第31話 第三皇女様、父さんの働いていた商会まで一緒に来るなんて本当にどこまで付き合うつもりですか?
婚姻式まで、あと二月。
婚約が正式に公表されてから五日目の朝、帝都は前夜に降った雨の名残をあちこちに残していた。
第四近衛騎士団の訓練場を囲む石畳には浅い水溜まりが点々と残り、東から差し込む朝日を受けて白く光っている。屋根の縁から落ちる雫はもうほとんど途切れていたが、湿った土と濡れた石の匂いはいつもより濃く、剣を振る騎士たちの掛け声も、雨上がりの澄んだ空気の中へよく響いていた。
カイは朝の訓練を終えると、額に滲んだ汗を布で拭いながら詰所へ戻った。
今日は一対一の打ち合いを中心にしている。昨日、エマを通してソフィアから「孤児院へ行った翌日なのですから、無理をしないでください」と念を押されたから――というわけではない。
決して、そういうわけではない。
「今日は二対一しなかったね」
詰所へ入った途端、背後からリナの楽しそうな声が飛んできた。
カイは振り返らず、自分の机へ向かいながら答える。
「普通だろ」
「昨日までは?」
「昨日も普通」
「姫様への報告は?」
「何で報告する前提なんだよ」
リナは笑いながら、自分の机に置かれていた水差しから杯へ水を注いだ。朝の詰所では夜勤を終えた騎士と、これから勤務へ入る騎士が入り混じり、装備を外す金具の音や巡回記録を確認し合う声が重なっている。
その何人かが、いつものように二人のやり取りへ耳を傾けていた。
「でも怪我なし?」
「なし」
「無茶なし?」
「なし」
「本当に?」
「お前、最近ソフィーみたいになってきたな」
「それ、本人に言ってみれば?」
「絶対喜ぶから嫌だ」
「嫌なの?」
「違う。調子に乗る」
「もう十分乗ってると思うけど」
「どっちがだよ」
カイが言い返そうとした、その時だった。
詰所の入口からマリアが入ってくる。
いつも通り濃紺の団長服を着ているが、片手に持っているのは朝の巡回記録ではない。薄い封書。その封蝋に刻まれた紋章を見た瞬間、カイの表情から冗談めいた色が消えた。
「団長」
「ああ」
マリアは余計な前置きをせず、その封書をカイの前へ差し出した。
「灰鷲商会から返答が来た」
その一言だけで、さっきまで近くにあった騎士たちの声や、椅子を引く音がほんの少し遠ざかった気がした。
昨日、帝室法務局から現在も存続していると聞いた商会。
父レンドが二十年以上前、荷運びや旅商人の補助として働いていた可能性がある場所だ。
カイは訓練後の汗がまだ残る手を一度布で拭ってから、封書を受け取った。
「開けても?」
「お前宛てだ」
「……はい」
指先で蝋封を割る。中には帝室法務局を通して転送された灰鷲商会からの返書と、確認できた記録の概要をまとめた紙が収められていた。
カイは最初の数行へ目を走らせたところで、呼吸を止める。
「……残ってる」
声が、自分で思ったより小さくなった。
リナもそれを察し、今度はからかう調子を消して少し近くへ寄った。
「何が?」
「雇用記録」
カイは紙から目を離せなかった。
「父さんの名前」
そこには、確かに書かれていた。
レンド。姓なし。
臨時雇用。
荷運び担当。
商隊補助。
主な活動地域は、東街道および北東街道。
昨日、孤児院の帳簿で父と母の名前を見た時とは、また違う感覚だった。
孤児院の記録は、レンドとミアが自分の両親だったことを残した記録だ。
けれど、これは違う。
父が自分の父親である前に、一人の働く人間として生きていた証だった。
カイは無意識に文字へ指を伸ばしかける。けれど、紙そのものは原本ではなく写しだと思い出し、途中で手を止めた。
「在籍期間は?」
マリアが尋ねる。
「……十年以上」
「長いな」
「ああ」
答えてから、カイはさらに読み進めた。
「正式な商会員じゃなくて、商隊が動く時に呼ばれる外部人員だったみたいです。最初は荷運びだけ。でも途中から、小口の仕入れ補助とか、街道沿いの宿場との連絡も任されてたって」
自分が覚えている父は、大きな荷を背負って帰ってくる男だった。
仕事へ行って。
帰ってきて。
自分と遊んで。
時々、母に怒られていた。
幼いカイに分かっていたのは、そのくらいだ。
けれど十年以上も同じ商会から仕事を任され続けていた。ただ重い荷物を運ぶだけではなく、別の仕事まで任されるようになっていた。
誰かに必要とされ。
信用され。
自分の知らない場所で、父は父だけではない一人の人間として生きていた。
「……父さん」
気づけば、小さく声に出していた。
リナは何も言わない。
マリアも急かさずに少し待ってから、もう一枚の紙へ指を向けた。
「続きがある」
「え?」
「商会側から、古い帳簿の現物確認について申し出があった。保存状態がかなり良いらしい。お前の父親の名が載る商隊帳簿、報酬記録、それから当時の管理者の日誌も一部残っている」
「日誌まで?」
「ああ」
胸の奥が、一気に騒がしくなった。
昨日はソフィアの幼い頃の写真画を見た。
自分が知らなかったソフィアを知ることが嬉しくて、その一つ一つが今の彼女へ繋がっていると知れたことが、思った以上に心へ残った。
今度は。
自分が幼すぎて知らなかった、父の時間だ。
「見られるんですか?」
「今日の午後、法務局の立ち会いでな」
「今日!?」
思わず声が大きくなり、近くにいた何人かの騎士がこちらを見る。カイは慌てて声を落とした。
「何で全部こんなに早いんです?」
「婚姻式まで二月しかない」
「団長までそれ言うんですか!」
マリアの口元がわずかに緩む。
「冗談だ。今回は商会側の対応が早かった。古い資料を整理する機会にもなるから、向こうも協力的らしい」
「そっか……」
「それと」
マリアが続けようとした瞬間、カイは嫌な予感を覚えた。
「ソフィーも?」
「行くそうだ」
「やっぱり!」
「法務局から白銀宮へ連絡が入った時点で返事が来た。お前が行くなら、自分も同行すると」
「俺、まだ何も言ってないんですけど」
「昨日、自分で一緒に見ていいと言ったんだろう」
「言いましたけど……」
そう答えながら、カイの口元が少しだけ緩んだ。
昨日。
ソフィアは言った。
カイの両親について、知れるなら一緒に知りたい。
嬉しい時には一緒に喜びたい。
悲しい時には隣にいたい。
だから来るのだ。
本当に。
「カイ」
リナが横から小さく笑う。
「何」
「嬉しそう」
「……悪い?」
「全然」
カイはもう一度、手元の紙へ視線を戻した。
昨日より少しだけ詳しくなった父。
午後になれば、さらに知らなかった父が増えるかもしれない。
怖さはある。
けれど今は、知りたい気持ちの方が少しだけ強かった。
◇◇◇
昼前に白銀宮へ向かうと、正面玄関の前にはすでに外出用の馬車が準備されていた。
今回は完全なお忍びではない。
とはいえ、灰鷲商会は帝都東部の商業区にある一般の商会である。皇族用の大きな紋章入り馬車で乗りつければ、それだけで周辺が大騒ぎになるため、用意されていたのは外見を抑えた黒塗りの馬車だった。
ただし、護衛まで控えめというわけではない。
馬車の前後には数名の近衛騎士が配置され、周囲にも目立たない服装をした護衛担当者が散っている。以前のお忍びであればあり得なかった人数だ。
カイはざっと数えて、少しだけ眉を寄せた。
「やっぱり増えてる」
「当然でございます」
いつの間にか隣へ来ていたエマが、淡々と答える。
「現在は第三皇女殿下と、その正式な婚約者が同時に城外へ出られるのですから」
「俺までそんな正式に数えなくてもいいのに」
「必要でございます」
「自分で剣持ってるんだけど」
「存じております」
「団長と全く同じ答え」
「正しい答えは似るものでございます」
「強いな」
エマがごくわずかに口元を緩めたところで、白銀宮の扉が開いた。
ソフィアが出てくる。
今日も外出用の控えめなドレス姿だが、昨日の孤児院訪問より少しだけ正式寄りだった。青銀色の生地へ細い白糸の刺繍が施され、銀髪は首元に近い位置で丁寧にまとめられている。胸元には第三皇女を示す小さな紋章があるが、遠目には皇族だと分からない程度に抑えられていた。
「カイ」
「ソフィー」
ソフィアはまっすぐカイのところまで来る。
「灰鷲商会から返事があったのですね」
「ああ」
「お父様の記録が?」
「残ってた」
口にした瞬間、胸の内側が少しだけ温かくなる。
「十年以上、働いてたみたい」
「そんなに長く?」
「ああ。父さん、俺が思ってたよりちゃんと商会と関わってた」
「ちゃんと?」
聞き返され、カイは少し困ったように笑った。
「言い方変だよな。子供の頃の俺には、父さんって『大きい荷物持って帰ってくる人』だったから」
「はい」
「それが十年以上同じところに呼ばれて、途中から仕入れの補助とか宿場との連絡まで任されてたって」
ソフィアの表情が柔らかくなる。
「信頼されていたのですね」
「多分」
まだ、本当のことは分からない。
でも。
今はその「多分」が嬉しかった。
ソフィアはカイの顔を少し見つめてから、静かに声を落とす。
「今日、緊張していますか?」
「してる」
「昨日より?」
「違う種類」
「どんな?」
カイはすぐには答えず、自分の胸の中を探るように少し考えた。
「昨日は、父さんと母さんの名前そのものを見るのが怖かったんだと思う」
「はい」
「今日も怖いけど……もっと知れるかもしれないのが怖い」
知らなかった父が出てくる。
知らなかった母が出てくるかもしれない。
それは、嬉しいことだけではない可能性もある。
「でも」
カイはソフィアを見る。
「知りたい」
その答えに、ソフィアは迷わず頷いた。
「では、行きましょう」
「うん」
カイは馬車へ一歩進みかけたが、ふと足を止めた。
「ソフィー」
「何です?」
「本当にさ」
「はい?」
「どこまで付き合うつもり?」
ソフィアが小さく目を瞬かせる。
「俺の昔を調べて」
「はい」
「孤児院まで来て」
「はい」
「今度は父さんの商会まで来て」
「はい」
「そのうち母さんが裁縫してた場所とか見つかっても来る?」
「もちろんです」
あまりにも迷いのない即答だった。
「即答なんだ」
「カイ」
ソフィアはむしろ、なぜ聞くのか分からないというような顔でこちらを見る。
「私は二月後に、カイと家族になるのですよ?」
「……うん」
「なら、カイが大切にしたいものを、一緒に知りたいです」
柔らかい声だった。
何かを押しつけるわけでも。
カイの代わりに全部を背負うわけでもない。
ただ隣にいたい。
それだけ。
カイは一瞬、何も返せなくなった。
「……分かった」
「何がです?」
「ソフィーが来るの止めるの、もう諦める」
「最初から止まりません」
「強いな」
「七年です」
「そこ関係ある?」
「あります」
「やっぱり万能だな、それ」
二人が笑う。
少し離れた場所で聞いていたエマは何も言わず、静かに馬車の扉を開いた。
◇◇◇
灰鷲商会は、帝都東部の商業区に二棟の大きな倉庫を構えていた。
馬車から降りたカイが最初に抱いた感想は、思ったより大きい、だった。
石造りの事務棟の背後には、木材と煉瓦を組み合わせた倉庫が並び、その脇には荷馬車が十台近く止められている。荷台から木箱を下ろす男たち、帳簿を確認する事務員、馬の脚を洗う若者。昼を過ぎても敷地内では人の出入りが絶えず、掛け声や車輪の軋む音、馬の嘶きがひっきりなしに聞こえていた。
入口の大きな看板には、翼を広げた灰色の鳥が描かれている。
灰鷲。
カイは自然と足を止め、看板を見上げた。
「これ、父さんも見てたのかな」
「きっと――」
ソフィアが言いかけて、途中で止まった。
ほんの一拍考えてから、言い直す。
「……見ていた可能性は高いですね」
カイが横を見る。
「直した?」
「はい」
「昨日のこと?」
「はい」
昨日、孤児院の庭でソフィアは、自分の知らない両親の気持ちを勝手に決めないように言葉を止めた。
そのことを、今日も覚えている。
「でも」
カイはもう一度、灰鷲の看板を見る。
「俺は、多分見てたと思う」
これは。
自分がそう思いたい。
そういう言葉だった。
「はい」
ソフィアも、それ以上は何も言わなかった。
商会の入口には、すでに数人の人間が待っていた。
一番前に立つのは四十代後半ほどの大柄な男性だった。短く刈った灰褐色の髪に、商人らしい落ち着いた服装をしているが、腕や肩には明らかに長年現場仕事をしてきた者らしい厚みがある。
その隣には帝室法務局の文官が二名。
昨日、聖ラウラ孤児院でも会った者たちだ。
「第三皇女殿下」
男性が深く礼を取る。
「灰鷲商会現会頭、ガレス・ルーガンと申します」
「本日は急なお願いにもかかわらず、お時間をいただきありがとうございます」
ソフィアが公務時の落ち着いた声で返す。
ガレスは顔を上げると、今度はカイへ視線を向けた。
「そして、近衛騎士カイ様」
「……はい」
また様だ。
だがここで「様をやめてください」と言える相手ではないことくらいは、さすがのカイにも分かる。
「お父上の記録について、ご連絡を差し上げました」
「ありがとうございます。父が昔、お世話になったそうで」
カイが正式な礼を取ると、ガレスは少しだけ目を細めた。
「こちらこそ。古い記録を調べましたが、残念ながら私はレンドという方を直接存じ上げません」
一瞬。
胸の中にあった期待が少しだけ落ちる。
けれど、それは当然だった。
二十年以上前。
今の会頭が若かった頃か、それより前の話になる。
「ただ」
ガレスが続ける。
「私の父が、当時この商会で東街道方面の商隊をまとめておりました」
「……え?」
「現在は商会会長として、実務からはほぼ退いております」
カイは思わず身を乗り出した。
「会えるんですか?」
「本日は奥でお待ちしております」
心臓が強く一度鳴った。
「父さんを……」
「直接覚えている可能性があります」
胸が熱くなるのに、足元だけが少し頼りなくなる。
紙に名前があるのとは違う。
父と実際に会話した人間が、この建物の中にいる。
「カイ」
ソフィアが隣から小さく呼ぶ。
「うん」
「大丈夫?」
いつものように「大丈夫」と返すことはしなかった。
「……怖い」
素直に言う。
そして一度、息を吐いた。
「でも、会いたい」
ガレスは静かに頷いた。
「では、ご案内いたします」
◇◇◇
商会の奥に設けられた応接室は、外の賑やかさが嘘のように静かだった。
厚い木の扉を閉めると、荷物を運ぶ男たちの掛け声も、荷馬車の車輪が石畳を踏む音も遠く薄いものになる。壁際には古い帳簿を収めた棚がいくつも置かれ、中央の長卓には何冊もの大きな記録帳が重ねられていた。
そして窓際の椅子には、一人の老人が座っていた。
七十歳を越えているだろう。髪はほとんど白くなり、背中も少し丸い。
それでも。
顔を上げた時の目だけは鋭かった。
「父上」
ガレスが声をかける。
「お連れしました」
「……そうか」
老人はゆっくりと立ち上がり、まずソフィアへ向かって深く礼を取った。
「第三皇女殿下。お初にお目にかかります。灰鷲商会会長、ドルト・ルーガンでございます」
「本日はありがとうございます」
「いえ」
ドルトが顔を上げる。
そして。
カイを見る。
その瞬間。
老人の目がわずかに大きくなった。
何も言わないまま、ドルトはしばらくカイを見つめていた。
黒髪。
目。
頬。
顎の形。
まるで遠い昔の記憶と、目の前にいる青年の顔を照らし合わせるように。
カイの胸が落ち着かない。
「何か……?」
ようやく尋ねると、ドルトは低く呟いた。
「似ているな」
「……誰に」
「レンドだ」
その一言で、部屋の空気が静かに変わった。
「父を」
カイの声が、自分でも分かるほど震える。
「覚えてるんですか?」
「ああ」
ドルトは迷わず頷いた。
「よく覚えている」
それだけだった。
たったそれだけなのに。
喉の奥が強く詰まった。
帳簿ではない。
古い記録でもない。
父を知っている人。
生きていた父と、実際に話した人。
目の前の老人の記憶の中に、父がまだ残っている。
「……座りましょう」
横からソフィアの穏やかな声が届いた。
そこで初めて、カイは自分が立ったまま動けなくなっていたことに気づいた。
「うん」
促されて椅子へ座る。
ソフィアもすぐ隣へ腰を下ろした。
マリアとエマは少し離れた位置へ控え、法務局の文官たちも卓の端へ座る。ガレスとドルトが向かい側へ座ったところで、部屋へしばし静寂が落ちた。
何から聞けばいい。
迷うかと思った。
けれど。
口を開いた時に出た言葉は、とても単純だった。
「どんな人だったんですか」
ドルトが少しだけ目を細める。
「真面目な男だった」
「……父が?」
「ああ」
「母さんは、父さんのこと適当だって言ってた気がするんですけど」
思わず口から出る。
するとドルトが一瞬目を見開き、次の瞬間には声を立てて笑った。
「それも合っている」
「どっちなんですか?」
「仕事には真面目だった」
「仕事には?」
「ああ」
ドルトの口元には、懐かしむような笑みが残っている。
「普段は少し抜けていた」
カイの胸が、また温かくなる。
「荷札を逆につけたことがある」
「父さんが?」
「二度」
「……俺も一回やった」
「カイ」
横からソフィアが見る。
「騎士学校の荷物整理で」
「遺伝でしょうか」
「そこで笑わないで」
けれど。
カイ自身も笑っていた。
父が抜けたことをして。
母が呆れて。
怒る。
ぼんやりしていた幼い頃の家の空気が、少しだけ戻ってくる気がした。
「レンドは最初、本当に荷運びだけだった」
ドルトが話を続ける。
「力があった。若い頃からな。だが、途中から我々が重宝したのは、その力だけではなかった」
「何が?」
「人に好かれることだ」
カイが少し眉を寄せる。
「父さんが?」
「驚くか」
「俺の記憶だと……よく喋る」
「そうだ」
「知らない人ともすぐ話す」
「そうだ」
「母さんに『話長い』って怒られてた」
「そうだろうな」
ドルトが笑った。
「宿場の主人、街道巡回員、他商会の荷夫。相手が誰でも、すぐ話す。あいつは相手の名前や家族のことまでよく覚えていた」
「……」
「だから、ただ荷を運ばせるだけでは惜しいと思うようになった」
「それで仕入れ補助?」
「ああ。小さな宿場へ先に入り、何が足りないかを聞く。その土地で何が余っているか、どこへ持っていけば売れそうかを探る。簡単なようで、人と話せない者にはできん」
「父さんが、それを」
「できた」
ドルトは即答した。
「字はそれほど上手くなかったが、人の話を覚えるのは得意だった」
カイは無意識に自分の手を見る。
人の顔。
声。
立ち位置。
剣の癖。
一度見た動きを覚えるのは、昔から得意だった。
「……似てる?」
思わず小さく聞く。
ドルトはすぐには笑わなかった。
「私はお前を今日初めて見た」
「はい」
「だから、軽々しく同じだとは言わん」
「……うん」
「だが」
老人の目が、ほんの少し柔らかくなる。
「レンドも、相手をよく見ていた」
その言葉が、胸の深いところへ落ちた。
「父さん……」
カイは小さく名前を呼ぶように呟いた。
隣のソフィアは何も言わない。
でも。
そこにいる。
それでいい。
◇◇◇
少し落ち着いてから、カイはもう一つ気になっていたことを尋ねた。
「母については、知ってます?」
「ミアか」
「はい」
「何度か会っている」
「本当に?」
「ああ」
ドルトは遠い記憶を探るように、少しだけ目を細めた。
「レンドが商隊へ出る前、自分の服をよく直してもらっていた。最初はそれだけだったが、腕が良いと分かってから、商隊の外套や荷袋の補修まで頼むようになった」
「母さんが?」
「もちろん代金は払ったぞ」
「そこじゃなくて」
カイが思わず笑った。
「母さん、そんなに上手かったんだ」
「丁寧だった」
ドルトも少し笑う。
「そして怖かった」
「やっぱり」
「知っているのか?」
「俺もよく怒られてた」
「レンドもだ」
「何で?」
「外套を破る。靴紐を切る。帰ると言った日に帰らない」
「それは怒られる」
「カイ様」
隣から静かに声がする。
「何?」
「今の最後」
「うん」
「今後、カイも気をつけてください」
「俺?」
「帰ると約束した日は帰ってください」
カイが目を瞬かせる。
向かいではドルトが口元を緩め、ガレスも表情を崩していた。法務官たちまで、書類へ顔を向けながら笑いを堪えている。
「何で父さんの話から俺が怒られるんだよ」
「家族になる準備です」
「強いな」
言いながらも、嬉しかった。
母が父を待っていた。
ソフィアも自分を待つ。
もちろん同じではないし、昔の父と母へ今の自分たちを勝手に重ねる必要もない。
それでも。
少しだけ温かい。
「レンドは」
ドルトの声が少し低くなる。
「ミアとカイの話をよくしていた」
カイはすぐに顔を上げた。
「俺?」
「ああ」
「何て?」
心臓が急に速くなる。
「息子が剣士になりたがっている、と」
今度こそ。
カイは完全に言葉を失った。
「何歳の時ですか」
「お前が五つか六つだった頃だと思う」
「俺……」
薄い記憶の中。
木の棒を握って遊ぶ自分。
それを見る父。
笑っていたような。
呆れていたような。
けれど、はっきりしない。
「本当に?」
「何度も聞いた」
ドルトは懐かしそうに笑う。
「『うちの息子は棒を持たせると何でも剣にする』とな」
「……孤児院でもやってた」
「続いていたんだな」
「窓を三回割りました」
ソフィアが横からさらりと補足した。
「ソフィー!」
ドルトが声を立てて笑う。
「それはレンドが聞けば喜ぶ」
「喜びます?」
「自分も似たようなことをしていた」
「父さんも!?」
「荷棒を剣代わりにして遊び、倉庫の瓶を割った」
「……」
カイは両手で顔を押さえた。
「似てる」
「かもしれんな」
ドルトは楽しそうに笑った。
その笑いが落ち着いたあと。
カイは膝の上で手を組んだ。
ずっと聞きたかった。
でも。
もう本人には聞けない問い。
「父さんは」
声が少し弱くなる。
「俺が騎士になったら、どう思ったかな」
部屋が静かになった。
ドルトはすぐには答えなかった。
ソフィアも息を止めるようにして、ただ待っている。
「分からん」
やがて。
ドルトは静かに言った。
カイはほんの少しだけ視線を下げる。
「私はレンドではない。だから、あいつなら絶対にこう思うなどとは言わん」
「……はい」
昨日。
ソフィアが同じように言葉を止めたことを思い出す。
知らない人の気持ちを。
自分たちに都合よく決めない。
「だが」
ドルトが卓上を指先で一度だけ軽く叩く。
「一つだけ言える」
「はい」
「お前が剣士になりたいと言っていた話をする時」
老人の目が、少し遠くへ向く。
「レンドはいつも笑っていた」
何も言えなかった。
胸が熱い。
喉が詰まる。
今すぐ涙が落ちるわけではない。
けれど。
目の奥が痛かった。
「それは」
ドルトが穏やかに続ける。
「私が見た事実だ」
父が自分をどう思っていたのか。
今の自分を見たら何と言うのか。
それは分からない。
分からないままでいい。
けれど。
五歳か六歳の自分が剣士になりたいと話した時。
父は笑っていた。
その事実だけは、今ここで受け取っていい。
「……ありがとうございます」
ようやく出たのは、その言葉だけだった。
「聞けて、よかったです」
ドルトはゆっくり頷いた。
「私も、レンドの息子に会えてよかった」
◇◇◇
その後、古い帳簿を何冊も確認した。
レンドの名は、一冊だけに残っていたわけではなかった。
東街道第三商隊。
北東街道第二輸送隊。
臨時補助。
荷運び。
仕入れ確認。
宿場連絡。
十年以上の記録の中で、父の名前は何度も現れた。
報酬額。
出発日。
帰着日。
そして時には、ほんの一行だけの出来事。
『ミュール宿にて病人発生につき、一日滞在』
『同行者の少年を荷車へ乗せる』
『街道崩落のため迂回路確認』
どれも、ただの仕事記録だった。
誰かが父の人生を残そうとして書いた文章ではない。
だからこそ。
妙に胸へ入った。
その日。
その場所で。
父は確かに歩いていた。
荷物を持ち。
人と話し。
何かを考えていた。
「カイ」
ソフィアが静かに名前を呼ぶ。
「何?」
「疲れていませんか?」
「少し」
「休みましょうか」
カイは帳簿から顔を上げた。
自分でも気づかないうちに、かなり長い時間同じ姿勢で記録を追っていたらしい。肩が重く、目の奥にも鈍い疲れがある。
「……うん」
「では隣の休憩室をご利用ください」
ガレスが席を立つ。
「ありがとうございます」
カイも立ち上がろうとした。
その時。
卓の端へ置かれていた一冊の薄い日誌が目に入った。
「これは?」
ドルトが視線を向ける。
「ああ。それは私の父が残したものだ」
「会長のお父さん?」
「先代会長だ」
「父さんがいた頃の?」
「ああ」
カイは少しだけ躊躇してから、手を伸ばした。
「見ても?」
「構わん」
古い革表紙を開く。
年月はかなり前。
文字は癖が強いが、まだ十分に読める。
法務官が事前に該当箇所へ小さな紙片を挟んでいた。
その頁を開く。
カイの目が、一行の途中で止まった。
『レンド、妻子を連れて東街道へ移る話をしていた。ミアの体調を気にしており、しばらく長距離隊を外れたいとのこと。了承。次回以降はミュール宿周辺の短距離便を中心に回す予定』
「……」
カイの指が紙の上で止まる。
「母さん、体調悪かった?」
ドルトはすぐには断定せず、ゆっくり答えた。
「詳しいことまでは知らん。ただ、ミアは元々それほど身体が強い方ではなかったと聞いている」
思い出す。
母が昼間から横になっていた日。
父が代わりに食事を作っていた日。
子供だった自分は、それを特別なことだと思っていなかった。
「父さん、長距離の仕事を減らしたの?」
「日誌にはそう書いてある」
家族のために。
妻のために。
仕事を変えようとしていた父。
また一つ。
知らなかった父が増える。
カイはしばらく紙を見つめた。
胸が苦しい。
でも。
読みたくないわけではない。
その時。
自分でもほとんど意識せずに、机の下で手を少し横へ伸ばした。
指先がソフィアの手へ触れる。
ソフィアは何も聞かなかった。
すぐにその指を重ねてくれた。
「ちょっと」
カイは小さな声で言う。
「借りる」
「はい」
それだけだった。
けれど、手が温かい。
少し前まで。
自分から助けを求めることが苦手だった。
心配されれば「大丈夫」と言い。
一人で抱えれば済むと思っていた。
今は。
こんなふうに。
自分から手を伸ばせる。
そして。
ソフィアは何も言わず、その手を受け取ってくれる。
◇◇◇
休憩室へ移ったあと、カイは窓際の椅子へ深く腰掛けた。
外では商会の荷馬車が次々と出入りしている。男たちの掛け声、馬の蹄が石畳を叩く音、木箱が荷台へ載せられる重い音が、窓越しに断続的に聞こえた。
父も。
こんな音の中で働いていたのだろう。
そう考えると。
さっきまでただの騒音だったものが、不思議と違って聞こえる。
「カイ」
「うん」
「お水です」
「ありがとう」
ソフィアから杯を受け取り、一口飲む。
冷たい水が喉を通る。
そこで初めて、自分がかなり喉を乾かしていたことに気づいた。
「……疲れるな」
「はい」
「でも」
カイは窓の外へ視線を向けた。
「来てよかった」
「本当?」
「ああ」
少しだけ笑う。
「父さん、俺が思ってたより……ちゃんと父さんだった」
ソフィアが少し不思議そうに首を傾げる。
「どういう意味です?」
「子供の頃の俺の中だとさ。父さんって、荷物持って帰ってきて、俺と遊んで、母さんに怒られて。それだけだったんだ」
「はい」
「でも今日」
窓の向こう。
荷を運ぶ人たちを見る。
「仕事して、人に信頼されて。母さんの身体のこと考えて、仕事まで変えようとして。俺が剣士になりたがってる話まで、人にしてた」
声が少し詰まる。
でも。
逃げずに続けた。
「俺、父さんのこと全然知らなかったんだな」
「七歳でしたから」
「うん」
「それでいいのではないですか?」
ソフィアは椅子をほんの少しだけ近くへ寄せた。
「子供のカイが、お父様の全部を知らなかったのは当然です」
「そうかな」
「はい。だから今、知れるのだと思います」
カイは横を見る。
「ソフィー」
「はい」
「俺」
少し照れくさいような。
でも、不思議と口にしたいような気持ちになる。
「父さんのこと、前より好きになったかも」
ソフィアの目が少しだけ潤んだ。
「変?」
「いいえ」
首を横へ振る。
「私も昨日、カイの昔を知って、もっと大切に思いました」
「泣く?」
「まだです」
「今日は俺の方が危ないかも」
そう言うと、ソフィアが少し笑った。
「泣いてもいいですよ」
「その言葉、また返して」
「嫌です」
「強いな」
二人で少し笑う。
その間にも、外を一台の荷馬車が通り過ぎ、門の向こうへ消えていった。
「ソフィー」
「はい」
「父さん、俺が結婚するって知ったら、どう思うかな」
ソフィアはすぐには答えなかった。
昨日なら。
もしかすると。
「きっと喜びます」と言っていたかもしれない。
けれど今は。
少し考えてから、正直に答える。
「分かりません」
「うん」
「でも」
ソフィアは少し笑う。
「もし、カイがいつかお父様へ話したいと思うなら」
「うん」
「その時も、私は隣にいたいです」
カイは目を少し大きくした。
「墓とか見つかっても?」
「はい」
「一緒に?」
「もちろんです」
「……本当にどこまで来るんだよ」
呆れたように言う。
けれど。
声は笑っていた。
ソフィアも少し困ったように。
でも、幸せそうに笑う。
「一生です」
「また一生」
「カイが先に言いました」
「そうだった」
◇◇◇
休憩を終えて記録の確認へ戻ると、もう一つ大きな手がかりが出てきた。
「こちらがレンド氏の最後の長期商隊参加記録です」
法務官が一冊の帳簿を開き、該当する欄を指す。
カイが少し身を乗り出した。
「これ以降は?」
「ミュール宿周辺での短距離運搬のみとなっています」
「母さんの体調の話が出たあと?」
「時期はほぼ一致しています」
さらに記録を辿る。
そこには。
『翌月より家族ごとミュール宿近郊へ滞在予定』
そう書かれていた。
「家族ごと……」
カイは何度か文字を目でなぞる。
「俺も?」
「年齢と他記録から考えれば、そうでしょう」
「じゃあ」
孤児院で見た記録。
自分がミュール宿近くで保護されたこと。
父が長距離の仕事を外れ。
家族ごと、その近辺へ移ろうとしていたこと。
少しずつ。
繋がっていく。
「父さんと母さん、そこに住むつもりだったんだ」
でも。
その後に。
流行病が起きた。
「法務官さん」
「はい」
「ミュール宿の当時の記録は?」
「すでに照会を開始しております」
「早いな……」
「孤児院の記録との照合上、必要でしたので」
「そっか」
「ただし」
法務官の表情が少し慎重なものになる。
「二十年以上前の流行病当時の記録は、宿場側だけでなく地方行政の保健記録にも残っている可能性があります」
「分かるかもしれない?」
「ご両親の死亡日、当時の処置、埋葬地。医療記録の一部が残っている可能性もございます」
カイの身体が少し固くなる。
「……埋葬地」
「はい」
父と母の墓。
どこにあるのか。
知らない。
七歳の自分は。
両親を亡くし。
別の大人に連れられ。
その場所から離れた。
それ以来、一度も戻っていない。
「調べますか?」
また。
自分で決める問いだった。
ソフィアは何も言わない。
カイを見つめることさえせず、彼が自分で考える時間を残している。
マリアも少し離れた位置で、ただ待っていた。
カイは一度、ゆっくり息を吸う。
もし墓が残っていたら。
そこへ行けば。
今まで曖昧な記憶の中にしかいなかった父と母が、もっとはっきり過去になる。
亡くなったという事実を。
もう一度、形のあるものとして見ることになる。
それは怖い。
とても。
でも。
「……お願いします」
声は少し低かった。
「もし墓があるなら」
胸が痛い。
それでも。
「行きたいです」
法務官は深く頷いた。
「承知いたしました」
その直後。
今度はソフィアの方から、机の下でそっとカイの手へ触れた。
さっきとは逆だった。
カイは小さく笑い。
その手を握り返した。
◇◇◇
灰鷲商会を出たのは、陽が西へ傾き始めた頃だった。
朝の雨雲は完全に消え、濡れていた石畳も大部分が乾いている。倉庫の前ではまだ荷の積み込みが続いており、夕方の便を出すために商会員たちが忙しく動いていた。
門まで、会頭のガレスと会長のドルトが見送りに出てくれた。
「今日は、本当にありがとうございました」
カイが改めて正式に頭を下げる。
「礼を言われることではない」
ドルトは穏やかに返した。
「古い仲間の記録を、その息子へ返しただけだ」
「それでも」
カイは少し笑う。
「父さんの話、聞けたので」
ドルトの目が柔らかくなる。
「また何か思い出したら、法務局へ伝えよう」
「お願いします」
「それから」
ドルトが少しだけカイを見る。
「カイ」
様がない。
その呼び方に。
カイは一瞬だけ驚いた。
「いいですか?」
「レンドの息子に様をつけて呼んでいたら、あいつに笑われそうでな」
「……」
胸がじわりと温かくなる。
「はい」
「何だ?」
「カイで」
少し笑う。
「お願いします」
「ではカイ」
「はい」
「結婚」
ドルトがちらりとソフィアを見る。
「おめでとう」
カイの目が少し大きくなる。
「父親の代わりに言うつもりはない」
老人の声は落ち着いていた。
「私はレンドではない。あいつならどう言うかも、もう分からん。ただ」
「はい」
「レンドと働いた一人として」
少し笑う。
「息子が元気に大きくなって、好きな女と結婚するなら、祝ってもいいだろう」
カイの顔が少し熱くなる。
けれど。
今度は照れだけではなかった。
「……はい」
喉が詰まる。
少し俯いて。
それから。
今度こそ本当に深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
隣ではソフィアが静かに笑っていた。
馬車へ向かう前。
カイはもう一度、灰鷲の看板を見上げる。
父が十年以上関わった場所。
父を知る人が、今もいる場所。
「また来てもいいですか?」
「いつでも」
ガレスが答える。
「今度は」
カイは敷地の奥へ視線を向けた。
「仕事してるところも、ちゃんと見たい」
「歓迎いたします」
「父さんの真似ですか?」
横からソフィアが聞く。
「ちょっと」
「荷運びも?」
「それなら得意」
「カイ」
「何?」
「婚約者が一般商会で突然荷運びを始める場合は、先に予定を確認してください」
「そこ?」
「護衛計画があります」
「現実的だな」
周囲から小さな笑いが起こる。
ドルトは最後に、声を立てて笑った。
◇◇◇
帰りの馬車の中。
カイは灰鷲商会から許可を得て持ち帰った写しを、膝の上へ大切に置いていた。
父レンドの雇用記録。
いくつかの商隊記録。
そして先代会長の日誌の一部。
紙の束そのものは、決して厚くない。
けれど今のカイには、とても重かった。
「ソフィー」
「はい」
「今日」
「はい」
「俺、父さんのこと前より知った」
「はい」
「すごいことだよな」
「とても」
カイは馬車の窓から、夕方の帝都を眺める。
「昨日まで、俺の中の父さんってさ」
少し笑う。
「荷物持って帰ってきて、母さんに怒られて。それくらいだった」
「はい」
「今は」
人と話す父。
仕事を任される父。
妻の体調を気遣う父。
息子の夢を人へ話す父。
「ちょっと、人になった」
ソフィアが穏やかに目を細める。
「記憶の中の人ではなく?」
「うん。今までももちろん人だったんだけど」
カイは言葉を探した。
「俺の中で、輪郭が増えた」
「……良かったです」
「うん」
少しだけ間を置いて、カイは横を見る。
「来てくれてありがと」
「また?」
「何回でも言う」
ソフィアが少し笑う。
「では」
「何?」
「私も何回でも来ます」
「本当に?」
「はい」
「墓が見つかっても?」
「はい」
「母さんのことがもっと分かっても?」
「はい」
「もっと昔まで調べることになっても?」
「カイが知りたいのなら」
カイは少し呆れたように笑った。
「すごいな」
「婚約者ですから」
「それ、一生使う?」
「夫婦になったら変えます」
「何に?」
「夫婦ですから」
「もっと強い」
二人で笑う。
その笑いが落ち着いたあと。
カイはふと真面目な顔になった。
「ソフィー」
「はい」
「俺も」
「何です?」
「ソフィーの昔、まだ知りたい」
昨日見せてもらった五枚の写真画。
五歳。
七歳。
十歳。
十一歳。
十二歳。
どれも知らなかったソフィアだった。
「まだですか?」
「五枚だけだろ」
「十分です」
「足りない」
「何でです?」
カイは少し笑った。
「知ったら」
「はい」
「もっと好きになるかもしれないから」
その瞬間。
ソフィアが完全に止まった。
馬車の中には車輪の音だけが続く。
「カイ」
「何」
「今日」
「うん」
「お父様のお話で胸がいっぱいだったのに」
「うん」
「最後にそれを言うのですか?」
「本当だし」
「ずるいです」
「何が」
ソフィアは少しだけ視線を下げる。
そして。
「私も」
「うん?」
「今日、お父様のお話を聞いて」
「父さん?」
「はい」
少し照れながら。
それでも、ちゃんとカイを見る。
「もっとカイを好きになりました」
今度はカイが止まる番だった。
「何で?」
「似ているところがあったからです」
「……荷札逆につけるところ?」
「違います!」
「じゃあ何」
「人をよく見るところ」
カイの表情が少し変わる。
「大切な人のために動くところ」
「……」
「それから、少し無茶をするところ」
「それ褒めてない」
「そこは直してください」
「やっぱり」
けれど。
ソフィアは笑っていた。
「それでも」
声が柔らかくなる。
「カイが、どこから来たのか」
「うん」
「少し分かった気がして、嬉しかったです」
カイの胸が温かくなる。
「じゃあ」
「はい」
「お互い様?」
「はい」
また、その言葉。
でも。
今はとても合っていた。
◇◇◇
白銀宮へ戻ったあと、夕食まで少し時間があった。
二人は私室の机へ並び、今日持ち帰った写しを改めて広げた。
今度は調査ではない。
法務官もいない。
誰かに説明されながら読む必要もない。
ただ。
二人でゆっくり見る。
「ここ」
カイが一つの記録を指す。
「荷札逆」
「本当に記録に残っていますね」
「父さん何してるんだよ」
「『本人反省。損害なし』と」
「絶対怒られただろうな」
「カイも?」
「俺は訓練用荷物」
「損害は?」
「なし」
「では同じですね」
「遺伝かな」
「そこは断定できません」
「真面目」
二人で笑う。
次に目を向けたのは、先代会長の日誌だった。
『息子が剣士になりたがっている』
その部分を見ると。
カイの表情がまた少し静かになる。
「これ」
「はい」
「この写し」
指先で紙の端へ触れる。
「大事にしたい」
「はい」
「俺、本当に父さんに言ったのかな」
「何を?」
「剣士になりたいって」
「記録から考えると、その可能性は高いと思います」
「覚えてない」
「それでも」
ソフィアが静かに言う。
「お父様は覚えていたのですね」
「……うん」
それが、胸の深いところへ入る。
自分は忘れてしまった。
子供の頃の夢。
父へ言った言葉。
でも。
父は覚えていて。
人に話していた。
カイは少しだけ笑った。
「俺、なったよ」
写真画でも。
墓でもない。
ただの紙へ向かって。
それでも、言いたかった。
「剣士」
もっと正確に言うなら。
「ちゃんと、近衛騎士になった」
ソフィアは隣で何も言わず聞いている。
「それで」
少し照れて。
でも。
止めない。
「結婚もする」
「はい」
「相手」
ソフィアを見る。
「ソフィー」
ソフィアの目がすぐ潤んだ。
「また泣く?」
「少しだけ」
「今日は俺も危ない」
「では」
ソフィアがそっと手を差し出す。
「一緒に?」
カイはその手を取った。
「うん」
「大丈夫にします?」
ここ数日。
何度も使った言葉。
けれど。
今のカイは少しだけ考え。
ゆっくり首を振った。
「今日はさ」
「はい」
「大丈夫じゃなくてもいいかも」
ソフィアが目を少し大きくする。
「悲しい?」
「うん」
「嬉しい?」
「うん」
「両方?」
「両方」
カイは握った手に少し力を込める。
「だから今日は、両方でいい」
ソフィアはしばらくカイの顔を見ていた。
そして。
静かに頷く。
「はい」
二人はしばらく何も言わなかった。
夕方の光が窓から差し込み、机の上の古い記録を淡い金色に照らしている。
そこには、過去の父の名前がある。
その隣には。
これから未来を一緒に作る人がいる。
過去と未来が、同じ机の上へ並んでいた。
不思議で。
少し痛くて。
でも。
とても温かかった。
◇◇◇
その夜。
騎士団宿舎へ戻ったカイは、昨日持ち帰った青灰色の石の隣へ、今日の記録の写しを置いた。
父レンド。
灰鷲商会。
十年以上。
荷運び。
仕入れ補助。
宿場との連絡。
妻ミアの身体を気遣い、長距離の仕事を減らそうとしていた。
そして。
息子が剣士になりたがっていると、人に話していた。
カイは机の前へ座り、しばらく紙を見つめた。
「……父さん」
静かな部屋へ、自分の声が落ちる。
「俺」
昨日。
結婚する、と話した。
今日は。
もう一つ。
「騎士になったよ」
今さらの報告だ。
でも。
今だからしたい。
「近衛騎士」
少し笑う。
「それも、第三皇女の護衛やってた」
今は。
もう。
ただの護衛ではない。
「……まあ」
照れくさくなり、少し頭を掻く。
「今は婚約者だけど」
父が聞いたら。
何と言っただろう。
信じなかったかもしれない。
大笑いしたかもしれない。
けれど。
それは今の自分には分からない。
「でもさ」
カイは少しだけ口元を緩める。
「俺が剣士になりたいって話してた時」
今日、ドルトから聞いた言葉が胸へ戻る。
『レンドはいつも笑っていた』
「笑ってたんだってな」
それだけ。
それだけで。
十分だった。
今の自分をどう思うかは分からない。
結婚を喜ぶかどうかも分からない。
けれど。
あの頃の父が。
幼い自分の夢を誰かへ話す時に笑っていた。
それはもう、誰にも奪えない事実だ。
「ありがと」
何に対する礼なのか、自分でもよく分からない。
それでも、言いたかった。
「今度」
カイは日誌の写しへそっと触れる。
「墓、見つかったら行くよ」
父と母。
二人が眠る場所が残っているなら。
今度は。
自分の足で行く。
「ソフィーも来るって」
少し笑う。
「本当にどこまで来るんだよな」
言いながらも。
その顔は嬉しそうだった。
「……家族になるからって」
その言葉を自分の口で言うと、胸が温かくなる。
過去を知ることも。
未来を選ぶことも。
もう別々ではないのかもしれない。
父と母がいたから。
今の自分がいる。
そして。
今の自分は、ソフィアとこの先を作っていく。
「父さん」
少し間を置く。
「母さん」
机の上には。
空雫石の腕輪。
青灰色の石。
父の記録。
今の自分と過去を繋ぐものが並んでいる。
「俺」
カイは小さく笑った。
「ちゃんと大事にするよ」
何を。
とは言わなかった。
今持っているもの。
これから増えるもの。
過去。
ソフィア。
未来。
全部。
「おやすみ」
少しだけ間を空ける。
「父さん、母さん」
そして。
右手首の空雫石へ触れる。
裏側に刻まれた名前。
「おやすみ、ソフィー」
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮では、ソフィアが今日持ち帰った記録の控えを読んでいた。
レンド。
ミア。
灰鷲商会。
息子。
剣士。
文字を追うたび、昼間のカイの顔を思い出す。
嬉しそうで。
でも、時々泣きそうで。
それでも知らなかった父を知るたびに、少しずつ表情が柔らかくなっていた。
「姫様」
後ろでは、エマが就寝前の衣類を整えている。
「何です?」
「本日は、カイ様のお父上について随分と考えておられますね」
「分かります?」
「はい」
ソフィアは少しだけ恥ずかしそうに記録を閉じた。
「今日、カイが言ったのです」
「はい」
「お父様のことを、前より好きになったと」
「良いことですね」
「はい」
ソフィアは机の上へ指先を置く。
「私も」
「はい?」
「少しだけ」
声を柔らかくする。
「カイが、どこから来たのか分かった気がしました」
「はい」
「人をよく見るところも、大切な人のために動こうとするところも」
一度言葉を止める。
「少し無茶をするところも」
「そちらは似なくてもよかったかもしれませんね」
「本当に」
二人の間へ小さな笑いが生まれる。
けれど、ソフィアはすぐに記録へ視線を戻した。
「お父様も」
「はい」
「お母様も」
「はい」
「孤児院も」
「はい」
「今日の商会も」
少しずつ。
カイの中にあるものが増えていく。
そして。
自分が知れるカイも増えていく。
「全部」
ソフィアは少しだけ笑った。
「カイが大切にしたいのなら、私も大切にしたいです」
エマの目が柔らかくなる。
「一緒に?」
「はい」
「どこまでも?」
今日。
カイから聞かれたのと同じ問いだった。
ソフィアの頬が少しだけ赤くなる。
それでも、答えに迷いはない。
「一生です」
エマが小さく笑った。
「では、カイ様には覚悟していただきませんと」
「何をです?」
「姫様が一生ついてくる覚悟を」
「エマ!」
「違いましたか?」
「……違いませんけれど」
声が小さくなる。
否定できない。
むしろ。
否定したくない。
ソフィアは左手首の夜空石へ触れた。
「おやすみなさい、カイ」
今日。
また一つ。
カイの知らなかった時間を知ることができた。
そして次には。
ミュール宿。
流行病の記録。
レンドとミアが亡くなった日。
もし残っているのなら。
二人が眠る場所。
きっと。
簡単な日にはならない。
それでも。
カイが知りたいと望むなら。
「次も」
ソフィアは静かに笑った。
「一緒に行きます」
婚姻式まで、あと二月。
カイはこの日、父レンドが十年以上働いていた灰鷲商会を訪れた。
そこにあったのは、帳簿の文字だけではなかった。
父を実際に知っている人がいた。
仕事には真面目で。
普段は少し抜けていて。
誰とでも話し。
人のことをよく覚え。
妻ミアの体調を気遣い。
息子が剣士になりたがっていることを、笑いながら人へ話していた男。
けれど。
カイはもう。
父ならきっとこう思ったはずだと、無理に答えを作ろうとはしなかった。
分からないことは、分からないままでいい。
代わりに。
確かに残っているものを受け取ればいい。
父は、幼いカイが剣士になりたいという話をする時。
いつも笑っていた。
その事実を。
カイは今日。
ようやく受け取った。
そして。
過去を知れば知るほど。
次に知りたいものも増えていく。
ミュール宿。
流行病。
父と母が亡くなった日。
そして。
二人が眠る場所。
怖さは消えていない。
けれど。
もう、怖いから一人で抱える必要はない。
苦しくなれば。
自分から手を伸ばしてもいい。
今日。
カイは初めて。
誰かに差し出された手を待つのではなく。
自分からソフィアの手を借りた。
それは。
父のことを知れたこととは別の。
けれど確かな。
カイ自身の変化だった。
二月後。
二人は家族になる。
その前に。
カイは自分がどこから来たのかを知り。
ソフィアはその道を隣で歩く。
どこまで付き合うつもりなのかと聞けば。
答えは、もう決まっていた。
一生。
そしてカイも。
その答えを聞いて。
もう逃げたいとは思わなかった。




