
以前なら、朝の訓練中はもう少し表情が硬かった。
もちろん仲間と冗談を交わすことがなかったわけではない。だが、カイの中にはいつも、自分は他の騎士よりも失敗が許されないという意識があった。
平民出身。
孤児。
姓も持たない。
そのうえ、帝国第三皇女付きの近衛騎士。
自分が一度でも大きく失敗すれば、「やはり平民では皇族の傍へ置けない」と言い出す者が現れる。
実際、騎士候補生だった頃には何度も似たような言葉を聞いた。
だからこそ、常に強く。
常に隙を見せず。
誰より努力する。
それが自分の居場所を守るために必要なのだと、ずっと思っていた。
だが昨日。
ソフィアに泣きながら言われた。
昔のように笑ってくれることが嬉しい、と。
その言葉を思い出すと、不思議と肩へ入っていた力が少し抜ける。
「カイ」
訓練場の端から声が飛んできた。
振り返れば、栗色の髪を高い位置でまとめたマリアが、腕を組んでこちらを見ている。
「団長」
「少し来い」
「はい」
カイは木剣を近くにいた騎士へ渡し、マリアのところへ向かった。
「何です?」
「姫様から伝言だ」
「もう?」
思わず口から出た。
マリアの眉がわずかに上がる。
「もう、とは随分な言い方だな」
「いや、昨日ほとんど一日中一緒だったので」
「だから今日は会わないと思ったのか?」
「そういう意味じゃないですけど」
カイは言いにくそうに頭を掻いた。
「今日は午前の合同訓練くらい、最後まで参加できるかなと思っただけです」
「安心しろ。呼び出しは訓練終了後だ」
「珍しい」
「姫様も少しは学んだらしい」
「それ、本人の前では絶対に言わないでくださいね」
「当然だ」
マリアは小さく笑い、少しだけ声を落とした。
「昨日、約束したのだろう?」
「何をです?」
「訓練が終わったら、姫様と茶を飲むと」
カイは一瞬だけ驚いた。
「何で団長が知ってるんです?」
「今朝から何度も時間を確認されたからだ」
「誰が?」
「姫様が」
カイは黙った。
マリアは何でもないことのように続ける。
「訓練は何刻から始まるのか、終わるのは何刻頃か、詰所で着替えるのにどれくらいかかるのか。さらには白銀宮まで普通に歩けばどれくらいかかるかまで聞かれた」
「……そんなに?」
「ああ」
「お茶ですよ?」
「姫様にとっては、それだけのことではないのだろう」
意味ありげな言い方だった。
最近、本当にこの手の言い回しが増えた気がする。
「団長」
「何だ?」
「最近、皆何か隠してません?」
「気のせいだ」
「その言葉、最近本当に信用できなくなってきたんですけど」
「なら直接姫様に聞け」
「聞いたところで教えてくれないでしょう」
「よく分かっているではないか」
「何なんですか、本当に」
カイが呆れたように息を吐くと、マリアは堪えきれなかったように小さく笑った。
「とにかく、訓練が終わったら白銀宮へ行け。忘れるなよ」
「忘れませんよ」
「姫様が待っている」
その一言で。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
昨日なら。
待っていると聞けば、また何か我が儘を言われるのではないかと警戒したかもしれない。
今は。
「……分かってます」
カイは短く答えると、訓練場へ戻った。
その背中を見送りながら、マリアは小さく目を細めた。
本人はまだ気づいていない。
だが、ソフィアの名前が出た瞬間、明らかに表情が柔らかくなった。
「変わるものだな」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟くと、マリアも訓練へ意識を戻した。
◇◇◇
合同訓練が終わると、カイはいつもより少しだけ早足で詰所へ戻った。
汗を流し、身体を拭き、いつもの濃紺の近衛騎士服へ着替える。襟元を整え、剣帯を締め、鏡の前で髪の乱れまで確認したところで、自分の動きが普段より妙に丁寧なことへ気づいた。
「……何してるんだ、俺」
鏡の中の自分へ苦笑する。
別に式典へ出るわけではない。
謁見でもない。
ただ、ソフィアと茶を飲むだけ。
昨日だって一日中一緒だった。
街を歩き。
手を繋ぎ。
菓子を食べ。
笑った。
それなのに、今日は昨日とは違う意味で落ち着かない。
理由は分かっていた。
二人きりになった時は。
ソフィーと呼ぶ。
昨日、そう約束した。
城下ではまだ良かった。
お忍び。
町娘のふり。
恋人設定。
周囲に正体を悟られないため。
愛称で呼ぶための理由はいくらでもあった。
だが今日は違う。
皇城。
ソフィアの私室。
第三皇女として過ごす彼女を、二人きりになった瞬間だけソフィーと呼ぶ。
「改めて考えると、かなりすごい約束だな」
カイは鏡から視線を外し、右手を見た。
昨日。
何時間もソフィアと繋いでいた手。
最後には、彼女から聞かれた。
理由がなくても、手を繋いでいいか。
そして自分は。
いい、と答えた。
手を離した時に物足りないとも、言ってしまった。
「……ただ手を繋いだだけだろ」
自分へ言い聞かせる。
なのに。
今日、二人きりになったら。
また繋ぐのだろうか。
そう考えると、胸が妙に落ち着かない。
「本当に最近、変だな」
呟きながら。
それでも。
口元には小さな笑みが残っていた。
◇◇◇
白銀宮へ着くと、入口にはエマが立っていた。
「お待ちしておりました」
「姫様は?」
「お待ちです」
「やっぱり」
「何か?」
「団長から聞きました。朝から訓練の時間を何度も確認していたって」
エマの笑みが少し深くなる。
「マリア様は余計なことをおっしゃいますね」
「本当なんですか?」
「本当でございます」
「そんなに楽しみにするようなものですかね」
「カイ」
「はい?」
「姫様にとっては、昨日の続きなのですよ」
「昨日の?」
「ええ」
エマはそれ以上説明せず、私室の扉へ手をかけた。
「またそこで止めるんですか」
「続きは姫様へ直接お尋ねくださいませ」
「聞いても教えてくれないでしょう」
「少しずつは教えてくださると思いますよ」
「何をです?」
「それもご自身で」
カイは苦笑する。
「本当に、最近皆同じことばっかり言いますね」
「そうでしょうか」
「絶対何か知ってるでしょう」
「さて」
綺麗にかわされた。
エマが扉を開ける。
「姫様、カイが参りました」
「入ってください!」
返事が早い。
本当に待っていたらしい。
「失礼します」
カイが室内へ入る。
昨日と同じ私室。
けれど。
そこにいるソフィアの姿は、昨日の城下とはまるで違っていた。
今日は淡い水色のドレスを身につけ、銀色の髪も丁寧に整えられている。頭には小さな空色の宝石飾りがあり、姿勢も表情も、どこから見ても完璧な第三皇女だった。
昨日の白い帽子。
水色のワンピース。
町娘のソフィー。
その姿を思い出す。
同じ女性なのに、雰囲気がまるで違う。
だからこそ。
カイは自然と片膝をついた。
「お呼びでしょうか、姫様」
顔を上げる。
ソフィアは。
少しだけ頬を膨らませていた。
「……何です?」
「違います」
「何が?」
「呼び方です」
すぐに意味を理解する。
しかし。
カイは周囲を見た。
エマ。
侍女。
四人。
「まだ二人きりじゃないですよ」
「……そうですね」
「昨日の約束は、二人きりの時だけでしょう?」
「覚えていたのですね」
「忘れるわけないでしょう」
カイが自然に答えた。
ソフィアの表情が一瞬止まる。
「忘れるわけがない?」
「昨日の約束ですよ」
「……そうですか」
嬉しそう。
さっきまで膨らんでいた頬が一瞬で戻った。
カイは思わず笑う。
「最近、本当に分かりやすくなったな」
「何がです?」
「機嫌」
「カイがそうしてほしいと言ったのでしょう?」
「俺?」
「嬉しいなら嬉しい、嫌なら嫌、寂しいなら寂しいと言ってほしいと」
「ああ」
昨日の川辺。
そんな話をした。
「確かに」
「なので、分かりやすくしているのです」
「それは助かる」
ソフィアは少し満足そうに頷く。
そしてすぐ。
「では皆、少し外してください」
侍女たちが一斉に顔を上げた。
そのあと。
なぜか全員の口元が少し緩む。
「かしこまりました」
エマが代表して一礼した。
「ちょっと待ってください」
カイが思わず止める。
「何です?」
「何で全員外すんです?」
「二人きりになるためです」
「そこまでして?」
「はい」
「お茶を飲むだけですよね?」
「はい」
「愛称呼びのためだけに?」
「私には重要です」
ソフィアは真剣だった。
エマが横から口を挟む。
「カイ、諦めなさい」
「エマさんまで」
「姫様は朝から楽しみにしておられましたから」
「エマ」
ソフィアの声が少し低くなる。
「失礼いたしました」
謝っている。
だが。
全然反省していない顔だった。
「では失礼いたします」
エマを先頭に、侍女たちが部屋を出ていく。
扉が閉じる。
音が遠ざかる。
静か。
二人きり。
カイとソフィアはしばらく向かい合った。
「……」
「……」
「何です?」
沈黙に耐えられず、カイが先に口を開く。
「呼んでください」
「改めて待たれると恥ずかしいんだけど」
「約束です」
「分かってるよ」
カイは小さく息を吐いた。
それから、昨日より少し柔らかな声で呼ぶ。
「おはよう、ソフィー」
ソフィアの頬が一気に赤くなった。
「……おはようございます、カイ」
「顔、赤いぞ」
「カイが悪いのです」
「何で俺?」
「分かりませんか?」
「分からない」
「本当に先は長いですね」
「何の話?」
「何でもありません」
そう言いながら、ソフィアの口元には嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
カイも少しだけ笑った。
「それで、今日は本当にお茶だけ?」
「その予定です」
「他に何もない?」
「今のところは」
「その言い方、怖いな」
「安心してください」
「ソフィーに言われると余計不安になる」
「酷いです」
二人で笑う。
昨日の続き。
エマが言っていた意味が。
少しだけ分かった気がした。
◇◇◇
卓の上には、すでに白花茶の入った茶器と、六種類ほどの小さな焼き菓子が用意されていた。
昨日あれだけ甘い物を食べたというのに、今日もかなりの量である。
「また甘い物?」
「少しだけです」
「六種類あるけど」
「全部小さいです」
「数の問題を無視してない?」
「カイも食べれば半分です」
「最初から俺に食べさせるつもりだっただろ」
ソフィアは答えず、口元を隠して笑った。
「座ってください」
「今日は最初から座っていいのか?」
「はい」
「向かい?」
カイが尋ねると、ソフィアは無言で自分の隣を軽く叩いた。
「……隣?」
「昨日も隣でした」
「菓子店ではな」
「今日もです」
「城の中だけど」
「二人きりです」
「それ、万能すぎない?」
「はい」
即答。
カイは完全に負けた。
「分かったよ」
ソフィアの隣へ腰掛ける。
肩が近い。
昨日。
同じくらいの距離だった。
慣れたはず。
なのに。
城。
二人きり。
理由なし。
そう考えると。
少しだけ違う。
「近くない?」
「昨日より少し離れています」
「比べる基準がおかしい」
「では、もう少し近づきましょうか?」
「やめて」
「ふふっ」
ソフィアは楽しそうに笑う。
カイも。
少しだけ。
つられて笑う。
「今日も、昨日みたいに話してください」
「もうかなり崩してるだろ」
「まだ少し騎士です」
「分かるの?」
「分かります」
「何で?」
「七年見ていますから」
ソフィアはカップを持ち上げ、白花茶へ口をつけた。
「カイが緊張している時も分かります」
「今?」
「少し」
「してない」
「嘘です」
「根拠は?」
「右手です」
言われて、カイは自分の右手を見る。
膝の上で。
無意識に指先へ力が入っていた。
「カイは緊張している時、右手を少し強く握ります」
「初めて知った」
「私は知っています」
「俺より俺に詳しいな」
「当然です」
ソフィアは自然な口調で言う。
「ずっと見ていますから」
カイの動きが少し止まった。
「ずっと?」
「あ……」
ソフィアも。
自分の言葉へ少し遅れて気づく。
「主君としてです」
「そりゃそうか」
カイは納得したように頷いた。
だが。
胸の奥。
ほんの少しだけ。
違う。
昨日。
ソフィアは言った。
自分と過ごす時間が好きだと。
婚姻準備がなくても。
また一緒に出かけたいと。
ああいう言葉が。
最近。
妙に残る。
でも。
ソフィアには婚約者がいる。
そこで思考を止める。
◇◇◇
「そういえば」
カイは卓上の焼き菓子を一つ手に取りながら、ふと思い出した。
「腕輪、あと二日だな」
ソフィアの表情が一気に明るくなる。
「覚えていたのですか?」
「当然だろ」
「受取札も?」
「持ってる」
「今も?」
「ああ」
カイは近衛騎士服の内側へ手を入れ、小さな木札を取り出した。
雑貨店でもらった引換札。
ソフィアは目を丸くした。
「持ち歩いているのですか?」
「失くしたら困るだろ」
「詰所へ置いておいてもいいのでは?」
「忘れたら嫌だし」
「……」
「何?」
「嬉しいです」
「札を持ってるだけで?」
「腕輪を楽しみにしてくれているということですから」
「楽しみだよ」
カイは普通に答えた。
「本当に?」
「何回聞くんだよ」
「何回でも聞きます」
「じゃあ何回でも言うけど」
カイは少し笑う。
「楽しみにしてる」
ソフィアの頬が赤くなる。
「私の名前が入っていますよ」
「そうだな」
「恥ずかしくありませんか?」
「……少しは」
「嫌ですか?」
「嫌じゃない」
即答だった。
ソフィアの表情がほっと緩む。
「ならいいです」
「でも騎士団の連中に見られたら絶対からかわれる」
「見せればいいではありませんか」
「何で」
「私から贈られた物だと」
「余計に騒ぐ」
「では、恋人から贈られたと」
「もっと駄目だろ」
「ふふっ」
ソフィアが楽しそうに笑う。
「ソフィーはいいよな」
「何がです?」
「俺の名前入り腕輪でも、皇女の服なら袖で隠せるだろ」
「隠しません」
「え?」
「ずっと身につけます」
「見える状態で?」
「はい」
カイは少し眉を寄せた。
「婚約者、大丈夫なの?」
また。
その人。
ソフィアの表情がほんの少しだけ変わる。
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「俺なら……」
言いかけて。
止まる。
ソフィアがすぐに反応した。
「俺なら?」
「いや」
「言ってください」
「大したことじゃない」
「重要です」
「何でソフィーが決めるんだよ」
それでも。
ソフィアの目。
逃がさない。
カイは諦める。
「もし俺が婚約者なら」
その瞬間。
ソフィアが固まった。
カイは気づかず続ける。
「自分の婚約者が、他の男の名前入りの腕輪をずっとつけてたら、ちょっと嫌だと思う」
沈黙が落ちた。
「ソフィー?」
「……もう一度」
「何で」
「お願いします」
「もし俺が婚約者なら?」
「そこです」
「そこだけ?」
「大切です」
「変なの」
カイは笑った。
「もし俺が婚約者なら、嫌だと思うよ」
ソフィアは両手で顔を覆った。
「今度は何?」
「少し顔を見ないでください」
「熱?」
「違います」
「昨日からよく赤くなるな」
「カイが悪いです」
「またそれ」
カイは笑った。
でも。
そのあと。
少しだけ。
自分で引っかかった。
今。
自然に。
自分がソフィアの婚約者だったら、と想像した。
「……」
「カイ?」
「いや」
「何です?」
「今」
カイは少し言葉を探した。
「自分が婚約者だったらって、普通に想像したなと思って」
ソフィアの呼吸が止まる。
「……それで?」
「いや」
次の瞬間。
いつもの壁。
身分。
平民。
孤児。
そこへ戻る。
「あり得ないけど」
ソフィアの肩がわずかに落ちた。
「どうして?」
「どうしてって」
カイは本気で不思議そうな顔をする。
「ソフィーは第三皇女だぞ」
「はい」
「俺は平民」
「はい」
「孤児」
「はい」
「姓もない」
「はい」
「候補に入るわけないだろ」
ソフィアは少し黙った。
やっぱり。
ここが強い。
カイの中では、考える以前に自分が除外されている。
「カイ」
「何?」
「私は、身分だけで人を選ぶと思いますか?」
カイは少し驚いた。
「そういう意味じゃ」
「では?」
「皇族の婚姻だろ」
「はい」
「個人だけの問題じゃない」
「それは分かっています」
「なら」
「でも」
ソフィアは少し声を柔らかくした。
「私が誰を大切に思うかまで、身分が決めるものではありません」
カイは黙った。
言っていることは分かる。
その通りだとも思う。
でも。
それ以上深く考えることが。
なぜか少し怖い。
「……そうだな」
結局。
それだけ答えた。
ソフィアも今は追わなかった。
まだ。
それでいい。
◇◇◇
「それで」
ソフィアは少し空気を変えるように、別の焼き菓子を手に取った。
「カイの好みについて聞いてもいいですか?」
「好み?」
「女性の」
「急だな」
「婚姻準備です」
「俺の好みが何の関係あるんだよ」
「参考です」
「何の?」
「秘密です」
「また秘密」
カイは呆れながらも少し考えた。
「好みか……」
「はい」
「分からない」
「今まで恋人はいなかったのですか?」
「知ってるだろ」
「……はい」
「何で確認するんだ」
「何となくです」
カイは昔を少し思い出した。
騎士候補生時代。
訓練場。
城内。
何度か。
仲良くなった女性。
いた。
でも。
なぜか翌日。
避けられる。
理由。
分からない。
「でも」
「何です?」
「一緒にいて疲れない人がいいかな」
ソフィアは急に真剣な顔になった。
「他には?」
「よく笑う」
「はい」
「思ったことをちゃんと言う人」
「……」
「嬉しいなら嬉しい」
「はい」
「嫌なら嫌」
「はい」
「寂しいなら寂しいって」
ソフィアの目が少し柔らかくなる。
「そういう人」
「我が儘は?」
「程度による」
ソフィアの表情に僅かな緊張が走る。
「どの程度なら?」
「……誰の話?」
「一般論です」
「怪しいな」
「お願いします」
カイは笑った。
「多少ならいいんじゃない?」
「多少」
「その代わり、分かりやすい方が助かる」
「では」
ソフィアが少し胸を張る。
「私は?」
「何が?」
「分かりやすいですか?」
「最近は」
「最近?」
「昨日からかなり」
「……」
「嬉しいとか、寂しいとか、ちゃんと言うようになった」
ソフィアは少しだけ嬉しそうに笑った。
「カイがそうしてほしいと言ったからです」
「俺が?」
「昨日の川辺で」
「ああ……そうだったな」
カイも少し照れくさそうに笑う。
「じゃあ」
「はい」
「今のソフィーは」
「はい」
「そういうところ、いいと思う」
ソフィアが固まった。
「何?」
「……何でもありません」
「また?」
「今は、本当に」
そう言いながら。
顔。
赤い。
カイは笑った。
◇◇◇
しばらくして、二人の間に穏やかな沈黙が落ちた。
白花茶のカップからは薄い湯気が上がり、開けられた窓からは庭園の花の香りが流れ込んでくる。皇城の中心にあるとは思えないほど静かな時間だった。
ソフィアは隣へ座るカイの横顔を見る。
昔より低くなった声。
広くなった肩。
騎士として鍛えられた身体。
でも。
笑う時。
困った時。
少し眉を下げるところ。
昔から変わらない。
「カイ」
「何?」
「昨日」
「うん」
「私が泣いたこと」
カイの表情が少しだけ変わった。
「忘れてください」
「無理」
即答。
ソフィアは驚いた。
「無理?」
「ああ」
「どうして?」
「俺にも原因があるから」
「違います」
「全部じゃなくても、関係はあるだろ」
カイは真面目な顔で続ける。
「ソフィーが、俺に昔みたいに笑ってほしかったこと」
「はい」
「知らなかった」
ソフィアは黙る。
「だから忘れない」
「……」
「また俺が距離取りすぎてたら」
カイは少しだけ視線を逸らした。
「言って」
「本当に?」
「ああ」
ソフィアはしばらく考える。
そして。
「では今」
「今?」
「少し遠いです」
カイは自分たちの距離を確認した。
すでに隣。
肩もかなり近い。
「これ以上?」
「昨日より少し離れています」
「基準が昨日なの?」
「はい」
ソフィアは少しだけ身体を寄せた。
肩が触れる。
「これくらいです」
「近いって」
「嫌ですか?」
いつもの問い。
カイは少しだけ考えた。
「……嫌じゃない」
「では問題ありません」
「その質問、便利だな」
「カイが正直なので」
「負けた気がする」
でも。
離れない。
肩が触れたまま。
ソフィアは少し嬉しそうに笑っていた。
◇◇◇
ソフィアはしばらく何かを迷うように手元を見ていたが、やがて右手を膝の上へ置いた。
「カイ」
「ん?」
「昨日の約束」
「どれ?」
「二人きりになったら」
そこで。
カイも気づく。
「……ああ」
「覚えていますか?」
「忘れるわけないだろ」
また。
その言葉。
ソフィアの表情が柔らかくなる。
「では」
右手を少し差し出す。
カイはその手を見た。
今。
城内。
私室。
二人きり。
はぐれる心配もない。
護衛上の必要もない。
恋人設定でもない。
「理由なし?」
カイが確認する。
「はい」
「本当に?」
「はい」
「それでも?」
「はい」
カイは小さく笑った。
「分かった」
差し出された手を取る。
指が重なる。
ソフィアは自然に指を絡めた。
カイも。
今度は驚かない。
昨日交わした約束。
今日。
本当に。
実行した。
「温かいですね」
ソフィアが小さく呟く。
「昨日も言ってた」
「今日もです」
「毎日言う?」
「毎日繋げるなら」
カイは少しだけ言葉に詰まった。
「……毎日は無理だろ」
「二人きりなら?」
「何で」
「嫌ですか?」
また。
聞かれる。
カイは堪えきれず笑った。
「嫌じゃない」
「では」
「その理屈で全部通す気?」
「はい」
「強いな」
口ではそう言いながら。
手は離さない。
むしろ。
無意識に。
少しだけ握り返した。
ソフィアは気づいた。
でも。
言わない。
ただ。
嬉しそうに笑った。
◇◇◇
「そういえば」
ソフィアは繋いだ手を見ながら、ふと思い出したように言った。
「腕輪が完成したら」
「あと二日だな」
「はい」
「この手に」
「つける」
「カイが?」
「俺が?」
「はい」
「自分でつけるんじゃないの?」
「お互いにつけたいです」
ソフィアは少し恥ずかしそうに視線を下げる。
「恋人は、そうすることもあるそうです」
「またエマさん?」
「店員さんにも聞きました」
「準備いいな」
「駄目ですか?」
カイは想像した。
ソフィアの細い手首。
そこへ。
自分の手で。
自分の名前が刻まれた腕輪をつける。
胸が少しだけ鳴る。
「……いいよ」
答える。
「本当?」
「ああ」
「約束です」
「約束多いな」
「忘れないためです」
「俺は忘れないって」
ソフィアはまた柔らかく笑った。
「カイ」
「何?」
「私との約束」
「うん」
「そんなに覚えてくれているのですね」
「大事だからだろ」
自然に。
カイが言う。
ソフィアが止まる。
「何?」
「……もう一度」
「今日はそれ多くない?」
「大切です」
「約束が大事って言っただけだぞ」
「私との、です」
「同じだろ」
分かってない。
でも。
嬉しい。
ソフィアは少し困ったように笑う。
「本当にずるいです」
「何が?」
「何でもありません」
「またそれ」
二人で笑った。
◇◇◇
やがて、扉が控えめに叩かれた。
「姫様、エマでございます」
「入りなさい」
ソフィアの声が、一瞬で第三皇女のものへ戻る。
カイも姿勢を正した。
そして。
気づく。
手を繋いだまま。
「……ソフィー」
「はい」
「手」
「……」
「エマさん入ってくる」
「あと少しだけ」
「無理」
「一瞬だけ」
「もう扉開く」
カイは堪えきれず笑った。
「また二人きりになったらな」
「……はい」
指をゆっくり離す。
ソフィアの表情が少し寂しそうになる。
でも。
約束。
また。
できた。
扉が開く。
エマが入ってくる。
まず。
二人の距離。
見る。
「……」
「何です?」
カイが先に聞いた。
「いえ」
「絶対何か言いたいでしょう」
「大変仲がおよろしいなと」
「お茶してただけです」
「そうでございますか」
「その顔、信じてないですよね」
「何でもございません」
「またその言葉!」
ソフィアが笑う。
「エマ、何か用ですか?」
「はい。昼食の準備が整っております。それと午後から、陛下より婚姻準備について確認がございます」
「分かりました」
ソフィアの表情が少しだけ残念そうになる。
カイはすぐに気づいた。
「俺もそろそろ戻る」
「もうですか?」
「午後の任務がある」
「……そうでしたね」
声。
少し。
寂しい。
カイはそれを見て。
「夕方」
自然に。
言う。
ソフィアが顔を上げる。
「また来るよ」
「本当ですか?」
「ああ」
「何か用があるのですか?」
「護衛日誌の確認」
そこまで言って。
少し止まる。
「……なくても」
「はい?」
「時間あったら来る」
ソフィアが完全に固まる。
「カイから?」
「ああ」
「私が呼ばなくても?」
「うん」
「本当に?」
「何回聞くんだよ」
カイは笑う。
「来るよ」
ソフィアの表情が一気に明るくなる。
「待っています」
「今度は団長に何回も確認するなよ」
「……聞いていたのですか」
「三回」
「マリア……」
ソフィアの顔が赤くなる。
エマが横で笑っている。
「では」
カイは立ち上がった。
「また夕方」
「はい」
「姫様」
今は。
人がいる。
正しい。
でも。
ソフィアの表情に。
ほんの少し。
寂しさ。
カイは扉の前まで歩いたところで、少しだけ振り返った。
エマ。
侍女。
いる。
だから。
声。
小さく。
ほとんどソフィアだけへ。
「……ソフィー」
ソフィアの目が大きくなる。
「夕方な」
それだけ。
カイは部屋を出た。
扉が閉じる。
静か。
「姫様」
エマが声をかける。
ソフィアは両手で頬を押さえた。
「聞きました?」
「はい」
「皆も?」
侍女たちが少しだけ笑う。
「申し訳ございません」
「……」
恥ずかしい。
でも。
それ以上。
嬉しい。
「人がいたのに」
ソフィアは小さく呟く。
「ソフィーって」
エマが微笑む。
「随分、自然になってきましたね」
「はい」
「昨日よりも」
「はい」
ソフィアはさっきまで繋いでいた右手を見つめる。
温もり。
まだ。
残る。
「エマ」
「はい」
「私」
少し。
笑う。
「今日だけでも、かなり幸せです」
「まだ午前でございますよ」
「それでもです」
その顔は。
第三皇女ではない。
ただ。
恋する少女だった。
◇◇◇
白銀宮を出たカイは、詰所へ戻る途中の回廊でリナとすれ違った。
「カイ」
「お疲れ」
「姫様のところ?」
「ああ」
「長かったね」
「お茶してただけ」
「二人で?」
「途中から」
「へえ」
リナが楽しそうに笑う。
「何?」
「別に」
「その顔やめろ」
「どんな?」
「面白がってる」
「気のせい」
「その言葉、本当に禁止にしたい」
カイが呆れたように笑う。
「そういえば」
リナが少しだけ声を落とした。
「腕輪」
「何?」
「楽しみ?」
「楽しみ」
即答。
リナの眉が少し上がる。
「素直」
「何で?」
「前なら、護衛の証だからとか言いそうだった」
カイは少しだけ黙った。
確かに。
最初は。
そう。
「まあ」
無意識に右手首を見る。
「ソフィーが楽しみにしてるし」
「カイは?」
「俺も」
「お揃いだから?」
「……まあ」
「名前入りだから?」
「うるさい」
リナは声を抑えて笑った。
「じゃあ、もう一つだけ」
「何?」
「姫様が、婚約者と別のお揃いの物を身につけたら」
カイの表情が少し止まる。
「どうする?」
「どうするって」
「同じような腕輪」
「婚約者なら普通だろ」
「平気?」
すぐには答えられなかった。
想像。
ソフィア。
知らない男。
お揃い。
互いの名前。
手首。
自分が二日後にするはずのこと。
他の男が。
ソフィアへ。
する。
胸が。
少し。
ざわつく。
「カイ?」
「……護衛として」
ようやく答える。
「相手がちゃんとした男かは気になる」
「それだけ?」
「それだけ」
少し強く。
言う。
リナはしばらくカイを見る。
「そっか」
「何だよ」
「別に」
「その言い方、本当に嫌いになりそう」
「そのうち分かるよ」
「何が?」
「それもそのうち」
「また!」
リナは笑いながら歩き去る。
残されたカイは。
少しだけ。
その場に立つ。
婚約者。
ソフィア。
誰か。
お揃い。
「……普通だろ」
小さく。
自分へ言う。
「婚約者なんだから」
でも。
面白くない。
理由。
まだ。
認めない。
◇◇◇
その夜。
カイは寝台へ横になりながら、昼間のリナの言葉を思い出していた。
ソフィアが婚約者とお揃いの物を身につける。
普通。
当然。
むしろ。
自分が気にする方がおかしい。
それなのに。
思い浮かべると。
胸が少し重い。
昨日。
手を離した時。
物足りなかった。
今日。
二人きり。
また手を繋いだ。
嫌ではなかった。
むしろ。
離したくなかった。
そして。
夕方。
また会いたい。
自分から。
言った。
「……変だな」
天井を見上げる。
ソフィアの顔。
浮かぶ。
嬉しそうに笑う。
赤くなった頬。
隣。
肩。
手。
「姫様……」
言いかけ。
止まる。
今。
一人。
誰もいない。
「……ソフィー」
小さく呼ぶ。
それだけで。
胸が少し温かい。
「本当に、何なんだよ」
答えはまだ出ない。
でも。
前より確実に。
ソフィアという存在が。
自分の中で。
特別になっていた。
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮では、ソフィアも寝台の中で今日のことを何度も思い返していた。
二人きりになった瞬間。
『おはよう、ソフィー』
そう呼んでくれた。
隣に座った。
理由がなくても手を繋いでくれた。
腕輪を楽しみにしていると言ってくれた。
そして。
帰る前。
人がいるのに。
わざわざ小さな声で。
『ソフィー』
呼んでくれた。
「……嬉しいです」
枕を抱きしめながら、小さく呟く。
でも。
今日。
もう一つ。
忘れられない。
『もし俺が婚約者なら』
カイは。
ほんの一瞬でも。
自分が。
ソフィアの婚約者になる姿を想像した。
すぐに。
身分差。
平民。
孤児。
理由を並べ。
あり得ないと消した。
それでも。
最初の一歩。
自分を。
そこへ。
置いた。
「あと少し」
ソフィアは目を閉じる。
急がない。
まだ。
急がない。
カイは少しずつ、自分の中の変化へ触れ始めている。
自分と手を繋ぐことを当たり前に感じ始め。
自分との約束を大切だと言い。
婚約者を想像した時。
胸をざわつかせる。
その全部が。
ソフィアには。
何より嬉しい。
「おやすみなさい、カイ」
小さな声で名前を呼ぶ。
同じ頃。
別の棟。
カイもまた。
誰にも聞かれない声で。
「おやすみ、ソフィー」
そう呟いていた。
二人はまだ。
互いのその言葉を知らない。
けれど。
昨日より今日。
今日より明日。
焦らず。
少しずつ。
二人が望む距離へ。
近づいていた。




