第2話 婚姻式まで、第三皇女様の命令には絶対服従らしい
卓上へ差し出された二枚の書類を前に、カイはしばらく動けなかった。
白銀宮の窓から差し込む午前の光が、上質な紙の表面を明るく照らしている。書類の下部に押された深紅の印章は、遠目からでも見間違えようがない。片方はガルア皇帝の私印、もう片方は近衛騎士団を統括する総団長の印である。
偽物であってほしい。
切実にそう願った。
だが、皇族の居室で皇女本人から差し出された書類が偽物であるはずもなく、仮に偽物であれば、それはそれで帝国を揺るがす大事件である。
どちらに転んでも、カイにとって良い話ではなかった。
「受け取らないのですか?」
向かいのソファーへ腰掛けたソフィアが、涼やかな声で問いかける。
先ほどまで婚姻の報告をしていた時とは違い、彼女の機嫌は目に見えて良くなっていた。空色の瞳には楽しげな光が宿り、淡い水色のドレスの上で重ねられた指先も、今は落ち着いている。
むしろ落ち着いていないのはカイの方だった。
「受け取らなければ、なかったことになりませんか?」
「なりません」
「一度、陛下へ確認してからでも?」
「確認しても構いませんが、書かれている内容は変わりませんよ」
「団長へ相談を」
「マリアはすでに承認しています」
「……逃げ道が全部塞がれている」
「何か言いましたか?」
「いえ。ありがたく拝命いたします」
カイは騎士として身につけた笑顔を浮かべ、二枚の書類を受け取った。
指先に伝わる紙の感触が、妙に重い。
皇帝の私印が押された方から目を通す。
書き出しは、第三皇女ソフィア・フォン・ガルアの婚姻が正式に決定したこと。そして、その婚姻式が二月後に執り行われる予定であることが記されていた。
そこまでは理解できる。
皇族の婚姻ともなれば、準備に二月という期間は決して長くない。むしろ急な話である。衣装、招待客、儀礼、式場、警備、祝宴、外交関係者への通達。必要な準備を考えれば、王城全体が慌ただしくなることは容易に想像できた。
問題は、その後だった。
『近衛騎士団第四隊所属、第三皇女付騎士カイに命ずる。
本日より第三皇女ソフィア・フォン・ガルアの婚姻式終了まで、通常任務を一部免除し、同皇女の婚姻準備に関わる専属護衛兼補佐役として行動すること。
期間中、第三皇女の身辺警護を最優先とし、外出、衣装合わせ、式典準備、贈答品選定、その他婚姻に関わる諸事に同行するものとする。
第三皇女からの命令は、皇帝勅命に反しない限り最優先で遂行せよ』
カイは一度、文章から目を離した。
何かの読み間違いかもしれない。
そう考えて、最初から読み直す。
内容は変わらなかった。
「……婚姻準備に関わる専属護衛兼補佐役」
「はい」
「外出、衣装合わせ、式典準備、贈答品選定、その他諸事」
「はい」
「姫様からの命令は、陛下の勅命に反しない限り最優先」
「その通りです」
ソフィアは満足そうに頷いた。
カイは書類を持ったまま、しばらく天井を見上げた。
白銀宮の天井には、青空と白い鳥を描いた見事な天井画がある。普段なら見る者の心を落ち着かせる芸術品だが、今のカイには何の慰めにもならなかった。
「姫様」
「何です?」
「専属護衛は分かります」
「ええ」
「俺はもともと姫様付きの近衛騎士ですから」
「そうですね」
「ですが、補佐役というのは何ですか?」
「書いてある通りです」
「衣装合わせに、俺が同行する意味は?」
「あります」
「どんな?」
「私が決めました」
「それは理由になっていません」
「皇女の決定です」
「もっと悪くなりました」
ソフィアの眉がわずかに上がる。
「不満なのですか?」
「不満というわけではありません。ただ、婚姻準備には専門の侍女や女官がいるでしょう。俺は剣を振ることしかできません」
「剣以外もできます」
「例えば?」
「荷物を持つことができます」
「それは騎士でなくてもできます」
「私の話し相手にもなれます」
「それも侍女の方々がいます」
「私が貴方に話してほしいのです」
迷いなく言い切られ、カイは返す言葉を失った。
ソフィアはその隙を逃さず、さらに続ける。
「それに、婚姻までの期間はとても忙しくなります。慣れない者を傍へ置くより、七年仕えている貴方の方が私も安心できます」
「それは……まあ、分からなくもありませんが」
「でしょう?」
「ですが、俺一人というのは危険では?」
「一人ではありません。城内では侍女や女官もいますし、外出時には必要に応じて第四近衛騎士団が周囲へ配置されます」
「なら、団長が補佐役でも」
「マリアは第四近衛騎士団全体を指揮する立場です。私一人へ付ききりにするわけにはいきません」
「もっともらしいことを言われると反論しづらいな……」
「何か?」
「いえ」
確かに、ソフィアの説明には筋が通っている。
第四近衛騎士団は第三皇女の護衛を担当しているが、ソフィア一人の傍に全員が控えているわけではない。白銀宮の警備、移動経路の確保、事前調査、侍女や来訪者の確認など、それぞれに役割がある。
団長であるマリアはその全体を把握し、動かす責任を負っている。
一方のカイは、もともとソフィアの傍で直接護衛を行うことが多い。
その役割を婚姻式まで拡大し、補佐まで担当させる。
理屈だけなら、おかしくはない。
おかしくはないのだが、どうにもソフィアの思惑が別のところにあるような気がした。
「次はこちらも読んでください」
ソフィアがもう一枚の書類を指差す。
近衛騎士団側からの辞令だった。
カイは嫌な予感を覚えながら目を通す。
『第四近衛騎士団所属、カイ。
皇帝陛下の勅命に基づき、本日より第三皇女ソフィア・フォン・ガルアの婚姻式終了まで、同皇女の専属護衛任務へ就くことを命ずる。
期間中は通常の巡回及び合同訓練を免除し、第三皇女の命令を優先すること。
ただし、第三皇女の安全を損なう行動、皇族としての尊厳を著しく害する行動、帝国法へ抵触する行動については、騎士として適切に諫止せよ。
任務放棄、命令違反、無断離脱については厳罰に処す』
「姫様」
「はい」
「先ほどの書類には、俺が陛下の勅命に反しない限り姫様の命令を最優先すると書いてありました」
「そうですね」
「こちらには、姫様の安全や尊厳を損なう命令は止めろと書いてあります」
「その通りです」
「つまり、姫様の命令へ従いながら、姫様の命令を止めろと?」
「簡単でしょう?」
「簡単に見えますか?」
「カイならできます」
「根拠のない信頼を向けられている気がします」
「根拠はありますよ」
ソフィアが柔らかく笑う。
「七年間、貴方はずっとそうしてきましたから」
カイは言葉を止めた。
確かに、そうだった。
ソフィアが無茶を言えば付き合い、危険があれば止める。止め切れなければ、せめて危険が及ばないよう先回りして準備をする。怒られることもあれば、感謝されることもあった。
それを七年間、繰り返してきた。
「今までと同じです」
ソフィアは言った。
「少しだけ、一緒にいる時間が増えるだけ」
その言葉は穏やかだった。
だが、カイはなぜか胸の奥がわずかに痛むのを感じた。
一緒にいる時間が増える。
婚姻式まで。
その後は、どうなるのだろう。
ソフィアが他国へ嫁ぐのであれば、カイが同行できる可能性は低い。帝国内の貴族へ嫁ぐとしても、皇女付き近衛騎士という役目は終わるかもしれない。
二月後。
七年間続いた日々が終わる。
先ほど婚姻の報告を聞いた時にも感じた重さが、再び胸の奥へ沈んだ。
それは主君との別れを惜しむ、騎士として当然の寂しさだ。
カイはそう結論づけた。
「分かりました」
書類を揃え、姿勢を正す。
「婚姻式まで、姫様の専属護衛兼補佐役を務めます」
「本当に?」
「陛下と騎士団から正式な命令が出ている以上、断る理由はありません」
「命令だからですか?」
ソフィアの声が少しだけ低くなる。
カイはその変化に気づき、言葉を選んだ。
「命令でなくても、姫様が困っているなら手伝います」
「……そうですか」
「ただし、無茶な命令には従いません」
「先ほど何でもすると言ったではありませんか」
「安全かつ常識の範囲内で、です」
「後から条件を付けるのは卑怯です」
「姫様へ仕えていれば、条件を付ける癖もつきます」
「失礼ですね」
「経験則です」
ソフィアは不満そうに頬を膨らませたが、空色の瞳には喜びが浮かんでいた。
先ほどまで漂っていたわずかな緊張も消えている。
「では、最初の命令です」
「もうですか?」
「当然です。婚姻式まで二月しかありません」
「何をすれば?」
「明日、私と城下へ行ってください」
「……城下へ?」
「はい」
カイは眉を寄せた。
婚姻準備で城下へ行く理由はいくつか考えられる。
商会を訪ねる。
衣装や装飾品を確認する。
式典で使用する品を選ぶ。
しかし、それらは普通なら商人を城へ呼ぶものである。第三皇女が自ら城下へ出向く必要はない。
「どちらへ行かれるのですか?」
「まだ決めていません」
「決めていない?」
「城下を歩きながら考えます」
「それはただの散策では?」
「婚姻準備のための視察です」
「何を見るんです?」
「色々です」
「具体的には?」
「行けば分かります」
何も決めていない時のソフィアである。
カイは小さく息を吐いた。
「外出の許可は?」
「お父様からいただいています」
「護衛計画は?」
「マリアが準備しています」
「なら、第四近衛騎士団も同行するんですね」
「周囲には配置されます」
「周囲?」
嫌な言葉が聞こえた。
ソフィアは何でもないことのように続ける。
「私の傍にいる護衛は、貴方一人です」
「却下です」
「なぜです?」
「第三皇女の城下視察に、護衛一人など認められません」
「正式な視察ではありません」
「正式でなくても、姫様は姫様です」
「お忍びですから」
「……今、何と?」
「お忍びです」
ソフィアは嬉しそうに微笑んだ。
カイは額へ手を当てたくなったが、主君の前なので耐えた。
「婚姻準備に、なぜお忍びが必要なんですか?」
「皇女として店へ行けば、皆が畏まってしまいます。普段の客がどのように品を選び、何を喜ぶのか分からないでしょう?」
「商人を呼んで聞けば済む話です」
「それでは、聞いた話でしかありません」
「侍女たちへ頼んで調べてもらうこともできます」
「自分で見たいのです」
ソフィアは身を乗り出した。
「城下の人々が、婚約者へどのような贈り物を選ぶのか。どのような場所で食事をするのか。恋人たちは、どのように過ごしているのか」
「最後の二つは婚姻準備と関係あります?」
「あります」
「どういう関係が?」
「大いにあります」
「説明になっていません」
「私があると言えば、あるのです」
皇女の特権がまた出た。
カイは頭の中で、明日の警備に必要なものを考え始める。
変装。
移動手段。
緊急時の連絡。
第四近衛騎士団との合流地点。
帝都は比較的治安が良いとはいえ、皇族が歩く以上、万が一を許すことはできない。
「分かりました。ただし、人通りの少ない路地には入りません。俺から離れないでください。勝手に店へ入るのも禁止です。食べ物は事前に安全を確認できた物だけ。知らない人間に名乗らない。騒ぎが起きた場合は、俺の指示に従って即座に離脱していただきます」
「まだ何も言っていないのに、随分と命令しますね」
「姫様が何も考えずに動くからです」
「考えています」
「去年、海へ行きたいと言い出した時、雨季のことを考えていましたか?」
「……偶然です」
「一昨年、市場で商人へ一時間も質問し続けた時、護衛の交代時刻を考えていましたか?」
「興味深い話だったので」
「三年前、菓子店を回った際、財布を誰が持っているか確認しましたか?」
「カイが持っていると思っていました」
「姫様が持つと仰ったんです」
「昔のことをいつまでも覚えていますね」
「忘れたくても忘れられません」
ソフィアはぷいと横を向いた。
しばらく黙っていたが、やがて小さな声で答える。
「分かりました。明日は貴方の指示に従います」
「本当ですか?」
「疑うのですか?」
「過去の実績を考えれば」
「失礼ですね」
「では、約束してください」
「何をです?」
「勝手な行動をしないと」
カイが右手を差し出す。
ソフィアはその手を見つめた。
「これは?」
「約束の握手です」
「握手……」
なぜかソフィアの頬が少し赤くなる。
ただ手を握るだけで、何を緊張しているのか。
カイは不思議に思ったが、急かさず待った。
やがてソフィアは恐る恐る右手を伸ばし、カイの手へ重ねた。
細い指。
柔らかな手のひら。
カイの手と比べると驚くほど小さい。
騎士として剣を握り続けてきたカイの手は硬く、節も目立つ。触れた瞬間、ソフィアの手を傷つけてしまわないか不安になり、自然と力を緩めた。
「明日は、俺の指示に従ってください」
「はい」
「一人でどこかへ行かない」
「はい」
「危険なことをしない」
「はい」
「疲れたら、無理をせず伝える」
「……はい」
「最後だけ返事が遅れましたね」
「気のせいです」
ソフィアは握った手を離そうとしない。
約束は終わったはずだ。
カイは少し待ってから、遠慮がちに尋ねる。
「あの、姫様?」
「何ですか?」
「もう、手を離しても」
「まだ約束の途中です」
「何が残っているんです?」
「明日は私から離れないと、貴方も約束してください」
「それは護衛ですから当然です」
「言葉にしてください」
真剣な目を向けられ、カイは戸惑った。
しかし、それでソフィアが安心するならと頷く。
「明日は、姫様から離れません」
「姫様ではありません」
「はい?」
ソフィアの指先が、カイの手をわずかに強く握る。
「お忍びの間、私は皇女ではありません。姫様と呼ばれたら、正体が知られてしまうでしょう?」
「それはそうですが」
「ですから、別の名前で呼んでください」
「偽名を使うんですか?」
「はい」
「決めてあるんです?」
「ソフィーです」
あまりにもそのままだった。
カイは思わず黙る。
「何ですか、その顔は」
「もう少し本名から離した方が良くありませんか?」
「呼ばれても反応できない名前では意味がありません」
「ソフィーなら反応できると?」
「貴方に呼ばれれば、どんな名前でも反応します」
「それでは偽名の意味がないでしょう」
「とにかく、明日はソフィーです」
「分かりました」
「今、呼んでください」
「なぜです?」
「練習です」
「明日でいいでしょう」
「今でなければ、咄嗟に姫様と呼ぶかもしれません」
それは否定できない。
七年間、姫様と呼び続けてきた。急に別の名で呼べと言われても、すぐ切り替えられるとは限らない。
「……ソフィー」
カイは少しだけ声を落として呼んだ。
その瞬間、ソフィアの身体が小さく震えた。
握られていた手にも、きゅっと力が入る。
「姫様?」
「ソフィーです」
「大丈夫ですか?」
「ソフィー」
「顔が赤いですが」
「ソフィーです」
何度訂正されるのだろう。
カイは仕方なく呼び直す。
「ソフィー、大丈夫か?」
「……はい」
ソフィアは俯いた。
銀色の髪が頬へかかり、表情を隠している。しかし、耳まで赤くなっていることは分かった。
「やっぱり熱があるんじゃ」
「ありません!」
「でも」
「これは、その……部屋が少し暑いだけです」
まだ春先であり、窓も少し開いている。
むしろ涼しいくらいだ。
だが、これ以上追及すると機嫌を損ねそうだったため、カイは黙ることにした。
「それから、明日は貴方も騎士服では来ないでください」
「当然です。騎士服では目立ちますから」
「服は私が用意します」
「自分で選べます」
「私が用意します」
「なぜそこまで強く?」
「婚姻準備ですから」
「俺の服が?」
「隣を歩く者の服装も重要です」
「護衛なのに?」
「お忍びでは、護衛に見えてはいけません」
「では、どういう設定にするんですか?」
ソフィアは顔を上げた。
先ほどまで赤かった頬はまだ完全には戻っていない。それでも彼女は、何でもないことのように微笑む。
「恋人です」
「……はい?」
「明日は、私たちは恋人という設定で城下へ出ます」
カイは聞き間違いだと思った。
しかし、ソフィアの表情は真剣である。
「待ってください」
「何です?」
「なぜ恋人なんです?」
「若い男女が二人で城下を歩いても、不自然に見えないからです」
「兄妹では駄目なんですか?」
「似ていません」
「従兄妹なら?」
「説明が面倒です」
「友人は?」
「男女二人きりでは、余計な詮索をされるかもしれません」
「恋人の方が詮索されるでしょう」
「恋人なら、手を繋いでいても自然です」
「手を繋ぐ必要はありますか?」
「人混みではぐれないためです」
「俺の袖を掴めば済みます」
「恋人は袖ではなく、手を繋ぐものだと聞きました」
「誰からです?」
「秘密です」
ソフィアの視線が一瞬、扉の方へ向いた。
おそらくエマかマリアだろう。
どちらにしても、妙な知識を吹き込んだ人物には後で話を聞く必要がある。
「お忍びで正体を隠すためとはいえ、皇女である姫様と俺が恋人というのは無理があります」
「明日はソフィーです」
「今は姫様です」
「今から練習です」
「そうでしたね……ソフィーと俺では、身分も見た目も違いすぎます」
「城下では身分など分かりません」
「俺はどう見ても貴族ではありません」
「だからこそ、平民の恋人同士に見えるのでは?」
言われてみれば、そうかもしれない。
ソフィアの美貌は平民の服を着ても隠し切れないだろうが、皇女だと知られていなければ、裕福な商家の娘程度には見える可能性がある。
カイも騎士服を脱げば、ただの若い男である。
男女二人で買い物をし、食事をする。
恋人という設定は、確かに分かりやすい。
だが、何かが引っかかる。
「姫様の婚姻が決まった直後に、別の男と恋人のふりをするのは問題では?」
「ソフィーです」
「そこは今どうでもいいでしょう」
「よくありません」
「では、ソフィーの婚姻が決まった直後に、俺と恋人のふりをするのは問題では?」
「問題ありません」
「婚約者に知られたら、気を悪くするのでは?」
「しません」
「なぜ言い切れるんです?」
「私が知っていますから」
ソフィアは自信満々に答えた。
どうやら婚約者とは、すでに十分な信頼関係が築かれているらしい。
婚姻が決まったと聞いた時、胸の奥へ沈んだ重さが、少しだけ増した気がした。
相手はどのような男なのだろう。
皇族であるソフィアの夫となる以上、相応の家柄を持つ人物に違いない。帝国内の大貴族か、他国の王族か。ソフィアが婚姻を受け入れている様子からすると、本人も納得しているのだろう。
それなら、騎士である自分が口を挟む話ではない。
「分かりました。明日は恋人という設定でお供します」
「本当ですか?」
「護衛任務のために必要なら」
「そうですか」
ソフィアの声にわずかな不満が混じる。
「何か?」
「いいえ。理由は何であれ、承諾したなら構いません」
そう言いながら、ソフィアはようやくカイの手を離した。
名残惜しそうに指先が離れていく。
カイは自由になった手を膝の上へ戻したが、なぜか先ほどまで触れていた温もりが残っているように感じた。
「明日は昼前に、中央広場の噴水前で待ち合わせです」
「城から一緒に出ないんですか?」
「別々に出ます。その方が自然でしょう?」
「護衛対象と別行動する時点で不自然です」
「第四近衛騎士団が私を広場まで送ります」
「では、団長たちも一緒に?」
「広場までです」
「そこから先は俺一人?」
「はい」
「不安しかない」
「私は楽しみです」
ソフィアは心から嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ると、これ以上反対するのも無粋な気がしてしまう。
明日は婚姻準備のための城下視察。
お忍び。
恋人設定。
護衛は自分一人。
どう考えても問題が起こる未来しか見えない。
それでも、婚姻式まで残された時間は二月しかない。
ソフィアが望むなら、騎士として支えるべきだ。
そう思い直し、カイは立ち上がった。
「では、明日の準備をしてきます」
「もう行くのですか?」
「団長と護衛計画を確認しなければなりません。城下の巡回記録も見ておきたいですし、緊急時の合流場所も決めます」
「まだ一緒にお茶を飲みたいのですが」
「戻ってからでは駄目ですか?」
「戻ってきますか?」
ソフィアが見上げてくる。
その目に、幼い頃と同じ不安を見つけた気がして、カイは一瞬動きを止めた。
「もちろんです」
「本当に?」
「姫様……ソフィーの専属護衛兼補佐役ですから」
呼び直すと、ソフィアの表情が明るくなる。
「では、待っています」
「はい」
「必ず戻ってきてくださいね」
「分かりました」
カイは騎士の礼を取り、部屋を出た。
扉が閉まる。
廊下へ出た途端、扉の横で待機していたエマと目が合った。
その後ろには、数人の侍女たちもいる。
全員が妙に期待した顔をしていた。
「どうでしたか?」
エマが尋ねる。
「どう、と言われても」
「姫様から明日のお話を聞かれたのでしょう?」
「ええ。城下へ行くことになりました」
「まあ」
侍女たちの顔が一斉にほころぶ。
「お忍びで」
「ええ」
「お二人で」
「一応、周囲には騎士団が配置されます」
「恋人として」
カイはエマを見た。
「どうして知っているんです?」
「姫様から相談を受けましたので」
「やっぱり、あの設定を吹き込んだのはエマさんですか?」
「とんでもありません。私はただ、男女が二人で街を歩くなら、恋人に見えることもあるでしょうと申し上げただけです」
「手を繋ぐ話も?」
「それはマリア様です」
「団長か……」
カイは頭を抱えたくなった。
エマの後ろで、若い侍女たちが小声で囁き合っている。
「手を繋ぐのですって」
「姫様、大丈夫かしら」
「カイ様の方が先に固まりそう」
「皆、聞こえていますよ」
声をかけると、侍女たちは揃って目を逸らした。
エマだけが穏やかな笑みを崩さない。
「カイ」
「何です?」
「明日は姫様をよろしくお願いします」
「言われなくても、必ずお守りします」
「そうではなくて」
「はい?」
エマは少し考えたあと、首を横へ振った。
「いいえ。貴方は貴方のままでいてください」
「どういう意味ですか?」
「そのうち分かりますよ」
今日だけで、何度そのような言い方をされたことか。
マリアも、侍女たちも、エマも、何かを知っている。
知らないのは自分だけ。
そんな気がした。
だが、いくら考えても答えは出ない。
「失礼します」
カイは軽く頭を下げ、白銀宮を後にした。
まずはマリアへ状況を確認する。
その後、帝都の警備記録を読む。
明日の経路を決め、変装用の服も用意しなければならない。
やるべきことは多い。
考えなければならないことも山ほどある。
そのはずなのに。
回廊を歩くカイの頭には、先ほどソフィアと繋いだ手の感触が、いつまでも残っていた。
◇◇◇
カイが立ち去った後。
白銀宮の私室では、ソフィアが一人、ソファーに座っていた。
卓上には二つのカップが残されている。
向かい側のカップには、カイが飲み切れなかった紅茶が少しだけ残っていた。
ソフィアは自分の右手を胸元へ持ち上げ、先ほどまでカイの手が触れていた場所を見つめる。
「……恋人」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
明日は、城下でカイと二人きりになる。
人々の目には恋人同士として映る。
名前も姫様ではなく、ソフィーと呼んでもらえる。
手も繋げる。
そう考えただけで、胸の奥が熱くなった。
ソフィアは両手で頬を押さえ、ソファーの背へ身体を預ける。
「どうしましょう……」
待ち望んでいたことのはずなのに、いざ現実になると心が落ち着かない。
どの服を着ればいいのか。
どの髪飾りが似合うのか。
カイは、普段と違う自分を見て何と言うだろう。
先ほどのように、綺麗だと言ってくれるだろうか。
思い出しただけで、顔がまた熱くなる。
そこへ扉が控えめに叩かれた。
「姫様、エマでございます」
「入ってください」
ソフィアは慌てて姿勢を整えた。
扉が開き、エマと侍女たちが入ってくる。
全員の顔には、何かを期待するような笑みが浮かんでいた。
「カイは行きましたか?」
「はい。明日の準備へ向かわれました」
「そうですか」
「それで姫様」
若い侍女の一人が、抑え切れない様子で一歩前へ出る。
「明日のお召し物を決めましょう!」
「まだ昼前ですよ?」
「一日では足りません」
「そんなに?」
「当然です!」
侍女たちが一斉に頷く。
エマまで静かに同意していた。
「姫様にとって、初めての――」
若い侍女は言いかけ、慌てて口を閉じる。
ソフィアがじっと見つめると、侍女は言葉を選び直した。
「初めての、本格的なお忍びでございますから」
「今、別のことを言おうとしましたね?」
「気のせいでございます」
あまりにも分かりやすい誤魔化し方だった。
だが、ソフィアも追及しなかった。
明日のことを考えれば、侍女たちが浮き足立つのも分からなくはない。
「では、お願いします」
「はい!」
侍女たちは待っていましたとばかりに動き出した。
衣装部屋の扉が開かれ、様々な色のドレスやワンピースが運び出される。帽子、靴、髪飾り、手袋、鞄。次々と並べられていく品々を前に、ソフィアは圧倒された。
「これは派手すぎます」
「では、こちらの白いワンピースは?」
「花嫁衣装のように見えます」
「良いではありませんか」
「駄目です!」
「では水色で」
「カイ様は水色がお好きでしょうか?」
「知りません」
「明日聞いてみては?」
「そんなことを聞けるわけがないでしょう!」
白銀宮の私室は、たちまち賑やかな声で満たされた。
その中心で、ソフィアは何度も顔を赤くしながら、明日の服を選び続けた。
婚姻式まで、あと二月。
第三皇女ソフィア・フォン・ガルアの婚姻準備は、ようやく最初の一歩を踏み出そうとしていた。
ただし。
その準備に付き合わされる専属騎士カイは、まだ自分が何へ向かって歩き始めたのか、少しも理解していなかった。




