第29話 第三皇女様、俺の昔を知るために孤児院の記録庫まで一緒に来るんですか?
婚姻式まで、あと二月。
婚約が正式に公表されてから三日目の朝、第四近衛騎士団の詰所へ入ったカイは、自分の机の上に置かれている一通の封書を見つけると、上着を脱ぐより先に足を止めた。
昨日までなら、机の上に書類が置かれていること自体は珍しくなかった。巡回記録や訓練予定表、白銀宮から回ってくる婚姻準備の日程表など、ここ数日に限れば、むしろ何も置かれていない日の方が珍しいくらいである。
けれど、今日の封書には騎士団の印ではなく、帝室法務局の紋章が押されていた。
「……早くない?」
まだ封すら切っていないのに、思わず声が漏れる。
朝の詰所には、夜勤から戻った者と日勤へ入る者が混在していた。磨かれた剣を棚へ収める音や、巡回記録について短く確認し合う声が飛び交っている。その中で、向かいの机に腰掛けていたリナが、書類から顔を上げた。
「何が?」
「これ」
カイが封書を持ち上げて見せると、リナは蝋印を見ただけで「ああ」と納得したように頷いた。
「出自調査?」
「多分」
「昨日正式にお願いしたばっかりじゃなかった?」
「俺もそう思ってる」
「宮廷の人たち、仕事早いね」
「婚姻式まで二月しかないからじゃない?」
カイが半ば投げやりに返すと、リナが一瞬目を丸くしたあと、にやりと笑った。
「とうとう自分から言うようになった」
「何を」
「『二月しかない』って」
「最近、一日に十回くらい聞かされるんだよ。覚えるだろ」
「成長だね」
「それは成長に入れたくない」
苦笑しながら封を切る。中には二枚の書類が収められていた。
一枚目は、昨日正式に依頼した身元記録調査について、最初の照合が終わったという報告書だった。
そして、二枚目。
そこに書かれていた名前を目にした瞬間、カイの指先がわずかに止まった。
「……孤児院」
さっきまでの軽い声が少しだけ低くなる。
書かれていたのは、カイが幼い頃に暮らしていた孤児院の名だった。
帝都東区、聖ラウラ孤児院。
両親を亡くしたあとに保護され、騎士学校への推薦を受けるまでの数年間を過ごした場所。
今でも場所は覚えている。院長の顔も、庭の大きな木も、朝に焼けたパンを分け合ったことも覚えていた。
けれど、騎士学校へ入って以降、一度も戻っていない。
「何か残ってた?」
カイの声色が変わったのを察したのか、リナもからかう調子を少し引っ込める。
「俺が入った時の記録は残ってるらしい」
「良かったじゃん」
「うん。ただ……法務局に写しはあるけど、入所時の原本は孤児院の記録庫に保管されたままだって」
カイは文字を追いながら、ゆっくり読み上げた。
「保護された日、俺を連れてきた人の名前、それから……保護時の所持品」
「持ってた物?」
「ああ」
何を持っていたのか、カイ自身にはほとんど記憶がなかった。
両親が亡くなった前後の記憶は、ところどころが霧の中に沈んでいる。
小さな宿のような部屋。
雨音。
咳をしていた父。
横になったまま起き上がらなくなった母。
知らない大人に手を引かれ、長い道を歩いたこと。
そして気がつけば、知らない子供たちが大勢いる建物にいた。
その程度だった。
「確認、今日行くんだ?」
「え?」
リナに言われて書類の下部へ視線を移す。
本日午前、帝室法務局職員二名が聖ラウラ孤児院を訪問し、原本確認を実施予定。
本人の立ち会いは任意。
「……今日だ」
「行く?」
答えはすぐには出なかった。
行きたい。
でも、怖い。
昨日まで何度も口にした感情が、今になって急に輪郭を持ち始める。
何も分からないかもしれない。それなら、それで終わる。
けれど、知らなかった何かが見つかる可能性もある。
父や母について。
自分自身について。
カイは書類を持ったまま、少しだけ黙った。
「……行く」
やがて、自分で確かめるようにそう答える。
「せっかくなら、自分で見たい」
「姫様には?」
「まだ言ってない」
「怒るよ」
「何で?」
「一緒に見るって約束したんでしょ?」
「……」
昨日、白銀宮の中庭でソフィアから聞かれた。
両親について何か記録が見つかったら、一緒に見てもいいか、と。
カイは「いいよ」と答えた。
あの時はまだ、実際に翌日すぐ記録が出てくるなど考えてもいなかった。
「でも、ソフィーは今日も公務あるだろ」
「確認したの?」
「してない」
「じゃあ聞きなよ」
「わざわざ孤児院まで付き合わせるのも……」
「カイ」
リナの声が少しだけ真面目になる。
「そうやって勝手に遠慮するの、減らすんじゃなかった?」
きれいに刺さった。
カイは書類から顔を上げて、リナを見る。
「一緒に見たいって言ったのは姫様なんでしょ?」
「うん」
「行けるかどうかを決めるのも姫様。カイが先に『忙しいだろうからやめておこう』って決めるのは違うんじゃない?」
「……うん」
「珍しく素直」
「正論だから」
「昔は正論でも抵抗したよ」
「俺、そんな面倒だった?」
「かなり」
「嘘だろ」
「本当」
二人が小さく笑ったところで、詰所の入口からマリアが入ってきた。
カイの手にある法務局の封書を見ると、それだけで内容を察したらしい。
「届いたか」
「団長、知ってたんですか?」
「昨夜、法務局から連絡があった」
「なら先に教えてくださいよ」
「お前が今朝ここへ来るのは分かっていた」
「そういう問題です?」
マリアは特に悪びれもせず自分の机へ向かう。
「それと、姫様にも同じ連絡は入っている」
「え?」
「法務局が白銀宮へ回した」
「本人の俺より早く?」
「第三皇女殿下も関係者だからな」
「俺の出自なのに」
「皇族の婚姻に関する身元整理でもある」
「……分かるけど複雑」
カイが眉を寄せると、リナが横から口を挟んだ。
「で、姫様は?」
「同行される」
「早い」
「即答だったそうだ」
「でしょうね」
リナが当然のように頷く。
「何でお前が一番納得してるんだよ」
「七年」
「それ便利に使うのやめろ!」
近くで聞いていた騎士たちから小さな笑いが起きた。
だが、カイは言い返しながらも胸の奥が少し緩んでいることに気づいていた。
ソフィアが来る。
一緒に見たいと言って。
本当に来てくれる。
「カイ」
マリアが自分の机の前で足を止める。
「午前の訓練は外す」
「はい」
「孤児院へは私も警護で同行する」
「団長も?」
「お前と姫様が揃って城外へ出るんだ。当然だろう」
「ああ……俺も護衛対象なんでしたね」
「まだ慣れないか」
「全然」
「慣れろ」
「簡単に言いますね」
マリアは小さく息を吐き、それから声を少し落とした。
「聖ラウラ孤児院なら、私も一度行ったことがある」
「え?」
「お前が騎士候補生として推薦された時だ」
「団長が?」
「当時は副隊長だったがな」
「俺、知らないですよ」
「言っていない」
「またそれ……」
カイは思わず額を押さえた。
「俺の昔、皆俺より知ってません?」
「全部知っている者などいない」
マリアは淡々と答えたあと、一拍だけ置く。
「だから今日、見に行くんだろう」
その言葉に、カイは一瞬黙った。
知らないものを見る。
過去を掘り返す。
それはやはり怖い。
ただ、一人で行くわけではない。
「……はい」
カイは小さく頷いた。
「行ってきます」
◇◇◇
出発は一刻後に決まった。
白銀宮の正面玄関へ着くと、すでに小型の皇族用馬車が待機していた。
以前のお忍びで使った簡素な馬車とは違う。皇族紋章こそ控えめにされているが、前後には騎馬の近衛騎士がつき、周囲にも警護担当者が散っている。
カイはその光景を見た途端、少しだけ顔を引きつらせた。
「……これ、孤児院の前に止めるんですか?」
「本日はお忍びではございませんので」
横に立つエマが当然のように答える。
「分かってるけど、子供たち驚かない?」
「院長へはすでに連絡済みです」
「それはそれで緊張するな……」
「カイ」
声に振り返る。
白銀宮の玄関からソフィアが出てきた。
今日の服装は、公務用としては比較的控えめだった。淡い青灰色のドレスに薄手の外套を合わせ、華美な宝飾品は身につけていない。銀髪も後ろでまとめられており、外出しやすさを優先した装いになっていた。
「ソフィー」
「はい」
「本当に来るんだ」
「来ます」
「公務は?」
「午前の予定は兄上に一部お願いしました」
「皇太子殿下に!?」
思わず声が大きくなる。
「怒られなかった?」
「少し呆れられました」
「やっぱり」
「でも、『行ってこい』と」
ソフィアは少し嬉しそうに笑う。
「殿下、優しいな」
「兄上ですから」
「ソフィー基準?」
「はい」
「そこは否定しないんだ」
二人が少し笑う。
だが、ソフィアはすぐにカイの手にある法務局の書類へ目を向けた。
「カイ」
「何?」
「大丈夫ですか?」
何についてなのか、聞き返さなくても分かった。
今まではまだ、調べると決めただけだった。
今日は実際に見る。
父母について。
自分について。
「怖いよ」
カイは誤魔化さず答えた。
「かなり」
「はい」
「でも……」
一度だけ息を吐き、ソフィアを見る。
「来てくれてよかった」
ソフィアの空色の瞳が、静かに柔らかくなる。
「本当に?」
「ああ。一人よりいい」
「では今日は」
ソフィアはほんの少しだけ口元を緩めた。
「ずっと隣にいます」
「調査中も?」
「邪魔にならない範囲で」
「助かる」
公の玄関前には騎士も侍女もいる。
それでも、以前ほど照れだけが先に立つことはなかった。
カイは馬車へ視線を向ける。
「行こうか」
「はい」
二人は並んで乗り込んだ。
◇◇◇
皇城から聖ラウラ孤児院までは、馬車で半刻ほどだった。
帝都中央部を抜け、東区へ向かう。
婚約が公表されて三日。
街の景色そのものは以前と大きく変わらない。それでも、カイにとっては目に入るものの意味が少し違っていた。
大通り沿いの掲示板へ、皇室公報が張り出されている。
第三皇女婚約。
その下。
近衛騎士カイ。
「……ある」
窓の外を見ていたカイが、小さく呟いた。
「何がです?」
「俺の名前」
ソフィアも窓へ視線を向ける。
掲示板の前では、数人の市民が紙面を読んでいた。
昨日までは自分のことなど知らなかったかもしれない人たちが、今日、自分の名前を目にしている。
「本当に広がったんだな」
「はい」
「市場のおばちゃんにも知られるって話、現実になった」
「なりましたね」
「……恥ずかしい」
「まだ言います?」
「だって、今まで普通に城下歩いてたんだぞ。俺なんか誰も気にしてなかった」
「近衛騎士としてご存じの方はいたでしょう」
「一部だけだよ」
カイは苦笑して背もたれへ少し身体を預けた。
「今日からは第三皇女の婚約者」
「はい」
「目立つな」
「かなり」
「お忍び、本当にできる?」
ソフィアの表情が少しだけ曇る。
「以前と同じようには難しいかもしれません」
「そっか」
その答えに、カイの胸にも小さな寂しさが生まれた。
市場を歩いたこと。
川辺に座ったこと。
普通の店で腕輪を選んだこと。
あの時間は、カイが思っていた以上に大切なものになっていたらしい。
だが、昨日すでに決めている。
「またやるんだろ?」
「はい」
「じゃあいい」
カイがあっさり言うと、ソフィアの表情が明るくなる。
「絶対です」
「陛下の許可まだだけど」
「取ります」
「強いな」
「婚約者同伴ですから」
「万能の言葉みたいに使うなよ」
馬車が小さく揺れ、二人は揃って笑った。
しばらくして、窓の外の景色が変わり始める。
大きな商店が減り、小さな家や工房が増えていく。
カイの表情も、少しずつ変わった。
「……この辺」
「覚えていますか?」
「ああ」
声が自然と低くなる。
孤児院の子供たちで買い出しへ来た道。
冬の日に凍えながら歩いたこと。
雨宿りした軒先。
「あ」
カイが窓の向こうを指す。
「あのパン屋、まだある」
古びた看板には小麦の束が描かれていた。
「よく行ったのですか?」
「孤児院の朝食用のパンを買いに。売れ残ったやつ、安くしてくれてた」
「優しい方ですね」
「店主はめちゃくちゃ怖かったけど」
「怖い?」
「子供が勝手にパン触ったら、すごい怒るんだよ」
「それは怒ります」
「でも帰りに、端っこくれた」
「やっぱり優しい方では?」
「……そうかも」
カイは懐かしそうに笑った。
過去へ戻ることは怖いだけではなかった。
忘れていたものが、街の景色から一つずつ戻ってくる。
「カイ」
「何?」
「もっと聞いてもいいですか?」
「何を?」
「孤児院にいた頃のことです」
カイは一度考え、窓の外へ視線を戻した。
「今日が終わったら」
「はい」
「話す」
「本当に?」
「ああ」
以前なら、自分の昔話をわざわざ人へ聞かせたいなど思わなかった。
でも今は少し違う。
「ソフィー、知りたいんだろ?」
「はい」
「なら俺も……話してみたい」
ソフィアはすぐに返事をしなかった。
ただ、隣で嬉しそうに笑っていた。
◇◇◇
聖ラウラ孤児院は、帝都東区の外れにあった。
白い漆喰の壁と、少しくすんだ赤い屋根。中央の建物を囲むように小さな庭と畑があり、その向こうでは十人ほどの子供たちが走り回っている。
馬車が門の前へ止まると、騎馬の近衛騎士へ最初に気づいた子供が大声を上げた。
「騎士だ!」
「いっぱい来た!」
「何かあったの!?」
あっという間に庭が騒がしくなる。
先に馬から降りたマリアが眉を寄せた。
「騒ぐな。何も起きていない」
「団長、子供相手にその言い方通じます?」
「お前が言うな」
馬車の扉が開き、カイが外へ降りる。
その瞬間。
土の匂い。
洗濯物から漂う石鹸の匂い。
どこかで煮込んでいる昼食の香り。
それらが一気に胸へ入ってきた。
「……」
庭の遊具は増えている。
建物の壁も塗り直された跡がある。
昔より木々も大きくなっていた。
それでも。
ここだ。
「カイ?」
後ろからソフィアの声がする。
反射的に「大丈夫」と言いかけて、カイは少しだけ笑った。
「……懐かしい」
今の感情には、その言葉の方が合っていた。
「そうですか」
「うん」
ソフィアが馬車から降りる。
銀髪が春の光を受けた瞬間、近くにいた小さな女の子がぽつりと言った。
「……お姫様?」
ソフィアが目を瞬かせる。
カイは吹き出した。
「何で分かった?」
女の子が迷いなくソフィアを指差す。
「髪、きれいだから」
「それだけ?」
「うん」
カイはとうとう声を立てて笑った。
「ソフィー、姫様ってばれた」
「そうですね」
ソフィアも少し困ったように笑う。
そこへ、孤児院の玄関から一人の年配の女性が出てきた。
白髪が増え、背丈も昔より少し小さく見える。
けれど、その人の顔はカイの記憶に残っていた。
「……カイ?」
呼ばれた瞬間、カイの身体がわずかに固まる。
「院長先生」
聖ラウラ孤児院院長、ミレイユ。
カイが暮らしていた頃から、この孤児院を預かっていた人だった。
ミレイユはしばらくカイの顔を見つめていたが、やがて目尻を深く下げた。
「大きくなったわねえ」
何でもないような一言なのに、妙に胸へ響いた。
「……はい」
「最後に来たのは、騎士学校へ入る前でしょう?」
「多分」
「多分じゃありません。十二歳の春です」
「覚えてるんですか?」
「あなたが泣きながら出ていった日を忘れると思う?」
「泣いてない」
「泣いてました」
「……少しだけ」
「かなりです」
すぐ隣から視線を感じる。
カイが恐る恐る見ると、ソフィアが明らかに興味を持った顔をしていた。
「何?」
「後で詳しく」
「聞かなくていい」
「聞きます」
「強いな!」
ミレイユが笑いながら、そこでようやくソフィアへ意識を戻した。
「第三皇女殿下。このようなところまでお越しいただき――」
「どうか楽にしてください」
ソフィアはミレイユが深く礼を取る前に、柔らかく制した。
「今日はカイの記録を一緒に確認するために参りました」
「まあ」
ミレイユはカイとソフィアを交互に見る。
そして、しみじみと笑った。
「本当に、カイの婚約者なのですね」
カイの顔が少し熱くなる。
「一昨日から、全国的にそうです」
「三日前からです」
ソフィアがすぐ訂正する。
「そうでしたね」
ミレイユは楽しそうに笑った。
「おめでとう、カイ」
「ありがとうございます」
「あなたが皇女様とねえ……」
「先生、その先は言わなくていい」
「昔は女の子に話しかけられるだけで逃げていたのに」
「ソフィー」
「はい」
「聞かなくていいから」
「非常に大切な情報です」
「大切じゃない!」
近くにいた子供たちまで笑い出す。
マリアは顔を逸らし、エマも口元へ手を添えていた。
「皆、楽しんでません?」
「はい」
エマが即答する。
「エマさん!」
カイは頭を抱えたが。
その頃には、孤児院へ着くまで胸にあった緊張が少しだけ解けていた。
◇◇◇
記録庫は、孤児院の一番奥にあった。
普段は子供たちが入らない事務室の隣で、石造りの壁沿いへ背の高い木棚が並び、古い帳簿や封書、木箱が年代ごとに整理されている。
窓が小さいため、外の明るさに比べて室内は薄暗かった。
古紙と乾いた木の匂いが、静かな空間に滞留している。
法務局から来た文官二名はすでに到着しており、中央の机へ古い帳簿を数冊広げていた。
「カイ様」
「はい」
「入所された年の記録から該当箇所を確認できました」
その言葉に、カイの呼吸が一瞬だけ浅くなる。
横を見る。
ソフィアがいる。
少し離れた扉の近くにはマリアもいる。
「見てもいいですか?」
「もちろんです」
文官が古い帳簿を手前へ寄せた。
カイはゆっくり椅子へ腰掛ける。
開かれた頁には、年月を経て少し薄くなった文字が並んでいた。
保護児童。
カイ。
姓なし。
推定年齢七歳。
「……七歳」
数字を目にすると、記憶の中の自分が少しだけ具体的になった。
「保護者欄はこちらです」
文官が指した先には、見覚えのない名前が書かれていた。
ハロルド・メイル。
東街道巡回員。
「……知らない」
カイが小さく呟く。
後ろに立つミレイユが声をかけた。
「あなたを孤児院まで連れてきた方です」
「先生は覚えてるんですか?」
「少しだけ。あなたを保護した街道巡回員でした」
カイは目を閉じる。
知らない男に手を引かれていた記憶。
大きな手。
低い声。
顔は思い出せない。
「この人が……」
「東部街道沿いの宿場で、あなたを保護したそうです」
「宿場?」
カイが顔を上げる。
「俺、帝都の近くにいたんじゃないんですか?」
「違います」
ミレイユは穏やかに首を横へ振った。
「帝都から東へ、馬車で二日ほどの宿場です」
初めて知る事実だった。
カイは思わず帳簿を見直す。
「父と母は?」
声が少し低くなる。
「その宿場の近くで亡くなられたと聞いています」
雨。
狭い部屋。
咳。
眠っていた母。
記憶の断片が一瞬だけ胸の奥へ浮かぶ。
「こちらに、ご両親についての記載もございます」
文官が別の行へ指を移す。
カイはゆっくりそこを見る。
父。
レンド。
母。
ミア。
「……」
知っている名前だった。
当然だ。
幼い頃、何度も呼んだ。
けれど。
紙に書かれたその二つの名前を見るのは、まるで初めて二人が本当にこの世界にいた証拠を見せられたようだった。
「父、レンド」
「はい」
「母、ミア」
「はい」
カイの指が、文字の少し手前で止まる。
触れることはしなかった。
「職業についても記録があります」
文官が続ける。
「父親のレンド氏は、荷運びと旅商人の補助。母親のミア氏は、衣類の補修や裁縫を行っていたとあります」
カイの口元がほんの少し動いた。
「母さん……縫い物してた」
ソフィアが横から静かに尋ねる。
「覚えているのですか?」
「うん」
声が少し震えた。
「俺、よく服破いてたから。膝とか肘とか」
薄い記憶が、少しずつ色を取り戻す。
「母さん、怒りながら縫ってた。『またなの?』って。でも次の日には直ってた」
小さく笑ったあと、カイは父の記載へ目を移した。
「父さんも、よく大きい荷物背負ってた」
それが何だったのかは知らなかった。
ただ、仕事から戻った父が肩を叩いていた姿は覚えている。
「記録と同じだ」
カイの声に、安堵とも寂しさともつかないものが混じる。
ソフィアは何も急いで言わなかった。
ただ隣にいる。
それが、今はありがたかった。
「続き」
カイは一度息を整える。
「見たいです」
「はい」
文官が次の項目へ進む。
保護時所持品。
衣類一組。
小型の布袋。
木製の笛。
青灰色の石、一個。
「……石?」
カイが眉を寄せた。
「現在も保管されている可能性があります」
「孤児院に?」
ミレイユが少し考えてから頷いた。
「個人保管箱が残っているかもしれません」
「俺、騎士学校へ行く時に全部持っていかなかったんですか?」
「木の笛は持っていきましたね」
「あ……」
思い出した。
古い木の笛。
騎士学校へ入ったあともしばらく持っていた。
けれど数年後、落として割ってしまった。
「石は?」
「あなたが『何か分からないからいらない』と言ったのです」
「俺が?」
「ええ」
その時の自分の気持ちは、もう覚えていない。
何か分からないものが怖かったのか。
それとも本当にただ興味がなかったのか。
「見ますか?」
ミレイユに聞かれ、カイはしばらく黙った。
ソフィアは答えを急かさない。
「……見たい」
今は。
そう思えた。
「お願いします」
◇◇◇
ミレイユが記録庫のさらに奥から持ってきたのは、手のひらより少し大きい程度の古い木箱だった。
蓋には細かな傷があり、側面には入所記録と同じ番号が小さく記されている。
「これが?」
「あなたの保管箱です」
ミレイユが机へ置く。
「開けてもいいですか?」
「もちろん。あなたの物ですから」
カイは両手で箱へ触れた。
乾いた木の感触。
驚くほど軽い。
何年もここに置かれていたものなのに、自分自身にはほとんど記憶がない。
ゆっくり蓋を開く。
中には古い布が一枚敷かれていた。
その中央。
小さな青灰色の石が置かれている。
「……」
宝石ではない。
磨かれてもいない。
川原で拾った石のような、平たい形。
ただ、片面にだけ浅い線が刻まれていた。
「知らない」
カイは少し息を吐く。
「本当に、覚えてない」
ソフィアも少し身を寄せて覗き込むが、勝手に触れようとはしなかった。
「何か彫られていますね」
「文字かな」
法務局の文官が眼鏡を直し、慎重に確認する。
「文字とは少し異なるようです。印章というほど整ってもいませんが、何らかの記号である可能性はあります」
カイは石を手に取った。
冷たい。
それなのに、少しだけ手へ馴染む気がした。
「父さんか母さんの?」
「可能性はあります」
「調べられます?」
「照会は可能です。ただ、商人の識別印、宿場の記号、個人的な印、あるいは単なる装飾など、様々な可能性がございます」
「分かりました」
カイは石を見つめた。
ここで都合のいい答えが出てくるわけではない。
突然、実は高貴な血筋だったと分かるわけでもない。
そんな期待をする必要もない。
「お願いします」
「承知いたしました」
しばらくして、ソフィアが静かに尋ねる。
「カイ」
「何?」
「その石、持って帰りますか?」
「……」
七歳の自分は要らないと言った。
何か分からなかったから。
でも。
今は。
「持って帰る」
カイは小さく笑う。
「今なら」
ソフィアの目が柔らかくなる。
「はい」
「増えてもいい」
その意味を、ソフィアはすぐ理解したらしい。
「そうですね」
カイは石をもう一度箱へ戻す。
「俺の昔が、一個増えた」
胸の奥は少し痛かった。
でも。
悪い痛みではなかった。
◇◇◇
記録の確認は、そのあとも一刻ほど続いた。
カイが保護された場所は、東街道沿いにあるミュール宿という宿場だった。
当時、その周辺では流行病が発生しており、カイの両親もそれによって亡くなった可能性が高いという。
父母の出生地については記載がなかった。
ただし。
「こちらです」
法務官が別の記録へ指を置く。
「お父上が同行していた商隊について、名称があります」
「商隊?」
「灰鷲商会」
カイに覚えはない。
「今もあるんですか?」
「現存するかどうかも含め、確認いたします」
「もし残ってたら……父さんの記録も?」
「当時の雇用帳簿や商隊名簿を保管していれば、何か分かる可能性があります」
「そこまで調べます?」
文官は即答せず、カイへ判断を返した。
「カイ様がお望みであれば」
ソフィアは何も言わない。
一緒に見たいとは言った。
でも。
どこまで見るのかはカイが決めることだと分かっている。
少し前なら。
ここでやめたかもしれない。
怖いものを、わざわざ掘り返す必要はない。
そう思ったかもしれない。
けれど。
「お願いします」
自分の口から、答えが出た。
「父と母が」
少しだけ言葉が詰まる。
「どう生きてたのか、分かるなら知りたいです」
「承知いたしました」
すべてが今日分かるわけではない。
むしろ、そのことに少し安心した。
一度に大量の過去を渡されたら、たぶん気持ちが追いつかない。
「本日の確認は、このあたりまでにいたしましょう」
文官が帳簿を閉じる。
古い紙が重なる音が、静かな記録庫へ小さく響いた。
「……はい」
カイは長く息を吐いた。
剣を振るのとは違う疲れだった。
身体はほとんど動かしていないのに、肩が重い。
「カイ」
ソフィアが隣から声をかける。
「少し外へ出ますか?」
「うん」
「庭を歩きましょう」
カイはミレイユを見る。
「先生、庭行ってもいい?」
「もちろん」
ミレイユは優しく笑った。
「あなたの家だった場所でしょう」
その一言に。
また、胸が少しだけ詰まった。
「……うん」
◇◇◇
庭へ出ると、子供たちは昼食後の自由時間に入っていた。
午前より人数が増え、ボールを追いかける者、地面へ絵を描く者、木の枝を剣代わりにして遊ぶ者がいる。
その木の枝が、勢いよく横へ振られた。
「危ない!」
カイの声が反射的に飛ぶ。
枝を振っていた少年がぴたりと止まった。
「周り見て振れ! 剣でも棒でも同じだ!」
「はい!」
素直に返事をされ、カイ自身が少し笑った。
「昔」
いつの間にか後ろへ来ていたミレイユが口を開く。
「あなたも同じことをしていました」
「俺?」
「毎日、木の枝を振り回していましたよ」
ソフィアがすぐに興味を示す。
「本当ですか?」
「ええ。それで窓を三回割りました」
「三回!?」
「二回だろ!」
「三回です」
「俺、覚えてない」
「都合の悪いことだけ忘れましたね」
「先生!」
ソフィアが口元を押さえて笑う。
「カイ」
「何?」
「後で詳しく」
「これ以上何を聞くんだよ!」
近くの子供たちまで笑い始めた。
重かった記録庫の空気が、少しずつ遠ざかっていく。
その時、午前にソフィアを「お姫様」と呼んだ女の子が近づいてきた。
「お姫様」
「はい」
「このお兄ちゃんと結婚するの?」
カイが固まる。
ソフィアは少しだけ頬を赤くしたが、逃げずに答えた。
「はい。そうです」
「何で?」
直球だった。
カイは嫌な予感を覚える。
ソフィアがこちらを見る。
そして、少し笑った。
「好きだからです」
「ソフィー!」
「何です?」
「子供相手に普通に言う?」
「嘘をつく理由がありますか?」
「ないけど!」
今度は女の子がカイを見る。
「お兄ちゃんも?」
「俺?」
「お姫様好き?」
周りの子供たちまで集まり始める。
「好き?」
「結婚するの?」
「好きなの?」
完全に逃げ道がなくなった。
ソフィアは隣で楽しそうに待っている。
少し遠くに立つマリアまでこちらを見ている。
エマは明らかに笑いを堪えていた。
「……好きだよ」
カイが観念して答えると。
「おおー!」
なぜか子供たちから歓声が上がった。
「何でその反応!」
カイ自身も笑ってしまう。
「昔」
またミレイユが口を挟む。
「女の子に話しかけられただけで逃げていた子が」
「先生!」
「成長しましたね」
「そこ感動するとこじゃない!」
ソフィアが声を立てて笑った。
◇◇◇
庭の奥には、一本の大きな木が立っていた。
カイが足を止める。
「……まだある」
昔より幹は太くなっている。
枝も大きく広がり、地面へ落とす木陰もずっと広かった。
「この木?」
ソフィアが尋ねる。
「ああ」
「登った?」
「何で分かる?」
「顔です」
「顔?」
「懐かしいものを見る顔をしています」
カイは少しだけ笑った。
「ここ、よく登った」
「怒られました?」
「めちゃくちゃ」
少し遠くからミレイユの声が飛ぶ。
「一度落ちました!」
「先生!」
途端にソフィアの顔が変わった。
「落ちたのですか?」
「昔だって!」
「怪我は?」
「擦り傷だけ!」
「本当に?」
「何年前の心配してるんだよ!」
「カイが落ちたのですから心配です」
「強いな……」
呆れながらも、カイの声には笑いが混じっていた。
木の根元へ腰を下ろす。
ソフィアも隣へ座った。
少し離れた場所ではマリアが警護に立ち、子供たちの声が庭の向こうから聞こえている。
風が枝葉を揺らす。
葉が擦れる音が、頭の上で絶えず続いていた。
「カイ」
「何?」
「今日、どうでした?」
難しい問いだった。
カイはすぐには答えない。
父。
レンド。
母。
ミア。
知らなかった宿場。
灰鷲商会。
そして。
青灰色の石。
一日で、いくつも増えた。
「……嬉しかった」
カイの答えに、ソフィアが少し目を見開く。
「悲しいのもあるけど」
「はい」
「もっと覚えてたらなって思う」
「はい」
カイは大きな木を見上げた。
「でも、父さんと母さんが」
少し言葉を探す。
「ちゃんといたんだなって」
「……」
「変な言い方だけど」
カイは小さく笑った。
「俺の記憶だけじゃなくて、紙に名前が残ってた」
レンド。
ミア。
「母さんが縫い物してたのも。父さんが荷物運んでたのも」
自分が覚えていた断片が、間違いではなかった。
「それが」
胸の奥が少し熱くなる。
「嬉しかった」
ソフィアの瞳が潤みかける。
「カイ」
「うん」
「お父様とお母様は、きっと――」
そこまで言って、ソフィアが止まった。
カイが横を見る。
「何?」
「……勝手に『きっと喜んでいます』と言おうとしました」
「うん」
「でも、私はまだお二人のことを知りません」
カイは黙って聞いた。
その言い直しが。
とてもソフィアらしいと思った。
「だから」
ソフィアは膝の上で指を重ねる。
「知れることがあるなら、一緒に知りたいです」
「……うん」
「カイが嬉しい時は、一緒に喜びたいです」
「うん」
「悲しい時は」
少し間を置き。
「隣にいたいです」
カイの胸に、静かに言葉が落ちた。
「ソフィー」
「はい」
「来てくれてよかった」
今日、二度目。
でも。
今度はさっきより強く思った。
「俺、一人だったら」
「はい」
「途中で帳簿閉じてたかも」
「怖くて?」
「怖くて」
情けない。
そう思う気持ちは、以前ならあったかもしれない。
今は違う。
怖くてもいい。
それでも読めた。
「だから」
カイは少しだけ手を伸ばす。
子供たちは離れた場所にいる。
マリアたちも必要以上には近づかない。
ソフィアの指先へ、軽く触れた。
「ありがとう」
ソフィアも、重ねるように指を触れさせた。
「はい」
それだけで十分だった。
◇◇◇
孤児院を出る前。
ミレイユがカイを呼び止めた。
「そうだ。まだ渡したい物があるの」
「まだ?」
「昔のあなたの物よ」
差し出されたのは、紙に包まれた薄い板状のものだった。
「何これ?」
「写真画です」
「写真画?」
魔導具によって一瞬の姿を紙へ定着させる写真画は、今でも決して安価なものではない。
まして孤児院にいた頃なら、ほとんど縁がなかった。
「寄付者の方が、騎士学校へ推薦された子供たちを記念に残してくださったことがあったのです」
カイが包みを開く。
古い厚紙。
そこに十二歳頃の自分がいた。
今より髪が短く、服は少し大きい。
周囲には同年代の子供たちと、今より若いミレイユ。
中央のカイは。
ひどく緊張した顔で立っていた。
「……」
横からソフィアが覗く。
「カイ」
「何?」
「可愛いです」
「やめろ」
「とても」
「二回言うな」
「持ち帰りたいです」
「俺のだぞ!」
「一緒に見ます」
「それなら……まあ」
少し考えたあと。
「いい」
ミレイユはそんな二人を見て、嬉しそうに笑った。
「皇女殿下」
「はい」
「カイをよろしくお願いします」
カイの動きが止まる。
よくある言葉かもしれない。
けれど。
自分を育てた人から、これから家族になる人へ向けられた言葉だと思うと、胸に重みがあった。
ソフィアもすぐに姿勢を正した。
「はい」
そして、まっすぐ答える。
「大切にします」
「ソフィー」
「何です?」
「俺、物じゃないから」
「知っています」
ミレイユが笑う。
「カイも殿下を大切にするのよ」
「分かってます」
「本当に?」
「一生かけて――」
言いかけて、カイが止まる。
だが遅かった。
ソフィアがすぐ拾う。
「言いました」
「そこ拾う!?」
「一生かけて、私の隣に立つと」
「先生の前で言わなくていい!」
ミレイユはさらに楽しそうに笑った。
「なら安心ね」
「先生まで!」
門の近くには子供たちが集まっていた。
「また来て!」
「お姫様も!」
「剣教えて!」
「それは団長に許可取って!」
「カイ」
離れた場所からマリアの声が飛ぶ。
「許可しない」
「ですよね!」
笑い声の中で、カイは門を出た。
そして。
馬車へ乗る前に、一度だけ振り返る。
聖ラウラ孤児院。
両親を失ったあとの自分が暮らした場所。
昔は、そこから出ることしか考えていなかったかもしれない。
今は。
「……また来よう」
自然に言えた。
ソフィアが隣で頷く。
「はい」
「今度は、公務じゃなく」
「お忍び?」
「ここでお忍び必要?」
「今のカイなら必要かもしれません」
「ああ……そうだった」
「でも、来ましょう」
「うん」
もう一度だけ建物を見る。
帰る場所は。
なくなったわけではなかった。
◇◇◇
帰りの馬車で、カイは膝の上へ小さな木箱を置いていた。
青灰色の石。
まだ意味は分からない。
父や母が持たせたものかどうかも分からない。
「ソフィー」
「はい」
「これ、何だと思う?」
「分かりません」
「即答」
「分からないものを分かるとは言えません」
「それもそうか」
ソフィアは箱へ視線を落とす。
「でも」
「うん」
「カイが七歳の時に持っていた物です」
「それだけ?」
「それだけでも十分ではありませんか?」
カイは少し考えた。
意味のある印かもしれない。
ただの石かもしれない。
でも。
どちらでも。
「……そっか」
「はい」
「それだけでも、俺の昔の物なんだな」
「そうです」
カイは木箱を軽く撫でる。
「それなら、いいな」
「はい」
そこでソフィアの視線が、カイの隣に置かれた写真画へ移った。
「それから」
「何」
「十二歳のカイ」
「見なくていい」
「可愛いです」
「まだ言うの!?」
「髪も短くて」
「騎士学校入るから切ったんだよ」
「服が少し大きいです」
「成長するからって大きめにされた」
「緊張していますね」
「写真画なんか初めてだったんだよ!」
カイが取り返そうと手を伸ばすと、ソフィアは少しだけ写真画を胸元へ寄せた。
「一枚だけ写しをいただいても?」
「何に使うんだよ!」
「大切にします」
「怖い!」
向かいに座るエマが静かに口元を緩める。
「エマさん」
「何でしょう」
「勝手に複製しないでくださいね」
「すでに姫様よりご相談を」
「ソフィー!」
「一枚だけです!」
「何でそんなに欲しいんだよ!」
「私が知らなかったカイだからです」
その返事に。
カイの動きが止まる。
少しだけ。
胸が温かくなった。
「……じゃあ」
「はい?」
「俺も見たい」
「何を?」
「ソフィーの子供の頃」
今度はソフィアが固まる番だった。
「え?」
「俺だけ昔の写真見られるの不公平だろ」
「それは……」
「七年前より前のソフィー」
カイは少し笑う。
「俺も知らないから」
ソフィアの頬がみるみる赤くなった。
「見たい」
「……」
「駄目?」
「駄目では……ありません」
「じゃあ今度」
「恥ずかしいです」
「俺も恥ずかしい」
「なら見ないという選択は?」
「でも見たい」
「強い」
「婚約者だから?」
「私の言葉です!」
今度はエマまで小さく笑った。
行きの馬車にあった重さは、もうほとんど残っていなかった。
◇◇◇
白銀宮へ戻った頃には、外はすっかり夕方になっていた。
本来なら午後に予定されていた婚姻準備の一部は、孤児院での確認が長引いたため翌日へ回されている。
私室の卓上には、持ち帰った木箱と写真画が並べられた。
カイは椅子へ深く座り、白花茶の香りを吸い込みながら長く息を吐く。
「予定、ずれたな」
「はい」
「宮廷の人に怒られない?」
「誰が怒るのです?」
「予定組んだ人」
「お父様が許可されています」
「陛下が?」
カイは目を丸くする。
「今日は出自調査を優先してよいと、今朝連絡がありました」
「……また俺だけ知らなかった」
「伝えようとは思っていました」
「陛下」
カイの表情が少し柔らかくなる。
「優しいな」
「お父様ですから」
「ソフィー基準?」
「はい」
二人が笑う。
そこへエマが新しい茶を置いた。
「姫様、本日はこのあとの正式予定はございません」
「ありがとう、エマ」
「カイ様も、マリア様より本日は騎士団へ戻らず直帰でよいとのことです」
「団長まで」
「どうぞごゆっくり」
エマが退出し、扉が静かに閉じる。
カイは少しだけ扉を見る。
「……皆、俺に優しくない?」
「今さらですか?」
「今さら?」
「ずっとです」
「そう?」
ソフィアは自分の茶器へ指を添えた。
「カイが受け取るのが下手だっただけです」
その言葉に。
少し思い当たる。
自分が誰かを守ることばかり考えていた。
助けられても。
心配されても。
申し訳ないと思う方が先だった。
「……そっか」
「はい」
「今日は」
「何を?」
「色々受け取った気がする」
院長から。
記録から。
マリアから。
皇帝から。
そして。
ソフィアから。
「良かったです」
ソフィアが柔らかく笑う。
「それで」
「何?」
「写真画を」
「嫌な予感」
「もう一度見せてください」
「さっき見ただろ」
「ゆっくり見ていません」
「何でゆっくり見る必要があるの」
「婚約者だからです」
「出た!」
カイは呆れながらも、結局写真画を差し出した。
ソフィアは両手で受け取り、今度こそじっくり眺める。
「……」
「何」
「可愛いです」
「今日何回目?」
「今より少し細いですね」
「十二歳だぞ」
「髪も短いです」
「さっき説明した」
「緊張しています」
「それも言った」
ソフィアは少し笑ったあと、写真画へ向けていた視線を上げる。
「カイ」
「何?」
「大切にしてもいい?」
その聞き方に。
カイは少しだけ黙った。
自分の過去。
自分でも長く振り返らなかった時間。
それを。
誰かが大切にしたいと言う。
不思議だった。
でも。
「……いいよ」
「本当?」
「ああ」
ソフィアの表情が一気に明るくなる。
「では大切にします」
「そんなに?」
「七年前より前のカイです」
「そこ?」
「私が知らなかったカイですから」
また。
胸が鳴る。
「じゃあ」
「はい?」
「俺もやっぱり見たい」
「何を?」
「ソフィーの子供の頃の写真」
「……」
「俺だけ昔見られるの不公平」
「それ、帰りにも言いました」
「忘れてないよ」
「本当に見るのですか?」
「見たい」
「四歳頃とかも?」
「あるなら」
「駄目です!」
「何で!?」
「恥ずかしいからです!」
「俺のはいいのに?」
「カイのは可愛いです!」
「それ理由になってない!」
さっきまで静かだった部屋へ、二人の笑い声が広がる。
今日一日。
何度も胸が重くなった。
何度も怖くなった。
でも。
最後には笑って終われた。
それが。
カイには、とても大きかった。
◇◇◇
その夜。
騎士団宿舎へ戻ったカイは、机の上へ青灰色の石を置いていた。
木箱から出し、灯りの下で眺める。
平たい石。
薄い傷。
片面に刻まれた、小さな記号。
意味はまだ分からない。
けれど。
昨日までは存在すら知らなかった。
「父さんか母さんが」
声に出すと。
喉の奥が少し詰まった。
「持たせたのかな」
分からない。
無理にそうだと思う必要もない。
ただ。
可能性があるだけで。
胸が痛む。
「レンド」
父の名前。
「ミア」
母の名前。
久しぶりに。
ゆっくり呼ぶ。
七歳の頃。
何度も呼んだはずの名前。
なのに。
今夜。
改めて口にするだけで、少し涙が滲みそうになった。
カイは椅子へ深く座り、しばらく石を見つめる。
「俺」
小さく笑う。
「結婚するよ」
返事などない。
それでいい。
「相手」
少しだけ恥ずかしくなる。
「第三皇女」
父が聞いたら、どんな顔をしただろう。
母は泣いただろうか。
笑っただろうか。
それとも「何を馬鹿なことを」と信じなかっただろうか。
「……すごいよな」
自分で言って。
少し笑った。
「俺もまだそう思う」
右手首へ視線を落とす。
空雫石の腕輪。
その裏側。
ソフィー。
「でも」
今なら言える。
「好きな人なんだ」
部屋の中へ、自分の声が静かに残る。
「ソフィーっていう」
その名前を口にすると。
胸の奥へ温かさが戻る。
今後。
灰鷲商会を調べれば、もっと何か分かるかもしれない。
石の印についても。
父や母がどう生きていたのかも。
今日より先へ進める可能性がある。
「また分かったら」
カイは青灰色の石を掌へ包む。
「話すよ」
誰へともなく。
でも。
きっと。
父と母へ。
「おやすみ」
少しだけ間を置く。
「父さん、母さん」
それから。
右手首の空雫石へ触れた。
「おやすみ、ソフィー」
三つの名前が。
今夜。
自分の部屋の中へ並んだ。
それだけで。
胸が少し温かかった。
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮では、ソフィアが机の上へ一枚の写真画を置いていた。
十二歳のカイ。
まだ騎士でもなく。
自分の専属護衛になる前。
少し大きな服を着て。
緊張した顔で立っている。
「……可愛いです」
今日、何度目か分からない言葉がまた漏れる。
後ろで衣類を整えていたエマが、静かに返した。
「姫様」
「何です?」
「本日、十一回ほどおっしゃっています」
「数えていたのですか?」
「はい」
「そんなに?」
「少なくとも」
ソフィアの顔が少し赤くなる。
「だって」
「はい」
「今より小さいのです」
「十二歳ですので」
「私が知り合った頃から、少し経った頃ですね」
「はい」
ソフィアは写真画を眺め続ける。
「でも」
声が少し柔らかくなる。
「私が知らないカイです」
カイと出会ったのは七年前。
でも。
彼には当然、それより前の人生がある。
両親と暮らしていた時間。
孤児院で暮らしていた時間。
自分が知らない笑い方も。
泣き方も。
きっとたくさんある。
「今日」
ソフィアは写真画から少し視線を外す。
「お父様とお母様の名前が分かりました」
「はい」
「レンド様」
「はい」
「ミア様」
「はい」
ソフィアは左手首の夜空石へ触れた。
「私は」
少しだけ息を吐く。
「いつか、お礼を言いたいです」
「何のお礼でしょう」
「カイを」
頬が少し熱くなる。
「この世界にいてくれたこと」
エマはすぐに「きっとお喜びです」とは言わなかった。
今日のソフィアが、同じ言葉を途中で止めたことを聞いていたからだ。
代わりに。
「その日が来ましたら」
「はい」
「カイ様と一緒にお伝えください」
ソフィアは静かに笑った。
「はい」
そして。
写真画へ視線を戻す。
「それと」
「何でしょう」
「私の幼少期の写真画を」
「はい」
「カイが見たいと」
エマが一瞬止まった。
次の瞬間。
はっきりと口元が緩む。
「では明日、選びましょう」
「エマ!」
「何でしょう」
「全部は駄目です!」
「承知いたしました」
「特に四歳頃のものは駄目ですからね!」
「一番可愛らしい時期でございますね」
「だから駄目なのです!」
「カイ様はお喜びになるかと」
「エマ!」
白銀宮の夜に、ソフィアの声が響く。
でも。
最後には。
やはり笑った。
今日は重い一日だった。
カイの両親の名前を知った。
カイの知らなかった過去を、一緒に見た。
悲しさもあった。
怖さもあった。
それでも。
「カイ」
夜空石へ触れる。
「今日」
小さく。
「一緒に行けてよかったです」
婚姻式まで、あと二月。
婚約が公表されてから三日目。
カイの出自を辿るための調査は、ようやく最初の扉を開いた。
父の名は、レンド。
母の名は、ミア。
父は荷運びや旅商人の補助をし、母は裁縫や衣類の補修をして暮らしていた。
幼いカイが覚えていた断片は、古い帳簿に残された記録と重なった。
そして、七歳のカイが保護された時に持っていた、小さな青灰色の石。
その石に刻まれた印が何を意味するのかは、まだ分からない。
父母が持たせたものなのか。
旅商人の印なのか。
宿場に関係するものなのか。
それとも。
本当に何の意味もない、ただの石なのか。
答えを急ぐ必要はなかった。
父レンドが関わっていたという灰鷲商会。
カイが保護された東街道のミュール宿。
調べられる場所は、まだ残っている。
そして。
カイはもう。
知らない過去へ、一人きりで向き合う必要はなかった。
怖いなら、怖いと言える。
途中で閉じたくなるかもしれないと認められる。
それでも知りたいと決めたなら。
隣には、ソフィアがいる。
孤児院へ戻ったことで。
カイはもう一つ。
大切なことを思い出した。
両親を失ったあとも。
自分には帰る場所があった。
聖ラウラ孤児院。
第四近衛騎士団。
そして。
白銀宮。
帰る場所は、一つしか持てないものではない。
新しい場所が増えたからといって。
昔の場所が消えるわけでもない。
名前と同じように。
人とのつながりと同じように。
帰る場所もまた。
少しずつ増えていく。
そして、その先には。
二月後。
ソフィアと二人で作る。
まだ名前も形も決まっていない。
新しい家がある。
その未来を。
カイはもう。
怖いだけではなく。
楽しみにし始めていた。




