第32話 第三皇女様、父さんと母さんの眠る場所が分かった日に婚姻式の招待状まで決めるんですか?
婚姻式まで、あと二月。
灰鷲商会を訪れた翌朝、帝都の空には薄い雲が広がっていた。
雨を降らせるほど厚い雲ではないが、昨日までの明るい春の日差しは少し和らいでいる。第四近衛騎士団の訓練場にも柔らかな灰色の光が落ち、朝の風には雨上がりとは違う冷たさが混じっていた。
木剣同士がぶつかる乾いた音が響くたび、訓練を終えた騎士たちの身体から立ち上る熱が冷たい空気へ溶けていく。
カイは最後の一合を終えると、木剣を棚へ戻し、右肩をゆっくり回した。
今日の訓練は一対一を三本。それから軽い走り込みと、基本の型を確かめる程度の素振りだけで終わらせている。
カイ自身としては、かなり物足りない。
けれど昨日は灰鷲商会で父レンドに関する記録を何時間も読み、さらに父を直接知っているドルトから昔の話を聞いた。身体よりも頭と心の方が疲れていることくらい、自分でも分かっていた。
何より。
「今日は二対一しなかったね」
案の定、背後から声が飛んできた。
カイは振り返らず、訓練用の手袋を外しながら答える。
「普通だろ」
「三対一も?」
「してない」
「魔法訓練は?」
「してない」
「高いところから飛び降りて着地する訓練とか」
「何でそんな訓練を俺が普段からやってる前提なんだよ」
さすがに振り返ると、リナが妙に真面目な顔を作って立っていた。
その背後では、若い騎士二人が明らかに笑いを堪えている。
「だって姫様へ報告する項目があるから」
「やっぱり報告するんじゃないか!」
「冗談」
「最近その冗談、多すぎない?」
カイは呆れながら手袋を腰帯へ挟んだ。
以前なら、ソフィアに訓練内容を知られること自体を「過保護だ」と嫌がっていたかもしれない。
今でも監視されるのは嫌だ。
だが、心配されていることそのものまで鬱陶しいとは思わなくなった。
自分の無事を気にしてくれる人がいる。
怪我をすれば怒ってくれる人がいる。
それを受け取ることも、少しずつ覚えている。
「でもさ」
リナが笑いを収め、少しだけ声を落とした。
「昨日、どうだった?」
カイの手が止まる。
何について聞かれているのかは分かった。
灰鷲商会。
父レンド。
母ミア。
父を知るドルト。
幼いカイが剣士になりたがっていることを、父が何度も嬉しそうに人へ話していたということ。
「……良かったよ」
最初に出たのは、そんな短い言葉だった。
だが自分でも、それだけでは足りないと思った。
「父さんのこと、前より知れた」
「うん」
「俺が覚えてなかったことも多かったし、そもそも子供の頃には分からなかったことの方が多かった」
リナは珍しく途中で茶化さなかった。
カイが言葉を探している間も、黙って待っている。
「それでさ」
「うん」
「ちょっと変な感じなんだけど」
「何が?」
カイは少し照れたように笑った。
「昨日までより、父さんのこと好きになった」
リナの表情が柔らかくなる。
「変じゃないと思うよ」
「そう?」
「知らなかったところを知って、前より好きになることなんて普通にあるでしょ」
「……」
「姫様でもそうだったじゃん」
「何でそこでソフィーが出てくるんだよ」
「一番分かりやすいから」
「まあ……」
否定はできなかった。
五歳のソフィア。
七歳。
十歳。
十一歳。
十二歳。
自分が知らなかった幼い頃の彼女を写真画で見て、もっと好きになった。
父への気持ちとはもちろん違う。
それでも、知らなかった時間を知ることで、その人が自分の中でより大切になるという意味では少し似ていた。
「それで、次は?」
リナが尋ねる。
「ミュール宿」
「もう行く日決まった?」
「まだ。行政記録と墓の確認待ち」
「お墓も?」
「……うん」
その言葉を口にしただけで、胸の奥に鈍い痛みが走る。
昨日、灰鷲商会で聞いた。
父と母が最後に移り住もうとしていた場所。
流行病が起きた場所。
七歳のカイが一人残された場所。
「もし残ってるなら」
カイは無意識に自分の右手を見た。
「行く」
「姫様も?」
「来るって」
「でしょうね」
「そこ、誰も迷わないよな」
「七年」
「便利に使うな!」
少しだけ笑いが戻る。
その時、詰所の方からこちらへ向かってくる足音が聞こえた。
「カイ」
マリアだった。
「はい」
「少し来い」
いつもより短い呼び方に、カイの表情が変わる。
「何かありました?」
「法務局から連絡が入った」
「ミュール宿?」
「ああ」
マリアはそれ以上を訓練場では話さず、顎で詰所を示した。
「詳しくは中で話す」
「……はい」
昨日。
墓があるなら行きたい。
そう自分で決めた。
そして今日。
早くも、その先へ進む何かが分かったらしい。
カイは木剣を見送るように一度だけ振り返ってから、マリアの後を追った。
◇◇◇
詰所の小会議室には、マリアとカイのほか、騎士団付きの連絡文官が一人待っていた。
中央の机には帝室法務局の封書と、地方行政庁から転送されたらしい古い記録の写しが二枚置かれている。
カイは椅子へ座る前に、その紙へ目を向けた。
「見ても?」
「まず座れ」
「はい」
少し急かされるように腰を下ろす。
マリアも向かい側へ座り、連絡文官が封書を開いた。
「帝都東方行政庁および旧ミュール宿保健管理所の保管記録について、帝室法務局による照合が行われました」
「はい」
カイは膝の上で両手を軽く組む。
力を入れているつもりはないのに、指先が少し硬い。
「二十年以上前に発生した流行病に関する死亡記録は、一部に欠損が見られるものの、現在も保管されております」
鼓動が速くなる。
「レンド氏」
「はい」
「ミア氏」
「はい」
文官は一拍置いた。
「両名の死亡記録が確認されました」
カイは何も言わなかった。
知っていた。
両親は亡くなっている。
七歳の時に。
だから自分は孤児院へ入った。
新しい事実ではない。
それなのに、何十年も前の公的な記録の中で改めて「亡くなった」と確認されると、胸へ別の形で落ちてくる。
「……日付は?」
ようやく出た声は、少し低かった。
文官が一枚目の記録へ視線を落とす。
「レンド氏が先です」
「……はい」
「ミア氏より二日前に亡くなっております」
「父さんが先」
「はい」
「母さんは、その二日後?」
「記録上はそのようになっております」
記憶の奥で何かが揺れた。
父が寝台にいたような気がする。
母が泣いていたような気もする。
その後、母も横になった。
けれど七歳の自分の記憶は、夢と現実が混ざったように曖昧だった。
「……そうだったんだ」
小さく漏れた言葉へ、マリアも文官も何も返さなかった。
急いで慰められないことが、今はありがたかった。
「原因は?」
少し間を置いてカイが聞く。
「当時ミュール宿周辺で流行した熱病です」
「二人とも同じ?」
「記録上は、同一の症状群として扱われています」
「俺は?」
「カイ様ご本人の発症記録はございません」
「七歳の俺だけ残った」
「少なくとも行政記録上は、そのようになります」
どうして。
そんな思いが、胸の底からゆっくり上がってくる。
どうして父と母が亡くなって。
自分だけが生きたのか。
今まで何度も考えたはずなのに、記録を目の前にすると、また最初から突きつけられたような気がした。
けれど今は。
その問いを一人で答えなければならないとは思わない。
答えがないなら、ないままでもいい。
「それで」
カイは一度ゆっくり息を吸った。
「墓は?」
文官が二枚目の記録へ目を移した。
「埋葬記録が確認されました」
カイの身体が止まる。
「……ある?」
「はい」
「今も?」
「墓碑自体が現在も残っているかどうかは現地確認が必要ですが、埋葬地そのものは特定できています」
「場所は?」
「旧ミュール宿共同墓地です。現在は宿場の規模が拡大し、周辺一帯はミュール街という小さな町になっております」
「町になったんだ……」
「はい」
「父さんと母さんは、そこに?」
「流行病死者の共同埋葬区画ではありません。個別埋葬の記録が残っています」
カイは顔を上げた。
「個別?」
「はい」
「どうして?」
文官は記録の一節を確かめてから答えた。
「葬送費用の一部を、灰鷲商会が負担しております」
「……商会が?」
「はい。レンド氏の長年の勤務実績を理由として、商会から葬送支援が行われたようです」
昨日。
ドルトは父を「古い仲間」と呼んだ。
父の代わりに祝うつもりはない。
ただ、レンドと働いた一人として息子の結婚を祝いたい。
そう言った。
父が亡くなった時にも。
商会は父と母を放っておかなかった。
「……」
胸が熱い。
嬉しい。
でも。
同時に痛い。
何と呼べばいい感情なのか、すぐには分からなかった。
「団長」
「何だ」
「俺……」
その先が出てこない。
マリアは急かさなかった。
「今日」
少し時間を置いて、カイは言葉を続ける。
「ソフィーに会っていいですか」
「もう白銀宮から迎えが来ている」
「え?」
「法務局はあちらにも同時に報告している」
「また俺より早い」
「お前も今聞いたばかりだろう」
「そうだけど」
カイの口元が僅かに緩む。
それだけの会話で、張り詰めていた胸が少しだけほどけた。
「姫様は午後の公務を一部後ろへずらしている」
「……やっぱり」
「行ってこい」
「はい」
カイが立ち上がりかけたところで、マリアが呼び止めた。
「カイ」
「何です?」
「今日は訓練へ戻らなくていい」
「……」
「それから」
マリアは少しだけ言葉を選んだ。
「大丈夫じゃなくてもいい」
昨日。
カイがソフィアへ言った言葉だった。
悲しい。
嬉しい。
両方でいい。
無理に大丈夫にしなくてもいい。
「……団長」
「何だ」
「最近、優しいですね」
「殴るぞ」
「それでこそ団長」
カイは少し笑った。
そのあと、今度は誤魔化さずに頭を下げる。
「ありがとうございます」
マリアは礼へ直接答えず、顎で扉を示した。
「行け」
「はい」
◇◇◇
白銀宮へ着いた時、カイは普段よりかなり早足になっていた。
走るなと言われているので走ってはいない。
少なくとも本人はそう思っている。
だが正面玄関の前で待っていたエマは、カイの歩調を見るなりほんの少し眉を上げた。
「カイ様」
「ソフィーは?」
「中庭でお待ちです」
「聞いてる?」
「はい」
「全部?」
「帝室法務局より報告を受けております」
「そっか」
エマは一度だけカイの顔を見た。
「ご案内いたしますか?」
「……大丈夫」
言ってから。
カイ自身が止まった。
昨日までなら、そのまま言い切ったかもしれない。
けれど今日は。
「いや」
エマが静かに待つ。
「大丈夫かどうかは、まだ分からないけど」
カイは少しだけ笑った。
「中庭までは一人で行けます」
エマの目元が僅かに柔らかくなった。
「承知いたしました」
「ありがとう」
白銀宮の中庭には薄曇りの空から柔らかな光が落ちていた。
噴水の水音が一定の間隔で響き、青と白の小さな花が風に揺れている。肌に触れる風は少し冷たいが、春の匂いは確かに残っていた。
長椅子の近くで、ソフィアが立っている。
カイを見つけた途端、すぐこちらへ歩いてきた。
「カイ」
「ソフィー」
「聞いた?」
「はい」
「父さんと母さんのこと」
「はい」
「墓のことも?」
「はい」
カイはそこで足を止めた。
今まで。
ソフィアに会えば胸が軽くなることが多かった。
今日も、会えば少し楽になると思っていたのかもしれない。
でも。
軽くならない。
父が先に亡くなったことも。
二日後に母も亡くなったことも。
墓が残っているかもしれないことも。
全部。
まだ胸の中にある。
それでいい。
「ソフィー」
「はい」
「俺さ」
一度、息を吸う。
「父さんと母さんの墓」
「はい」
「あるって」
声が少し震えた。
「墓碑が残ってるかはまだ分からないけど、埋葬された場所は分かったって」
「はい」
「……行ける」
嬉しいのか。
悲しいのか。
分からない。
ただ。
ずっと知らなかった場所へ。
ようやく行けるかもしれない。
ソフィアは一歩近づいた。
「カイ」
「うん」
「今、抱きしめてもいいですか?」
カイは少しだけ笑った。
「聞くんだ」
「今日は、カイが決めてください」
ソフィアは手を伸ばさないまま待っている。
カイは一度目を閉じた。
そのあと。
「……して」
自分から言った。
ソフィアの腕が静かに背中へ回る。
カイも少し遅れて、彼女の身体を抱き返した。
温かい。
けれど、それだけで全てが消えるわけではない。
だからこそ。
今はその温かさがいい。
「ソフィー」
「はい」
「父さんが先だった」
「……はい」
「母さんは二日あと」
「はい」
「俺、知らなかった」
「はい」
「覚えてないんだ」
声が少し震える。
「何で俺だけ生きたんだろ」
答えのない問いだった。
ソフィアも、答えを作ろうとはしない。
「分かりません」
「うん」
「私には、その理由は分かりません」
「うん」
「でも」
背中に回された腕が少しだけ強くなる。
「今、カイがここにいることは分かります」
「うん」
「私の隣にいます」
「うん」
「それだけは、絶対に分かります」
「……うん」
二人はしばらくそのまま黙っていた。
噴水の水音。
風に揺れる木の葉。
遠くで鳴く小鳥。
今はそれ以外、何も必要なかった。
「ソフィー」
「はい」
「一緒に来る?」
「行きます」
即答だった。
分かっていた。
聞かなくても。
でも。
聞きたかった。
「ミュール街」
「はい」
「墓」
「はい」
「多分」
少しだけ声が弱くなる。
「俺、泣くと思う」
「はい」
「かなり」
「はい」
「格好悪いかも」
「はい」
「そこは否定してくれない?」
ソフィアが思わず小さく笑った。
「格好悪くありません」
「遅い」
「でも」
笑みを残したまま、ソフィアは静かに続ける。
「泣くカイも、私が知っているカイです」
「……強いな」
「婚約者ですから」
「またそれ」
カイも少し笑った。
それくらいでいい。
悲しいままでも。
笑っていい。
◇◇◇
しばらくしてから、二人は中庭の長椅子へ並んで座った。
エマが白花茶を置いてくれたが、必要以上には近づかず、少し離れた場所へ下がっている。
ソフィアが何も言わず待ってくれるのと同じように。
エマもまた、今日は二人の間へ余計な言葉を入れない。
「いつ行ける?」
白花茶へ手をつける前に、カイが尋ねた。
「まずは現地確認です」
「法務局が?」
「はい。墓碑が現存しているか、共同墓地が現在どのように管理されているかを確認していただいています」
「そっか」
「順調なら、数日中には」
「数日……」
今すぐ行きたい。
そんな気持ちもある。
一方で。
数日あることへ、少し安心している自分もいた。
墓が残っている。
その前へ立つ。
父と母がそこに眠っているのだと認める。
心の準備が必要なのだと思う。
「待てます?」
「……多分」
「急がなくてもいいです」
「うん」
「埋葬された場所は、今日分かったからといって明日すぐ消えるものではありません」
「墓碑が残ってれば」
「はい」
ソフィアは言葉を選びながら続ける。
「残っていなかったとしても、そこがお二人の眠る場所だった事実は変わりません」
カイは少し考えてから頷いた。
「……そうだな」
胸に入ってくるまでには、もう少し時間がかかりそうだった。
それでも。
急ぐ必要はない。
「それまで」
「はい」
「何しよう」
ソフィアが一瞬、目を瞬かせる。
「何を?」
「普通に過ごす」
「はい」
「訓練して」
「無茶なしで」
「そこ絶対入れる?」
「大切です」
「仕事して」
「はい」
「ソフィーと会って」
「はい」
「婚姻準備して」
そこで。
ソフィアの表情がほんの少し変わった。
カイは見逃さなかった。
「何?」
「……カイ」
「何」
「実は」
「何?」
ソフィアはわずかに視線を外す。
「今日の午後」
「うん」
「婚姻式の招待状について決める予定になっています」
「……」
カイは完全に止まった。
「今日?」
「はい」
「今じゃないよな?」
「午後です」
「父さんと母さんの墓が分かった日の午後に?」
「……はい」
カイはゆっくり空を見上げた。
「宮廷って」
「はい」
「本当に止まらないな」
「延期しますか?」
ソフィアの声に、申し訳なさが混じる。
カイはすぐには答えなかった。
今日。
父と母の死亡日を知った。
眠っている場所も分かった。
胸は重い。
それでも。
二月後。
自分はソフィアと結婚する。
その日は今日も近づいている。
過去を知ったから。
未来まで止める必要があるのか。
「……やる」
「本当ですか?」
「ああ」
「無理していません?」
「してない」
言ってから、カイは少し考えた。
「いや」
「カイ?」
「少しはしてるかも」
ソフィアの眉が寄る。
「でもさ」
カイは今度こそ、誤魔化さずに自分の気持ちを探した。
「今日、父さんと母さんの墓が分かった」
「はい」
「それで」
ソフィアを見る。
「俺が結婚する日も、ちゃんと近づいてる」
「……はい」
「両方、今日あっていいと思う」
胸は痛い。
でも。
同時に温かい。
どちらも本当だった。
「大丈夫じゃなくても?」
「うん」
「招待状を見ながら泣いても?」
「それは多分ソフィー」
「否定できません」
二人の間に小さな笑いが生まれる。
「じゃあ」
カイはゆっくり立ち上がった。
「午後、招待状決めよう」
「はい」
ソフィアも立ち上がり、少し嬉しそうに笑った。
「婚姻式まで二月しかありませんので」
「出た」
◇◇◇
午後。
白銀宮の小会議室へ入ったカイは、卓上を見た瞬間に眉を寄せた。
「多い」
招待状の見本が六種類も並べられていたからだ。
午前の法務局とは違い、今回は宮廷儀礼局から二名の文官が来ている。
同席しているのはソフィアとエマ。
そして、話を始めてしばらくした頃。
なぜかレオニスまでやって来た。
「何で皇太子殿下まで?」
「暇だった」
「嘘ですよね」
「監督だ」
「何の?」
「お前が奇抜な招待状を選ばないように」
「俺、そんな信用ないんですか?」
「ある意味ある」
「どっちなんです?」
ソフィアが横で小さく笑う。
「カイ」
「何?」
「まず見ましょう」
「はい」
一枚目は、白地に金縁。帝室紋章を大きくあしらった、いかにも皇族婚姻らしい格式の高いもの。
二枚目は淡い青を基調とし、銀の縁取りと第三皇女を示す意匠が入っている。
三枚目には白銀宮の庭園に咲く花が使われ、少し柔らかな雰囲気になっていた。
四枚目は帝国旗と皇室紋章が中心で、とにかく儀礼性が強い。
五枚目は夜空と小さな星。
そして。
六枚目。
白を基調とした紙へ、淡い青と銀で空と一滴の雫を思わせる細い意匠が施されていた。
カイの視線が止まる。
「これ」
隣のソフィアも、ほぼ同じタイミングで手を止めた。
「空雫石みたいです」
「やっぱり?」
儀礼局の文官が少し困ったように答える。
「申し訳ございません。空雫石そのものを意図した意匠ではなく、婚姻を祝う空と光を図案化したものです」
「偶然?」
「はい」
カイは自分の右手首を見る。
空雫石。
ソフィアも左手首の夜空石へ目を落とした。
「……俺、これ好き」
カイが言う。
ソフィアもすぐに頷いた。
「私もです」
向かいに座っていたレオニスが二人を見比べる。
「珍しいな」
「何がです?」
「最近、選ぶものがよく一致する」
「前からです」
ソフィアが即答する。
「そう?」
カイは少し首を傾げた。
「腕輪」
「はい」
「婚姻式の礼拝堂」
「はい」
「家名候補はまだ決まってない」
「はい」
「でも」
レオニスは少し口元を緩めた。
「夫婦らしくなってきたな」
「殿下」
「何だ」
「今それ言います?」
「事実だろう」
カイが少し照れ、ソフィアの頬もすぐ赤くなる。
儀礼局の文官は仕事へ戻すように咳払いをした。
「では、第六案を第一候補としてよろしいでしょうか」
カイとソフィアは顔を見合わせる。
「うん」
「はい」
ほぼ同時だった。
「次に文面でございます」
「まだある」
「当然ございます」
「何種類?」
「四案です」
「多いな……」
レオニスが少し笑う。
「これで多いなどと言っていたら、婚姻式当日まで持たんぞ」
「持ちますよ」
「本当か?」
「ソフィーいるので」
ごく自然に答えた。
その直後。
部屋が少しだけ静かになった。
カイ自身も、自分が何と言ったのか一拍遅れて気づく。
レオニスの眉が僅かに上がった。
ソフィアは今にも涙を浮かべそうな顔をしている。
「……何です?」
居心地が悪くなり、カイが周囲を見る。
「いや」
レオニスが口元を緩めた。
「本当に普通に言うようになったなと思ってな」
「最近そればっかり言われます」
「良い変化だ」
「皇太子殿下に言われると余計恥ずかしい」
「なぜ私だけ扱いが違う」
「兄だから?」
ソフィアが笑いながら答えた。
◇◇◇
招待状の文面を決める作業は、カイが思っていたよりずっと時間がかかった。
皇帝名で招くのか。
皇室名で統一するのか。
ソフィアとカイの名をどの位置へ置くのか。
白銀宮礼拝堂が正式決定前であることを、どの段階まで文面へ反映するのか。
カイにとっては「来てください」と書けば済みそうなものでも、皇族の婚姻となればそうはいかないらしい。
「カイ様」
儀礼局の文官が、今度は一枚の長い一覧を差し出した。
「招待対象者の一次案となります」
「……」
受け取って目を通す。
皇族。
主要貴族。
各国大使。
軍上層部。
第四近衛騎士団代表。
白銀宮関係者。
友人。
「多い」
「白銀宮礼拝堂の収容人数に合わせ、すでにかなり絞っております」
「これで?」
「はい」
カイは名前を一つずつ追う。
マリア。
リナ。
クラウゼル伯爵夫妻。
エレナ。
エマ。
そこまでは納得できる。
そして。
ある名前で、指が止まった。
「ミレイユ院長?」
「はい」
ソフィアが答える。
「私から候補へ入れていただきました」
「ソフィーが?」
「はい」
「……」
胸が静かに温かくなる。
「呼びたいですか?」
ソフィアが尋ねる。
「カイが嫌でなければ」
「嫌じゃない」
答えはすぐ出た。
「むしろ来てほしい」
「では、そのままお願いしましょう」
「うん」
さらに下へ視線を進める。
灰鷲商会。
ドルト・ルーガン。
ガレス・ルーガン。
「……これも?」
「私からです」
「ソフィー」
「嫌でした?」
「違う」
カイはゆっくり首を横へ振った。
「今日じゃないけど」
昨日。
父を知る人として。
自分を祝ってくれた。
「ドルトさんに来てもらえたら、嬉しい」
「では」
「うん」
自分の婚姻式。
最初は皇族や貴族、大使が並ぶ場所だと思っていた。
自分はそこへ、ソフィアの婚約者として立つだけ。
そんな感覚が少し残っていた。
けれど。
今、この一覧には。
自分の側の人間もいる。
騎士団。
孤児院。
父が働いた灰鷲商会。
過去に関わる人たちが。
自分の未来の日へ集まってくれるかもしれない。
「カイ」
ソフィアが静かに聞く。
「他に、呼びたい方はいますか?」
カイは少し考えた。
「騎士学校の教官」
「はい」
「二人いる」
「お名前を教えてください」
「後で書く」
「では候補へ追加していただきましょう」
「うん」
そこで。
カイの視線が止まる。
「……もし」
「はい」
「父さんと母さんの墓が残ってて」
部屋が少しだけ静かになる。
「墓参りに行けたら」
「はい」
カイは自分でも妙なことを言おうとしていると分かっていた。
「招待……はできないよな」
ソフィアはすぐに「できます」とは言わなかった。
レオニスも口を挟まない。
「でも」
カイは少しだけ笑う。
「報告はしたい」
ソフィアの目が柔らかくなる。
「一緒にしましょう」
「うん」
「婚姻式の前に?」
「間に合うなら」
「はい」
「来てって」
墓へ向かって。
来てほしいと言う。
自分でも少し変だと思う。
それでも。
「言いたい」
ソフィアは小さく頷いた。
「はい」
カイは再び招待者一覧へ目を落とした。
「今日さ」
「はい」
「父さんと母さんが亡くなった日が分かって」
「はい」
「墓の場所も分かって」
「はい」
「その日の午後に、結婚式へ誰を呼ぶか決めてる」
「はい」
「変な日だな」
「そうですね」
「でも」
カイは少し考えてから、ゆっくり笑った。
「悪くない」
ソフィアの目が少し潤む。
「泣く?」
「まだです」
「強い」
「今日はカイの方が危ないのでは?」
「否定できない」
横からレオニスが口を挟む。
「二人とも、ここで泣くと儀礼局の者が困るぞ」
「兄上!」
「事実だ」
文官たちは一瞬どう反応すべきか迷ったあと、結局小さく笑った。
重かった部屋の空気が、ほんの少し柔らかくなった。
◇◇◇
夕方には、招待状の第一次案がひとまずまとまった。
儀礼局の文官たちが書類を整理し始め、レオニスも先に部屋を出ようとする。
ところが扉の前で一度足を止めた。
「カイ」
「はい?」
「今日」
「何です?」
「よくここまで来たな」
何を言われたのか分からず、カイが少し首を傾げる。
レオニスは振り返った。
「出自のことだ」
「……はい」
「婚約発表前のお前なら」
少しだけ考えるように間を置く。
「父母の墓が見つかった日に、婚姻式の招待状を決めるなど無理だと言っていたかもしれん」
カイも過去の自分を想像する。
「……かもしれません」
「今は」
「はい」
「両方を持てるようになったな」
カイは少し目を伏せた。
「今日、団長にも言われました」
「何と?」
「大丈夫じゃなくてもいいって」
レオニスの表情が少し柔らかくなる。
「良い団長だな」
「はい」
「姫様も」
「はい」
「良い婚約者だ」
カイは隣のソフィアを見た。
「……はい」
迷わず答えた。
ソフィアの頬が一気に赤くなる。
レオニスはそれを見て、少し満足そうに笑った。
「ならよい」
そのまま扉の向こうへ消えていく。
扉が閉じた直後。
「カイ」
「何?」
「今」
「うん」
「良い婚約者だと」
「言った」
「……」
「何」
ソフィアは両手を胸の近くへ寄せた。
「今日は、もう十分です」
「何が?」
「幸せが」
「そんなに?」
「はい」
カイは少し笑った。
「俺は」
「はい?」
「まだ、もう少し欲しいかも」
そう言って両腕を広げる。
ソフィアの顔が真っ赤になった。
「カイ!」
「何」
「人がいます!」
エマがいる。
儀礼局の文官たちも、まだ完全には退出していない。
カイは周囲を確認したあと。
「じゃあ待つ」
「そうしてください!」
叱りながら。
ソフィア自身も笑っていた。
◇◇◇
少しして。
白銀宮の私室。
正確には隣室にエマが控えているので、本当に二人きりというわけではない。
それでも扉を一枚隔てただけで、空気はずっと静かになった。
カイはソファへ深く腰を下ろし、ソフィアもその隣へ座った。
「……長い日だった」
「はい」
「朝、父さんと母さんの死亡日を知って」
「はい」
「墓の場所も分かって」
「はい」
「午後に招待状」
「はい」
「今は夜」
「まだ夕食前です」
「気分は夜」
ソフィアが少し笑った。
カイも息を吐く。
「変な日」
「はい」
「でも」
隣を見る。
「今日、良かった」
「何がです?」
「全部」
父の死亡日を知った。
悲しい。
母がその二日後に亡くなった。
苦しい。
墓があるかもしれない。
嬉しい。
怖い。
婚姻式の招待状を選んだ。
楽しみ。
全部が混ざっている。
「俺さ」
カイは胸元へ手を当てた。
「前だったら、どれか一個にしようとしてた気がする」
「一個?」
「悲しい日なら、今日は悲しい日」
「はい」
「嬉しい日なら、今日は嬉しい日」
「はい」
「でも今日」
少し笑う。
「全部あった」
「はい」
「それで」
ソフィアを見た。
「全部持ってても、大丈夫だった」
ソフィアの瞳が柔らかくなる。
「大丈夫じゃなくても?」
「……そうだな」
カイも笑った。
「それでもよかった」
悲しさが消えていない。
なのに笑える。
笑ったからといって、父と母への気持ちが軽くなるわけではない。
全部。
同じ自分の中にある。
「カイ」
「何?」
「抱きしめてもいいですか?」
今日二回目。
カイは少し笑った。
「今日は聞く日?」
「はい」
「じゃあ」
両腕を広げる。
「お願いします」
ソフィアがすぐ胸へ入ってくる。
カイはその背中をゆっくり包んだ。
朝より。
ほんの少し。
息がしやすい。
「ソフィー」
「はい」
「墓参り」
「はい」
「一緒に行こう」
「はい」
「それから」
「はい」
「婚姻式」
「はい」
「ちゃんとやろう」
ソフィアの腕に少し力が入る。
「もちろんです」
「父さんと母さんに」
「はい」
「俺、結婚するってちゃんと報告して」
「はい」
「そのあと」
カイは目を閉じた。
「ソフィーと結婚する」
腕の中でソフィアが完全に止まった。
「カイ」
「何」
「今の」
「何?」
「もう一度」
「今日はそれ多いな」
「大切です」
少し照れた。
それでも。
カイは言う。
「ソフィーと結婚する」
ソフィアがカイの胸へ顔を埋めた。
「……無理です」
「何が?」
「今日は泣かないつもりでした」
「泣いていいよ」
「カイも」
「うん」
「一緒に?」
カイは少し考え。
優しく笑った。
「今日は、両方でいい」
昨日、自分が口にした言葉。
悲しい。
嬉しい。
大丈夫。
大丈夫じゃない。
全部あっていい。
ソフィアも、胸元で小さく笑った。
「はい」
◇◇◇
その夜。
騎士団宿舎へ戻ったカイは、新しく届いた記録の写しを机の上へ並べた。
父レンドの死亡日。
その二日後。
母ミアの死亡日。
旧ミュール宿。
共同墓地。
個別埋葬。
灰鷲商会による葬送費用の負担。
少ない文字だった。
けれど。
今夜のカイには、どの言葉も重い。
「父さん」
椅子へ腰掛ける。
「母さん」
昨日名前を呼んだ時とは、また少し違う。
今日は。
二人が亡くなった日を知っている。
「墓、あるって」
静かな部屋へ自分の声が落ちる。
「残ってるかもしれないって」
それだけで胸が痛む。
でも。
行きたい。
「行くよ」
今度ははっきり言った。
「ソフィーも来るって」
少し笑う。
「本当にどこまで来るんだよな」
けれど。
嬉しかった。
「家族になるからって」
ソフィアの言葉を思い出す。
二月後に家族になる。
だから。
カイが大切にしたいものを、一緒に知りたい。
「それでさ」
カイは机の端へ置いたもう一枚の紙を見る。
婚姻式招待状。
第一次案の控え。
「今日、招待状も決めた」
父と母が眠る場所が分かった日に。
自分が新しい家族を作る日の準備をした。
「変だよな」
でも。
嫌ではなかった。
「ミレイユ先生も呼ぶ」
自分が育った孤児院の院長。
「ドルトさんも」
父を知る人。
「団長も、リナも」
今の自分を知る人たち。
「騎士学校の先生も」
自分が剣士になる途中を知る人。
カイは少しだけ笑った。
「俺さ」
机に並ぶ紙を見る。
「一人じゃないよ」
今なら。
それが分かる。
父と母を失ったあとにも。
孤児院があった。
騎士学校があった。
第四近衛騎士団があった。
白銀宮がある。
ソフィアがいる。
「昔も」
父。
母。
孤児院。
「今も」
騎士団。
仲間。
ソフィア。
「多分、これからも」
婚姻式。
新しい家。
増える人。
「結構いる」
それを知れたことも。
この数日で増えたものの一つだった。
「おやすみ」
父へ。
母へ。
それから右手首の空雫石へ触れる。
「おやすみ、ソフィー」
少しだけ間を置いて。
今日一番伝えたかった言葉を、小さく続けた。
「今日も、隣にいてくれてありがとう」
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮では、ソフィアが今日選んだ婚姻式招待状の第六案を机の上へ置いていた。
白を基調とした紙。
淡い青。
細い銀。
空と光。
偶然ではあるものの、カイの空雫石を思わせる一滴の意匠。
「……これ」
ソフィアは嬉しそうに紙の端へ触れた。
「カイも選びました」
後ろでは、エマが就寝前の支度を整えている。
「はい」
「同じでした」
「はい」
「礼拝堂も」
「はい」
「腕輪も」
「はい」
「少しずつ」
ソフィアは招待状の意匠を眺めながら、小さく笑った。
「同じものを好きになることが増えました」
「夫婦へ近づいておられるのでしょう」
「……」
ソフィアの顔がすぐ赤くなる。
「エマ」
「何でしょう」
「今日は、その言葉が強いです」
「カイ様も本日、同じことを何度もおっしゃったのでは?」
「はい……」
「では」
エマがほんの少し笑う。
「お似合いでございます」
ソフィアは照れたまま。
けれど。
もう否定しなかった。
机の上には、もう一枚の書類も置かれている。
ミュール街。
旧共同墓地。
現地確認中。
その文字を見ると、胸に小さな痛みが生まれた。
「……」
今日。
カイは言った。
墓がある。
行ける。
でも怖い。
きっと泣く。
「姫様」
「はい」
「ご心配ですか?」
「はい」
即答だった。
ソフィアは左手首の夜空石へ指を添える。
「でも」
「はい」
「私が代わりに悲しむことはできません」
「はい」
「カイの代わりに、お父様とお母様へ向き合うこともできません」
「はい」
「だから」
ソフィアは少しだけ笑った。
「隣にいます」
「いつまで?」
エマがわざと尋ねる。
ソフィアは一瞬だけ眉を寄せたが。
すぐ笑った。
「一生です」
そこには迷いがなかった。
「では」
「何です?」
「明日も」
「はい」
「明後日も」
「はい」
「婚姻式のあとも」
「はい」
「カイ様は大変ですね」
「何でですか!」
「姫様が一生ついてこられますので」
「エマ!」
夜の白銀宮へ、ソフィアの声とエマの小さな笑いが響いた。
やがて静けさが戻る。
ソフィアは机の上へ視線を戻した。
一方には婚姻式の招待状。
もう一方には、カイの父と母が眠る場所に関する記録。
過去と未来。
悲しみと楽しみ。
今日のカイが抱えていたものが。
同じ机の上へ並んでいる。
「おやすみなさい、カイ」
ソフィアは夜空石へそっと触れた。
「次も、一緒に行きます」
婚姻式まで、あと二月。
この日。
カイは父レンドと母ミアが亡くなった正確な日を知った。
父が先に亡くなり。
その二日後。
母も同じ熱病で亡くなっていた。
七歳だったカイだけが残った。
そして。
父と母が旧ミュール宿の共同墓地へ個別に埋葬された記録も見つかった。
墓碑そのものが今も残っているかどうかは、まだ分からない。
現在のミュール街で現地確認が行われている。
それでも。
カイはようやく、父と母が眠る場所へ辿り着けるところまで来た。
怖い。
悲しい。
会いたい。
けれど。
実際に墓を前にするのは怖い。
そんな相反する気持ちを、無理に一つへまとめる必要はなかった。
そして同じ日に。
二月後の婚姻式で使う招待状の第一候補も決まった。
父と母の死を改めて知った日に。
自分が新しい家族を作る日の準備をする。
少し前のカイなら。
そんな一日を受け入れられなかったかもしれない。
悲しいなら。
今日は悲しまなければならない。
そんなふうに考えていたかもしれない。
けれど今は違う。
父と母を想って胸が痛くても。
ソフィアとの婚姻式を楽しみにしていい。
墓へ向かうことが怖くても。
結婚式へ誰を呼ぶのか考えていい。
泣いてもいい。
笑ってもいい。
どちらも自分の本当の気持ちなら。
片方を消す必要はない。
そして。
婚姻式へ呼びたい人を並べたことで。
カイは改めて知った。
自分には。
過去にも。
今にも。
思っていたより多くの人がいた。
父と母。
聖ラウラ孤児院。
第四近衛騎士団。
灰鷲商会。
白銀宮。
そして。
ソフィア。
失った人を想うことと。
今いる人を大切にすること。
これから増える家族を楽しみにすること。
その全てを抱えたまま。
カイは次の場所へ向かう。
旧ミュール宿。
現在のミュール街。
父レンドと母ミアが最後に暮らした場所。
もし墓碑が今も残っているのなら。
カイはそこで。
七歳のあの日以来初めて。
父と母の眠る場所へ、自分の意思で帰ることになる。




