第28話 第三皇女様、俺の出自を調べる話なのに先に婚姻式の会場を見に行くんですか?
婚姻式まで、あと二月。
婚約が正式に公表されてから二日目の朝、カイは第四近衛騎士団の詰所で、一枚の予定表を前にして黙り込んでいた。
昨日の夜にも一度目を通しているのだから、内容を知らないわけではない。それでも朝の明るい光の下で改めて眺めてみると、予定表へ隙間なく並べられた文字の一つ一つが、昨夜よりも妙に重く見えた。
午前は、皇族配偶者としての警護規定に関する説明と、婚姻後の身分および宮廷内での権限整理。昼前には、昨日から続いている祝辞と贈答品の確認が入り、午後には婚姻式会場候補の視察。そして夕刻には、婚姻後に名乗る家名候補についての一次案確認まで予定されている。
「……詰め込みすぎじゃない?」
思わず漏れた声に、向かいの机で書類を書いていたリナが顔を上げた。
「何が?」
「今日の予定。昨日まで婚約発表で死にそうだったんだぞ」
「死んでないじゃん」
「比喩だよ」
「知ってる」
素っ気なく返され、カイは予定表を指先で軽く叩いた。
「少しくらい休ませてもらえると思ってた」
「午前中、訓練ないでしょ?」
「それは休みじゃないんだよ。俺にとっては訓練してる方が休める」
「騎士としては正しい気がするけど、普通の人としては何か間違ってる気がする」
「俺は騎士だからいいんだよ」
リナは笑いながら立ち上がると、カイの肩越しに予定表を覗き込んだ。
「でも、婚姻式まで二月しかないんでしょ?」
「出た」
「何が?」
「『二月しかない』。昨日から宮廷の人たちが全員それを言うんだよ」
「事実じゃん」
「俺の感覚だと二月もあるんだけど」
「宮廷の人たちの感覚だと、二月しかないんじゃない?」
「そこが怖いんだよ……」
カイは椅子の背へ身体を預け、大きく息を吐いた。
詰所の中には、朝の勤務交代を終えた騎士たちの声が飛び交っている。装備を点検する者、巡回表を確認する者、昨夜の警備記録をまとめる者。窓から入り込む朝の光の中には革油や金属の匂いが混じり、剣帯を締め直す音や紙をめくる音まで、昨日までと何も変わらない。
婚約が正式に公表されたからといって、第四近衛騎士団の日常まで突然変わるわけではなかった。
もちろん、カイが通るたびに「婚約者様」とわざとらしく呼ぶ者が増えたことを除けば、だが。
「カイ様」
「やめろ」
少し離れた場所から声をかけてきた若い騎士へ即答すると、詰所に小さな笑いが起こった。
「もう慣れたんじゃないですか?」
「全然。昨日、城の使用人に一日中『カイ様』って呼ばれて、ここに戻ってきてまで同じ呼び方されたら落ち着けないだろ」
「でも、将来は伯爵とかになるかもしれないんですよね?」
「まだ決まってない」
「カイ伯爵」
「やめろ」
「カイ卿」
「やめろって」
「カイ様」
「木剣持ってこい」
「暴力!」
「訓練だ」
「言い換えただけじゃないですか!」
笑い声が広がり、カイも堪えきれずに笑った。
少し前までなら、爵位や家名を冗談にされるだけでも身体が強張っていたと思う。皇女の婚約者という立場も、貴族になる可能性も、自分からはあまりにも遠いものだった。
今でも慣れたわけではない。公的な場で「カイ様」と呼ばれるたびに、自分ではない誰かの名前を呼ばれているような気分になる。
それでも、少なくとも仲間たちと笑える程度にはなった。
「そういえば」
リナが予定表から視線を上げる。
「昨日の出自調査の話、どうなったの?」
笑っていたカイの表情が、ほんの少しだけ変わった。
「もう団長から聞いた?」
「概要だけ。警備にも関わる可能性があるからって」
「早いな」
「姫様の正式な婚約者になったんだから、カイの身元に関する話なら騎士団にも関係あるでしょ」
「そっか」
昨日、南部侯爵家から届いた一通の書状。
婚約を祝う文章の末尾へ添えられていたのは、婚姻前にカイの血統および出自を改めて調査するべきではないかという意見だった。
表向きは皇族へ入る者の身元を案じる意見書である。けれど、そこに政治的な思惑が一切ないと考えるほど、カイももう宮廷に疎くはなかった。
「調べることにした」
「本当に?」
「ああ」
リナが少し意外そうに目を見開いた。
「嫌じゃないの?」
「嫌だよ」
「即答なんだ」
「怖いし」
カイは机の上に置いた右手を見た。
長く剣を握ってきた手のひらには硬い部分がいくつもある。その手を見ていると、なぜか遠い昔、自分よりずっと大きかった父の手を思い出した。
顔も覚えている。
母の声も。
ただし、どれも鮮明ではない。
幼かった。
記憶の中に残っているのは、笑っていた顔や、頭を撫でられた感触、眠る前に聞いた声のような断片ばかりだ。両親がどこで生まれ、どんな家で育ち、どのように自分たちが暮らしていたのか。カイ自身、詳しいことはほとんど知らない。
「でも昨日、ソフィーに聞いたんだ。何が出ても、俺が俺なのは変わらないんだろって」
「姫様、何て?」
「変わらないって。即答された」
「じゃあ大丈夫そうだね」
「簡単に言うなよ」
「だって」
リナは机へ軽く腰を預け、カイを見た。
「今のカイ、前よりずっと大丈夫そうだから」
「そう見える?」
「見える。前だったら、こういう話が出た時点で『俺がいなくなった方が』とか言い始めてたでしょ」
「……否定できない」
「今は?」
カイは少し考えた。
怖いものは怖い。何が見つかるのか分からない以上、不安がなくなったわけではない。
それでも。
「何か分かったら、その時に考える」
「うん。それでいいんじゃない?」
「ああ」
口にすると、不思議と肩から少し力が抜けた。
リナもそれ以上は掘り下げず、再び予定表へ視線を落とす。
「それより、今日、婚姻式の会場見に行くんだ」
「そう。候補が三つあるらしい」
「へえ。楽しみ?」
「……」
カイは答えるまでに少し時間を置いた。
婚姻式。
婚約発表より、さらに先。
けれど、もう曖昧な未来ではない。
二月後。
自分はソフィアと結婚する。
「……怖い」
「また?」
「だって婚約発表より大きいだろ、多分」
「多分ね」
「でも」
カイは自分でも少し意外に思いながら笑った。
「見たい」
その瞬間、リナの顔が分かりやすくにやけた。
「何だよ」
「いや?」
「言えよ」
「ちゃんと結婚、楽しみにしてるんだなって」
「……悪い?」
「全然。そのまま姫様にも言ってあげなよ」
「今言ったら今日一日ずっと泣くだろ」
「ありそう」
「だろ?」
二人が笑ったところで、詰所の入口から聞き慣れた声が飛んできた。
「カイ」
「はい」
振り返ると、マリアが腕を組んで立っている。
「そろそろ行け」
「どこへ?」
「白銀宮だ」
「午前の説明は?」
「今日は白銀宮でまとめて行うことになった」
「また予定変わってません?」
「微調整だ」
「それを予定変更って言うんですよ」
「婚約者は黙って行け」
「団長まで!」
再び詰所が笑いに包まれた。
カイは予定表を折り畳み、上着の内側へ入れて立ち上がる。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ。それとカイ」
「何です?」
「昨日の出自調査の件だが、こちらでも古い身元確認記録と警備記録を洗っておく」
「団長まで?」
「当然だ。お前が孤児院から騎士団候補生へ上がった時の記録も残っている。法務側だけに任せるより、こちらから出せる情報は出した方が早い」
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
そこでマリアの声が少しだけ低くなった。
「何が出ても、お前がうちの騎士なのは変わらん」
カイは一瞬、何も言えなかった。
ソフィアから言われた言葉とは違う。
けれど、同じ場所を支えてくれる言葉だった。
「……はい」
胸の奥に生まれた温かさをそのまま抱えて、カイは笑った。
「行ってきます」
「行ってこい」
◇◇◇
白銀宮へ向かう回廊でも、昨日と同じように何度も足を止められた。
「カイ様、ごきげんよう」
「こんにちは」
「カイ様、昨日は誠におめでとうございました」
「ありがとうございます」
侍女、文官、宮廷使用人。
顔見知りの者もいれば、名前すら知らない者もいる。
昨日ほどいちいち驚かなくはなったものの、「様」を付けられるたびに肩がむず痒くなる感覚だけは消えない。
「……慣れるのかな、これ」
「少しは慣れてきたように見えますが」
「うわっ」
突然横から声がして、カイは思わず足を止めた。
いつの間にかエマが隣を歩いている。
「いつからいました?」
「少し前からです」
「声かけてくださいよ」
「かけました」
「聞こえなかった」
「考え事をしておられましたので」
エマはいつもの落ち着いた表情のまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「何を考えていたか当てましょうか?」
「分かるんですか?」
「『カイ様と呼ばれるのは落ち着かない』と」
「正解」
「分かりやすいです」
「そんなに?」
「とても」
反論できず、カイは苦笑した。
「ソフィーは?」
「中庭でお待ちです」
「外?」
「はい。午前の説明が始まる前に、少しお話ししたいことがあるそうです」
「何かあった?」
「直接お聞きください」
「嫌な予感?」
「良い予感かもしれません」
「どっちです?」
「さて」
「エマさんまでそういうこと言うようになったな……」
婚約準備が始まってから、周囲の人間まで少しずつ変わっている気がする。
もっとも。
たぶん一番変わったのは自分なのだろう。
◇◇◇
白銀宮の中庭には、春の光が柔らかく降り注いでいた。
中央の小さな噴水から流れ落ちる水が陽光を弾き、周囲の花壇では青と白の小さな花が風に揺れている。まだ朝の冷たさをわずかに残した空気の中に、湿った土と花の香りが混じっていた。
噴水近くの長椅子に、ソフィアが座っている。
今日の彼女は淡い水色のドレス姿だった。公務にも使える整った仕立てではあるものの、午後に皇城内を移動する予定があるためか、普段より装飾は控えめで動きやすそうに見える。
カイに気づくと、ソフィアはすぐに立ち上がった。
「カイ」
「ソフィー。待った?」
「少しだけです」
「何回確認した?」
ソフィアの動きが止まる。
「今日は、まだ三回です」
「朝から?」
「はい」
「安定してるな」
「何がです?」
「ソフィーが」
「どういう意味ですか?」
少しだけ頬を膨らませるソフィアを見て、カイは笑った。
「会いたかった?」
今度はソフィアの頬が赤くなる。
それでも、以前のように誤魔化すことはなかった。
「はい。会いたかったです」
「そっか」
「カイは?」
返される。
少し前なら、そこで何か理由を探したかもしれない。
護衛だから。
予定があるから。
会うことになっていたから。
けれど今日は。
「俺も会いたかった」
そう答えた。
ソフィアの目が柔らかく細められる。
「……嬉しいです」
「そんな顔するほど?」
「します」
「そっか」
「はい」
二人で少し笑ってから、並んで長椅子へ腰を下ろした。
以前なら、カイは護衛として一歩離れた場所へ立っていただろう。
今は自然に隣へ座る。
その小さな違いにも、まだ時々胸が鳴る。
「それで、ここで話したいことって?」
「昨日の書状についてです」
ソフィアの表情が少しだけ真面目になる。
「お父様と皇室法務局へ回しました。正式な調査手続きに入れるか確認していただいています」
「早いな」
「ただ」
膝の上で重ねられたソフィアの指先が、わずかに動いた。
「カイ。本当に調べても大丈夫ですか?」
昨日も答えた。
それでもソフィアは、改めて確認してくれている。
カイは急いで返事をせず、自分の右手首へ目を落とした。空雫石の腕輪が、朝の光を受けて淡く青く透けている。
「怖いよ」
「はい」
「嫌なことが出るかもしれないし、何も出ないかもしれない。それはそれで、ちょっと嫌かもしれない」
「……はい」
「でも、昨日より大丈夫」
「どうして?」
「団長にも言われたんだ。何が出ても、俺が第四近衛の騎士なのは変わらないって」
ソフィアの表情が少し緩んだ。
「マリアらしいですね」
「ああ。それにソフィーもいるし、騎士団もいる。皇太子殿下もいるし」
「はい」
「陛下も……多分」
「お父様もです」
すぐに訂正され、カイは笑った。
「そこは自信ある?」
「あります。お父様はカイを気に入っていますから」
「俺、結構怒られてるけど」
「気に入っているから怒るのです」
「そういうもの?」
「そういうものです」
断言されると、そうなのかもしれないと思えてくるから不思議だった。
「だから、調べるよ」
「はい」
「俺が知らないなら、知ってみたい。何か分かったら、その時考える」
「はい」
「それで何か俺の中に増えるなら、増やせばいい」
ソフィアは何も言わず、ただ静かに聞いていた。
「でもさ」
「はい」
「何が出ても、変わらない?」
何度も聞いている。
それでも大事なことだから、カイはもう一度尋ねた。
ソフィアは一瞬も迷わなかった。
「変わりません。カイがカイであることも、私がカイを好きなことも」
「……そこまで言う?」
「大切なことです」
「朝から強いな」
「カイも先ほど、会いたかったと言いました」
「それとこれ同じ?」
「同じです」
「違う気がする」
「同じです」
譲る気のないソフィアに、カイはとうとう笑ってしまった。
「それと、もう一つお願いがあります」
「まだある?」
「はい」
そこでソフィアは少しだけ躊躇した。
「もし、カイのご両親について何か記録が見つかったら……私も一緒に見てもいいですか?」
思っていなかった頼みに、カイは言葉を失った。
父。
母。
遠い記憶の中にいる二人。
父の大きな手。
母の柔らかな声。
体調を崩した時に額へ置かれた手の冷たさ。
病気だったこと。
そして、亡くなったこと。
幼かった自分には分からないことが多すぎて、記憶のあちこちが抜け落ちている。
「ソフィーは、見たい?」
「カイが嫌でなければ」
ソフィアは少しだけ目を伏せた。
「カイの大切な人たちのことを、知りたいです。今のカイがどこから来たのか、その全部を知ることはできなくても……カイが大切にしているものなら、私も大切にしたいので」
胸の奥が少し痛んだ。
悲しいからだけではない。
昔のことを誰かと一緒に見るという発想が、自分にはなかったからだ。
両親の記憶は、ずっと自分一人の中にあるものだった。
けれど。
「……いいよ」
カイはゆっくり息を吐いた。
「本当ですか?」
「ああ。何か見つかったら、一緒に見よう」
「はい」
ソフィアの目が潤みかける。
「泣く?」
「まだです」
「まだ?」
「今日は大切な予定がたくさんありますから」
「そこ我慢するんだ」
「午後には会場視察もあります」
その言葉で、カイは予定表の内容を思い出した。
「そうだ。それなんだけどさ」
「何です?」
「何で俺の出自を調べる話してる日の午後に、婚姻式の会場を見に行くの?」
ソフィアは一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。
「婚姻式まで二月しかありませんので」
「またそれ!」
二人の笑い声が、春の中庭へ広がっていった。
◇◇◇
午前の説明は、カイが想像していた以上に堅い内容だった。
白銀宮の小会議室には皇室法務官と警備担当の文官、それにマリアとエマ、ソフィア、そしてカイが集まっている。机の上には何種類もの規定書と資料が積まれ、それを見ただけでカイは訓練場へ逃げたくなった。
「まず、婚約正式公表後のカイ様の宮廷内待遇について確認いたします」
「……様」
「はい」
「そこから慣れないと駄目ですか?」
「慣れてください」
「はい……」
隣でソフィアが小さく笑っている。
「現在、カイ様に爵位はございません。しかし第三皇女殿下の正式な婚約者として、一定の警護、席次、入室権限、儀礼上の待遇が付与されます」
「入室権限?」
「これまで護衛として個別の許可が必要だった区画の一部へ、婚約者として入ることが可能になります」
「例えば?」
「皇族私用区画の一部などです」
カイはゆっくりソフィアを見る。
「白銀宮?」
「すでに実質的には自由に出入りされていますが」
法務官が淡々と答える。
「ですよね」
「正式な権限になったとお考えください」
「それ言われると、今まで何だったんだろうって思いますね」
「姫様のご希望です」
「ソフィー」
「必要でしたので」
「強い」
続いて警備担当が別の書類を開いた。
「次に、カイ様ご自身の警護についてです」
「やっぱりあるんですね」
「ございます」
「俺、近衛騎士なんですけど」
「存じております」
「昨日、団長にも同じこと言った」
「同じ回答を返されましたか?」
「はい」
「では説明の一部を省略できます」
「話が早い」
壁際に立っていたマリアが腕を組んだまま口を開く。
「お前一人が自分を守れるかどうかの問題じゃない。今後のお前は、勝手に動けば姫様の警護計画や皇族の日程にまで影響する」
「はい。昨日聞いて、そこは分かりました」
「素直だな」
「最近そればっかり言われます」
「良いことだ」
「団長に褒められると怖い」
「後で訓練するか?」
「普通に嬉しいです」
部屋に小さな笑いが起こった。
警備担当は説明を続ける。
公的な移動に必要な最低警護人数。私的な移動では状況に応じて人数を変更できること。皇城外へ出る場合の申請。公式行事と非公式行動の違い。
そして。
「なお、お忍びでの城下外出については、別途警備計画の審査が必要となります」
「お忍び」
カイとソフィアが、ほとんど同時に顔を上げた。
警備担当の文官が少し困ったように二人を見る。
「……そこへ一番反応されるのですね」
「大事です」
ソフィアが即答した。
「続けたい」
カイも続ける。
「お二人とも?」
「はい」
「はい」
また同時だった。
マリアが額へ指を当てる。
「だと思った」
「団長、できます?」
「不可能ではない」
その答えだけでカイの表情が明るくなる。
「本当?」
「ただし以前より警護は増やす。変装方法も変える。行き先は事前申告。予定を勝手に変更しない。人通りや情勢によっては中止もある」
「分かりました」
「返事が早いな」
「行けるなら守る」
「姫様もです」
「はい」
ソフィアも真面目な顔で頷いたが、その目は明らかに嬉しそうだった。
「正式な案を作成いたします」
「ありがとうございます」
二人が揃って頭を下げ、今度は警備担当まで少し笑った。
「では、もう一点。カイ様の出自調査についてです」
それまで少し和らいでいた空気が、静かに引き締まった。
法務官が新しい書類を開く。
「現時点では、南部侯爵家からの意見書を理由とした強制的な調査とはいたしません」
「はい」
「皇族配偶者となる者の身元記録を整理するための通常手続きとして、戸籍、出生記録、親族関係、過去の居住地などを確認します」
「それなら、問題ないです」
「加えて、カイ様ご本人が希望される場合に限り、通常の確認範囲を越えて過去の記録を遡ることも可能です」
カイは少しだけ息を止めた。
「両親まで?」
「記録が残っていれば」
隣にいるソフィアがこちらを見ている。
けれど、何も言わない。
朝に約束した通り、カイ自身が決める場所を残してくれている。
「お願いします」
「よろしいのですか?」
「はい。知れるなら、知りたいです」
「承知いたしました」
「ただ……俺、生まれた村のことも曖昧なんです。場所は何となく覚えてるけど、村名までは自信なくて」
「孤児院へ入所した際の記録から辿ります。そこに前居住地や保護経緯が残っている可能性があります」
「残ってるかな」
「まずは確認いたします」
何も見つからないかもしれない。
思いもしなかったものが見つかるかもしれない。
胸の奥に冷たいものが生まれる。
その時、机の下ではなく、机の上で。
ソフィアの手がほんの少しだけカイの方へ近づいた。
触れはしない。
公的な会議の途中だからだろう。
けれど、それだけで十分だった。
「お願いします」
カイはもう一度、自分の意思で言った。
「承知しました。では、本日の午前説明は以上です」
「終わった……」
「まだ贈答品確認がございます」
「忘れてた」
「午後は会場視察です」
「知ってる」
「夕刻は家名候補の確認となります」
「……」
カイはしばらく天井を見上げた。
そして、昨日まで自分が散々嫌がっていた言葉を口にする。
「二月しかないもんな……」
一瞬の静寂のあと、部屋に笑いが起こった。
◇◇◇
昼前の贈答品確認は、昨日より短く終わった。
短いとはいっても、大きさの異なる箱が十数個と、何十通もの封書が残っていたのだが、昨日の山を経験したカイには少なく感じられるようになっていた。
「減ってる?」
「増加速度が落ちました」
エマの答えに、カイはほっと息を吐く。
「良かった」
「ただし、遠方の領地からはこれから到着いたします」
「聞きたくなかった」
「事実ですので」
横でソフィアが楽しそうに笑っている。
軽い昼食を済ませた後、午後の会場視察へ出発した。
候補となる場所はいずれも皇城の敷地内だが、端から端まで歩けばかなりの距離がある。そのため移動には小型の馬車が用意され、カイとソフィアが並んで座り、向かいにはエマが座った。マリアは警護の指揮を執るため外の騎馬隊へ回っている。
「会場候補、三つなんだよな?」
「はい。第一候補は大聖礼殿です」
「聞いたことある」
「皇族の婚姻式では最も多く使われる場所ですね」
「大きい?」
「とても」
「もう怖い」
「まだ見ていませんよ」
「名前からして大きそうなんだよ」
ソフィアが笑う。
「第二候補は白銀宮礼拝堂です」
「そっちは小さい?」
「大聖礼殿と比較すれば。ただし参列者数はかなり限られます」
「俺はそっちの方がいい気がしてきた」
「見る前から決めないでください」
「第三は?」
「皇城西庭園にある光彩堂です。庭園に面した半屋外の礼殿で、皇族の祝賀行事にも使われます」
「へえ」
それは少し興味が湧いた。
「ソフィーはどれがいい?」
「まだ決めていません」
「本当?」
「本当です」
「七年前から結婚したかったのに?」
ソフィアの頬が一気に赤くなる。
「結婚したかったのであって、会場まで七年前から決めていたわけではありません!」
「そっか」
「当然です!」
「じゃあ一緒に決められるな」
何気なく言ったつもりだった。
けれど、ソフィアは一瞬黙ってから、柔らかく笑った。
「はい。一緒に決めましょう」
その言葉が妙に嬉しかった。
婚姻式は、皇族のために誰かが勝手に作るものではない。
少なくとも。
自分たちが選べるところは、二人で選んでいい。
そう思えた。
◇◇◇
最初に訪れた大聖礼殿は、カイの想像よりさらに大きかった。
「……無理」
長い階段の下で建物を見上げた瞬間、口から出た。
「まだ入っていません」
「外観で無理」
白い石造りの巨大な建物が、青空を背にそびえている。正面には何本もの太い柱が並び、そのさらに奥に人の背丈を何倍にもした大扉があった。階段の左右では帝室紋章を掲げた旗が風を受け、乾いた音を立てている。
「ここで?」
「はい」
「婚姻式?」
「候補です」
「何人入るの?」
エマが淡々と答えた。
「最大で千名程度です」
「無理」
「二回目です」
「千人に見られながら結婚するの?」
「公的な皇族婚姻としては、特別多い人数ではございません」
「帝国怖い」
「昨日も同じこと言っていましたね」
中へ入れば、さらに圧倒された。
高い天井。
長い中央通路。
左右へ整然と並ぶ参列席。
奥には大きな祭壇があり、その背後の彩色硝子から差し込む春の日差しが、赤や青、金色の光となって白い石床へ落ちている。
声を出せば遠くまで響きそうな静けさだった。
「昨日より怖い」
「昨日は数百人でしたから」
「増えてるじゃん」
「でも、綺麗です」
「……うん」
そこは認めざるを得ない。
カイはゆっくり中央通路を歩きながら、ふと隣のソフィアを見る。
「ソフィー、ここ歩く?」
「婚姻式で使用するなら」
「一緒に?」
「途中からです。最初はそれぞれ別の入口から入り、祭壇前で合流する形式になります」
「……聞いてない」
「今、言いました」
「また知らないこと増えた」
エマが小さく笑った。
「正式な式次第については、会場決定後に改めてご説明いたします」
「まだ増えるんですね」
「増えます」
「怖い」
祭壇の前へ立った時。
カイは、ほんの一瞬だけ二月後を想像した。
婚姻衣装を着たソフィアがいる。
自分も騎士服ではなく、婚姻式用の礼装を着ているのだろう。
ここで並び。
誓約を交わし。
指輪を交換する。
その後ろには千人近い人間がいる。
「……」
想像した途端、顔が熱くなった。
「カイ?」
「何でもない」
「何を想像しました?」
「言わない」
「教えてください」
「嫌」
「婚約者です」
「その言葉を万能の鍵みたいに使うの禁止」
「便利なのですが」
「自覚あったの?」
ソフィアが声を立てて笑った。
◇◇◇
二つ目の白銀宮礼拝堂は、大聖礼殿とはまるで違う場所だった。
白銀宮の西側に建てられた小さな礼拝堂は、皇族専用とはいっても華美すぎず、白い壁と淡い青色の彩色硝子を基調としている。百数十人ほどが座れる席が並び、側面の大きな窓からは白銀宮の庭園が見えた。
扉をくぐった瞬間。
カイは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「……ここ、好きかも」
「本当ですか?」
「ああ。落ち着く」
大聖礼殿の壮麗さも美しかった。
けれど、あちらは建物そのものに「皇族の儀式なのだ」と押されているような気分になった。
ここは違う。
春の風に揺れる木々が窓越しに見え、遠くから噴水の水音までかすかに聞こえる。白銀宮へ何度も通ううちに覚えた庭の匂いまで感じられる気がした。
「私も、ここは好きです」
ソフィアが隣で言った。
「ただし、参列者はかなり絞る必要があります」
「どのくらい?」
「皇族、近親者、主要貴族、騎士団代表、それに親しい友人を入れれば、かなり埋まると思います」
「千人よりいい」
「外国大使の方々をどうするかという問題もあります」
「……政治か」
「はい」
「難しいな」
「だから今日、三つとも見るのです」
二人で奥へ進む。
小さな祭壇の前に並んで立ってみると、大聖礼殿より互いの存在がずっと近く感じられた。
「ここなら」
「はい?」
「ソフィーがちゃんと見える」
ソフィアが首を傾げる。
「どこでも見えますよ?」
「そうじゃなくて。人が多すぎると、俺、多分そっちばっかり気にするから」
「ああ……」
「ここなら」
カイは礼拝堂を見回した。
「周りが見えすぎない分、ソフィーのこと見てられそう」
言ってから。
自分で何を言ったのか気づいた。
「……」
ソフィアも止まった。
頬が赤くなる。
「今の忘れて」
「嫌です」
「即答」
「一生覚えます」
「また一生!?」
「大切なことです」
ソフィアは嬉しそうに笑った。
「では私も、カイを見ていられますね」
「婚約発表の時もずっと見てたじゃん」
「婚姻式でも見ます」
「余計緊張する」
「私も緊張しますから同じです」
「それなら……まあ」
カイも笑う。
「ここ、一票」
「私も一票です」
「同じ?」
「はい」
その小さな一致が、妙に嬉しかった。
◇◇◇
三つ目の光彩堂は、皇城西庭園の奥にあった。
半円形に並ぶ白い石柱と、光を多く取り込む透明な屋根。正面は庭園へ大きく開かれており、式の季節に合わせて花や樹木を装飾の一部として利用できる造りになっている。
大聖礼殿ほど巨大ではなく、白銀宮礼拝堂ほど小さくもない。
参列できるのは三百名ほど。
春の風が柱の間を抜け、花の香りを運んでいた。
「ここもいいな」
「先ほど白銀宮礼拝堂へ一票入れたのでは?」
「候補なんだから途中で迷ってもいいだろ」
「もちろんです」
ソフィアが笑う。
「雨の日は?」
「屋根のない部分には可動式の覆いを展開できます」
「すごいな」
「皇城ですので」
「それ万能の説明じゃない?」
「便利ですよ」
「ソフィーまで」
二人で笑いながら中央へ進んだ。
二月後なら、季節は今より初夏に近い。
庭園の緑も濃くなり、咲く花も変わっているだろう。
その景色を想像していた時、ソフィアが静かに尋ねた。
「カイ」
「何?」
「もし、カイが自由に選べるなら……どこがいいですか?」
カイはすぐには答えなかった。
大聖礼殿。
格式もあり、きっと皇族の婚姻式として最も正しい。
光彩堂。
開放的で、季節の景色まで思い出にできそうだ。
それでも。
「……白銀宮かな」
「やはり?」
「ああ」
「理由を聞いても?」
少し考える。
けれど、答えは思ったより単純だった。
「ソフィーの家だから」
「……」
「俺、白銀宮に何度も来ただろ。最初は護衛としてだったけど、そのうち普通に飯食ったり、話したり、寝泊まりしたりして」
「はい」
「今は」
カイは少し照れながら笑った。
「帰ってきたって思えるから」
ソフィアの目がゆっくり潤んでいく。
「だから、そこで結婚するの……いいなって思った」
「カイ」
「泣く?」
「危ないです」
「今日何回目?」
「まだ一回目です」
「数えてるの?」
「大切です」
カイは笑った。
「ソフィーは?」
「私も白銀宮がいいです」
答えは即座だった。
「理由は?」
今度はカイが聞く。
ソフィアは少し恥ずかしそうに視線を落としたあと、ゆっくり口を開いた。
「カイが初めて、『ただいま』と言ってくれた場所だからです」
今度はカイが黙る番だった。
覚えている。
白銀宮へ戻った時。
自分でもほとんど意識せず、「ただいま」と言った。
エマが気づき。
ソフィアが、とても嬉しそうに笑った。
「覚えてた?」
「もちろんです」
「七年前のことじゃなくても?」
「大切なことは覚えています」
「強いな」
「カイも覚えていたでしょう?」
「……うん」
二人の目が合う。
どちらからともなく笑った。
「じゃあ第一候補」
「白銀宮礼拝堂ですね」
「ああ」
「お父様へ相談します」
「また陛下の仕事増えるな」
「仕方ありません」
「婚約者だから?」
「今回は婚姻準備です」
「新しい万能の言葉増やした?」
ソフィアの明るい笑い声が、風の通る光彩堂へ広がった。
◇◇◇
夕刻。
白銀宮へ戻ったカイを待っていたのは、三枚の書類だった。
「もう?」
「一次案ですので」
午前中にも会った皇室法務官が、三枚の紙を机へ並べる。
「早くないですか?」
「婚姻式まで二月しかありませんので」
「皆それ言う……」
横でソフィアが楽しそうに笑っている。
「家名候補は三案ございます。ただし、いずれも現時点では候補にすぎません。新たな案を追加することも可能です」
「分かりました」
「第一案ですが――セレス」
その名を聞いた瞬間。
カイとソフィアが同時に止まった。
「……」
「何か問題が?」
法務官が不思議そうに二人を見る。
「いや。これ、前に話したことがあって」
「はい」
ソフィアも頷く。
以前、二人で婚姻後の家名について話した時。
まだ正式な候補ですらなかった頃に、冗談半分で出た名前。
カイ・フォン・セレス。
ソフィア・フォン・セレス。
ソフィアはその夜、一人で紙へ書いてみたと後から白状している。
「偶然?」
「恐らくは。古語で空、天穹を意味する語から選定しております」
カイは右手首の空雫石へ目を落とした。
隣ではソフィアも夜空石の腕輪を見ている。
偶然なのだとしても。
二人にとっては意味がある。
「第二案はレイヴェル。古語で流れや大河に由来する語です。第三案はアステリオ。星、あるいは導きの星を意味する古語を基にしております」
「全部、俺たちに寄せてません?」
カイが思わず笑うと、法務官は少しだけ表情を緩めた。
「殿下より、過度に家格や権威を強調する名称よりも、お二人にとって意味を持てる響きを優先したいとのご希望がございましたので」
カイはゆっくり隣を見る。
「ソフィー?」
「少しだけ希望を出しました」
「俺に内緒で?」
「驚かせようかと」
「成功した」
改めて三枚を見る。
セレス。
レイヴェル。
アステリオ。
どれも悪くない。
けれど、一枚目に視線が戻る。
「今日決めるの?」
「いいえ。数日お考えください。追加候補も受け付けます」
「良かった」
カイはセレスと書かれた紙の端へ、そっと指を置いた。
「……嫌じゃない」
その瞬間、ソフィアがこちらを見る。
「本当ですか?」
「ああ。でもまだ決定じゃないからな」
「分かっています。候補です」
「すごく嬉しそうだけど」
「二人の家名になるかもしれませんので」
二人の家名。
その言葉は、少し前なら胸へ重く落ちた。
今は違う。
胸の奥へ落ちてきて。
そこに、温かく残る。
「うん」
カイは紙を見ながら笑った。
「一緒に考えよう」
「はい」
◇◇◇
長い一日の予定がようやく終わる頃には、白銀宮の窓から見える空が橙色へ染まり始めていた。
カイとソフィアは私室のソファへ並んで座り、ようやく人心地ついていた。
エマが二人分の茶を置く。
「姫様、私は隣室におりますので」
「ありがとう」
「何かございましたらお呼びください」
「はい」
エマが退出し、扉が静かに閉じる。
途端にカイはソファの背へ身体を預けた。
「疲れた……」
「今日も?」
「今日も」
「婚約生活は忙しいですね」
「婚約発表前もずっと忙しかった気がする」
「そうでしたね」
「結局ずっと忙しいじゃん」
二人で顔を見合わせて笑う。
疲れている。
けれど、不思議と嫌な疲れではなかった。
朝には出自調査の話をした。
昼には自分の新しい立場について説明を受けた。
午後には婚姻式の会場を三つも見た。
夕方には、自分たちが結婚した後に名乗るかもしれない家名まで並べられた。
一日の中だけで、過去と未来を何度も行き来したような気分だった。
「でもさ」
「はい?」
「会場見るの、楽しかった」
ソフィアの顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「ああ」
「婚姻式も?」
「うん」
「楽しみですか?」
朝。
リナにも同じことを聞かれた。
その時は「怖いけれど見たい」と答えた。
今は。
もう少し先まで言える。
「楽しみ」
ソフィアが完全に動きを止めた。
「……」
「何?」
「もう一度言ってください」
「何で?」
「大切です」
「またそれ?」
「お願いします」
期待を隠しもしない目で見られ、カイは少しだけ頬を掻いた。
それでも、逃げなかった。
「婚姻式、楽しみだよ」
ソフィアの目に一気に涙が溜まる。
「泣く?」
「今日は……無理です」
「何が?」
「耐えるのが」
「やっぱり」
カイは苦笑しながら両腕を少し広げた。
「おいで」
言い終わるより早く、ソフィアが胸へ飛び込んでくる。
受け止める。
背中へ腕を回す。
以前なら、人目がないかを気にした。
今も節度は必要なのだろう。
それでも、婚約者として抱きしめることを、もう悪いことのように思わなくなった。
「カイ」
「何?」
「私も楽しみです」
「うん」
「とても」
「うん」
「七年前から」
「そこは知ってる」
「でも」
ソフィアはカイの胸元へ頬を寄せたまま、小さく笑った。
「今は、カイも楽しみにしてくれている。それが一番嬉しいです」
一粒だけ涙が落ちる。
カイはソフィアの背中をゆっくり撫でた。
「ソフィー」
「はい」
「俺さ」
少し考えてから、言葉を探す。
「前は、結婚って聞くと……ソフィーが遠くへ行くものだと思ってた」
まだ婚約者の正体を知らなかった頃。
第三皇女には婚約者がいる。
いずれ結婚する。
その話を聞くたびに。
自分の知らない誰かが、ソフィアを連れていくような気がしていた。
「はい」
「でも今は違う」
腕の中にいるソフィアの温かさを感じながら、カイは目を閉じる。
「俺が一緒に家を作るんだなって思う」
「はい」
「名前も」
「はい」
「帰る場所も」
「はい」
「家族も」
「はい」
「これから増えるんだな」
ソフィアの腕に少し力が入った。
「はい」
今までの自分が消えるわけではない。
第四近衛騎士団のカイ。
孤児院で育ったカイ。
ソフィアの護衛だったカイ。
それらを捨てて、別の誰かになるのではない。
その上へ。
ソフィアの婚約者。
いつか夫。
そして、新しい家名。
帰る場所。
家族。
少しずつ増えていく。
「だったら」
カイは腕の中のソフィアを見た。
「悪くない」
「それだけですか?」
ソフィアが顔を上げる。
目元は濡れているのに、少し不満そうだ。
「いや」
カイは笑った。
「楽しみ」
ソフィアの目から、また一粒落ちた。
「三回目です」
「何が?」
「今日、カイが楽しみと言いました」
「数えてるの?」
「一生覚えます」
「また一生」
「カイが先に言った言葉です」
「そうだったな」
どちらからともなく笑った。
◇◇◇
その夜。
騎士団宿舎へ戻ったカイは、机の上へ三枚の家名候補を並べていた。
セレス。
レイヴェル。
アステリオ。
どれもまだ候補にすぎない。
それでも、自分の名前の後ろへ付けてみると、不思議な感覚がした。
「カイ・フォン・セレス」
声にしてみる。
以前なら、それだけで自分ではない誰かの名前に聞こえただろう。
「……悪くない」
次。
「カイ・フォン・レイヴェル」
川。
ソフィアと歩いた川辺を思い出す。
「カイ・フォン・アステリオ」
星。
少し長い気がする。
「……セレスかな」
まだ決めない。
ソフィアと一緒に考えると約束した。
だから紙を重ねて机の端へ置く。
代わりに思い出したのは、今日見た白銀宮礼拝堂だった。
大きな窓。
淡い青色の硝子。
庭の緑。
小さな祭壇。
そこで。
二月後。
「結婚するんだよな」
口にすると、胸が鳴った。
夫。
ソフィアが妻。
やはりまだ慣れない。
けれど。
「……楽しみって言ったな、俺」
自分で言っておきながら、少し恥ずかしくなる。
それでも撤回する気はなかった。
右手首の空雫石へ指を触れる。
「おやすみ、ソフィー」
窓の外には夜の皇城が静かに広がっている。
「白銀宮、いいと思う」
返事はない。
けれど、ソフィアも同じ場所を選んだ。
それだけで少し嬉しい。
カイは寝台へ向かう前、もう一度だけ小さく呟いた。
「結婚、楽しみにしてる」
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮では、ソフィアもまた三枚の家名候補を机へ並べていた。
視線は、どうしても一枚目へ戻る。
セレス。
以前、二人で家名について話した夜。
一人になったあと、紙へこっそり書いた。
ソフィア・フォン・セレス。
カイ・フォン・セレス。
並べて書いて。
恥ずかしくなって。
それでも捨てられず、大切にしまった。
「まだ決まっていません」
自分へ言い聞かせる。
けれど、口元はどうしても緩んだ。
その横には、今日見た三つの会場候補についての資料が置かれている。
白銀宮礼拝堂。
第一希望。
二人とも同じ。
カイが選んだ理由も。
何度思い出しても胸が熱くなる。
『帰ってきたって思えるから』
ただいま。
以前。
カイが白銀宮へ戻ってきた時。
あまりにも自然に言ってくれた言葉。
あの瞬間、ソフィアはどれほど嬉しかっただろう。
自分の住む宮殿を。
カイが帰る場所だと思ってくれた。
そして今。
その場所で結婚したいと言ってくれた。
「……カイ」
左手首の夜空石へ触れる。
今日。
カイは何度も「楽しみ」と言った。
婚姻式を。
結婚を。
二人のこれからを。
以前は、自分だけが望んでいるのではないかと不安になることもあった。
七年前から好きだったのは自分。
結婚したかったのも自分。
婚約者だと知っていたのも自分。
けれど今は違う。
カイも。
同じ未来を見始めている。
「私も」
ソフィアは小さく笑った。
「楽しみです」
婚姻式まで、あと二月。
婚約が公表されてから二日。
カイの周囲には、新しい役割が次々と増え始めていた。
護衛する側だった近衛騎士が、護衛される側にもなる。
これまで許可を得て入っていた場所へ、第三皇女の婚約者として入る。
城内での呼ばれ方が変わり、婚姻後の家名を考え、二月後に立つ場所を自分たちで選び始める。
それと同時に。
未来へ進むために、過去へ目を向ける話も始まった。
両親。
出生記録。
孤児院へ入る前の暮らし。
今まで知らなかったものが見つかるかもしれない。
何も見つからないかもしれない。
少し前のカイなら、そのどちらも怖がっただろう。
知らなかった過去によって、自分が別の何かへ変わってしまうのではないかと考えたかもしれない。
けれど今は。
何かを知ったからといって、これまでの自分が消えるわけではないと少しずつ分かり始めている。
第四近衛騎士団の仲間たちがいる。
マリアがいる。
皇太子がいる。
皇帝がいる。
そして何より。
隣にはソフィアがいる。
過去を知るなら、一緒に見る。
未来を選ぶなら、一緒に選ぶ。
白銀宮礼拝堂は、まだ正式な婚姻式会場ではない。
セレスという家名も、まだ三つある候補の一つにすぎない。
出自調査も、これから始まる。
決まっていないものは多い。
分からないものも多い。
それでも。
二人の未来はもう、誰かに用意されたものを受け取るだけではなくなっていた。
婚姻式の場所も。
これから名乗る名前も。
過去とどう向き合うかも。
一つずつ。
二人で選ぶ。
そしてカイは今日、初めてはっきりと言えた。
結婚することが。
楽しみだと。




