第3話 お忍び中の第三皇女様は、姫様と呼ぶと返事をしてくれない
翌朝。
第四近衛騎士団の詰所では、いつもより早い時間から奇妙な騒ぎが起きていた。
「違う。そっちの上着では硬すぎる」
「ですが団長、こちらの方が剣を隠しやすいです」
「剣を隠せても、どう見ても護衛だろう。もっと普通の服はないのか?」
「普通と言われましても、俺は騎士服か訓練着しかほとんど持っていませんよ」
「二十歳の若者とは思えない衣装棚だな」
「必要な物しか買っていないので」
詰所の奥にある小さな休憩室で、カイは深い溜息を吐いた。
普段なら簡素な机と椅子しか置かれていない部屋だが、今朝は中央の机に何着もの服が広げられている。濃紺、焦げ茶、灰色、深緑。どれも街で着ても不自然ではない平民向けの衣服だが、並べられた服を前にしているのはカイだけではなかった。
第四近衛騎士団長のマリアを筆頭に、朝番ではない女性騎士が五人も集まっている。
一人は上着を持ち上げ、一人は靴を確認し、一人は腕を組んでカイの髪を眺めている。
まるでこれから戦場へ送り出す騎士の装備を確認しているかのような真剣さだ。
「おかしくありませんか?」
椅子へ座らされたカイは、目の前のマリアへ訴えた。
「何がだ?」
「どうして俺が城下へ行く服を選ぶために、こんな人数が集まっているんです」
「護衛任務だからだ」
「任務とは関係のない靴まで三足も並べていますよね?」
「足元は重要だ。長時間歩いても疲れにくく、素早く動けなければならない」
「では、なぜ一人が俺の髪を整えようとしているんですか?」
カイが横を見ると、櫛を手にしていた女性騎士がさっと視線を逸らした。
「視界を確保するためだ」
「俺の前髪は目にかかっていません」
「細かいことを気にするな」
「俺を着せ替えて遊んでいませんか?」
「まさか」
マリアは真顔で否定した。
だが、背後にいる女性騎士たちの口元には明らかな笑みが浮かんでいる。
信じられるはずがなかった。
「そもそも、団長が昨日用意すると言っていた服はどれなんです?」
「これだ」
マリアが机の中央から一着の上着を持ち上げる。
淡い灰色のシャツに、深い青色の上着。下は動きやすそうな黒い長ズボンで、装飾は少ないが仕立ては良い。
騎士服のような堅苦しさはなく、かといって労働着ほど粗末でもない。
帝都で働く若い職人や、商家の息子が休日に着るような服装だった。
「それなら、なぜ他の服まで広げたんです?」
「比較するためだ」
「比較に一刻もかけますか?」
「お前が思っていたより何を着せても護衛に見えるからだ」
「それは服ではなく、俺の立ち方の問題では?」
「分かっているなら直せ」
「急に言われても無理ですよ」
騎士候補生だった頃から、背筋を伸ばせ、周囲へ注意を向けろ、いつでも剣を抜けるよう構えろと教え込まれてきた。
七年間かけて身についた癖を、城下へ行く一日だけで消せと言われても難しい。
カイが困っていると、部屋の隅から女性騎士の一人が口を開いた。
「いっそ、恋人と街へ出る男らしく振る舞えばいいのでは?」
「その恋人らしい振る舞いが分からないから困っているんです」
カイが答えると、部屋の空気がわずかに止まった。
女性騎士たちが互いに顔を見合わせる。
カイはその反応に眉を寄せた。
「何ですか?」
「いや」
「何でもない」
「団長に聞けばいい」
「私へ振るな」
それまで堂々としていたマリアの表情が、初めてわずかに引きつった。
「団長は何度も街へ出ているでしょう。恋人らしく見せる方法くらい知っていますよね?」
「街へ出た経験と恋人がいた経験は別だ」
「……いないんですか?」
「その顔は何だ?」
「いえ、団長なら引く手数多だと思っていたので」
「任務が忙しい」
「そうですか」
「納得するのが早すぎないか?」
マリアの声が少し低くなる。
周囲の女性騎士たちは顔を背けたが、何人かは肩を震わせていた。
マリアは咳払いをし、無理やり話を戻した。
「恋人らしくといっても、特別なことは必要ない。普段より距離を近くし、名前を呼び、相手の歩調へ合わせればいい」
「名前はソフィーと呼ぶように言われています」
「なら問題ないな」
「昨日、練習で一度呼んだだけで顔を赤くされたんですが」
途端に、部屋にいた全員の動きが止まった。
櫛を持っていた騎士は手を滑らせかけ、上着を畳んでいた者は布を落とした。
マリアまで片方の眉を上げている。
「……何です?」
「いや、何でもない」
「昨日から皆そればかり言いますね」
「姫様は、その後何と?」
「部屋が暑いだけだと」
「なるほど」
マリアは口元を手で覆い、天井を見上げた。
笑いを堪えているようにも、何かに耐えているようにも見える。
「とにかくだ。名前を呼び、手を差し出して、自然にエスコートしろ」
「手を差し出す?」
「人混みではぐれないようにな」
「昨日も同じ話をしましたが、袖を掴んでもらえばいいのでは?」
「お前は今日、恋人という設定なのだろう?」
「設定です」
「なら、手を繋げ」
マリアはきっぱりと言い切った。
カイは思わず黙り込む。
ソフィアの手には、昨日触れた。
ただの約束の握手だった。
それでも、柔らかさや温もりが夜まで残っているような気がして、何度も右手を見てしまった。
今日、今度は街の中で手を繋ぐ。
護衛のため。
恋人という設定を守るため。
そう考えれば難しいことではないはずなのに、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
「顔が赤いぞ」
「赤くありません」
「姫様と同じことを言うのだな」
「何か言いました?」
「何でもない」
マリアは満足そうに笑い、カイへ先ほどの服を押しつけた。
「これへ着替えろ。剣は短剣を腰の内側へ隠せ。長剣は持つな」
「分かりました」
「それから、今日は私たちも城下へ出る」
「姫様の周囲を護衛するためですか?」
「表向きは休暇だ。私を含めた六人が普段着で広場まで同行し、その後は一定の距離を取る。お前たちが立ち寄る場所にも先回りする予定だ」
「それなら安心です」
「だが、姫様のすぐ傍にいるのはお前だけだ」
「責任重大ですね」
「そうだな」
マリアの表情から笑みが消えた。
「一つだけ言っておく」
「はい」
「姫様を泣かせるな」
低く、真剣な声だった。
カイも表情を引き締める。
「命に代えてもお守りします」
「そういう意味ではない」
「では、どういう?」
「……もういい」
マリアは深い溜息を吐いた。
背後の騎士たちも、揃って呆れたような顔をしている。
「お前は姫様の身に危険が迫れば、命令されなくても身体を張る。それは知っている」
「なら」
「今日くらいは、騎士としてだけではなく、一人の男として姫様に付き合ってやれ」
カイは目を瞬いた。
「一人の男として?」
「せっかくのお忍びだ。姫様も、皇女としてではなく普通の娘として過ごしたいのだろう」
「婚姻前に、今までできなかったことをしてみたいということですか」
カイは納得したように頷いた。
ソフィアは生まれた時から皇女である。
街へ出れば人々に傅かれ、買い物をすれば商人が最上級の品を並べ、食事をすれば周囲が緊張する。
普通の娘のように恋人と歩き、気になる店へ入り、互いに贈り物を選ぶ。
そんな経験はできなかったはずだ。
婚姻後は、今以上に自由がなくなる可能性もある。
「分かりました」
カイは表情を引き締めた。
「今日は姫様が普通の女性として楽しめるよう、できる限り努めます」
「……間違ってはいないのだが」
マリアがこめかみを押さえる。
「団長?」
「いや。お前はそれでいい」
「さっきと言っていることが違いませんか?」
「気にするな。さっさと着替えろ。待ち合わせに遅れたら、それこそ姫様が泣くぞ」
「泣きはしないでしょう」
「本当にそう思うか?」
問い返され、カイは答えに詰まった。
ソフィアは公の場で弱みを見せない。
しかし、幼い頃はよく泣いていた。カイが訓練で大怪我をした時も、地方への長期任務が決まった時も、人前では平静を装いながら、二人きりになると目を赤くしていた。
「急ぎます」
「そうしろ」
カイは服を抱えて隣の部屋へ移動した。
扉が閉まった途端、残された女性騎士たちが一斉に息を吐く。
「本当に、何も気づいていないんですね」
「ここまでとは思わなかった」
「姫様が可哀想になってきました」
「だが、カイらしい」
マリアは閉じた扉を見つめ、腕を組んだ。
「だからこそ、姫様もあの男を選んだのだろう」
誰かが小さく笑う。
「今日、少しくらい進展しますかね?」
「期待するだけ無駄では?」
「手を繋ぐくらいは」
「それを進展と呼ばなければならない時点で、先が長いな」
マリアは疲れたように息を吐いた。
だが、その口元にはわずかな笑みが残っていた。
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮では、カイのいる詰所以上の騒ぎが起きていた。
「姫様、動かないでくださいませ」
「動いていません!」
「先ほどから三度も振り返っておられます」
「髪飾りがどのようになっているのか気になるのです」
「鏡でご覧になれますから、前を向いていてください」
私室の大きな鏡台の前で、ソフィアは侍女たちに囲まれていた。
普段であれば、皇女としての衣装選びや身支度には慣れている。夜会や式典では、何人もの侍女に囲まれ、長い時間をかけて髪や化粧を整えられることも珍しくない。
しかし、今日はいつもと違った。
着ているのは豪奢なドレスではない。
柔らかな布で仕立てられた、淡い水色のワンピースだった。
裾は足首まで届かず、街を歩きやすい長さに整えられている。腰には白い細身のリボンが結ばれ、袖口には控えめな刺繍が施されていた。
銀色の髪は一部を緩く編み込み、残りは背中へ流している。
頭には広いつばの白い帽子。
顔立ちと髪色を完全に隠すことはできないが、少なくとも遠目から第三皇女だと見抜かれる可能性は低い。
「本当に、これで変ではありませんか?」
ソフィアは何度目か分からない質問をした。
「少し地味すぎませんか?」
「街へ出る服としては十分に上品でございます」
「派手では?」
「お忍びでございますから、これ以上華やかにすれば目立ってしまいます」
「子供っぽく見えませんか?」
「とてもお似合いです」
「カイも、そう思うでしょうか」
小さく漏れた本音に、侍女たちの手が止まった。
ソフィアは自分が何を口にしたのか気づき、頬を赤くする。
「今のは忘れなさい」
「何も聞いておりません」
「わたくしも」
「私もでございます」
侍女たちは揃って答えた。
その顔が微笑んでいるせいで、まったく信用できない。
エマは後ろからソフィアの帽子を整えながら、穏やかな声で告げた。
「カイはきっと、お似合いだと言ってくださいますよ」
「本当に?」
「はい」
「でも、昨日も髪型が違うとしか……」
「最後には綺麗だと仰ったのでしょう?」
「それは、私が何度も聞いたからです」
「それでも、思っていないことを言う方ではありません」
確かにそうだった。
カイはお世辞が得意ではない。
皇女であるソフィアに対しても、似合わない物は似合わないと言い、食べ物がおいしくなければ正直に答える。もう少し言葉を選んでほしいと思う時もあるが、だからこそ彼の言葉は信じられた。
「今日は、自然に褒めてもらえるでしょうか」
「姫様」
「何です?」
「今日はカイとお忍びを楽しむ日でございます。褒めてもらうことばかり考えていては、緊張してしまいますよ」
「分かっています」
ソフィアは膝の上で両手を握り合わせた。
「ただ……」
言葉を止め、鏡の中の自分を見つめる。
皇女として着飾った姿なら、何度もカイに見られてきた。
護衛として夜会へ同行し、正装したソフィアの傍へ立つこともあった。
けれど、今日の姿は違う。
一人の娘として。
恋人として。
カイの隣を歩くために選んだ服だった。
「本当に、今日だけなのですよね」
ソフィアが小さく呟く。
エマは鏡越しにその横顔を見つめた。
「今日だけにするかどうかは、姫様次第でございましょう」
「どういう意味です?」
「今日が楽しい一日になれば、またお忍びをなさればよいのです」
「婚姻準備は二月しかありません」
「婚姻後も、陛下の許可を得れば可能でございましょう」
「……そうですね」
ソフィアの表情がわずかに明るくなる。
婚姻後。
カイと夫婦になった後なら、今日のように恋人のふりをする必要はない。
堂々と夫婦として街を歩くこともできるかもしれない。
その光景を想像しただけで、胸が温かくなった。
「姫様、顔が赤くなっております」
「部屋が暑いのです」
「窓は開いておりますが」
「今日は少し暑い日なのです!」
昨日とまったく同じ言い訳だった。
侍女たちは笑いを堪えながら、最後の仕上げを進める。
やがて支度が整うと、エマは一歩下がり、ソフィアの全身を確認した。
「とてもお綺麗です、姫様」
「今日はソフィーです」
「失礼いたしました。ソフィー様」
「様もつけてはいけません」
「では、ソフィー」
長年仕えているエマに愛称だけで呼ばれ、ソフィアは少し居心地悪そうに身じろぎした。
「やはり変ですね」
「カイに呼ばれるのは平気なのですか?」
「平気ではありません」
「それでは困るのでは?」
「平気ではありませんが、呼んでほしいのです」
矛盾した言葉だった。
しかし、侍女たちには十分意味が伝わっているらしい。
「分かります」
「私もです」
「カイ様に愛称で呼ばれたら、姫様でなくても緊張します」
「貴女たち」
ソフィアの声が低くなる。
侍女たちはすぐに姿勢を正した。
「冗談でございます」
「カイ様が姫様以外の女性を愛称で呼ぶ姿など、想像できません」
「きっと呼び方すら知らないでしょう」
「それなら、よろしいです」
ソフィアは満足そうに頷いた。
その反応を見て、エマは小さく笑う。
「そろそろ出発のお時間でございます」
「カイはもう中央広場に?」
「マリア様から、先に向かわれたと連絡がありました」
「待たせてしまいます」
ソフィアは慌てて立ち上がった。
早く会いたい。
カイがどのような服を着ているのか見たい。
自分の姿を見て、何と言うのか知りたい。
そんな思いが足を急がせる。
「姫……ソフィー」
エマに呼び止められ、ソフィアは振り返った。
「何です?」
「どうか、楽しんでいらしてください」
穏やかな笑顔で告げられる。
ソフィアも小さく微笑んだ。
「はい。行ってきます」
皇女ではなく、一人の娘として。
初めての恋人との街歩きへ向かうような心で、ソフィアは白銀宮を後にした。
◇◇◇
昼前の中央広場は、多くの人々で賑わっていた。
帝都の大通りが交差する場所に設けられた広場の中央には、大きな噴水がある。石造りの女神像が抱える水瓶から透明な水が流れ落ち、春の陽光を受けて細かな光を散らしていた。
広場の周囲には屋台が並び、焼きたてのパン、串焼き、果物、花束、日用品などが売られている。
商人の呼び声。
子供たちの笑い声。
馬車の車輪が石畳を転がる音。
カイは噴水の縁へ腰掛け、それらを眺めながらソフィアを待っていた。
マリアたちに選ばれた服は、思っていたより動きやすかった。
剣を持たないことには不安があるが、上着の内側には短剣を隠している。革靴も足に馴染み、いざという時には走れる。
ただ、落ち着かない。
周囲には、恋人らしい男女が何組もいる。
手を繋いで歩く若者。
噴水の傍で一つの菓子を分け合う二人。
女性の荷物を持ちながら、楽しそうに話す男性。
カイは気づかれないよう、その振る舞いを観察していた。
マリアに恋人らしく振る舞えと言われたが、経験がない以上、見て学ぶしかない。
「なるほど……」
女性の歩調へ合わせる。
人混みでは男性が外側へ立つ。
店へ入る際には扉を開く。
座る時は椅子を引く。
カイが真剣な顔で観察していると、少し離れた場所にいた女性が警戒したように連れの男へ身体を寄せた。
見すぎたらしい。
カイは慌てて視線を外した。
「何をしているんだ、俺は……」
護衛任務であれば、どのような危険が潜んでいても冷静でいられる。
それなのに、恋人のふりをするだけで、これほど緊張するとは思わなかった。
相手がソフィアだからだろうか。
七年も傍にいる。
何度も二人で話し、城内を歩き、馬車にも同乗してきた。
今さら緊張する理由などないはずだ。
「婚約者がいる相手だからか」
カイは小さく呟いた。
そう考えれば納得できる。
恋人のふりとはいえ、婚姻が決まった女性と手を繋ぎ、街を歩くのだ。相手の男が知れば、良い気はしないだろう。
ソフィアは問題ないと言ったが、本当にそうだろうか。
婚約相手の顔も名前も聞いていない。
どのような性格かも分からない。
「あとで聞いてみるか」
今後ソフィアへ仕えるうえでも、婚約者のことは知っておいた方がいい。
好みや性格が分かれば、贈り物選びの手伝いもできる。
カイが考えをまとめた時、広場の入り口付近がにわかに騒がしくなった。
何人もの男たちが同じ方向へ顔を向けている。
カイも視線を向けた。
女性の集団が広場へ入ってくるところだった。
全員が普段着姿だが、見覚えのある顔ばかりである。
第四近衛騎士団の女性騎士たちだ。
鎧も騎士服も身につけていないため、普段とは印象がまるで違う。
マリアは焦げ茶色の上着に長いスカートを合わせ、髪もいつものように高く結ぶのではなく、低い位置でまとめていた。他の騎士たちも、それぞれ似合う服や装飾品を身につけている。
周囲の男たちが見惚れるのも無理はなかった。
「普段の言動を知らなければな……」
カイが思わず呟く。
可憐な服を着た女性騎士の一人は、昨日の訓練で男の騎士を三人続けて地面へ沈めていた。隣で柔らかく微笑んでいる者も、酔った兵士が暴れた際、机ごと持ち上げて外へ放り出したことがある。
見た目だけなら、貴族令嬢や裕福な商家の娘にしか見えない。
中身を知っているカイには、どうしても違和感があった。
女性騎士たちは自然に輪を作り、その中央にいる人物を囲みながら歩いてくる。
護衛対象を守る陣形だ。
ただし、周囲の人々には仲の良い女性たちが集まって歩いているようにしか見えない。
やがてカイの前まで来ると、先頭にいたマリアともう一人の騎士が左右へ分かれた。
その奥から、一人の少女が姿を現す。
白いつば広の帽子。
淡い水色のワンピース。
腰で結ばれた白いリボン。
銀色の髪が春の風に揺れ、空色の瞳がまっすぐカイへ向けられていた。
「お待たせしました」
少女は帽子のつばを右手で軽く持ち上げ、微笑んだ。
カイは言葉を失った。
ソフィアだと分かっている。
顔も声も、見間違えるはずがない。
しかし、豪華なドレスも宝石も身につけていない姿は新鮮で、いつもの皇女としての美しさとは違って見えた。
年相応の少女。
いや、それ以上に。
どこか近づきやすく、愛らしい。
見惚れていると、ソフィアの笑みが少しずつ不安そうなものへ変わっていく。
「カイ?」
「……あ」
「何か、変ですか?」
「いえ」
カイは慌てて立ち上がった。
「よくお似合いです、姫様」
その瞬間。
ソフィアの笑顔が消えた。
「帰ります」
「なぜです!?」
踵を返そうとしたソフィアの前へ、カイは慌てて回り込んだ。
「何か気に障ることを言いましたか?」
「言いました」
「どこが?」
「姫様」
「はい」
「違います」
ソフィアは両手を腰へ当て、下からカイを見上げる。
「今日の私は、誰ですか?」
そこでようやく気づいた。
「……ソフィー」
「はい」
呼び直した途端、ソフィアの表情が一気に明るくなる。
「もう一度、最初からお願いします」
「最初から?」
「待ち合わせです。やり直してください」
「ここで?」
「はい」
周囲にはマリアたちがいる。
さらに、何事かと足を止めている通行人もいる。
だが、ソフィアは一歩も譲る気がないらしい。
カイは観念して、少し距離を取った。
そして改めてソフィアの前へ立つ。
「待たせたな、ソフィー」
「いいえ。私も今来たところです」
「その服、とても似合っている。いつもと雰囲気が違って……その、可愛いと思う」
ソフィアの目が大きく開かれた。
頬がみるみる赤くなっていく。
昨日、綺麗だと言った時よりも反応が大きい。
「ソフィー?」
「……合格です」
かすかな声だった。
「何が?」
「何でもありません」
ソフィアは帽子のつばを下げ、赤くなった顔を隠す。
それでも口元が緩んでいるのは隠せていなかった。
背後から、小さな笑い声が聞こえる。
振り返ると、第四近衛騎士団の女性たちが揃って顔を背けた。
「何ですか?」
「何でもない」
マリアが代表して答える。
今日だけで何度聞いた言葉だろう。
マリアはカイへ近づくと、肩へ手を置いた。
「では、ここから先は任せる」
「団長たちは?」
「予定通り、少し離れて行動する。何かあれば合図を送れ」
「分かりました」
「それから、陛下から伝言だ」
マリアがカイの耳元へ顔を近づける。
「姫様に手を出したら殺す、とのことだ」
「出しませんよ!」
思わず大きな声が出た。
周囲の人々がこちらを見る。
ソフィアまで頬を膨らませていた。
「カイ?」
「何でもない!」
慌てて答える。
マリアは楽しそうに笑い、もう一度肩を叩いた。
「まあ、今日は楽しめ」
「任務ですから、気を抜くつもりはありません」
「そこをもう少し何とかしろと言っているんだ」
「何をです?」
「いや。もういい」
マリアは仲間たちを連れ、広場の反対側へ歩いていった。
彼女たちも、このまま街を回る予定らしい。
残されたのはカイとソフィア。
周囲の人々はすでに興味を失い、それぞれの用事へ戻っている。
「では、俺たちも行きましょうか」
「俺たち?」
「何か変ですか?」
「敬語」
ソフィアが短く指摘する。
「ああ……」
今日は恋人という設定だ。
皇女へ向けるような敬語では、不自然に見える。
だが、七年間の習慣は簡単には変わらない。
「じゃあ、行こうか。ソフィー」
意識して、柔らかい口調を作る。
ソフィアの瞳が嬉しそうに細められた。
「はい、カイ」
カイは一歩踏み出しかけ、昨夜と今朝に教わったことを思い出した。
恋人として。
一人の男として。
ソフィアを楽しませる。
少し迷った後、右手を差し出す。
「行こう」
「……え?」
「人が多いから、はぐれないように」
ソフィアは差し出された手を見つめた。
すぐには動かない。
何か間違えただろうか。
マリアの助言通りのはずだ。
「嫌なら、袖を掴んでも」
「嫌ではありません!」
ソフィアは勢いよく答え、カイの手を取った。
細い指が掌へ触れる。
昨日とは違い、握手ではない。
指と指が重なり、互いの手のひらが密着する。
カイは思わず息を止めた。
ソフィアの手も、わずかに震えている。
「力が強すぎるか?」
「大丈夫です」
「痛かったら言ってくれ」
「はい」
返事は小さい。
顔も帽子のつばに隠れて見えない。
それでも手だけは離そうとせず、むしろ少し強く握ってきた。
カイも握り返し、ゆっくりと歩き始める。
中央広場から続く大通りには、多くの人がいた。
人の流れへ入ると、カイは自然にソフィアを建物側へ移動させ、自分が車道側へ立つ。向かいから荷車が来れば身体を寄せて守り、歩調もソフィアに合わせる。
いつもの護衛と変わらない。
違うのは、手を繋いでいることだけ。
それだけのはずなのに、なぜか普段よりソフィアとの距離を近く感じた。
「カイ」
「何だ?」
「手を繋ぐのは、慣れていますか?」
「いや。昨日を除けば、子供の頃以来だな」
「女性とは?」
「ない」
「本当に?」
ソフィアが顔を上げる。
帽子の下の瞳が、疑うようにカイを見つめていた。
「嘘をつく意味がないだろ」
「騎士団の女性たちとは?」
「訓練で腕を掴むことはあるが、こうして手を繋いだことはない」
「そうですか」
声が明るくなる。
「なぜ嬉しそうなんだ?」
「気のせいです」
「姫……ソフィーも、手を繋ぐのは初めてか?」
「……幼い頃に、お父様やお母様とはあります」
「男とは?」
「ありません」
「婚約者とも?」
ソフィアの足が一瞬止まりかけた。
だが、すぐに歩き出す。
「ありません」
「そうか」
「何です?」
「いや。婚約者より先に俺が手を繋いでいいのかと思って」
「いいのです」
「本人も納得しているんだよな?」
「ええ。きっと喜んでいます」
「変わった人だな」
カイが呟く。
ソフィアは何か言いたそうに口を開いたが、結局何も言わなかった。
「それで、最初はどこへ行くんだ?」
「……」
「ソフィー?」
「……」
返事がない。
カイは横を向いた。
ソフィアは顔を伏せたまま、ただ前を見て歩いている。
手には少しずつ力が入り、握り方が強くなっていた。
「ソフィー、手が痛い」
「えっ?」
ソフィアが突然足を止めた。
「うわっ」
前を見ていたカイは止まり切れず、ソフィアの背中へぶつかった。
「きゃっ」
小さな声が上がる。
身体を押されたソフィアが前へ倒れかけた。
カイは咄嗟に繋いでいた手を引き、自分の方へ引き寄せる。
軽い身体が胸元へ飛び込んできた。
カイはもう片方の腕をソフィアの背中へ回し、しっかりと受け止める。
時間が止まったようだった。
帽子が少しずれ、銀色の髪がカイの顎へ触れる。
胸元に感じる柔らかな重み。
柑橘を思わせる淡い香り。
ソフィアは目を閉じたまま、カイの服を強く掴んでいた。
「大丈夫か?」
「……」
「ソフィー?」
「……大丈夫です」
声が胸元から聞こえる。
だが、離れる様子はない。
カイもどう動けばいいのか分からなかった。
転ばせないためとはいえ、抱きしめるような形になっている。
一国の皇女。
しかも婚姻が決まった女性。
皇帝からは、手を出したら殺すと伝言まで受けている。
「まずい」
「何がです?」
「いや、何でも」
離れた方がいい。
そう思うのに、ソフィアを支える腕をすぐには解けなかった。
小さく、温かい。
少し力を入れただけで壊れてしまいそうに感じる。
幼い頃、森で震えていた少女を抱えて逃げた時とは、何もかもが違っていた。
胸の鼓動が妙に速い。
ソフィアにも聞こえているのではないかと不安になる。
その時。
「ママ、あの二人、ぎゅってしてる!」
すぐ近くから子供の声が響いた。
カイとソフィアの身体が同時に固まる。
顔だけを動かすと、小さな女の子が二人を指差していた。
その隣では母親らしい女性が、申し訳なさそうに娘の手を取っている。
「こら、指を差してはいけません」
「でも、ラブラブしてる!」
「すみません、お邪魔しました」
母親は笑いを堪えながら頭を下げ、娘を連れて歩き去っていった。
「ラブラブ……」
ソフィアが小さく呟く。
次の瞬間、二人は弾かれたように離れた。
「わ、悪い!」
「い、いいえ! 私が急に止まったからです!」
「怪我は?」
「ありません!」
「足は捻ってないか?」
「大丈夫です!」
互いに顔が赤い。
目を合わせることもできない。
周囲の人々から、生暖かい視線が向けられている。
中には羨ましそうに見る男や、微笑ましそうに笑う老夫婦もいた。
「……行くか」
「はい」
今度は手を繋がず歩き出そうとした。
しかし、数歩進んだところで、ソフィアが立ち止まる。
「カイ」
「どうした?」
「手」
「手?」
「人が多いので、はぐれてしまいます」
先ほど離した手を、ソフィアが差し出す。
頬はまだ赤い。
それでも空色の瞳は、まっすぐカイを見ていた。
断る理由はない。
カイはその手を取る。
「今度は急に止まるなよ」
「カイこそ、前をよく見てください」
「止まった方が悪いだろ」
「女の子の動きを予測するのも恋人の役目です」
「そんな難しいことを求められるのか?」
「はい」
「世の中の男は大変だな」
「他人事のように言わないでください」
「今日は設定だからな」
ソフィアの表情が少しだけ曇る。
それに気づかないまま、カイは歩き出した。
しばらく無言が続く。
だが、先ほどまでとは違い、居心地の悪い沈黙ではなかった。
繋いだ手から伝わる温もり。
互いに合わせた歩調。
春の風。
街の喧騒。
カイは横目でソフィアを見る。
帽子の下で、彼女は小さく微笑んでいた。
その表情を見ていると、今朝マリアから言われた言葉を思い出す。
一人の男として、姫様に付き合ってやれ。
意味はまだよく分からない。
だが、ソフィアが楽しそうなら、それでいい。
「なあ、ソフィー」
「何です?」
「今日は何をしたい?」
「私が決めていいのですか?」
「婚姻準備のために来たんだろ。行きたい場所があるなら付き合う」
「では、まず贈り物を見たいです」
「婚約者への?」
「はい」
カイの胸に、また小さな棘のようなものが刺さる。
その感覚を無視し、笑顔で答える。
「分かった。どんな物がいいか、一緒に探そう」
「一緒に選んでくれますか?」
「そのための補佐役だからな」
「……そうですね」
ソフィアは少し寂しそうに笑った。
しかし次の瞬間には、カイの手を引いて前へ進む。
「あちらのお店です」
「知っている店なのか?」
「エマが教えてくれました。好きな石を選び、装飾品へ加工してくれるそうです」
「なるほど」
「恋人同士に人気なのだとか」
「婚約者への贈り物なら、ちょうど良さそうだな」
「はい。とても」
ソフィアは意味ありげに答えた。
やがて二人は、大通りから少し入った場所にある小さな雑貨店の前へ到着した。
木製の看板には、蔦と二羽の小鳥を模した装飾が施されている。窓辺には色とりどりの小物や髪飾りが並び、入口の扉には小さな銀色の鈴がついていた。
カイが扉へ手をかける。
先ほど広場で見た恋人たちの行動を思い出し、先に扉を開いてソフィアへ道を譲る。
「どうぞ、ソフィー」
「……ありがとうございます」
ソフィアは嬉しそうに微笑み、店へ入った。
扉の鈴が軽やかな音を立てる。
「いらっしゃいませ」
店の奥から、若い女性店員が姿を現した。
彼女はカイとソフィアを交互に見たあと、すぐににこやかな笑みを浮かべる。
「本日は、お二人でお揃いの品をお探しですか?」
「はい」
「違います」
ソフィアとカイの声が重なった。
店員の笑みが少し深くなる。
カイはなぜか嫌な予感を覚えた。
「婚約者への贈り物を探しているんです」
説明すると、店員はソフィアを見た。
次にカイを見る。
そして、すべて理解したような顔で頷いた。
「かしこまりました。では、お二人にぴったりの品をご案内いたしますね」
なぜか話が正しく伝わっていない気がする。
カイは訂正しようとしたが、その前にソフィアが繋いだ手を強く握った。
「お願いします」
明るい声で答える。
店員は二人を店の奥へ案内した。
カイはまだ知らない。
この店で選ぶ品が、ただの婚約者への贈り物ではないことを。
そして隣を歩くソフィアが、今日という日を婚姻準備ではなく、初めての恋人とのデートだと思っていることにも、もちろん気づいていなかった。




