第5話 第三皇女様は、昔のように笑ってほしいらしい
昼時を迎えた帝都の大通りは、朝よりもさらに多くの人々で賑わっていた。
仕事を一度切り上げて食事へ向かう職人たち。買い物袋を抱えた主婦。店先で声を張り上げる商人。学校から戻る途中らしい子供たち。馬車が通るたびに人の流れが左右へ分かれ、その隙間を縫うように行商人が荷車を押して進んでいく。
通りの両脇には、昼食を求める客を狙った屋台がいくつも並んでいた。
香辛料をまぶした肉を炭火で焼く匂い。
油で揚げられた芋の香ばしさ。
大鍋で煮込まれる野菜と豆の湯気。
焼きたての薄いパンへ肉や野菜を包んだ屋台には、特に長い列ができていた。
「あれが食べたいです」
ソフィアが指差したのは、その一番人気の屋台だった。
大きな鉄板の上で細切りの肉が焼かれ、店主が手際よく薄いパンへ載せていく。その上へ千切りの野菜と白いソースを加え、最後に香草を振りかけて包む。
普段、皇城で出される食事とは比べるまでもなく簡素な料理だった。
だが、香りは食欲を強く刺激する。
「並ぶぞ?」
カイは屋台の前に伸びる列を見た。
「構いません」
「人も多い」
「だから手を繋いでいるのでしょう?」
ソフィアが握った手へ少し力を入れる。
カイは返す言葉を失った。
確かにその通りである。
先ほどから何度か離れて待つよう伝えたが、ソフィアは頑として聞かなかった。婚姻式まで離れないと約束したのだから、ほんの数歩でも別々になるのは約束違反だと言うのだ。
そこまで厳密な約束をした覚えはない。
しかし、楽しそうな顔で手を握られてしまえば、強く言う気も失せる。
「分かった。ただ、押されたらすぐに言えよ」
「カイが守ってくれるのでしょう?」
「もちろん守る」
「では大丈夫です」
ソフィアは何の不安もないように答えた。
その信頼を向けられることが嬉しい反面、少し怖くもある。
七年前から変わらない。
ソフィアは昔から、カイなら必ず助けてくれると信じている。カイ自身よりも、カイという人間を信じているのではないかと思うほどに。
期待を裏切るわけにはいかなかった。
二人は列の最後尾へ並んだ。
前には子供を連れた若い夫婦がいる。父親が子供を肩車し、母親が財布を取り出しながら何を食べるか相談していた。
後ろには仕事仲間らしい三人の職人が並び、今日の仕事の進み具合について話している。
皇城では決して聞けない、生活に根ざした声が四方から響いていた。
「こうして食事の列に並ぶのは初めてです」
ソフィアが周囲を見回しながら呟く。
「市場では並ばなかったか?」
「あの時は、カイが先に買ってきてくれたでしょう?」
「護衛対象を人混みへ入れるわけにはいかなかったからな」
「今日は入れています」
「今日は恋人という設定だから、離れて待たせる方が目立つ」
「設定のおかげですね」
嬉しそうに言う。
ソフィアにとって恋人設定は、お忍びを成立させるためのものではなく、カイと離れずにいられる便利な理由になっているようだった。
「それにしても、何を選べばいいのでしょう」
屋台の看板には、数種類の料理名が書かれていた。
鶏肉。
豚肉。
香辛料を多く使った辛口。
野菜中心。
さらに追加料金を払えば、焼いたチーズや卵も載せられるらしい。
「辛い物は食べられるか?」
「食べられます」
「城で辛い料理が出ると、いつも水を何杯も飲んでいただろ」
「それは少し苦手なだけです」
「苦手ならやめておけ」
「でも、カイは辛い物が好きでしょう?」
「俺に合わせなくていい」
「恋人は同じ物を食べるものではないのですか?」
「誰に聞いたんだ、それ」
「侍女たちです」
「またか」
昨日から、白銀宮の侍女たちはソフィアへ余計な知識を教えすぎている。
それも正しいのか怪しい知識ばかりだ。
「恋人でも違う物を頼んでいいだろ」
「そうなのですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「俺に聞くな。経験がない」
正直に答えると、ソフィアが小さく笑った。
「では、今日は二人で学びましょう」
「何を?」
「恋人の過ごし方です」
「設定のために?」
「設定のためです」
答えるまでに、ほんのわずかな間があった。
カイは気づかなかった。
列が少しずつ進む。
前にいた家族の注文が終わり、ついに二人の番になった。
「いらっしゃい! 二人とも何にする?」
屋台の店主は、立派な腹をした中年の男だった。
日に焼けた顔に豪快な笑みを浮かべ、鉄板の上で肉を返しながら二人を見る。
「私は――」
ソフィアが看板を見上げる。
何を選ぶか迷っているらしい。
「鶏肉を二つ。片方は辛味なしで」
カイが先に注文した。
「カイ?」
「ソフィーは辛いのが苦手だろ。俺は辛味をつけてもらう」
「同じ物ではありません」
「肉は同じだ」
「味が違います」
「無理して辛い物を食べて、午後ずっと喉が痛いと言われたら困る」
「そんなことは言いません」
「去年、香辛料入りのスープを飲んだ時、半日ずっと訴えていただろ」
「あれは料理長が入れる量を間違えたのです」
「辛いと知りながら、おかわりしたのは誰だ?」
「おいしかったからです」
「また同じことになりたいのか?」
ソフィアが言葉に詰まる。
店主は二人のやり取りを聞きながら、声を上げて笑った。
「兄ちゃん、彼女のことをよく分かってるな!」
「長い付き合いなので」
「いいねえ。そういう男は大事にした方がいいぞ、お嬢ちゃん」
「はい。ずっと大切にします」
ソフィアは迷いなく答えた。
店主は満足そうに頷く。
カイは何となく訂正しづらくなり、代金を払った。
「出来上がるまで少し待ってな!」
店主は肉を鉄板の中央へ寄せ、香ばしい匂いを立ち上らせる。
ソフィアは興味深そうに調理の様子を眺めていた。
皇城では、完成した料理が食卓へ運ばれてくる。
厨房へ足を運んだことはあるが、目の前で自分のための料理が作られていく様子をじっくり見る機会は少ない。
「すごいですね」
「何が?」
「一人で同時に何人分も作っています」
「昼時の屋台なら普通だろ」
「切る順番も、肉を置く場所も、全部決まっているのでしょうね」
ソフィアは真剣な顔で見つめている。
平民の暮らしを学びたいと言い出した時もそうだった。
彼女は、ただ珍しい物を見て楽しんでいるわけではない。
人がどのように働き、どのように暮らしているのかを知ろうとしている。
好奇心に振り回されることは多いが、皇女として民のことを理解しようとする姿勢は本物だった。
「ソフィー」
「何です?」
「やっぱり、変わってないな」
「何がですか?」
「昔から、気になったことは何でも知ろうとする」
「悪いことですか?」
「いや。良いところだと思う」
カイが答えると、ソフィアは少し驚いた顔をした。
やがて、照れたように目を細める。
「今日はよく褒めてくれますね」
「そうか?」
「はい。可愛いとも、良いところだとも言ってくれました」
「恋人らしくしろと言われたからな」
その一言で、ソフィアの表情がわずかに曇った。
「……そうですか」
「何か変だったか?」
「いいえ。とても上手です」
笑顔は浮かべている。
だが、先ほどより少しだけ寂しそうに見えた。
理由を考える前に、店主が声を上げた。
「待たせたな!」
二つの包みが差し出される。
片方には赤い印、もう片方には何もない。
「赤い方が辛口だ。間違えるなよ」
「ありがとうございます」
カイが受け取ろうとすると、ソフィアも手を伸ばした。
「私も持ちます」
「熱いぞ」
「大丈夫です」
「落としたら火傷する」
「子供ではありません」
「分かった。なら辛くない方を持て」
カイは印のない方をソフィアへ渡した。
その際、包みから滲んだ熱が指先へ伝わる。
ソフィアは一瞬驚いたものの、嬉しそうに両手で包みを持った。
「温かいです」
「出来立てだからな」
「どこで食べますか?」
「人の流れを邪魔しない場所がいい。向こうに小さな広場がある」
大通りから一本外れたところに、街路樹と長椅子が置かれた休憩所がある。
カイはそこへ向かうことにした。
片手には自分の昼食。
もう片方にはソフィアの手。
食べ物を持っているため、繋ぐのは難しいと思ったが、ソフィアは包みを片手で抱え、空いた手を当然のように差し出してきた。
「危ないぞ」
「何がです?」
「片手で持ったら落とすかもしれない」
「カイが持ってくれますか?」
「それでは手を繋げないだろ」
「では、このままです」
「そこまでして繋ぐ必要があるか?」
「はぐれます」
人の流れは先ほどより少なくなっている。
少なくとも、はぐれるほどではない。
だが、ソフィアは真剣な顔をしている。
「分かった。ゆっくり歩け」
「はい」
カイはソフィアの歩調へ合わせた。
休憩所には、昼食を取る人々が何人かいた。
職人らしい男たち。
籠を抱えた女性。
小さな子供を連れた母親。
端の長椅子が空いているのを見つけ、カイは周囲を確認してからソフィアを座らせた。
「ここなら落ち着いて食べられるだろ」
「カイも座ってください」
「ああ」
隣へ座る。
肩が触れるほど近い。
雑貨店でも同じ距離だったが、屋外で他の人々がいる場所だと妙に意識してしまう。
ソフィアは気にした様子もなく、包みを開いた。
薄いパンの中から、焼いた肉と野菜が顔を出す。白いソースと香草の匂いが広がり、ソフィアは目を輝かせた。
「おいしそうです」
「熱いから気をつけろ」
「分かっています」
大きく口を開ける。
だが、思っていたより具が多く、うまく噛みつけない。
ソフィアは何度か角度を変え、ようやく小さく一口食べた。
その様子が、皇城で優雅に食事をしている時とはあまりに違い、カイは思わず笑いを漏らした。
「何です?」
「いや。随分苦労していると思って」
「食べづらいのです」
「もっと大きく口を開ければいい」
「人前でそのような食べ方はできません」
「今日は皇女じゃなくて、普通の娘なんだろ?」
「普通の娘でも、大口を開けるのは恥ずかしいです」
「では、少し押さえる」
カイは自分の包みを膝へ置き、ソフィアの持つパンの下側を軽く包み直した。
具がこぼれないよう形を整え、食べやすい大きさにする。
「これならどうだ?」
「……ありがとうございます」
ソフィアがもう一度口をつける。
今度はうまく食べられた。
頬を動かしながら、嬉しそうに目を細める。
「おいしいです」
「よかったな」
「カイも食べてください」
「ああ」
カイも自分の包みを開いた。
辛口の香りが鼻を刺激する。
一口食べると、肉の旨味と香辛料の辛さが一気に広がった。
「辛くありませんか?」
「これくらいなら平気だ」
「一口ください」
「やめておけ」
「少しだけなら大丈夫です」
「後悔するぞ」
「しません」
ソフィアは期待するようにカイの持つ包みを見ている。
自分で持たせれば、辛さに驚いて落とすかもしれない。
仕方なく、カイは包みを少しソフィアの方へ向けた。
「端を少しだけだぞ」
「はい」
ソフィアが身を寄せる。
銀色の髪がカイの肩へ触れた。
距離が近い。
柑橘の淡い香りがする。
カイが固まっている間に、ソフィアはパンの端へ口をつけた。
「どうだ?」
ソフィアはしばらく黙っていた。
目が少しずつ潤んでいく。
「辛いです」
「だから言っただろ」
「思っていたより辛いです」
「水を買ってくる」
立ち上がろうとしたカイの服を、ソフィアが掴んだ。
「離れないでください」
「だが、水がないと」
「大丈夫です」
「涙が出ているぞ」
「これは辛いからです」
「分かっている」
カイは周囲を見る。
近くに飲み物を売る店はない。
自分が持っていた水筒は、護衛用の小さな物だ。上着の内側から取り出し、蓋を開けて差し出す。
「これを飲め」
「カイのですか?」
「そうだ」
「……同じ物を?」
「嫌なら買ってくる」
「嫌ではありません!」
勢いよく受け取る。
ソフィアは水筒へ口をつけ、何度か水を飲んだ。
辛さが少し落ち着いたらしい。
ほっと息を吐き、水筒を見つめる。
「ありがとうございます」
「ああ」
「カイも飲みますか?」
「俺はいい」
「飲んでください」
「なぜ?」
「辛い物を食べたでしょう?」
「平気だ」
「それでもです」
水筒を押しつけられる。
断っても納得しそうにないため、カイは受け取った。
口をつけて水を飲む。
隣でソフィアが、なぜかじっと見つめていた。
「何だ?」
「何でもありません」
「今日はそればかりだな」
「気にしないでください」
ソフィアは顔を伏せた。
頬が少し赤い。
辛さが残っているのだろうと、カイは考えた。
実際には、同じ水筒へ口をつけたことを意識しているなど、思いもしなかった。
「今度は、こちらを食べてみますか?」
ソフィアが自分の包みを持ち上げる。
「辛くないぞ」
「味が違うのでしょう?」
「白いソースが多いくらいだ」
「一口どうぞ」
「自分で食べる」
「私の物です」
「では、遠慮する」
「食べてください」
「どっちなんだ」
カイは呆れて笑った。
ソフィアが差し出した包みへ顔を近づける。
一口食べると、辛口とは違うまろやかな味がした。
「どうです?」
「おいしい」
「こちらの方が好きですか?」
「どちらも好きだ」
「どちらかを選んでください」
「なぜそんなに競わせたがる」
「私が選んだ方を、カイにも気に入ってほしいのです」
「ソフィーが選んだのは鶏肉だけだろ。辛味なしにしたのは俺だ」
「では、カイが私のために選んでくれた味です」
そう言われると、急に意味が変わって聞こえる。
カイは返事に困った。
「……気に入ったならよかった」
「はい。とても」
ソフィアは嬉しそうに、自分の昼食をまた一口食べた。
しばらく二人は黙って食事を続けた。
風が街路樹の葉を揺らす。
枝の隙間から落ちる陽光が、石畳の上で揺れていた。
近くでは職人たちが仕事の愚痴を言いながら笑い、子供が母親の膝でパンをちぎっている。
カイは、こうした時間が不思議に思えた。
ソフィアと二人でいること自体は珍しくない。
だが、皇城でも馬車でもない。
民の中に混ざり、同じ屋台の料理を食べ、互いの味を分け合っている。
護衛任務中だというのに、張り詰めた感覚が少しずつ薄れていた。
「カイ」
「何だ?」
「ここについています」
ソフィアが自分の頬を指差した。
「どこだ?」
「反対です」
「こっち?」
「もう少し上」
どうやら白いソースが頬についているらしい。
手の甲で拭おうとする。
「違います。そちらではありません」
「なら取ってくれ」
「え?」
「見えない」
何気なく顔を向ける。
ソフィアは動かなくなった。
「どうした?」
「い、いえ」
恐る恐る手を伸ばす。
細い指先が、カイの頬へ触れた。
そこだけ熱が集まったように感じる。
ソフィアも緊張しているらしく、指が小さく震えていた。
「取れたか?」
「もう少しです」
指先が頬を滑る。
カイは息を止めた。
戦闘中に顔へ触れられることなど珍しくもない。怪我をすれば治療を受けるし、訓練で相手の拳が掠めることもある。
だが、これはまったく違った。
触れ方があまりに優しい。
壊れ物へ触れるように慎重で、離れがたいと思っているようにも感じる。
「取れました」
ソフィアが手を引く。
その指先には白いソースがついていた。
「ありがとう」
「はい」
ソフィアは指先を見つめる。
どうするのだろうとカイが思っていると、彼女は近くに置いてあった布で慌てて拭った。
顔は真っ赤だった。
「今度はソフィーについているぞ」
「え?」
「口の横」
カイは無意識に手を伸ばした。
親指で、ソフィアの口元についた白いソースを拭う。
柔らかな肌。
触れた瞬間、ソフィアの身体が固まる。
カイも、自分が何をしたのか少し遅れて理解した。
「悪い」
すぐに手を離す。
「い、いいえ」
ソフィアの声は小さかった。
互いに目を合わせられない。
周囲にいる人々から、また生暖かい視線が向けられている気がする。
特に向かいの長椅子へ座る老夫婦は、二人を見ながら穏やかに笑っていた。
「若いっていいねえ」
老女が隣の夫へ話しかける。
「わしらも昔はああだった」
「あなたは、あんなに気が利かなかったでしょう」
「今もだ」
「自慢することではありませんよ」
二人の会話が聞こえ、カイとソフィアは揃って顔を伏せた。
「恋人に見えているな」
カイが小声で言う。
「設定は成功です」
ソフィアも小さく答えた。
「恥ずかしくないか?」
「少しだけ」
「俺もだ」
「カイも?」
「慣れていないからな」
正直に言うと、ソフィアが顔を上げた。
「嫌ですか?」
「何が?」
「私と恋人に見られることです」
声には不安が混じっていた。
冗談で尋ねているわけではない。
カイは少し考える。
「嫌ではない」
「本当に?」
「ああ。ただ、ソフィーには婚約者がいるからな。相手に悪いと思っている」
「それだけですか?」
「他に何がある?」
「……何でもありません」
ソフィアはまた顔を伏せた。
返事は望んでいたものではなかったらしい。
だが、婚約者がいる女性と恋人に見られることへ抵抗があるのは当然だ。
カイには、どう答えればよかったのか分からない。
「ソフィー」
「何です?」
「俺と恋人に見られることが嫌なら、無理に設定を続けなくてもいいぞ」
「嫌ではありません」
「本当に?」
「むしろ、ずっとそう見られていたいです」
強い言葉だった。
カイは少し驚く。
「それは、正体を隠すためか?」
ソフィアはしばらく黙った。
空色の瞳が、まっすぐカイを見つめる。
「……そういうことにしておきます」
「何だ、それ」
カイは思わず笑った。
ソフィアもつられるように笑う。
先ほどまでの緊張が少しずつほどけていった。
「昔も、よくこうして笑いましたね」
ソフィアが静かに言った。
「そうだったか?」
「はい。カイが皇城へ来たばかりの頃です」
「俺は毎日訓練で死にかけていた覚えしかない」
「私が見学へ行くと、いつも変な顔をしてくれました」
「あれは疲れていただけだ」
「転んだ私を見て笑ったこともあります」
「姫様が庭の池へ足を突っ込んだからだろ」
「ソフィーです」
「今、その呼び方にこだわるのか?」
「大切です」
ソフィアが頬を膨らませる。
カイはまた笑った。
昔のことを思い出す。
皇城へ来たばかりの頃、ソフィアは今よりずっと近かった。
身分の違いを知らなかったわけではない。
それでも、二人とも子供だった。
訓練の合間にこっそり菓子を分け合い、庭園で虫を探し、教師から逃げるソフィアをカイが連れ戻した。
カイが礼儀を身につけ、騎士候補生として成長するにつれ、少しずつ距離が変わっていった。
ソフィアを姫様と呼び、必要以上に触れず、皇族と騎士として接する。
それが正しいのだと教えられた。
「最近のカイは、昔のようには笑わなくなりました」
ソフィアの声が少しだけ沈む。
「そうか?」
「はい。いつも騎士の顔をしています」
「騎士だからな」
「私の前でも?」
「姫様を守るのが俺の役目だ」
「ソフィーです」
「今は真面目な話だろ」
「真面目な話だからです」
ソフィアは包みを膝の上へ置いた。
食事はほとんど終わっている。
だが、続きを食べようとしない。
「私は、カイに騎士でいてほしいと思っています」
静かな声が続く。
「私を守ってくれるカイを、誰よりも誇りに思っています。平民だから、孤児だからと馬鹿にされても、全部実力で黙らせたことも知っています」
「急にどうしたんだ?」
「でも」
ソフィアの瞳が揺れる。
「私の前でまで、ずっと騎士でいなくてもいいのです」
風が吹いた。
白い帽子のつばが揺れ、銀色の髪が頬へかかる。
「昔のように、私を姫様ではなく、ただのソフィアとして見てほしい時もあります」
言葉の最後が、少し震えていた。
「だから今日、ソフィーと呼んでほしいと言ったのです」
「……そうだったのか」
「カイが昔のように笑ってくれたら、きっと嬉しいと思いました」
ソフィアは小さく笑おうとした。
けれど、その笑みはうまく形にならなかった。
空色の瞳へ涙が滲む。
「でも、本当に笑ってくれたら、もっと嬉しくなってしまって」
一粒。
涙が頬を伝った。
カイは息を呑む。
「ソフィー?」
「ごめんなさい」
ソフィアは慌てて顔を伏せた。
「泣くつもりではなかったのです。おかしいですね。楽しいのに、嬉しいのに」
もう一粒、涙が落ちる。
「待ってくれ。どこか痛いのか?」
「違います」
「辛さが残っている?」
「それも違います」
「では、どうして」
「嬉しいからです」
ソフィアは両手で顔を覆った。
「カイが、昔のように私へ笑ってくれたことが、嬉しくて」
周囲の音が遠くなったように感じた。
カイは何も言えなかった。
ソフィアが泣く姿は、何度か見たことがある。
誘拐された時。
カイが訓練で大怪我をした時。
初めて長期任務へ向かった時。
そのたびに、カイは守らなければと思った。
だが今は、何から守ればいいのか分からない。
泣かせたのは、自分だ。
悪意もなく。
ただ、距離を取ることが正しいと思っていたために。
「ごめん」
カイは小さく言った。
ソフィアが顔を上げる。
「どうしてカイが謝るのです?」
「気づかなかった」
「何に?」
「ソフィーが、そんなふうに思っていたことに」
カイは膝の上で拳を握った。
「俺は、皇城へ来てから多くのことを教えられた。皇族へ敬意を払い、騎士として距離を守れと。それが姫様のためだと思っていた」
「間違ってはいません」
「でも、昔の俺まで捨てる必要はなかった」
ソフィアの瞳から、また涙が零れる。
今度はカイが手を伸ばした。
指先で頬の涙を拭う。
先ほど白いソースを拭った時より、ずっと慎重に。
「今日はソフィーなんだろ」
「はい」
「なら、俺も騎士のカイじゃなくていいのか?」
「……はい」
「昔みたいに話しても?」
「はい」
「我が儘を言ったら怒るぞ」
「それは今も怒っているでしょう」
「確かに」
二人の間に小さな笑いが生まれた。
ソフィアは泣きながら笑っている。
その姿を見て、カイも自然に笑った。
「ほら。また笑ったぞ」
「もっとです」
「無茶を言うな」
「今日は私の命令へ従うのでしょう?」
「笑えという命令は初めてだ」
「では、笑ってください」
「何か面白いことを言え」
「カイが婚約準備を手伝っていること自体、とても面白いです」
「どこが?」
「全部です」
「意味が分からない」
カイは呆れ、ソフィアは声を上げて笑った。
目尻にはまだ涙が残っている。
だが、先ほどまでの寂しさは消えていた。
カイは安堵する。
「もう大丈夫か?」
「はい」
「本当に?」
「少しだけ、こうしていてもいいですか?」
「こうして?」
ソフィアは答えず、そっとカイの肩へ頭を寄せた。
銀色の髪が触れる。
身体の重みがわずかに伝わる。
カイは固まった。
周囲には人がいる。
恋人同士なら自然なことなのかもしれない。
しかし、ソフィアは皇女である。
婚姻が決まっている。
抱きしめるどころか、肩を貸すことさえ許されるのか分からない。
「ソフィー」
「少しだけです」
「だが」
「今は姫様ではありません」
「そうだったな」
逃げ道を塞がれた。
カイは姿勢を崩さず、ソフィアが寄りかかりやすいよう少しだけ肩を下げた。
それに気づいたソフィアの口元が緩む。
「優しいですね」
「転ばれたら困る」
「座っています」
「なら、急に動かれて困る」
「動きません」
「そうしてくれ」
しばらく、二人はそのまま過ごした。
周囲の人々は、仲の良い恋人同士だと思っているのだろう。
誰も不自然な目を向けない。
遠くでは街の鐘が鳴り、午後の始まりを告げている。
「カイ」
「何だ?」
「婚姻式の後も、今日のように笑ってくれますか?」
不意の問いだった。
「会えるならな」
「会えなくなると思っているのですか?」
「ソフィーがどこへ嫁ぐかによる。近衛騎士の俺が同行できるとは限らない」
「私は、カイと離れるつもりはありません」
「そう言われても、婚姻相手の立場もあるだろ」
「相手も、カイと離れたくないと思っています」
「ますます変わった男だな」
ソフィアの肩が小さく震える。
笑ったのだと思った。
だが、顔を上げた彼女は、少しだけ不満そうだった。
「本当に分からないのですね」
「何が?」
「何でもありません」
「またか」
「いつか、ご自分で気づいてください」
「婚約者のことか?」
「はい」
「会えば分かるだろ」
「会わなくても分かるはずです」
「謎かけみたいだな」
カイは首を傾げた。
ソフィアは深い溜息を吐き、再び肩へ頭を預ける。
しばらくして、二人は残っていた食事を食べ終えた。
カイが包みをまとめ、近くの回収籠へ捨てる。
戻ると、ソフィアが長椅子の前で待っていた。
先ほどまで泣いていた痕跡は、ほとんど残っていない。
ただ、目元がわずかに赤い。
「次はどこへ行く?」
カイが尋ねる。
「川沿いを歩きたいです」
「贈り物選びは終わったのか?」
「今日はもう十分です」
「他にも見たい物があるんじゃないか?」
「あります。でも、少しだけゆっくり歩きたいのです」
「分かった」
カイは右手を差し出した。
今度は迷わない。
「行こう、ソフィー」
ソフィアはその手を見つめたあと、嬉しそうに握った。
「はい、カイ」
二人は大通りを離れ、帝都を流れる川へ向かって歩き始めた。
先ほどより距離は近い。
繋いだ指も、少し深く重なっている。
カイは今日、ソフィアが自分に何を望んでいるのか、ほんの少しだけ理解した。
騎士として守るだけではなく。
昔のように話し、笑い、隣を歩くこと。
それくらいなら、婚姻式まで何度でも付き合おうと思った。
だが。
なぜソフィアがそれを望むのか。
なぜ婚姻相手が、カイと離れることを望まないのか。
肝心な部分だけは、やはり何一つ分かっていなかった。
◇◇◇
少し離れた建物の陰。
変装した第四近衛騎士団の女性たちは、川沿いへ向かう二人を見送っていた。
「姫様が泣いた時は、どうなることかと思いました」
一人の騎士が胸を撫で下ろす。
「カイが逃げずに向き合ったのは進歩だな」
マリアが腕を組みながら答える。
「肩も貸しました」
「涙も拭いました」
「食べさせ合いもしていました」
「同じ水筒も使いました」
「もう恋人でしょう、あれ」
女性騎士たちの声が重なる。
マリアは疲れた顔で額を押さえた。
「本人以外には、そう見えるだろうな」
「まだ気づかないんですか?」
「気づいていない」
「どうして?」
「私に聞くな」
答えられるはずもない。
互いの料理を食べ。
同じ水筒を使い。
頬へ触れ。
泣いたソフィアの涙を拭い。
肩へ寄りかからせた。
それでもカイは、すべてを恋人設定と長年仕えた騎士としての行動だと思っている。
「婚姻式まで二月ですよね」
「ああ」
「間に合いますか?」
「間に合わせるしかない」
「最悪、式当日に伝えることになるのでは?」
「その場合、カイは壇上で固まるだろうな」
「逃げませんか?」
「姫様が逃がすと思うか?」
全員が黙った。
想像する。
婚姻式当日。
初めて自分が婚約者だと知ったカイ。
笑顔で腕を掴むソフィア。
周囲を固める第四近衛騎士団。
退路には皇帝。
「……逃げられませんね」
「そういうことだ」
マリアは二人が消えた通りの先を見る。
「だが、できればそれまでに気づいてほしいものだ」
「姫様のために?」
「カイのためでもある」
「どういうことです?」
「あの男は、真実を知れば必ず身分差を理由に拒もうとする」
女性騎士たちの表情が引き締まる。
それは十分にあり得た。
カイは自分が平民であり、孤児であることを誰より理解している。実力で周囲を黙らせても、身分の壁まで消えたとは思っていない。
ソフィアへの想いに気づいたとしても、自分から望むことはないだろう。
「だから姫様は、婚姻相手を明かす前に、カイへ気づかせたいのですね」
「自分がどれほど愛されているかを。そして、自分も姫様をどう思っているのかをな」
マリアは小さく息を吐いた。
「簡単ではないぞ」
「今日だけでも、かなり進んだように見えますが」
「カイの中では、姫様はあくまで守るべき主君だ」
「それでも、顔は赤くなっていました」
「胸の奥にある感情までは、完全に隠せていないのだろう」
「なら、もう少しですか?」
「だといいがな」
マリアは苦笑した。
川沿いの道へ続く角で、カイとソフィアの姿が一瞬だけ見えた。
ソフィアが何かを話し、カイが笑っている。
その笑顔を見上げるソフィアの表情は、遠目からでも幸せそうだった。
「まずは今日を楽しませよう」
マリアは仲間たちへ告げた。
「余計な者を近づけるな。二人の時間を守るぞ」
「了解しました」
女性騎士たちは街を歩く娘たちの顔へ戻り、それぞれの持ち場へ散っていく。
その先を歩くカイは、背後でどのような会話がされていたか知らない。
ただ、隣で手を繋ぐソフィアが再び泣かないように。
そして、できる限り多く笑えるように。
いつもより少しだけ柔らかな表情で、彼女の歩調へ合わせていた。




