第27話 第三皇女様、婚約が公表された翌日から城中に祝われるなんて聞いていません
婚約発表の翌朝、カイはいつもの時間に、いつもの騎士団宿舎で目を覚ました。
窓の外には薄い朝靄が残っており、皇城を囲む白い石壁は、昇り始めたばかりの朝日に淡く照らされている。廊下から聞こえてくるのは、早番の騎士が詰所へ向かう規則的な靴音と、どこかの部屋で水桶を動かす音だけだった。
昨日、自分たちの婚約が帝国へ正式に発表されたとは思えないほど、目に映る景色はいつも通りだった。
昨夜は白銀宮から宿舎へ戻るなり、ほとんど何も考えられないまま寝台へ倒れ込んだ。朝から礼装を着込み、大謁見広間で正式発表を受け、その後は何十人もの貴族や各国大使へ挨拶し、夕方には祝賀夜会でソフィアと踊ったのだ。
最後に空雫石の腕輪を外そうと思った記憶まではある。
けれど結局、それすらせずに眠ってしまったらしい。
「……本当に終わったんだよな」
上体を起こしたカイは、まだ少し寝ぼけたまま右手首へ目を落とした。
空雫石の腕輪が朝の淡い光を受け、静かな青を宿している。銀色の金具の裏側には、今も変わらずソフィアの愛称が刻まれていた。
昨日までは、毎朝のように数えていた。
婚約発表まで、あと何日。
もう、その日数を数える必要はない。
カイは寝台の縁へ腰を下ろしたまま、少しだけ迷ってから口にした。
「第三皇女の婚約者……」
やはり、言葉にすると少し恥ずかしい。
けれど以前のような、自分とは関係のない誰かの話をしているような感覚はなかった。
昨日、大勢の前でソフィアの手を取った。
皇帝自身が二人の婚約成立を宣言した。
広間いっぱいに広がった拍手も聞いた。
祝賀夜会では、ソフィアと最初の一曲を踊った。
そして夜には、二人だけで。
『婚約、おめでとう』
そんな少しおかしな言葉を互いに贈った。
「……俺なんだよな」
改めて呟くと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
以前の自分なら、そこへすぐに不安を被せていたかもしれない。
本当にいいのか。
平民の自分で。
孤児の自分で。
姓も爵位もない自分で。
だが今は、その不安がなくなったわけではないのに、以前ほど自分を押し潰してこなかった。
ソフィアから何度も言われたからだ。
新しいものが増えても、今までのカイが消えるわけではない。
昨日もその言葉を確かめた。
だから今日、何かが変わっていたとしても。
「俺は俺でいい」
鏡の代わりに窓硝子へ薄く映った自分へ、小さく言う。
それからカイは立ち上がり、騎士団の制服へ着替えた。
昨日の白銀の礼装ではない。
いつもの濃紺。
いつもの剣帯。
いつもの靴。
それが少しだけ嬉しかった。
「案外、普通か」
部屋を出る直前、カイはそう呟いた。
少なくとも。
自室の扉を開けるまでは、本気でそう思っていた。
◇◇◇
宿舎の食堂へ入った瞬間、カイは足を止めた。
普段なら朝食時らしいざわめきに満ちているはずの室内が、ほんの一瞬だけ不自然に静かになったからだ。
長机の周囲には何十人もの騎士が座っている。パンを食べている者もいれば、温かいスープへ匙を入れている者もいる。誰も彼も露骨にこちらを凝視しているわけではなかった。
ただし。
見ていないふりをしている者まで含めて、ほぼ全員がカイを意識している。
「……何だよ」
入口に立ったまま警戒するように目を細めると、最初に近づいてきた若い騎士が妙に姿勢を正した。
「おはようございます、カイさん」
「おはよう」
そこまでは普通だった。
問題はその次だ。
「昨日は、ご婚約おめでとうございます」
「……ありがとう」
正式に言われると、やはり少し照れる。
もっとも、昨日一日で何十回も祝福されているので、最初よりは返事も自然になっていた。
「カイさん、俺からもおめでとうございます」
「姫様とお幸せに」
「昨日の舞踏、見ましたよ」
「手を取って前へ出るところ、記録官の魔導具にも綺麗に残ってましたね」
「待て待て待て!」
一気に押し寄せてきた祝福へ、カイは思わず両手を上げた。
「朝から多い!」
食堂中に笑いが起こる。
「昨日は警備で話せませんでしたから」
「発表中に声かけるわけにもいきませんし」
「今日ならいいかなって」
「良くないとは言わないけど、一人ずつ来てくれ!」
カイが困った顔で周囲を見回していると、聞き慣れた声が飛んできた。
「おはよう、帝国公認婚約者」
「リナ」
「何?」
「その呼び方やめろ」
パンを片手に現れたリナは、明らかに楽しんでいる顔をしていた。
「昨日までは発表前だったから、正式には使えなかったでしょ?」
「今日から解禁みたいに言うなよ」
「間違ってはいないじゃん」
「間違ってなくても嫌なんだよ」
リナは笑いながら、カイの隣の椅子を引いた。
「それで?」
「何が」
「朝起きて、正式に第三皇女の婚約者になった気分」
「正式になったのは昨日からだろ」
「そういう意味じゃなくて」
少し考えたカイは、食堂へ来るまでの自分を思い返した。
「……普通だった」
「普通?」
「部屋の中はな」
「じゃあ今は?」
カイは周囲を見る。
騎士たちが明らかに聞き耳を立てている。
「全然普通じゃない」
リナが声を立てて笑った。
「そのうち慣れるよ」
「本当に?」
「多分」
「その言葉、この城で一番信用できないんだよな」
ちょうどその時、食堂の奥からマリアが歩いてきた。
「カイ」
「団長」
「朝食を取ったら訓練場へ来い」
カイの顔が目に見えて明るくなる。
「訓練!?」
「ああ」
「午前いっぱい?」
「そうだ」
「やった!」
あまりにも素直に喜んだせいか、周囲が一瞬静かになる。
「何です?」
カイが不審そうに眉を寄せると、リナが半ば呆れたように笑った。
「いや、婚約発表の翌日に一番嬉しそうな理由が訓練なんだなって」
「だって最近まともに一日剣振れてないんだぞ」
「姫様が聞いたらどう思うかな」
「ソフィーなら分かってくれる」
「言い切った」
「婚約者だから」
自分からその言葉を使った瞬間、周囲の騎士たちが一斉に反応した。
「自分で言った!」
「昨日までは言われるたびに恥ずかしがってたのに!」
「成長したなあ」
「うるさい!」
また食堂へ笑いが広がる。
カイは少し顔を赤くしながら席へ着いたが、言葉そのものを撤回することはなかった。
マリアはそんな様子を眺めてから、少しだけ表情を緩める。
「ただし、午後は白銀宮だ」
「……やっぱり」
「婚約発表後に届いた贈答品と祝辞の確認。それから、今日以降のお前の扱いについて説明を受けてもらう」
「扱い?」
「ああ」
「何が変わるんです?」
「午後になれば分かる」
「今教えてくださいよ」
「食事中だ」
「気になるんですけど」
「なら早く食え」
「横暴」
「団長だからな」
結局、詳しいことは教えてもらえなかった。
カイは少し釈然としないまま朝食を取り始めたが、温かなスープを飲んでいる間にも、あちらこちらから「おめでとう」が飛んでくる。
最初の数回は恥ずかしかった。
そのうち、返事をするたびに少しずつ胸へ違うものが積み重なっていく。
祝われている。
自分と。
ソフィアが。
昨日までは、誰かの婚約を遠くから見ているような感覚がどこかに残っていた。
けれど今日は。
その「おめでとう」が。
確かに自分へ向けられていた。
◇◇◇
久しぶりに午前いっぱい訓練ができると聞いたカイは、明らかに機嫌が良かった。
春の日差しが差し込む訓練場には、木剣がぶつかる乾いた音と騎士たちの掛け声が響いている。昨日まで式典警備へ回っていた者も多かったため、今日は少し久しぶりに普段通りの訓練風景が戻っていた。
「そこ!」
若い騎士の木剣を正面から受けるのではなく、カイは手首を返して外へ流す。そのまま相手の身体が開いたところへ踏み込み、肩口へ剣先を軽く触れさせた。
「そこまで!」
「また負けた!」
「今の受け方だと力が全部正面に残ってる」
カイは木剣を下ろし、相手の構えへ手を添える。
「俺の剣を止めようとするんじゃなくて、少し角度つけて外へ逃がせ。ほら、肘ももう少し抜いて」
「こうですか?」
「もう少し」
「婚約発表の翌日でも普通に指導してくるんですね」
「何が変わるんだよ」
「もう少しこう……貴族っぽくなるのかなって」
「俺まだ平民だぞ」
「あ」
「昨日、陛下が皆の前で言っただろ」
「そうでした」
カイは木剣を肩へ軽く乗せた。
「それに、仮にこれから爵位をもらっても、ここで偉そうにする気はないから」
「じゃあ今後も訓練で容赦なし?」
「当然」
「先に爵位だけもらってください」
「何で」
「貴族になったら手加減してくれるかもしれない」
「しない」
「ですよね」
周囲で聞いていた騎士たちから笑い声が上がる。
カイもつられて笑った。
昨日。
自分は大謁見広間に立った。
皇帝と皇太子のすぐ近くで、帝国の有力者たちから祝福の拍手を受けた。
今日。
ここでは木剣を握っている。
汗をかき。
仲間と打ち合い。
後輩へ剣の受け方を教える。
何も変わっていない。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
新しい役割が増えても。
この場所まで失うわけではない。
「カイさん!」
「何だ!」
「次、二対一お願いします!」
「いいぞ」
「昨日は三対一だったじゃないですか」
「昨日の俺は婚約発表前で不安定だった」
「今は?」
「婚約者として安定した」
「意味分からないです!」
また笑いが起こる。
カイも笑いながら木剣を構えた、その時だった。
訓練場の入口付近が少しざわついた。
「……?」
視線を向ける。
白銀宮の侍女が数名。
その中央。
見慣れた人物。
「何か嫌な予感がする」
カイがぼそりと呟く。
エマはいつも通り落ち着いた足取りで訓練場へ入り、カイの前まで来ると丁寧に一礼した。
「カイ様」
「何です?」
「姫様からご伝言でございます」
「やっぱり」
周囲にいた騎士たちが、一斉に少しだけこちらへ顔を向ける。
聞く気満々だった。
「何て?」
「『昨日あれほど無茶をしないと約束したのに、婚約発表の翌日から二対一の訓練をするのですか』とのことでございます」
数秒。
訓練場が静かになった。
カイはゆっくりと周囲を見回す。
「……誰が伝えた?」
何人かが露骨に視線を逸らした。
その中で。
遠くから。
リナだけが堂々と手を振った。
「リナ!」
「だって姫様から、カイが何してるか教えてって言われたから!」
「それ監視だろ!」
「愛情」
「便利に言うな!」
訓練場へ大きな笑いが広がる。
エマも、ほんのわずかに口元を緩めていた。
「それで」
カイは諦めたように息を吐く。
「返信は?」
「そのままお伝えいたします」
「じゃあ、普通の訓練だから大丈夫」
「はい」
「怪我しないようにはする」
「はい」
「あと……」
そこで少し止まる。
周囲の騎士たちがものすごく聞いている。
以前なら、それだけで口を閉じていたかもしれない。
けれど。
「心配してくれてありがとうって」
その瞬間。
騎士たちが静かになった。
カイは言ってから少し顔を赤くする。
「……何だよ」
「いえ」
一人の若い騎士が、笑いを堪えるように口元へ手を当てた。
「本当に変わったなって」
「昨日からそればっかりだな!」
エマは深く一礼した。
「確かにお伝えいたします」
「お願いします」
数歩離れたところで、エマがふと立ち止まる。
「それから、もう一つございます」
「まだあるんですか?」
「姫様より、『午後はなるべく早く来てください』とのことでございます」
カイの表情が、無意識に少し柔らかくなった。
「分かった」
「何時頃になりそうでしょうか」
「訓練終わったら、着替えてすぐ行く」
「承知いたしました」
エマが去っていく。
その背中を見送っていると。
「カイさん」
「何」
「顔」
「何だよ」
「嬉しそうです」
「……悪い?」
「いいえ」
若い騎士はにやりと笑った。
「ごちそうさまです」
「木剣で殴るぞ」
「訓練ですか?」
「特別訓練」
「遠慮します!」
笑い声が再び訓練場へ広がった。
◇◇◇
午前の訓練を終え、汗を流して騎士服へ着替えたカイは、約束通りすぐ白銀宮へ向かった。
皇城中央棟へ続く回廊へ入る。
そこで、最初の違和感を覚えた。
向こうから歩いてきた文官がカイを認めた瞬間、わざわざ足を止めたのだ。
「カイ様。昨日はご婚約、誠におめでとうございます」
「……ありがとうございます」
少し戸惑いながら返礼する。
様。
今、確かにそう呼ばれた。
そのまま進む。
今度は侍女。
「カイ様、ご婚約おめでとうございます」
「ありがとう」
さらに進む。
使用人。
また。
「カイ様」
次も。
「カイ様」
その次も。
とうとうカイは、回廊の途中で立ち止まった。
「……待って」
誰に言うでもなく呟く。
「何で皆、急に『様』なの?」
問いかけられた近くの使用人が、非常に困った顔をする。
そこへ後ろから声が飛んできた。
「ようやく気づいたか」
「団長」
振り返ると、書類を片手にしたマリアが歩いてきた。
「朝言っただろう。扱いが変わると」
「これ?」
「一部だ」
「俺、まだ爵位ないですよ」
「婚約が正式に公表された時点で、第三皇女殿下の婚約者として宮廷内で一定の待遇が適用される」
「一定の?」
「簡単に言えば、お前を呼び捨てにできる者が減った」
カイの顔が固まる。
「……嫌だ」
「諦めろ」
「騎士団は?」
「私や同僚は当面今まで通りだ」
「良かった!」
「顔に出しすぎだ」
「だって皆からカイ様って呼ばれたら落ち着かないですよ」
「そのうち慣れろ」
「何年?」
「知らん」
「七年?」
マリアが一瞬止まる。
それから少し呆れた顔になった。
「姫様に毒されたな」
「否定できない」
カイも苦笑した。
だがマリアの表情は、すぐ少し真面目なものへ変わる。
「呼び方だけではない。今後は護衛配置も変わる」
「俺の?」
「ああ」
「俺、近衛騎士ですよ?」
「知っている」
「自分で守れます」
「それも知っている」
「なら」
「お前が勝手に動けば、護衛計画そのものが崩れる」
カイは口を閉じた。
昨日、皇太子から言われた。
自分を軽く扱うな。
自分一人で何とかしようとするな。
それが、思いがけない形で現実になっている。
「……面倒ですね」
「そうだ」
「でも、分かりました」
マリアが少しだけ目を細める。
「素直だな」
「最近そればっかり言われます」
「良い変化だ」
「団長に言われると少し嬉しい」
「調子に乗るな」
「はい」
マリアはそのまま別の回廊へ曲がっていく。
ただし、数歩進んだところで振り返った。
「カイ」
「何です?」
「白銀宮へ急げ」
「何で」
「姫様から四回目の確認が来る前に」
「今何回!?」
「三回だ」
「もう!?」
カイは思わず足を速める。
「走るな」
「どっちなんですか!」
背中の向こうから、珍しくマリアの笑い声が聞こえた。
◇◇◇
白銀宮へ到着したカイは、入口でまた立ち止まることになった。
「……何これ」
回廊の片側に、箱が積まれていた。
大きな箱。
小さな箱。
長細い箱。
花束。
果物籠。
菓子。
装飾品らしい包み。
そして、山のような封書。
本当に。
山。
そんな言葉が大袈裟ではない量だった。
「カイ!」
奥からソフィアが歩いてくる。
「遅いです」
「訓練終わってすぐ来たぞ」
「本当に?」
「本当」
「怪我は?」
「ない」
「二対一だったそうですね」
「普通の訓練」
「普通ですか?」
「騎士団では」
ソフィアは少し不満そうに眉を寄せる。
カイはその顔を見て、小さく笑った。
「そんな顔するなよ。怪我してないって」
「心配なのです」
「知ってる」
「なら」
「だから、ありがとう」
ソフィアが一瞬止まった。
「エマから伝わった?」
「はい」
「じゃあもう一回」
「直接?」
「ああ」
カイは少し照れながらも、誤魔化さない。
「心配してくれてありがとう」
ソフィアの頬が少し赤くなる。
「……はい」
「何」
「嬉しいです」
「そっか」
「でも無茶は駄目です」
「そこは変わらないんだ」
「当然です」
二人で少し笑ったあと、カイは改めて周囲を見回した。
「それで……これ全部?」
「婚約祝いです」
「全部!?」
「はい」
「朝から?」
「昨夜から届き始めました」
「こんなに?」
「まだ増えます」
カイは絶句した。
「……帝国怖い」
ソフィアが思わず笑う。
「私も、ここまで一気に届くとは思いませんでした」
「ソフィーでも?」
「正式な皇女婚約ですので、ある程度は想像していましたが」
「これ、どうするの?」
ちょうどそこへエマが近づいてきた。
「まず送り主と内容をすべて記録いたします。その後、受領して問題のない品か確認し、受け取ったものについては礼状を返します」
「受け取らないものもある?」
「高額すぎる品、政治的な見返りを強く求めていると判断される品、宮廷規定に抵触する品などは返送いたします」
「……難しい」
「そこで」
エマは抱えていた書類の束を差し出した。
「本日からカイ様にも確認していただきます」
「俺も?」
「お二人への婚約祝いでございますので」
カイはソフィアを見る。
「二人の?」
「はい」
ソフィアは嬉しそうに笑った。
「一緒に見ましょう」
「全部?」
「全部です」
「今日終わる?」
「終わりません」
エマが即答する。
「ですよね」
カイは深く息を吐いた。
長い午後が始まった。
◇◇◇
最初のうちは、カイも少し楽しんでいた。
「クラウゼル伯爵家から、銀製の茶器一式。伯爵夫人より殿下へ刺繍布。さらにエレナ様より、お二人宛てのお手紙でございます」
「エレナから?」
カイが封書を受け取る。
ソフィアも自然に隣へ寄った。
「読んでも?」
「もちろんです」
二人で手紙を開く。
文章そのものは長くなかった。
昨日の正式発表を見たこと。
カイが途中で逃げず、最後までちゃんとソフィアの隣に立っていたこと。
ソフィアが発表中に泣かなかったこと。
夜会で二人が思った以上に自然に踊っていたこと。
そして最後に。
『ようやく堂々とお祝いできます。二人とも、本当におめでとう』
そこまで読んで、カイは少し黙った。
「……嬉しいな」
「はい」
ソフィアの目も柔らかい。
「あとで返事書こう」
「二人で?」
「うん」
「はい」
次の贈答品へ移る。
「第四近衛騎士団有志」
「何?」
カイの顔に嫌な予感が浮かぶ。
箱を開くと、高級そうな酒が二本と、小さな木札が入っていた。
木札には。
『婚姻式まで怪我禁止』
「……」
カイは無言になる。
ソフィアも木札を読む。
そして。
「正しいです」
「そこ?」
「はい」
「絶対団長絡んでるだろ」
エマが送り主一覧へ視線を落とした。
「マリア様、リナ様ほか二十三名のお名前がございます」
「やっぱり!」
ソフィアが声を立てて笑う。
「良い方たちですね」
「俺に怪我禁止って書いてるぞ」
「正しいです」
「ソフィーまで同じこと言うなよ」
その後も。
菓子。
花。
宝飾品。
絹織物。
国外大使からの工芸品。
軍高官からの儀礼用短剣。
「これ格好いいな」
短剣を見た瞬間、カイの目が明らかに変わる。
「カイ」
「何」
「贈答品です」
「見てるだけだって」
「目が訓練場の時と同じです」
「そんなに?」
「はい」
エマも少し笑った。
「受領可否は法務確認後でございます」
「分かりました」
だが、二刻近く経過しても贈答品の山はほとんど減らない。
最初は面白がっていたカイも、少しずつ椅子へ沈み始める。
「……剣振りたい」
「午前中に振ったでしょう」
「また振りたい」
「逃げないでください」
「逃げてない」
「顔が逃げています」
「顔って逃げるの?」
ソフィアが笑った。
「カイ」
「何?」
「少し休憩します?」
「する」
即答だった。
「素直ですね」
「今日は素直でいい」
◇◇◇
休憩のため、二人は白銀宮の小さな露台へ出た。
午後の空は朝よりもよく晴れており、柔らかな春風が庭園の花の香りを運んでくる。手すりの向こうには皇城を囲む帝都の屋根が広がり、そのさらに奥には淡い山並みまで見えた。
昨日。
あの街へ。
自分たちの婚約が伝わり始めた。
今日になれば、もっと多くの人が知っているはずだ。
「カイ」
「何?」
「城下では、もう正式発表の文面が掲示され始めているそうです」
「もう?」
「はい」
ソフィアは露台の向こうへ視線を向けた。
「今頃、たくさんの人がカイの名前を知っています」
カイは少し複雑な顔になる。
「やっぱり恥ずかしいな」
「まだ?」
「だって昨日まで、城下歩いてもほとんど誰も俺のこと知らなかったんだぞ」
「近衛騎士として知る方はいらっしゃったでしょう」
「一部だけだろ」
「今日からは、第三皇女の婚約者です」
「……目立つな」
「目立ちます」
そこでカイは、ふと思いついたように横を見る。
「お忍びできる?」
ソフィアが止まった。
「……」
「何その顔」
「私も考えていました」
「やっぱり?」
この物語が始まってから、何度も二人で城外へ出た。
身分を隠し。
普通の服を着て。
市場を歩き。
川辺へ行き。
店を覗き。
腕輪も、そんな時間の中で選んだ。
正式な婚約者になった今。
顔も。
名前も。
昨日の発表で多くの者へ知られた。
「前とまったく同じ形では」
ソフィアの声が少しだけ寂しそうになる。
「難しいかもしれません」
「……そっか」
思っていた以上に。
カイも寂しかった。
「カイ?」
「いや」
しばらく帝都を眺めたあと、カイはゆっくり口を開く。
「俺」
「はい」
「普通に二人で出るの、結構好きだったんだなって」
ソフィアの目が少し大きくなる。
「お忍びが?」
「ああ」
「私と?」
「他に誰がいるんだよ」
ソフィアの頬がほんの少し赤くなる。
「……嬉しいです」
「でも」
カイは手すりへ片腕を預け、少し笑った。
「全部なくなるって決まったわけじゃないだろ?」
「はい?」
「顔を隠したり、時間帯を変えたり、護衛方法を変えたり。前と同じじゃなくても、やり方はあるんじゃない?」
ソフィアの表情が少しずつ明るくなる。
「続けたい?」
「続けたい」
ほとんど間を置かず答えた。
今度はソフィアが完全に止まる。
「そんなに?」
「だって」
カイは少し照れながら、けれど目を逸らさなかった。
「ソフィーと普通に歩ける時間、俺は好きだから」
空色の瞳が潤む。
「また泣く?」
「少し危ないです」
「婚約発表終わったのに?」
「カイの言葉が強くなったからです」
「何それ」
二人で笑う。
「では」
ソフィアは少し弾んだ声で言った。
「お父様へ相談します」
「陛下に?」
「今後もお忍びで城下へ出たいと」
「怒られない?」
「婚約者同伴です」
「万能だな、その言葉」
「はい」
「警備計画とか」
「エマとマリアへ相談します」
「逃げ道が完全に塞がれるな」
「カイも一緒に考えてください」
「分かった」
少し先の未来が見えた。
正式に婚約したからといって、これまで二人で積み重ねた時間を全部捨てる必要はない。
少し形を変える。
できなくなったものがあれば、新しい方法を探す。
「……増えるだけか」
カイが小さく呟いた。
「何が?」
「今までの俺たちが消えるんじゃなくて」
ソフィアを見る。
「新しい俺たちが増えるだけ」
ソフィアは柔らかく笑った。
「はい」
「そう思ったら、ちょっと楽だな」
「私もです」
◇◇◇
休憩を終え、二人は再び贈答品と祝辞の確認へ戻った。
しばらくは穏やかな時間が続いた。
だが、エマが一通の封書を手にした時、部屋の空気が少し変わった。
「姫様」
「何です?」
「こちらの書状ですが」
エマが差し出した封筒には、カイには見覚えのない貴族家の封蝋が押されていた。
しかしソフィアは紋章を見た瞬間、わずかに表情を変える。
「誰?」
カイが尋ねる。
「帝国南部の侯爵家でございます」
「祝い?」
「表向きは」
その言い方で。
カイにも分かった。
「表向き?」
エマは慎重に封書を開いた。
「婚約を祝う旨の文面の末尾に、婚姻前にカイ様の血統および出自を正式に再調査すべきではないか、との意見が添えられております」
カイの表情が固くなる。
「……俺の出自」
「はい」
また。
平民。
孤児。
血統。
昨日まで何度も向き合った言葉が戻ってくる。
ソフィアの目が少し鋭くなった。
「ヴェルク侯爵とは別の家ですね」
「はい」
「今回の婚約に反対しているのですか?」
「少なくとも、無条件に支持しているとは言い難いかと」
カイは机の上の書状へ視線を落とした。
昨日、婚約は正式に発表された。
想像していた以上に、多くの祝福ももらった。
ヴェルク侯爵からさえ、最後には形式的ながら祝福の言葉を受けた。
それでも。
終わっていない。
むしろ。
表へ出たからこそ、これから始まることもある。
「カイ」
ソフィアの声が聞こえる。
「大丈夫」
反射的に言いそうになる。
だが。
カイは少し考えた。
そして首を横へ振る。
「……いや」
ソフィアが静かに待つ。
「少し嫌だ」
「嫌ですか?」
「ああ」
正直に言う。
「また出自の話かって思った」
「はい」
「何か分からないことが出てくるのも怖い」
「はい」
「でも」
カイはゆっくり息を吐いた。
「昨日までみたいに、全部怖くて逃げたいとは思わない」
「どうして?」
「だって」
少しだけ苦笑する。
「もう帝国中に、俺たち婚約したって言っただろ」
「はい」
「今さら俺が勝手に消えたら、ソフィー怒るだろ」
「とても」
「陛下も?」
「とても」
「皇太子殿下も?」
「兄上は自分で追いかけると思います」
「怖い」
「マリアも」
「団長は普通に捕まえるな」
「リナも」
「笑いながら連れ戻す」
二人で少し笑う。
それだけで、胸へ乗っていた重さがわずかに軽くなった。
「じゃあ」
カイはエマを見る。
「これ、正式に調べる必要があるなら調べてもいいんじゃないですか?」
エマが少し驚いた。
「カイ様」
「俺、自分の両親について全部知ってるわけじゃないです」
幼い頃の記憶はある。
父。
母。
平民だった。
それくらい。
幼くして両親を失い、その後は孤児院へ入った。
昔の記録がどれほど残っているのかも分からない。
「調べて問題ない範囲なら」
カイは一度だけ息を整える。
「隠す必要ないと思います」
ソフィアが心配そうに見る。
「怖くない?」
「怖い」
そこは即答した。
「何が出るか分からないし」
「はい」
「でも」
カイはソフィアを見た。
「何が出ても、俺がカイなのは変わらないんだろ?」
ソフィアの息が止まりかける。
そして。
「はい」
柔らかく。
けれど迷いなく答えた。
「絶対に変わりません」
「じゃあ、必要なら調べよう」
エマは二人の顔を見比べたあと、静かに頷いた。
「承知いたしました」
「ただし」
ソフィアの声が少し強くなる。
「政治的にカイを攻撃する目的だけで、必要以上に過去を暴くことは認めません」
「はい」
「法務上必要な確認と、本人が同意した範囲に限ってください」
「承知しております」
カイは隣のソフィアを見る。
「ソフィー」
「何です?」
「ありがとう」
「何が?」
「俺が答えるところを残しながら、ちゃんと言うべきところは言ってくれる」
ソフィアの表情が柔らかくなる。
「約束でしょう?」
「俺が言うところは俺が」
「私が言うところは私が」
「一緒のところは?」
「一緒に」
目が合う。
二人とも、少し笑った。
◇◇◇
贈答品の確認が一段落した頃には、窓から入る光が橙色へ変わっていた。
「本日はここまでにいたしましょう」
エマが書類をまとめながら告げる。
その言葉を聞いた瞬間、カイは椅子の背へ身体を預けた。
「終わった……」
「全部ではございません」
「それ言わないで」
「明日も続きます」
「聞きたくない」
ソフィアが声を立てて笑う。
「カイ」
「何?」
「今日もお疲れさまでした」
「ソフィーも」
「私はある程度慣れています」
「婚約祝いに?」
「違います」
また笑う。
カイは椅子から立ち上がると、窓の外へ視線を向けた。
今日一日。
朝は騎士団で祝われた。
回廊を歩けば「カイ様」と呼ばれた。
白銀宮へ来れば贈答品の山があった。
城下では、もう婚約の発表文が掲示され始めている。
確実に。
昨日までとは違う。
でも。
騎士団へ戻れば木剣を握れた。
仲間たちは今までと変わらずからかった。
ソフィアとも。
今まで通り笑えた。
「……変わったな」
「何がです?」
「今日」
カイは少し考えてから言った。
「昨日より、俺が本当に婚約者なんだって実感した」
ソフィアは少しだけ不安そうに見る。
「嫌でした?」
「全然」
今度は即答だった。
「大変だけど」
「はい」
「嬉しい方が多い」
ソフィアの目が少し潤む。
「泣く?」
「今日は耐えます」
「昨日いっぱい泣いたから?」
「はい」
「よく泣いたもんな」
「カイが悪いです」
「また俺?」
「はい」
カイは笑った。
それから少しだけソフィアへ近づく。
「じゃあ」
「はい?」
「今日は泣かない代わりに」
「何です?」
カイは少し照れながら両腕を広げた。
「抱きしめる?」
ソフィアの顔が一気に赤くなる。
「……はい」
少し離れた場所にはエマがいる。
カイもそこで一瞬止まり、エマを見る。
「エマさん」
「何でしょう」
「今」
「はい」
「人前ですけど」
「はい」
「抱きしめても?」
エマは一度だけ瞬きをした。
「婚約者として節度の範囲であれば」
「……許可出た」
「カイ!」
ソフィアが真っ赤になる。
「確認しただけ」
「確認しないでください!」
「でも」
カイは少し笑った。
「もう秘密じゃない」
ソフィアの動きが止まる。
その言葉が。
ゆっくり胸へ入っていく。
「……そうですね」
今度はソフィアの方から一歩近づいた。
カイの胸へ身体を預ける。
カイも背中へ腕を回し、静かに抱きしめた。
エマは少しだけ視線を外した。
ただし、以前のようにわざわざ退出はしない。
それもまた。
正式に公表された婚約者同士としての。
少し新しい距離だった。
「カイ」
「何?」
「今日、何度もお祝いされました」
「俺も」
「嬉しかった?」
「ああ」
「私もです」
ソフィアの腕が少し強くなる。
「でも」
「何?」
「一番嬉しいのは」
カイの胸元で、ソフィアが小さく笑う。
「カイが今日も隣にいることです」
カイは目を少し閉じた。
「俺も」
「本当?」
「ああ」
抱く腕へ少し力を込める。
「今日も会えてよかった」
ソフィアの目に、もう涙が滲んでいた。
「泣かないって言ってなかった?」
「無理でした」
「早い」
「カイが悪いです」
「分かったよ」
カイは小さく笑う。
「じゃあ泣いていい」
「はい」
◇◇◇
その夜。
騎士団宿舎へ戻ったカイは、机の上へ翌日の予定表を広げていた。
贈答品確認の続き。
婚姻後の身分制度説明。
皇族配偶者としての警護規定。
午後には婚姻式で使用する会場候補の確認。
「……まだ二月あるのに」
予定表は隙間が少ない。
「いや」
少し考える。
「二月しかないって言われるんだろうな」
最近何度も聞いた言葉を、自分で先に言ってしまう。
少し笑ったあと。
南部侯爵家から届いた書状のことを思い出す。
出自の再調査。
胸の奥へ、まだ小さな重さがある。
怖くないわけではない。
もし。
自分が知らなかった何かが見つかったら。
それを誰かが利用したら。
それでも。
「俺は俺」
小さく言う。
右手首の空雫石へ触れる。
ソフィアが言った。
何が増えても。
何を知っても。
カイが生きてきた時間まで消えるわけではない。
それから。
昼間の露台で話したことを思い出す。
「お忍びか」
正式に婚約したあとも。
続けたい。
ソフィアと普通に歩く時間。
市場。
川辺。
小さな店。
全部を諦める必要はない。
「できるといいな」
今までを捨てるのではなく。
形を変えながら残す。
そして新しいものを増やしていく。
「……増えるだけ」
その考え方が、少しずつ自分の中へ馴染んできている。
「おやすみ、ソフィー」
空雫石へ指を添えたまま、カイは小さく笑った。
「明日も会いに行く」
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮では、ソフィアが一通の書状を前にしていた。
帝国南部の侯爵家から届いたもの。
婚約祝賀の文面の末尾に。
カイの血統と出自を再確認すべきではないかと記されている。
怖くないわけではない。
調査そのものではなく。
そこから何かを見つけ出し、カイを傷つけるために利用しようとする者が現れることが。
けれど。
『何が出ても、俺がカイなのは変わらないんだろ?』
昼間のカイの言葉が蘇る。
ソフィアは左手首の夜空石へ触れた。
「変わりません」
誰もいない部屋で。
それでも。
はっきり言う。
「絶対に」
それから、机の横へ置かれていた別の紙へ目を向ける。
明日の予定。
婚姻準備。
身分。
家名。
警護。
そして。
今日話した。
お忍びを続けるための相談。
「……お忍び」
口元が少し緩む。
カイも。
あの時間が好きだった。
それを今日、初めてはっきり聞いた。
「カイも好きだったのですね」
自分だけが嬉しかったわけではない。
自分だけが、普通の二人でいられる時間を大切に思っていたわけではない。
「お父様には」
少し考える。
「絶対に認めてもらいます」
自分で言ってから。
少し笑った。
婚約発表は終わった。
けれど。
お忍びで続けてきた婚約準備そのものが終わったわけではない。
むしろ。
これからはもっと難しく。
もっと忙しく。
きっと。
今までとは違う楽しさも増えていく。
「おやすみなさい、カイ」
夜空石へ指を添える。
「明日も待っています」
婚姻式まで、あと二月。
婚約発表を終えた翌日。
カイとソフィアの日常は、何もかもが突然別のものへ変わったわけではなかった。
カイは騎士団へ戻れば、今まで通り木剣を握る。
仲間たちは今まで通り笑い、からかい、容赦なく訓練相手になる。
ソフィアも今まで通りカイの怪我を心配し、会えば嬉しそうに笑う。
けれど。
確かに変わったものもある。
城中の者がカイを「第三皇女の婚約者」として見るようになった。
祝辞が届く。
贈答品が積まれる。
呼ばれ方が変わる。
護衛される側としての扱いまで始まる。
そして。
祝福が増えれば。
同じだけ、疑問や思惑も増えていく。
カイの出自を改めて調べるべきだという声も、すでに出始めていた。
婚約を公表したからといって、問題がすべて終わったわけではない。
むしろ。
公になったからこそ。
ここから始まることの方が多い。
それでもカイは、もう以前のように「自分が消えればいい」とは考えなかった。
怖いなら、怖いと言う。
嫌なら、嫌だと認める。
その上で。
必要なら向き合う。
ソフィアもまた、カイの代わりにすべてを跳ね返すのではなく、彼が自分の足で立つ場所を残しながら隣にいる。
正式な婚約者になっても。
二人がお忍びで過ごしてきた時間まで、消える必要はない。
今までを捨てるのではなく。
そこへ新しい日々を増やしていく。
第三皇女と近衛騎士として。
皇族と平民として。
そして。
もう誰にも隠す必要のない婚約者同士として。
二人の本当の婚約生活は。
婚約発表を終えた、その翌日から。
ようやくゆっくりと始まり始めていた。




