第6話 婚姻式のあとも、できれば今まで通りがいい
帝都の南側をゆるやかに流れるルーナ川は、昼を少し過ぎた頃になると、春の陽射しを受けて水面いっぱいに細かな光を散らしていた。
北部の山々から流れ込むこの川は、帝都に暮らす人々にとって重要な水源であると同時に、古くから市民の憩いの場としても親しまれている。川沿いには淡い灰色の石畳が敷かれ、その脇には季節の花を植えた花壇や木製の長椅子が一定の間隔で置かれていた。
大通りから一本離れているため、人通りも先ほどまでとは比べものにならないほど穏やかだった。
買い物帰りらしい母娘が笑いながら歩き、少し離れた場所では老夫婦が川面を眺めながらゆっくりと散歩している。橋の近くでは数人の子供が川へ石を投げ、何度水面を跳ねたかで競い合っていた。
「少し静かになりましたね」
ソフィアが川の方へ顔を向けながら、ほっとしたように言った。
白い帽子のつばが風を受けて揺れ、その下から銀色の髪が数本こぼれる。大通りを歩いていた時より表情も柔らかく、肩から余計な力が抜けているように見えた。
「人混みが苦手だったか?」
カイが尋ねると、ソフィアは小さく首を横へ振った。
「嫌いというわけではありません。城の中では聞けない声がたくさん聞こえますし、見たことのない物も多いですから、むしろ楽しいです」
「ならよかった」
「ただ……こちらの方が、少し落ち着きます」
「俺もだな。広場より周囲を確認しやすいし」
「そういう意味ではありません」
すぐに否定され、カイは隣へ視線を向けた。
「違うのか?」
「違います」
ソフィアはそう答えながら、二人の間で繋がれている手を少しだけ持ち上げた。
「こちらなら、こうしていてもあまり見られませんから」
カイは一瞬、言葉に詰まった。
雑貨店を出てから、二人はまだ手を繋いだままだった。街へ出た当初は、人混みではぐれないようにという護衛上の理由があったはずなのだが、ここまで来れば人の流れも穏やかで、離れる心配などほとんどない。
つまり、もう手を繋いでいる必要はない。
そう気づいた瞬間、カイは反射的に手を離そうとしかけた。
だが。
ソフィアの指先が、ほんの少しだけ強く握り返してくる。
その小さな反応に、なぜか動きを止めた。
「……嫌だったか?」
ソフィアが恐る恐る尋ねる。
「何が?」
「人に見られることです」
「いや、別に」
「では、このままでも?」
「まあ……人が少ないなら」
カイが曖昧に答えると、ソフィアの口元が小さく緩んだ。
「ありがとうございます」
「礼を言うことじゃないだろ」
「私には大切なのです」
その言葉の意味はよく分からなかった。
けれど、ソフィアが嬉しそうなのであれば、わざわざ手を離す必要もないだろう。
カイはそう考え、そのまま歩調を合わせた。
しばらくは会話もなく、二人は川沿いを歩いた。
川を渡ってきた春風が、昼の少し暖かな空気を優しく冷ましていく。歩くたびにソフィアのワンピースの裾が揺れ、繋いだ手もそれに合わせて小さく前後した。
沈黙は不思議と気まずくなかった。
護衛任務でソフィアと二人になることは珍しくない。むしろ七年間、誰より近くで彼女を見てきたつもりだった。
だが、こうして何の目的もなく、同じ景色を眺めながら歩いたことがどれほどあっただろう。
いつもは目的地があった。
予定があった。
護衛として気を張っていた。
ソフィアが突然何かを思いついて走り出さないか、妙な露店へ突撃しないか、知らない人間についていかないかと、半分は子供を見守るような気持ちで傍にいた。
今日も護衛であることに変わりはない。
周囲への警戒も解いていない。
それでも、今は少しだけ違う。
守るべき第三皇女ではなく、隣にいるソフィーと同じ時間を過ごしている。
そんな感覚があった。
「カイ」
「ん?」
「昔も、ここへ来たことがありましたね」
不意にソフィアが口にした。
カイは少し先の川沿いへ視線を向ける。
「ここ?」
「もう少し先です。大きな柳の木があるでしょう?」
言われて目を凝らすと、遊歩道の先に枝を川へ垂らす大きな柳が見えた。
その瞬間、古い記憶が蘇る。
「ああ……あそこか」
「覚えていました?」
「忘れるわけないだろ」
カイは少し苦い顔をした。
「俺が騎士候補生になって間もない頃、姫様が勝手に城を抜け出した時だ」
「ソフィーです」
「昔の話まで?」
「今日は一日、ソフィーです」
「分かったよ」
カイは諦めたように笑った。
「十一歳のソフィーが勝手に城を抜け出して、俺がここまで探しに来た時だろ」
「勝手にではありません」
「許可は?」
「……取っていませんでした」
「それを勝手にって言うんだ」
ソフィアは不満そうに頬を膨らませたが、反論はできなかったらしい。
「あの時の俺が、どれだけ焦ったと思ってる」
「そんなにですか?」
「第三皇女が忽然と消えたんだぞ。しかも誘拐事件からまだ一年くらいしか経ってなかった」
当時のことを思い出すだけで、今でも背中が冷える。
白銀宮からソフィアの姿が消えたと分かった瞬間、皇城内は騒然となった。侍女たちは青ざめ、近衛騎士団は城門を封鎖し、皇帝直属の騎士まで動き始めた。
再び誘拐された可能性。
それが誰の頭にも浮かんだ。
ただ、カイだけは別の可能性を考えた。
前日の夜。
ソフィアが侍女たちから、ルーナ川沿いに春の花が咲き始めたと聞いていたことを覚えていた。
そして何より。
あの頃のソフィアなら、やりかねないと思った。
「俺がここへ来たら、本当にいたんだよな」
「はい」
「裸足で川に入って」
「浅かったです」
「そういう問題じゃない」
「とても綺麗だったのですよ」
「俺は寿命が縮んだ」
柳の下。
靴を脱ぎ、素足を水へ入れた幼いソフィア。
銀色の髪を風に揺らしながら、こちらへ気づくと満面の笑みを浮かべた。
『カイも入りませんか?』
あの一言は今でも覚えている。
見つけた瞬間、本気で怒鳴るつもりだった。
どうして勝手に出た。
どれだけ心配したと思っている。
そんな言葉を山ほど考えていた。
なのに。
無邪気に笑うソフィアを見たら、全部どこかへ飛んでいった。
「しかも帰りたくないって言ったよな」
「まだ花を見ていたかったので」
「城中が探してるって言ったら、やっと大人しくなった」
「その後、カイが背負ってくれました」
「疲れたって言ったからだろ」
当時は二人とも今よりずっと小さかった。
それでもソフィアを背負い、城まで歩いた。
戻った後。
カイは師匠だった当時の第四近衛騎士団長に、とんでもない勢いで怒られた。
「帰った後、俺まで罰として訓練増やされたんだぞ」
「どうしてカイまで?」
「勝手に単独で探しに行ったからだ」
「でも、私を見つけました」
「結果論だ」
「では、褒められたのでは?」
「怒鳴られた後に一言だけな」
「何と?」
カイは少しだけ懐かしそうに目を細めた。
「よく見つけた、って」
あの人は本当に褒めない人だった。
厳しく。
容赦なく。
平民で孤児だったカイにも一切遠慮せず、騎士として必要なものを叩き込んだ。
当時は鬼だと思っていた。
いや、今でも半分くらいはそう思っている。
「カイは、あの頃よりずっと強くなりましたね」
ソフィアが穏やかに言った。
「そりゃ、七年も訓練してるからな」
「身体も大きくなりました」
「成長しただけだ」
「声も低くなりました」
「ソフィーも変わっただろ」
「私は昔から可愛かったです」
「自分で言う?」
「事実ですから」
胸を張るソフィアを見て、カイは堪え切れず笑った。
「そういうところは変わってないな」
「褒めていますか?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「呆れてる」
「失礼ですね」
ソフィアは怒ったふりをする。
だが、すぐに二人とも笑った。
やがて柳の木へ辿り着く。
昔にはなかった長椅子が、木陰に置かれていた。
「少し休むか?」
カイが尋ねる。
「まだ疲れていません」
「休める時に休んだ方がいい」
「カイが座りたいのでは?」
「俺ならまだ何刻でも歩ける」
「では、私のためですか?」
「そうだけど」
即答すると、ソフィアが少し嬉しそうに目を細めた。
「なら休みます」
「そういうところも昔から変わらないよな」
「何がです?」
「俺が言っても聞かないのに、自分のためだって言うと素直に聞く」
「カイが私のことを考えて言ってくれるなら、嬉しいですから」
さらりと言われた。
カイは少しだけ返事に困り、それを誤魔化すように長椅子へ向かった。
先にソフィアを座らせ、その隣へ腰掛ける。
柳の枝が陽射しを遮り、川から流れる風が心地よかった。
「懐かしいですね」
ソフィアは枝の隙間から空を見上げた。
「あの頃は、この長椅子もありませんでした」
「地面に座ってたな」
「カイはずっと怒っていました」
「当然だ」
「とても怖い顔でしたよ」
「十一歳の皇女が一人で城下へ出たんだからな」
「でも、最後には笑ってくれました」
「笑った?」
「覚えていませんか?」
ソフィアが楽しそうにこちらを見る。
「私が川辺で滑った時です」
そこでカイも思い出した。
「あれか」
帰ろうとした時。
濡れた石へ足を置いたソフィアが滑った。
咄嗟に腕を掴んだ。
だが、当時のカイには今ほどの体格も力もない。
結果。
二人揃って浅瀬へ転げ落ちた。
「全身びしょ濡れになったな」
「最初、カイは呆然としていました」
「怒る気力もなくなった」
「私が笑ったら、カイも笑いました」
「笑うしかなかったんだよ」
「私は楽しかったです」
「俺は帰った後の訓練がさらに増えた」
「それも思い出ですね」
「ソフィーは怒られなかったから言えるんだ」
カイが恨めしそうに言うと、ソフィアは楽しげに笑った。
その笑顔を見ていると。
昨日の言葉を思い出す。
『カイが、昔のように笑ってくれることが嬉しくて』
泣きながら言った。
あの時。
自分は初めて気づいた。
皇女と騎士として正しい距離を取ろうとするあまり、ソフィアが大切にしていたものまで遠ざけていたのかもしれない。
「カイ」
「何?」
「昔に戻りたいと思いますか?」
その問いは、不意だった。
カイは少し考えた。
森。
皇城へ連れてこられた頃。
毎日の訓練。
失敗。
怪我。
泣きたくなるほど厳しかった日々。
けれど。
ソフィアと何の遠慮もなく笑っていた頃。
「戻りたいとは思わないな」
「どうして?」
「大変だったから」
「それだけ?」
「今の方が、できることが多い」
カイは自分の手を見た。
剣を握り続けて硬くなった掌。
当時は、何も持っていなかった。
力も。
立場も。
知識も。
ただ、目の前で泣いている少女を助けなければと思っただけだった。
「昔の俺は、ソフィーを助けた時だって必死だった」
「十分強かったです」
「運が良かったんだよ」
誘拐犯。
剣。
逃走。
全部。
一つ間違えば二人とも死んでいた。
「今なら、もっと安全に助けられる」
「……」
「ソフィーを守れる」
その言葉に、ソフィアの表情が少し柔らかくなる。
「だから、戻りたいとは思わない」
「そうですか」
「ソフィーは?」
逆に尋ねる。
「昔に戻りたい?」
ソフィアはすぐには答えなかった。
膝の上へ視線を落とし、少し考える。
「少しだけ」
「少し?」
「カイが、私をもっと近くに感じてくれていた頃には」
カイは黙った。
ソフィアは川へ視線を戻す。
「昔は、手を繋ぐのにも理由なんて必要ありませんでした」
「子供だったからな」
「転べば、すぐ抱き上げてくれました」
「それも子供だったから」
「疲れたら背負ってくれました」
「子供だったからだ」
「お菓子も半分にしてくれました」
「それは今でもできるだろ」
思わず答えると、ソフィアがこちらを向いた。
「本当ですか?」
「ああ。食べたいなら今度な」
「覚えておきます」
「また予定が増えた」
「大切な予定です」
ソフィアは嬉しそうに笑った。
だが。
少しすると、その笑みがまた静かなものへ変わった。
「今は、何をするにも理由が必要です」
「理由?」
「お忍びだから手を繋ぐ。恋人設定だから近くにいる。護衛だから守ってくれる。婚姻準備だから一緒に出かける」
一つずつ。
ゆっくり。
並べる。
「私は、理由がなければカイの隣にいられないのでしょうか」
その問いに。
カイはすぐ答えられなかった。
重い言葉ではない。
責められているわけでもない。
ただ。
寂しそうだった。
「そんなことない」
ようやく答える。
「本当に?」
「ああ」
「では、理由がなくても手を繋いでくれますか?」
カイの視線が、繋がれた手へ落ちる。
「それは……」
「ほら」
ソフィアが小さく笑う。
悲しい。
でも。
少し諦めたような笑顔。
「やっぱり理由が必要です」
「違う」
「では、どう違うのです?」
カイは困った。
嫌だからではない。
手を繋ぐこと自体が嫌なわけではない。
むしろ。
今日。
何度も。
離さなくてもいいと思った。
けれど。
「ソフィーには婚約者がいる」
結局。
そこへ戻る。
ソフィアの表情がわずかに曇る。
「また、その話ですか」
「大事だろ」
「私にはあまり大事ではありません」
「大事だよ」
カイは少し真剣な声になる。
「俺が勝手に距離を詰めて、相手を不快にさせるわけにはいかない」
「婚約者は気にしません」
「何でそこまで言い切れるんだ」
「私が知っているからです」
「その人、心広すぎない?」
カイは呆れたように言う。
「妻になる人が別の男と手を繋いでもいい。街を歩いてもいい。お揃いの腕輪を作ってもいい。婚姻後も同じ男を傍に置いていい」
並べてみる。
改めて。
おかしい。
「俺だったら嫌だと思うけどな」
何気なく。
言った。
ソフィアが止まる。
「……嫌なのですか?」
「もし俺が婚約者なら、って話だぞ」
「それでもです」
「まあ」
想像する。
もし。
自分の婚約者が。
知らない男と。
今日のように過ごす。
手を繋ぐ。
笑う。
菓子を分ける。
肩へ寄りかかる。
「嫌だな」
思ったより。
素直に。
出た。
「多分、かなり」
ソフィアの瞳が少しだけ揺れる。
「どうして?」
「どうしてって」
カイは首を傾げる。
「好きで結婚するなら、他の男とそういうことしてほしくないだろ」
「……」
「普通じゃない?」
「そうですね」
ソフィアは俯く。
でも。
口元。
少し。
笑ってる。
「何で嬉しそうなんだ?」
「何でもありません」
「絶対何かある」
「ありません」
ソフィアは誤魔化した。
でも。
胸。
嬉しい。
ほんの少し。
カイ自身の独占欲が。
言葉。
なった。
「それでも」
ソフィアは顔を上げる。
「私は、理由がなくてもカイの隣にいたいです」
今度は。
はっきり。
「婚姻後も?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「俺、近衛騎士だぞ」
「知っています」
「ソフィーが他国へ嫁ぐなら、その国の護衛もいる」
「問題ありません」
「何が問題ないんだよ」
「カイも来ます」
即答。
カイは目を瞬く。
「俺も?」
「はい」
「誰が決めた?」
「私です」
「いや、それだけじゃ無理だろ」
「お父様の許可もいただいています」
カイは完全に動きを止めた。
「陛下が?」
「はい」
「婚姻後も、俺がソフィーの護衛を続けることを?」
「その予定です」
「相手も知ってる?」
「もちろん」
「俺がずっと傍にいてもいいって?」
「むしろ望んでいます」
カイは数秒、言葉を失った。
何度聞いても。
本当に変わった婚約者だ。
「……ますます分からない男だな」
「そうでしょうか?」
「普通、妻の近くに同年代の男がずっといたら気になるだろ」
「カイなら大丈夫だそうです」
「俺だから?」
「はい」
「何で会ったこともない男にそこまで信用されてるんだ」
「カイは会っています」
「いつ?」
「何度も」
「誰だよ」
「秘密です」
「またそれか!」
カイは頭を抱えた。
条件。
近い年齢。
自分と似た体格。
剣を使う。
長い付き合い。
カイをよく知る。
それなのに。
分からない。
「婚姻式までには教えてくれるんだろ?」
「もちろん」
「遅い気がする」
「大丈夫です」
「何が大丈夫なのか全然分からない」
カイは呆れながらも、少しだけ肩の力を抜いた。
「まあ……」
「何です?」
「婚姻後も俺が傍にいるなら」
言葉。
少し。
止まる。
「安心した」
ソフィアの目が大きくなる。
「安心?」
「ああ」
「どうして?」
「……」
カイは川を見る。
言う必要。
ある?
でも。
昨日。
ソフィア。
言った。
昔みたいに。
もっと。
話して。
「婚姻式が終わったら」
カイはゆっくり口を開いた。
「俺、別の配属になると思ってた」
「はい」
「姫様付きの役目が終わるなら、それが普通だから」
ソフィアは何も言わない。
「だから」
カイは少し困ったように笑う。
「寂しいと思ってた」
ソフィアが完全に止まる。
「……もう一度」
「嫌だ」
「お願いします」
「一回で聞こえただろ」
「重要です」
「何で」
「カイ」
真剣。
カイ。
負ける。
「婚姻式が終わって」
言い直す。
「ソフィーと離れると思ったら、寂しかった」
ソフィアの目が潤む。
「泣くなよ」
「泣いていません」
「もう目が潤んでる」
「風です」
「今日、そんな強くないぞ」
「川沿いなので」
苦しい。
言い訳。
カイ。
笑う。
「そんなに嬉しい?」
「はい」
「何で?」
「カイが、私と離れたくないと思ってくれたからです」
「離れたくないとまでは」
「思っていない?」
すぐ。
不安。
カイは詰まる。
「……できれば」
小さい。
「今まで通りがいい」
ソフィアの胸。
いっぱい。
「本当に?」
「ああ」
「婚姻後も?」
「護衛続けていいなら」
「何年でも?」
「何年って」
「私がお婆さんになっても?」
「そこまで騎士続けてるか分からないぞ」
「では、騎士でなくても」
その言葉。
空気。
少し。
変わる。
「傍にいてください」
命令。
じゃない。
願い。
ソフィア。
ただの。
少女。
カイはすぐには答えなかった。
数年。
数十年。
そんな未来を。
考えたこと。
ない。
でも。
「……分かった」
自然。
出た。
「できる限り」
ソフィア。
すぐ。
頬。
膨らむ。
「できる限りでは嫌です」
「無茶言うなよ」
「ずっとです」
「未来なんて分からないだろ」
「私は分かります」
「何が」
「カイは、ずっと私の傍にいます」
断言。
カイ。
苦笑。
「すごい自信」
「はい」
「俺が嫌だって言ったら?」
「言いません」
「何で分かる」
「カイだからです」
「それ理由になってないだろ」
「私には十分です」
ソフィアは笑った。
カイも。
負けた。
「……まあ」
「はい」
「今のところ」
「はい」
「離れたいとは思ってない」
ソフィア。
止まる。
今日。
欲しい言葉。
また。
自然。
くる。
「カイ」
「何?」
「今日、少しずるいです」
「何が?」
「欲しい言葉を、何でもないように言うからです」
「思ったこと言ってるだけだけど」
「だから困るのです」
「難しいな」
二人。
笑う。
その後。
少し。
静か。
風。
柳。
川。
ソフィアは繋いだ手を見る。
「カイ」
「ん?」
「さっき」
「何?」
「理由がなくても手を繋いでほしい、と言いました」
「ああ」
「今も、まだ恋人設定だから繋いでくれているのですか?」
カイ。
止まる。
そこ。
来る。
手。
見る。
人。
少ない。
座ってる。
絶対。
離れない。
理由。
ない。
「……今は」
カイ。
ゆっくり。
「違うかも」
ソフィアの指先が少し震える。
「どう違うのです?」
「分からない」
「またですか」
「でも」
カイ。
少し。
照れ。
「離す必要もないかなって」
ソフィア。
胸。
熱い。
「それだけ?」
「……それだけじゃ駄目?」
「駄目ではありません」
ソフィア。
笑う。
「十分です」
「ならよかった」
そのまま。
手。
離れない。
理由。
ない。
初めて。
でも。
自然。
◇◇◇
しばらく休んだ後、二人は再び川沿いを歩き始めた。
今度は先ほどよりさらにゆっくりだった。
「次はどこへ行きたい?」
カイが尋ねる。
「甘い物が食べたいです」
「さっき昼食食べたばかりだろ」
「甘い物は別です」
「誰に教わった?」
「エマです」
「またエマさんか」
「一軒だけ」
「本当に?」
「……二種類」
「店の数じゃなくなってる」
カイが笑う。
ソフィアも笑う。
少し前まで。
真面目。
でも。
また。
戻る。
こういう。
空気。
好き。
ソフィア。
思う。
カイも。
自覚。
ない。
でも。
きっと。
同じ。
「じゃあ一軒だけな」
「二種類」
「一種類」
「二種類」
「……分けるなら」
「決まりです!」
「最初からそれ狙ってた?」
「何のことでしょう?」
「絶対分かってるだろ」
カイは呆れたように笑った。
ソフィアは嬉しそうに彼の手を握り直す。
「カイ」
「何?」
「今日は」
「うん」
「ありがとうございます」
「何が?」
「いっぱい」
ソフィア。
それだけ。
カイ。
少し。
不思議。
「よく分からないけど」
「はい」
「どういたしまして」
春の風。
川。
光。
二人。
歩く。
手。
まだ。
繋いでる。
――ではなく。
二人はそのまま、互いの体温を確かめるように手を繋いだまま、次の目的地へ向かった。
カイはまだ、自分がなぜ婚姻後もソフィアの傍にいたいと思うのか、その理由を知らない。
ただ、別れる未来を想像すると寂しい。
他の男が彼女の隣へ立つことを考えると、ほんの少し面白くない。
そして今は、理由がなくても、この小さな手を離したくないと思い始めている。
それが忠誠なのか。
七年間積み重ねた親愛なのか。
それとも、もっと別の名前を持つ感情なのか。
カイには、まだ分からない。
けれどソフィアは、隣で笑う彼の横顔を見ながら思っていた。
急がなくていい。
今日だけでも、十分に近づいた。
婚姻式までの二月は、カイを無理やり婚約者にするための時間ではない。
彼自身が、自分の気持ちを見つけるための時間なのだから。
だから今は。
「カイ」
「何?」
「菓子店では、カイが私に一つ選んでください」
「また俺?」
「はい。カイが選んだ物を食べたいです」
「何で?」
「それも婚姻準備です」
「その言葉、本当に便利だな」
「便利です」
笑い声が重なる。
それは昔と同じようで。
でも。
少しだけ違う。
幼い頃にはなかった温度を含んだまま、二人は並んで歩いていった。




