第30話 第三皇女様、俺の知らない昔を見せてもらったら今よりもっと好きになるんですが
婚姻式まで、あと二月。
聖ラウラ孤児院を訪れた翌朝、カイは第四近衛騎士団の訓練場で木剣を振っていた。
春の朝らしい柔らかな陽射しが石造りの壁を越えて差し込み、踏み固められた土の上へ長い影を落としている。訓練場では何組もの騎士が剣を打ち合わせており、乾いた木剣の音や指導役の声、走り込みをする者たちの足音が絶え間なく重なっていた。
昨夜は、いつもより眠りにつくまで時間がかかった。
聖ラウラ孤児院から持ち帰った青灰色の石を机の上へ置き、何度も眺めた。父レンド、母ミア。帳簿に残されていた二人の名と、父が荷運びや旅商人の補助をしていたこと、母が裁縫をしていたこと。覚えていたはずなのに長い間ほとんど思い出そうともしてこなかった記憶が、眠ろうとすると何度も胸の奥から浮かび上がってきた。
だからといって、嫌な寝不足ではなかった。
知らなかったことが増えた。曖昧だった記憶が、残された記録によって少しだけ形を取り戻した。そして何より、自分の過去へ触れて胸が揺れた翌朝にも、こうしていつもの訓練場へ戻ってこられたことが嬉しかった。
「カイさん、右!」
「見えてる!」
若い騎士の声が飛んだ直後、カイの右側から木剣が鋭く振り込まれた。
カイは正面の相手へ向けていた木剣を途中で引き、手首を返しながら斜めに受ける。木と木が乾いた音を響かせたが、力で押し返すことはせず、その勢いを外へ逃がしながら半歩だけ身体をずらした。
振り込んだ騎士の姿勢が崩れる。
その肩へ、カイの木剣が軽く触れた。
「一人」
「早いって!」
「声を出してる暇があったら次を見ろ!」
言葉を返した直後、正面に残っていた二人が左右へ分かれた。
一人が低く入り、もう一人が肩口を狙う。昨日ソフィアから二対一の訓練すら心配されたばかりなので、さすがに今日は三対一を避けたのだが、だからといって楽な内容にする気もなかった。
「二対一ならいいって話じゃないですよね?」
訓練場の端で別の組を見ていたリナが、呆れたように声を飛ばしてくる。
「普通の訓練だって言っただろ!」
返事をしながら、カイは左から振り込まれた木剣を滑らせるように受け流した。
「昨日も同じこと言ってた!」
「今日も普通なんだから同じこと言うだろ!」
「姫様に報告するよ!」
「それもう監視だからな!」
周囲で聞いていた騎士たちが一斉に笑う。
その笑いへ一瞬だけ気を取られた正面の青年騎士に、カイは容赦なく踏み込んだ。
「ほら、集中切れた」
「あっ」
胸当てへ木剣の先が触れる。
審判役が即座に手を上げた。
「そこまで!」
二人の青年騎士が同時に肩を落とし、乱れた呼吸を整えながら木剣を下ろした。
「今のはリナさんのせいです」
「人のせいにしない」
「だって、カイさん会話しながら普通に対応してるじゃないですか」
「慣れだよ」
「何にです?」
「団長に怒られながら訓練することに」
「それ、何の参考にもならないですね」
また周囲から笑い声が上がった。
カイも木剣を肩へ乗せたまま、つられるように笑った。
昨日、孤児院で昔の自分の話をいくつも聞いた。木の枝を剣に見立てて毎日のように振り回し、窓まで三回割ったらしい。自分では二回だと思っていたが、院長のミレイユが断言した以上、おそらく三回なのだろう。
そんな子供が今、本当に近衛騎士になっている。
しかも、あと二月もすれば――。
「……人生、分からないな」
思わず漏れた声を、近づいてきたリナが拾った。
「何が?」
「いや、昔、孤児院で木の枝振り回して窓割ってた俺がさ」
「三回ね」
「何でお前まで強調するんだよ」
「院長先生が言ってたって聞いたから」
「誰から?」
「団長」
「広めるの早すぎるだろ……」
カイは呻きながら木剣を棚へ戻した。それでもすぐ、少しだけ笑いながら続ける。
「その俺が今は近衛騎士やってて、そのうえソフィーと結婚するんだぞ。改めて考えると、すごいなって」
リナが一度瞬いた。
次の瞬間には、ものすごく楽しそうな顔になる。
「朝から惚気?」
「何でそうなるんだよ!」
「最後の一言、必要だった?」
「必要だろ。事実なんだから」
「そうだけど」
リナは口元をにやつかせたまま、少しだけ目を細めた。
「カイ、結婚するって普通に言えるようになったね」
「……」
言われて初めて、自分でも気づいた。
少し前なら「婚姻式」や「結婚」という言葉を自分のこととして口にするだけで、どこか落ち着かなかった。ソフィアが誰かと結婚して遠くへ行ってしまうと勘違いしていた頃の感覚が、まだ胸のどこかへ残っていたからだ。
今は違う。
自分がその相手だ。
二人で会場を見て、家名を考えて、これから暮らす場所まで決めようとしている。
「まあ……するからな」
少し照れながら返すと、リナが楽しげに頷いた。
「姫様が聞いたら泣きそう」
「だから本人の前では言い方を考える」
「もう遅いかも」
「何が?」
リナがカイの後ろへ視線を向けた。
その顔を見ただけで嫌な予感がする。
ゆっくり振り返ると、訓練場の入口にエマが立っていた。
「……また?」
「おはようございます、カイ様」
「おはようございます」
白銀宮からわざわざ来たらしいエマは、朝の訓練場に不似合いなほど完璧な姿勢で一礼した。
その瞬間、周囲にいた騎士たちの耳が露骨にこちらへ向く。
「姫様よりご伝言でございます」
「今日は何です?」
「『昨日はお疲れだったのですから、午前の訓練は無理をなさらないでください』とのことです」
「普通の訓練しかしてません」
「そのようにお伝えいたします」
「それと……今日は一対一中心にするって」
カイが付け加えると、エマの目がわずかに細くなった。
「先ほど二対一をなさっていましたね」
「見てたんですか?」
「少しだけ」
「エマさんまで監視側?」
「姫様付き侍女でございますので」
「説明になってるようでなってないんだよな……」
周囲から堪えきれない笑いが漏れる。
エマは気にした様子もなく、もう一つの用件を告げた。
「それから、本日昼前に白銀宮へお越しください」
「今日は何か予定あったっけ?」
「姫様の幼少期の写真画をご覧になる予定でございます」
カイの動きが完全に止まった。
横でリナが吹き出す。
「本当に用意したんだ」
「昨日の今日で!?」
「姫様、昨日の夜から選んでたんじゃない?」
エマは何も言わない。
だが、その沈黙はほとんど肯定だった。
「何枚です?」
「姫様のご希望は三枚でした」
「でした?」
「私の希望は十二枚ほど」
「多い!」
「話し合いの結果、現在は七枚まで絞り込んでおります」
「増えてるじゃないですか!」
「姫様と最終協議中です」
「何の会議なんだよ、それ……」
カイは思わず額へ手を当てた。
ただ、嫌ではない。
昨日、ソフィアは自分の十二歳頃の写真画を見て、何度も「可愛い」と繰り返していた。そして、七年前より前の自分について「私が知らなかったカイです」と言った。
同じことを。
今度は自分が知れる。
その気持ちは、どうしても顔へ出てしまったらしい。
「嬉しそう」
すぐ隣からリナが指摘する。
「……悪い?」
「全然」
カイは少し照れながらも、否定せずエマへ向き直った。
「昼前に行きます」
「姫様へお伝えいたします」
「あと、昨日の俺の写真画なんですけど」
「はい」
「写し、本当に一枚だけですよね?」
「姫様用一枚、保存用一枚でございます」
「二枚じゃないですか!」
エマの口元がほんの僅かに上がった。
「冗談でございます」
「エマさん、最近冗談増えてません?」
「カイ様のおかげかと」
「何で俺なんです?」
「さあ」
「誤魔化した」
エマが去っていくと、訓練場にはまた笑いが戻った。
リナが肩を揺らしながら言う。
「楽しみだね、四歳くらいの姫様」
「そこまで見せてもらえるかな」
「見たい?」
カイは少しだけ考えた。
そして、もう誤魔化す必要もないと思い直す。
「……見たい」
「即答だね」
「俺も知りたいんだよ」
昨日のソフィアの言葉を思い出しながら、カイは少し笑った。
「俺が知らなかったソフィーを」
◇◇◇
昼前、白銀宮へ向かう回廊は、婚約公表直後に比べればかなり落ち着きを取り戻していた。
数日前まで絶え間なく運び込まれていた花や贈答品の数も減り、文官たちが抱える書類の山もわずかに薄くなっている。それでもカイ自身への「カイ様」という呼び方だけは、すっかり皇城の日常へ定着し始めていた。
「カイ様、ごきげんよう」
「こんにちは」
すれ違った侍女へ自然に返す。
「カイ様、昨日は東区へお出かけになったそうですね」
「はい。少し昔の記録を確認しに」
「お疲れさまでございました」
「ありがとうございます」
また歩き出す。
数日前なら「様」と呼ばれるたび、妙に肩へ力が入っていた。
今日は、それほどでもない。
「……少し慣れてきたな」
「何にでしょう?」
「うわっ!」
真横から返事が来て、カイは本気で肩を跳ねさせた。
「エマさん!」
「はい」
「何で毎回、気配を消して隣にいるんです?」
「消しておりません」
「絶対消してます」
「気のせいでございます」
「本当にその言葉、この城から禁止したい」
「残念ながら、皇城規則へ追加するのは難しいかと」
「そこ真面目に返す?」
エマは少しだけ口元を緩めたまま、白銀宮へ続く回廊を歩いていく。
「姫様は私室でお待ちです」
「写真画、最終的に何枚になりました?」
「五枚です」
「三枚から増えたままなんですね」
「私が二枚、勝ち取りました」
「だから何の勝負なんです?」
「姫様との交渉でございます」
「本人は納得してる?」
「二枚については、やや不満そうでございました」
「やっぱり」
カイは笑いながら白銀宮の奥へ進んだ。
私室の扉が開く。
その向こうでは、ソフィアがすでに待っていた。
午後に軽い公務があるらしく、今日は淡い青のドレスを身につけている。銀髪は背中へ流れないよう後ろで緩くまとめられ、窓から差し込む光を受けて白銀色に輝いていた。
そして卓上には。
いかにも写真画らしい紙包みが五枚。
「カイ」
「ソフィー」
カイが入ってきた瞬間、ソフィアの表情が少し明るくなる。
しかし、カイが卓上へ視線を落とした途端。
彼女の頬が少し赤くなった。
「本当に用意したんだ」
「カイが見たいと言いました」
「言ったけど」
カイは椅子のそばまで歩き、ソフィアを見た。
「何でそんなに顔赤いの?」
「恥ずかしいからです」
「俺、昨日散々見られたけど」
「カイは可愛かったので問題ありません」
「それ理由になってないだろ」
「私は、今よりずっと幼いのです」
「それは当たり前だろ」
「髪型も違います」
「見たい」
「即答しないでください!」
「何で?」
「心の準備が必要です!」
「昨日の夜から準備してたんじゃないの?」
「しても足りません!」
カイはとうとう笑った。
普段のソフィアは強い。
自分の気持ちを言う時は特にそうだ。
七年間好きだった。
カイがいい。
逃げないでください。
私が選びました。
こちらが恥ずかしくなるような言葉を、真っ直ぐ言う。
そんなソフィアが、自分の幼い頃の写真を見られるだけで落ち着かなくなっている。
「ソフィー」
「何です?」
「今も可愛いな」
「まだ写真を見ていません!」
「だから、今のソフィー」
「……」
少しの間。
ソフィアの顔が、さらに赤くなった。
「カイ」
「何?」
「今日は、私が負ける日かもしれません」
「何の勝負してるんだよ」
「カイの言葉にです」
「俺、勝負してるつもりないぞ」
「私もありません」
「じゃあ何で負けるんだよ」
二人で笑う。
その笑いが少し落ち着いたところで、カイはソフィアの隣へ腰掛けた。
「じゃあ」
「……はい」
「見てもいい?」
今度はからかわず、静かに聞く。
ソフィアは卓上の写真画へ視線を落としたあと、小さく息を吸った。
そして覚悟を決めたように頷く。
「はい」
◇◇◇
一枚目。
写真画に写っていたのは、五歳頃のソフィアだった。
肩へ触れるくらいまで伸びた銀髪。白を基調とした小さなドレスには、胸元へ青いリボンが結ばれている。そして両腕には、自分の身体の半分ほどもありそうな白兎のぬいぐるみが大切そうに抱えられていた。
「……」
カイはしばらく何も言わなかった。
その沈黙が逆に不安になったらしく、ソフィアが横から覗き込んでくる。
「カイ?」
「ちょっと待って」
「何をです?」
「すごい」
「何が?」
写真画へもう一度目を落とす。
少し丸い頬。
今と同じ空色の大きな瞳。
ぬいぐるみを抱えながらも、写真を撮る相手へ少し警戒したような表情を向けている。
「可愛い」
「……」
「めちゃくちゃ可愛い」
「カイ!」
「本当だって」
「声を抑えてください!」
「何で?」
「エマがいます!」
少し離れた場所で茶器を整えていたエマは、何事もなかったように返した。
「私は何も聞いておりません」
「絶対聞いてるじゃないですか」
「姫様は五歳頃、宮中でも大変愛らしいと評判でございました」
「エマ!」
「やっぱり」
カイが笑う。
そのまま写真画の中の白兎へ視線を移した。
「これ、何ていうぬいぐるみ?」
「白兎です」
「いや、それは見れば分かる。名前」
「……」
ソフィアが黙った。
その一瞬で、カイは察する。
「あるんだ」
「ありません」
「今の間で分かった」
「ありません」
「何て名前?」
「カイ」
「何?」
「次へ行きましょう」
「逃げた」
「逃げていません」
カイは少し身を乗り出した。
「教えて」
「嫌です」
「ソフィー」
「嫌です」
「婚約者だから」
「その言葉を私へ使わないでください!」
「便利だろ?」
「便利に使った私が悪かったです!」
とうとうエマが小さく笑った。
「姫様」
「何です!」
「白雪でございます」
「エマ!」
「白雪?」
カイが写真画を見直す。
「白い兎だから?」
「……はい」
「可愛い」
「もう!」
ソフィアは両手で顔を覆ってしまった。
けれど、その指の隙間から見える口元は少しだけ笑っている。
カイはそんな今のソフィアと、写真の中の五歳の少女を交互に見た。
違う。
でも。
同じだ。
「ソフィー」
「何です?」
「俺、こういうのもっと早く知りたかったかも」
ソフィアが手を少し下ろす。
「どうして?」
「可愛いからっていうのもあるけど」
「それはもう十分聞きました」
「でもさ」
カイは写真画へ視線を戻した。
「今のソフィーと繋がってる感じがする」
「繋がっている?」
「ああ。目とか、このちょっと警戒してる顔とか」
「警戒していません」
「してるだろ。人見知りだった?」
「……少し」
「やっぱり」
「カイ」
「何?」
「今、とても恥ずかしいです」
「昨日の俺も同じだった」
「仕返しですか?」
「違うよ」
カイは少しだけ声を柔らかくした。
「嬉しいんだ」
「……」
「ソフィーにも、俺が知らない時間がちゃんとあったんだなって」
ソフィアの表情が変わった。
昨日。
彼女自身が。
カイの十二歳の写真を見ながら、同じようなことを言っていた。
「……はい」
ソフィアは小さく頷いた。
「ありました」
◇◇◇
二枚目は、七歳頃。
皇族用の庭園らしい場所で、当時十四歳だったレオニスと並んで写っている。
「皇太子殿下?」
「はい。兄上です」
「若いな」
「十四歳でしたから」
「でも、もう怖い顔してる」
「失礼です」
「いや、今と同じって意味」
写真の中のレオニスは、今より幼さの残る顔をしていたが、確かにすでに皇太子らしい落ち着きがあった。
ただ。
片手をソフィアの肩へ置き、少し困ったような顔をしている。
その理由はすぐ分かった。
「ソフィー、泣いてる?」
「……覚えていません」
「エマさん」
助けを求めるようにカイが呼ぶと、エマは即答した。
「姫様が兄上殿下の後を追って庭園を走り、転ばれました」
「エマ!」
「また転んだの?」
カイは思わず写真からソフィア本人へ目を移した。
「怪我は?」
「昔です!」
「俺が木から落ちた話で心配しただろ」
「それとこれは違います!」
「同じだって。どこ怪我した?」
「膝を擦りむいただけです!」
「良かった」
「だから何年前の心配をしているのですか!」
「カイ様」
エマが落ち着いた声で補足する。
「姫様は幼少期、よく走り回って転ばれておりました」
「エマ!」
「そうなの?」
「走るのがお好きでしたので」
「へえ……」
カイは改めて写真を見る。
泣いているソフィア。
その横で、困った顔をしながらもしっかり肩を支えているレオニス。
「皇太子殿下、昔から優しいな」
ソフィアの表情が少し柔らかくなる。
「はい」
「だから怖いけど、いい人なんだよな」
「まだ怖いと言います?」
「妹の婚約者を見る時の目は今でも怖い」
「兄なので」
「それも万能?」
「はい」
二人はまた笑った。
◇◇◇
三枚目は十歳。
カイと出会う少し前のソフィアだった。
大きな机へ座り、自分の腕ほども厚い本を開いている。姿勢だけなら立派な皇女そのものなのだが、よく見ると眉間には小さな皺が寄り、唇も少し不満そうに尖っていた。
「真面目だな」
「勉強中です」
「十歳でこんなの読むの?」
「皇族ですので」
「俺、その頃たぶん森走ってた」
「知っています」
「何で」
「カイが話してくれました」
「そうだった」
何気なく答えながら、カイは写真へ顔を近づけた。
「これ、怒ってる?」
「……」
「ソフィー」
「難しい課題が終わらなかったのです」
「やっぱり」
「嫌だったのです」
「今でも難しい書類見る時、この顔する」
「しません」
「する」
「しません」
「俺、知ってるから」
ソフィアが少しむっとした顔になる。
その瞬間、写真の中の十歳のソフィアと今の表情が見事に重なった。
カイは吹き出した。
「ほら。同じ」
「カイ!」
「今も可愛い」
「……」
ソフィアの声が止まる。
今度はカイの方も、言ってから少し照れた。
「何?」
「急に言わないでください」
「本当だから」
「……」
「次、見る?」
「少し待ってください」
「何で?」
「心臓が落ち着くまで」
「また?」
「今日はカイが強すぎます」
「俺、写真見てるだけだぞ」
「それなのにです」
カイは笑った。
けれど、自分でも少し不思議だった。
昨日は、自分の知らない自分をソフィアに見られた。
今日は、知らなかったソフィアを見る。
どちらも少し恥ずかしい。
でも。
それ以上に楽しい。
自分の中の「ソフィア」という人が、少しずつ大きくなっていくような感覚があった。
◇◇◇
四枚目を見た瞬間、カイの表情は自然に変わった。
十一歳。
森の事件のあと。
二人が出会って、しばらく経った頃。
写真の中のソフィアは椅子へ座り、窓から差し込む光の中で笑っていた。腕にはまだ細い包帯が残っている。
「……これ」
カイの声が少し低くなる。
「俺と会ったあと?」
「はい」
ソフィアも静かに答える。
「皇城へ戻って、一月ほど経った頃です」
「傷、まだある」
「もうほとんど治っていました」
「そっか」
カイは写真画へ視線を落とした。
あの森。
追われていた少女。
怖がりながらも、自分の手を強く握っていたソフィア。
十歳の自分は、ただ目の前の女の子を一人にしたくないと思って手を取った。
「何でこれ撮ったの?」
「兄上が、元気になった記念にと」
「皇太子殿下が?」
「はい」
写真の中では、ソフィアが笑っている。
今より幼い。
それでも、その笑い方には見覚えがあった。
「カイ」
「何?」
「この頃、私はもう」
ソフィアの頬が少し赤くなる。
「カイの話ばかりしていたそうです」
「誰に?」
「兄上とエマに」
「……一月で?」
「はい」
「何を話してたんだよ」
「助けてくれた男の子がいると」
「うん」
「黒い髪で」
「うん」
「少しぶっきらぼうで」
「十歳だったからな」
「でも、とても優しくて」
「……」
「絶対にもう一度会いたいと」
カイの胸が少し詰まった。
あの頃のことを思い出す。
ソフィアが第三皇女だと知った時。
自分が助けた少女が、あまりにも遠い人だったと分かった時。
「……俺」
「はい」
「あの頃、ソフィーが皇女だって知って」
「はい」
「すごい人を助けたんだって思った」
「はい」
「それで……もう近づかない方がいいかもしれないって思ってた」
ソフィアの瞳が揺れる。
「そうだったのですか?」
「ああ」
「初めて聞きました」
「言ってなかったから」
「その頃から、もう?」
「うん」
平民。
孤児。
皇族。
自分とソフィアの間には、どうしようもないほど大きな差がある。
そう思う癖の根は。
ずっと前から。
ここにあった。
「でも、ソフィーは会いたいって思ってたんだな」
「ずっと」
「まだ一月だぞ」
「ずっとです」
「強いな」
「七年の始まりですから」
カイは小さく笑った。
「そっか」
もう一度、写真画の中のソフィアを見る。
「俺、この写真好きかも」
ソフィアが目を大きくする。
「どうして?」
「俺と会ったあとだから」
言葉にすると、少し恥ずかしい。
「変かな」
「いいえ」
ソフィアは写真画を見つめ、少しだけ口元を緩めた。
「私も好きです」
「何で?」
「カイと出会ったあとの私だからです」
今度はカイが止まった。
「……ずるい」
「何がです?」
「俺の言葉そのまま返すの」
「婚約者ですから」
「そこに使う?」
「はい」
二人の間へ、柔らかな笑いが広がった。
◇◇◇
最後の一枚は十二歳。
カイが近衛騎士養成課程へ入り、本格的に皇城へ出入りし始めた頃のものだった。
ソフィアは白銀宮の窓際に一人で立っている。
だが、写真を撮った相手を見ていない。
視線は窓の外。
遠く。
何かを見つめている。
「これ、何見てるの?」
カイが尋ねる。
ソフィアが黙る。
「ソフィー?」
「……訓練場です」
「え?」
カイは写真画を見直した。
窓の向きから考えても、確かに第四近衛騎士団の訓練場がある方向だ。
「当時、カイはまだ候補生でした」
「じゃあ」
「訓練場へ出ていたカイを見ていました」
「……」
カイの言葉が止まった。
「こちらは私が撮影いたしました」
エマが横から静かに補足する。
「エマさん?」
「姫様が毎日ほぼ同じ時間に窓辺へ立たれるので」
「毎日?」
カイがソフィアを見る。
ソフィアの顔は、もう完全に赤くなっていた。
「毎日ではありません」
「ほぼ毎日でございました」
「エマ!」
「七年」
「カイまで!」
いつもなら笑ってしまうところだった。
だが。
今は少し。
笑えなかった。
胸が苦しくなるような。
それでいて。
温かい。
自分は知らなかった。
養成課程へ入ったばかりの頃、毎日必死だった。
平民が皇城の騎士になるなど無理だと言う者もいた。
何度負けても、もっと強くならなければと木剣を握った。
周囲を見る余裕などなかった。
その上。
白銀宮の窓。
そこから。
ソフィアは自分を見ていた。
「……本当に」
「何です?」
「見てたんだな」
「はい」
「ずっと」
「はい」
ソフィアは恥ずかしそうにしながらも、今度は目を逸らさなかった。
「カイが訓練場へ出る日は、できるだけ見ていました」
「何で」
「好きだったからです」
迷いのない答えだった。
「まだ十一とか十二だろ」
「好きでした」
「強いな」
「今もです」
「もっと強い」
カイが笑う。
ソフィアも少し笑った。
「私はこの頃から、カイが騎士になるのを楽しみにしていました」
「俺は毎日怖かったけどな」
「怖かった?」
「ああ。養成課程から落とされたらどうしようって。平民だから無理だって言われた時、本当にそうかもしれないって思う日もあった」
「知りませんでした」
「言わなかったから」
「でも」
ソフィアは写真画からカイ本人へ視線を移した。
「なりました」
「うん」
「近衛騎士に」
「うん」
「そして」
そこで少しだけ頬を赤くする。
「私の婚約者にも」
「そこまで予想してた?」
「はい」
「嘘だろ」
「希望していました」
「それ予想って言わないからな」
ようやく二人は声を上げて笑った。
◇◇◇
五枚の写真画が卓上へ並ぶ。
五歳。
七歳。
十歳。
十一歳。
十二歳。
全部ソフィアだった。
でも。
全部。
カイが直接は知らなかったソフィアでもある。
「……すごいな」
「何がです?」
カイはすぐには答えず、順番に写真画を見ていった。
白兎のぬいぐるみを抱く少女。
兄を追いかけて転び、泣いている少女。
難しい課題へ不満そうな顔をする少女。
森から戻り、自分のことを何度も話していたという少女。
そして、窓から訓練場の自分を見つめていた少女。
「俺さ」
「はい」
「今のソフィーが好きなんだって思ってた」
「はい」
「もちろん今もそうなんだけど」
少し照れながら、写真画へ指先を近づける。
「ここにいるソフィーも、全部ソフィーなんだな」
ソフィアは黙って聞いていた。
「泣いたり、怒ったり、兄上殿下追いかけたり、勉強嫌がったり……俺のこと見てたり」
「最後だけ少し恥ずかしいです」
「でも、それも含めて」
カイは小さく笑った。
「何か、もっと好きになったかも」
ソフィアが完全に止まった。
少し離れていたエマまで、茶器へ伸ばしかけた手を一瞬だけ止める。
「……カイ」
「何?」
「今、何と?」
「もっと好きになった」
「……」
「聞こえたんだろ?」
「聞こえました」
「じゃあ何で聞くの」
「確認です」
「何回確認する?」
「何度でも」
「またそれ」
ソフィアの瞳がみるみる潤んでいく。
「泣く?」
「泣きます」
「写真を見せてもらっただけなのに?」
「カイが悪いです」
「また俺か」
「はい」
カイは困ったように笑いながらも、止めなかった。
エマがいる。
以前なら、人前でこんなことは絶対にしなかった。
それでも今は、卓の下で手を伸ばし、ソフィアの左手をそっと取る。
「ありがとう」
「何がです?」
「見せてくれて」
「……はい」
「俺も、知らないソフィーが増えた」
一粒だけ、ソフィアの頬を涙が伝った。
「私も昨日」
「うん」
「同じ気持ちでした」
「じゃあ、お互い様だな」
カイが少しだけ手へ力を込める。
ソフィアも同じように握り返した。
「はい」
◇◇◇
昼食後、本来ならそのまま婚姻準備について話す予定だった。
しかし小会議室へ移動した直後、皇帝執務室を通じて帝室法務局から新しい連絡が届いた。
内容は。
灰鷲商会について。
「もう分かったんですか?」
法務官から渡された書面を見ながら、カイは眉を上げた。
「昨日の今日ですよ」
「商会の存続確認だけであれば、それほど時間は要しませんでした」
「今もある?」
「はい」
法務官は手元の資料へ視線を落とした。
「灰鷲商会は現在も存続しております。帝都東部から北東部を中心に複数の街道で運送業を営んでおり、規模としては中堅にあたります」
ソフィアも隣で姿勢を正す。
「創業時期は?」
「六十年以上前です」
「じゃあ、父さんが働いてた頃も同じ商会なんだ」
「その可能性は非常に高いです」
カイの呼吸が少しだけ浅くなる。
「記録は?」
「現在照会中です」
法務官は期待させすぎないよう、慎重に言葉を選んだ。
「ただし、二十年以上前の臨時雇用者や商隊補助員の記録まで保存されているかどうかは、まだ確認できておりません」
「そっか」
少しだけ胸が落ちる。
しかし。
以前ほどではない。
「正式な照会を出しておりますので、返答があり次第お知らせいたします」
「お願いします」
「また、青灰色の石の印についても簡易的な照会を始めております」
「そっちも?」
「はい。ただ、現時点では類似する印が多数あり、特定には至っておりません」
「それでいいです」
カイはすぐ答えた。
「急がなくて」
横からソフィアが顔を見る。
「カイ」
「何?」
「大丈夫ですか?」
「うん」
一度だけ息を吐く。
父に関する話になると、やはり胸は少し重くなる。
でも。
「昨日より待てる」
「待てる?」
「ああ」
「どうして?」
「昨日、全部すぐ分からなくてもいいって思えたから」
一枚の帳簿。
一つの名前。
一つの石。
それだけでも十分に大きかった。
「一個ずつでいい」
カイは少し笑った。
「それに今日はソフィーの五歳の写真見たし」
「カイ!」
小会議室の空気が一瞬止まる。
法務官が目を瞬き、エマがそっと横を向いた。
「何です?」
「どうして今その話をするのですか!」
「少し空気が重くなったから」
「だからといって!」
「白雪」
「カイ!」
「白兎の」
「分かっています!」
ソフィアの顔が一気に赤くなる。
法務官が咳払いをしながら必死に表情を整えていた。
やがてカイが笑い。
ソフィアも、堪えきれず少し笑った。
重くなった空気がほんの少し緩む。
「では」
法務官もようやく平静を取り戻し、書面を閉じた。
「灰鷲商会から正式な返答があり次第、ご報告いたします」
「お願いします」
「よろしくお願いいたします」
今度はカイとソフィアが揃って頭を下げた。
◇◇◇
午後は、昨日一部延期された婚姻準備の確認へ移った。
白銀宮礼拝堂を婚姻式会場の第一候補として皇帝へ正式に申請すること。
参列者数をどの範囲まで広げるか。
国外大使については礼拝堂ではなく、その後の祝賀会で正式に応対する案。
家名候補については、セレス、レイヴェル、アステリオの三案をいったん維持し、数日以内に二人で希望順位を決めること。
カイも何とか話についていっていた。
だが。
次の議題が出た瞬間。
さすがに止まった。
「続いて、婚姻後のお二人の居住場所についてです」
「居住?」
法務官を見る。
「どこに住むかってこと?」
「はい」
カイはすぐ隣のソフィアへ顔を向けた。
「白銀宮じゃないの?」
「白銀宮も候補です」
「候補?」
「はい。まだ正式には決まっていません」
「そうなの?」
「婚姻に合わせて新しい宮を用意する案も出ています」
「新しい……家?」
「宮です」
「大きい?」
法務官が少し考える。
「一般の家屋と比較すれば、かなり」
「怖いな」
ソフィアが小さく笑った。
「カイ、今日決めなくても大丈夫ですよ」
「でも婚姻式まで二月しか」
途中まで言って。
自分で止まる。
会議室の何人かが、すでに笑いを堪えていた。
「……ない?」
カイが自分で最後まで言うと、とうとう小さな笑いが起こった。
「皆に言われすぎて完全に移った」
「良いことです」
「良いのかな」
「居住地については、婚姻後に改めて調整することも可能です」
法務官が説明を続ける。
「ただし、警護計画上、仮の生活拠点は事前に決めておく必要があります」
「やっぱり決めるんだ」
手元の資料を見る。
白銀宮を引き続き主な居住場所とする案。
皇族居住区内にある別宮を改修する案。
新たに二人用の宮を整備する案。
まだ詳しい説明はないが、候補だけでも十分に大きな話だった。
「ソフィー」
「はい」
「どこがいい?」
ソフィアは少し考えたあと、素直に答えた。
「カイと一緒なら、私はどこでも」
「それは答えになってない」
「本当です」
「嬉しいけど」
カイは少しだけ照れ、それでも資料へ視線を戻した。
「ちゃんと二人で選ぼう」
ソフィアの空色の瞳が柔らかくなる。
「はい」
「二人の家なんだろ?」
言ってから。
カイ自身の胸も少し鳴った。
ソフィアは一瞬だけ息を止め。
それから静かに頷く。
「……はい」
「じゃあ、全部一緒に見る」
「また視察ですね」
「また?」
「おそらく」
「忙しいな」
「婚姻式まで」
「二月しかない」
今度は二人の声がぴたりと重なった。
少しの沈黙。
そして。
二人とも同時に吹き出した。
◇◇◇
夕方、長い会議が終わったあと。
カイとソフィアは白銀宮の中庭へ出た。
西へ傾き始めた春の陽が噴水の水面へ差し込み、揺れる水を淡い金色に染めている。昼間より少しだけ冷たくなった風が花壇を撫で、青や白の小さな花が静かに揺れていた。
二人は噴水を望む長椅子へ並んで腰掛けた。
朝から、本当に色々あった。
ソフィアの幼少期の写真。
灰鷲商会。
青灰色の石の調査。
婚姻式の会場。
家名。
そして、婚姻後に二人が暮らす場所。
「……増えすぎだな」
カイがぽつりと呟く。
「何がです?」
「知ることも、決めることも」
「はい」
「未来も」
ソフィアが横顔を見る。
「多いですね」
「嫌ですか?」
カイはすぐには答えなかった。
少し前なら。
きっと。
多すぎる。
怖い。
逃げたい。
そんな感情が先に来ていた。
「大変」
「はい」
「でも、嫌じゃない」
ソフィアの表情が柔らかくなる。
「むしろさ」
カイは膝の上で両手を組み、少し照れながら続けた。
「今日、昔のソフィーを見ただろ」
「はい」
「それで何となく思った」
「何をです?」
「結婚って、今のソフィーとだけするんじゃないんだなって」
ソフィアが少し目を見開いた。
「どういう意味でしょう」
「昔のソフィーも」
カイは一度、言葉を選ぶ。
「これから変わっていくソフィーも」
声が少し低くなる。
「全部含めて、一緒にいるってことなんだろ」
ソフィアの瞳が一気に潤んだ。
「カイ」
「何?」
「今日は本当に駄目です」
「何が」
「言うことが」
「普通だろ」
「普通ではありません」
カイは困ったように笑う。
「だったら、俺も同じかな」
「何がです?」
「父さんと母さんのこと」
「はい」
「孤児院のこと」
「はい」
「自分でも忘れてた昔のことを、ソフィーが知ろうとしてくれてる」
「はい」
カイは一度だけ息を吐いた。
「俺、それが嬉しい」
ソフィアの頬を一粒の涙が伝った。
「泣く?」
「もう無理です」
「今日一回目?」
「一回目です」
「少ないな」
「昼間は耐えました」
「偉い」
「子供扱いしています?」
「五歳の写真見たから」
「カイ!」
二人とも笑う。
ソフィアが指先で涙を拭ったあと、少し恥ずかしそうにカイを見た。
「カイ」
「何?」
「今日、もっと好きになったと言いましたよね」
「……言った」
「本当ですか?」
カイは少しだけ照れた。
でも。
もう逃げない。
「本当」
「どのくらい?」
「量るの?」
「知りたいです」
「難しいな」
少し考える。
それから。
「昨日より」
「はい」
「今日の方が好き」
ソフィアが止まった。
「では、明日は?」
「それは分からない」
「そこは言い切ってくれないのですか?」
「でも」
カイは笑う。
「明日、また知らなかったソフィーを知ったら」
ソフィアがじっと待つ。
「もっと好きになるかも」
今度こそ。
しばらく言葉がなくなった。
噴水の水音。
木々を揺らす風。
遠くで白銀宮の侍女たちが行き交う足音。
その間にも、ソフィアの瞳には涙が増えていく。
「カイ」
「何?」
「抱きしめてください」
「いいよ」
今度は迷わず両腕を広げた。
ソフィアがすぐに寄ってくる。
カイはその身体を受け止め、背中へ腕を回した。
温かい。
今、腕の中にいるソフィア。
五歳のソフィア。
七歳のソフィア。
十歳のソフィア。
森で出会った十一歳のソフィア。
窓から自分を見ていた十二歳のソフィア。
全部。
同じ人の続きなのだ。
「ソフィー」
「はい」
「白雪」
「それは忘れてください」
「無理」
「カイ」
「一生覚える」
「それは私が使う言葉です!」
「仕返し」
「やっぱり仕返しではありませんか!」
胸の中で、ソフィアが笑った。
カイもその頭へ頬を少し寄せ、同じように笑った。
◇◇◇
その夜。
騎士団宿舎へ戻ったカイは、机の上へ二つのものを並べていた。
一つは、昨日聖ラウラ孤児院から持ち帰った青灰色の石。
もう一つは、今日ソフィアから許可をもらって写しを作った一枚の写真画。
十一歳のソフィア。
森の事件から一月後。
まだ腕に細い包帯が残っている。
それでも。
笑っている。
「……」
五歳の白雪を抱いた写真も捨てがたかった。
エマはかなり強く勧めた。
ソフィアは全力で拒否した。
その末にカイが選んだのは、この一枚だった。
「俺と会ったあと」
小さく呟く。
写真画の中にいる少女は。
この先。
自分が七年も気持ちへ気づかないことを知らない。
「この頃から、俺の話してたんだよな」
不思議だった。
同じ頃。
カイは。
ソフィアは皇女だから、もう近づいてはいけないかもしれないと思っていた。
なのに彼女は、もう一度会いたいと周囲へ話していた。
「すれ違ってたな」
今だから分かる。
七年。
全部を一度に知ることなどできない。
でも。
これから聞けばいい。
「もっと聞くから」
写真画の近くへ指を置く。
「昔のソフィーのこと」
そして。
自分の昔も。
話せるところから話せばいい。
それもきっと。
家族になるための準備なのだろう。
「……結婚」
以前なら、声に出すだけで妙な緊張があった。
今は。
「楽しみだな」
自分で言って。
少し笑う。
それから視線を、青灰色の石へ移した。
「父さん」
少し間を置く。
「母さん」
今日。
ソフィアの知らなかった昔を見た。
だからこそ。
自分もまた。
父と母のことをもっと知りたいと思えた。
「俺も、もっと知りたい」
灰鷲商会からの返答はまだ先になる。
石の印も分からない。
それでいい。
「急がなくていいけど」
石をそっと手の中へ包み込む。
「分かったら、また教えてくれ」
返事はない。
当然だ。
でも。
それでいい。
最後に右手首の空雫石へ触れる。
「おやすみ、ソフィー」
写真画へ目を向け。
少し照れながら。
「今日は、昔のソフィーのことも好きになった」
灯りを消す前。
写真の中の少女が。
少しだけ嬉しそうに笑ったような気がした。
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮では、ソフィアが寝台の端へ腰掛け、今日カイへ渡した写真画の原本を見つめていた。
十一歳。
森から戻って一月。
身体の傷は治り始めていた。
けれど夜になると、追われていた時の夢を見ることもあった。
そんな時。
森の中で手を取ってくれた黒髪の少年を思い出すと、少しだけ眠るのが怖くなくなった。
あの頃の自分。
「……」
写真画の中では笑っている。
「カイ」
今日の言葉を思い出す。
『もっと好きになったかも』
胸が、また強く鳴った。
「ずるいです」
小さく呟く。
近くで夜の支度を整えていたエマが、すぐに反応する。
「姫様」
「何です?」
「本日、何度目です?」
「何がです?」
「『もっと好きになった』というカイ様のお言葉を思い出されるのは」
「……数えていたのですか?」
「七回ほど」
「そんなに?」
「少なくとも」
ソフィアの頬が熱くなる。
「だって」
「はい」
「カイが」
写真画を胸の近くへ寄せる。
「私の昔を見て」
「はい」
「もっと好きになったと」
「はい」
「……」
エマは少しだけ笑った。
「嬉しい?」
「とても」
迷わず答える。
「では」
「何です?」
「幼少期の写真画を、さらにお見せしてはいかがでしょう」
「駄目です!」
「三歳頃のものなど」
「絶対に駄目です!」
「二歳で初めてお一人で歩かれた時のものもございます」
「エマ!」
「カイ様は大変喜ばれるかと」
「だから駄目なのです!」
ソフィアは真っ赤になった。
けれど。
最後には自分でも笑ってしまう。
しばらくして。
笑いが落ち着いたあと。
ソフィアは窓の外の夜空へ目を向けた。
「エマ」
「はい」
「今日、思ったのです」
「何でしょう」
写真画の縁へ指を添える。
「私は、今のカイを好きなのだと思っていました」
「はい」
「もちろん、今もそうです」
十二歳のカイ。
聖ラウラ孤児院。
窓を三回割った少年。
両親を失い。
それでも騎士を目指した子供。
自分が知らなかったカイ。
「でも」
ソフィアは少しだけ笑った。
「知らなかったカイを知るのも、嬉しいのです」
「はい」
「これから」
一度だけ言葉を選ぶ。
これは他人の気持ちを決めつける話ではない。
自分自身の気持ちだ。
「何度も、新しいカイを知って」
夜空石の腕輪へ指を触れる。
「そのたびに、もっと好きになるのだと思います」
エマの表情が柔らかくなった。
「カイ様も、本日よく似たことをおっしゃいましたね」
「はい」
「では」
「何です?」
「やはり、お似合いでございます」
ソフィアは少し頬を赤くした。
以前なら、恥ずかしさから何か言い返したかもしれない。
今は。
「……はい」
素直に頷けた。
写真画を寝台脇の小卓へ置き、夜空石へもう一度触れる。
「おやすみなさい、カイ」
明日。
また知らなかったことが増えるかもしれない。
嬉しいことかもしれない。
怖いことかもしれない。
それでも。
「明日のカイも」
ソフィアは小さく笑った。
「もっと好きになれたら嬉しいです」
婚姻式まで、あと二月。
婚約が公表されてから四日目。
カイはこの日、自分の過去を調べるだけではなく、初めてソフィアが生きてきた「自分の知らない時間」へ触れた。
白兎のぬいぐるみを大切に抱いていた五歳の少女も、兄を追いかけて転び泣いていた七歳の少女も、難しい課題を前に今と変わらない顔で眉を寄せていた十歳の少女も、森から戻ったあと一人の少年へもう一度会いたいと願い続けていた十一歳の少女も。
そのすべてが、今のソフィアへ繋がっている。
そして十二歳の少女は、白銀宮の窓から、近衛騎士になるため必死に木剣を振るカイを見ていた。
カイは知らなかった。
自分が一人で戦っているつもりだった頃にも。
遠くから、自分を信じて見つめていた人がいた。
同じように。
ソフィアもまた、カイが両親と過ごした時間や、孤児院で笑い、泣き、騎士を夢見ていた時間を知らない。
だから二人は、これから少しずつ知っていく。
家族になるということは、目の前にいる今の相手だけを好きになることではない。
知らなかった過去も。
これから増えていく未来も。
全部を一度にではなく、一つずつ受け取っていくことなのかもしれない。
一方で、カイ自身の出自を辿る調査も静かに進んでいる。
父レンドが関わっていた灰鷲商会は、今も存在していた。
当時の記録が残っているかは、まだ分からない。
青灰色の石に刻まれた印の意味も、まだ分からない。
答えを急ぐ必要はない。
分からないものを、無理に分かったことにする必要もない。
見つかったものを一つずつ受け取り。
そのたびに少し立ち止まり。
嬉しければ笑い。
怖ければ怖いと言う。
そうして二人は、婚姻式へ向かっていく。
婚約者から。
その先の家族へ。
昨日より今日。
今日より、きっと明日。
互いを知るたびに、少しずつ好きなところを増やしながら。




