↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『第三皇女様のお忍び婚約準備』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/32

第1話 第三皇女様は、今日も俺を呼びつける



 ガルア帝国の帝都、その中心にそびえる皇城の朝は早い。


 東の空が淡い金色へ染まり始める頃には、広大な城内で働く者たちはすでに動き始めている。磨き上げられた大理石の回廊を侍女たちが足早に行き交い、厨房からは焼き上がったパンと香草の匂いが漂い、外庭では庭師たちが夜露に濡れた花々の手入れを始めていた。


 城壁の上では夜勤を終える兵士と朝番の兵士が引き継ぎを行い、そのさらに奥、第三区画に設けられた近衛騎士団専用の訓練場からは、朝の静けさを打ち破るような剣戟の音が響いていた。


「遅い」


 短い言葉と同時に、木剣が鋭く振り抜かれた。


 青年騎士が咄嗟に盾を持ち上げる。しかし、その判断よりも一瞬早く、横から打ち込まれた木剣が盾の縁を強く弾いた。


「うわっ!」


 青年の身体が大きく揺れる。そこへ踏み込んだ黒髪の騎士が、相手の胸元へ木剣の切っ先を突きつけた。


 訓練場に張り詰めていた空気が静まり返る。


「そこまで!」


 審判役を務めていた騎士の声が響くと、それまで息を止めていた見物人たちから一斉に息が吐き出された。


「またカイの勝ちかよ」


「何回目だ?」


「七回目。今日はまだ七回目だ」


「まだって言い方がおかしいだろ。朝の合同訓練が始まって、まだ半刻も経ってないぞ」


 訓練場の端に並んでいた若い騎士たちが、呆れと感心の混じった声を漏らす。


 勝負を終えたカイは相手の胸元から木剣を引き、乱れた呼吸を整えながら右手を差し出した。


「大丈夫か?」


「……最後、絶対に手加減しただろ」


 地面に片膝をついた青年騎士が、差し出された手を恨めしそうに睨む。カイはわずかに眉を寄せたが、否定はしなかった。


「まともに当てたら、今日の警備に出られなくなる」


「その言い方が一番腹立つんだよ!」


 青年騎士は叫びながらもカイの手を取り、勢いをつけて立ち上がった。


 周囲から笑い声が上がる。


 カイは二十歳を迎えたばかりの若い騎士だった。艶のない黒髪を短く整え、同じく黒い瞳を持つ。貴族たちの多くが明るい髪色を持つガルア帝国では目立つ容姿だが、本人はそのことをあまり気にしていない。


 身長は騎士の中では特別高いわけではない。しかし、幼い頃から叩き込まれた鍛錬によって身体は引き締まり、無駄のない立ち姿には年齢に似合わぬ落ち着きがあった。


 所属は第四近衛騎士団。


 正式な役職は、第三皇女ソフィア・フォン・ガルア付き近衛騎士である。


「それにしても、本当に容赦がないよな」


「容赦していただろ」


「お前の容赦は、骨が折れるか折れないかの違いしかないんだよ」


「折れてないなら問題ない」


「あるよ!」


 再び笑いが起こった。


 近衛騎士団には貴族の子弟が多い。家柄だけで入団できるほど甘い組織ではないが、幼い頃から剣や馬術の教育を受けられる貴族が有利であることは間違いなかった。


 そんな中、カイは平民である。


 それどころか姓すら持たない孤児だった。


 入団したばかりの頃は、その出自を理由に露骨な敵意を向けられることも少なくなかった。第三皇女付きという立場を妬まれ、身の程を知れと模擬戦を申し込まれたことも一度や二度ではない。


 今では、そうした者の大半が何も言わなくなった。


 理由は単純である。


 全員、カイに負けたからだ。


「次は誰だ?」


 カイが木剣を肩に担ぎながら問いかけると、それまで騒いでいた騎士たちは一斉に視線を逸らした。


 先ほどまで威勢よく笑っていた青年騎士も、急に靴の先へ興味を示し始める。中には空を見上げ、雲の形について隣の者と語り始める騎士までいた。


「おかしいな。さっきまでは十人くらい並んでいたはずなんだが」


「今日は皆、急に忙しくなったらしいぞ」


「合同訓練中にか?」


「騎士には騎士の事情があるんだよ」


「ただ逃げているだけだろ」


 カイが呆れたように息を吐くと、訓練場の入り口付近から女性の笑い声が聞こえた。


「朝から随分と楽しそうだな」


 騎士たちの背筋が揃って伸びる。


 訓練場へ足を踏み入れたのは、栗色の髪を高い位置でまとめた女性騎士だった。長身で均整の取れた体格を持ち、腰には実戦用の長剣を佩いている。


 その顔立ちは整っているが、鋭い目元と堂々とした足取りのせいで、華やかさよりも凛々しさが先に立つ。


 第四近衛騎士団団長、マリアである。


「団長、おはようございます!」


 騎士たちの声が重なる。


 マリアは軽く手を上げて応じると、地面に落ちていた木剣と、その前に立つカイへ視線を向けた。


「また新人を泣かせたのか?」


「泣いてません!」


 先ほどカイと戦っていた青年騎士が反射的に否定した。


 マリアは青年の赤く腫れた腕を見たあと、ゆっくりとカイへ視線を戻す。


「なるほど。泣いてはいないようだ」


「そうでしょう」


「泣く余裕も残さなかったのだな」


「違います」


 周囲から堪え切れない笑い声が漏れた。


 カイは反論しようと口を開いたが、マリアの表情を見て諦めた。彼女は最初から話を聞く気がない時の顔をしている。


「それで、団長が訓練場へ来るなんて珍しいですね。何かありましたか?」


「ああ。お前に用がある」


 その言葉を聞いた瞬間、周囲の騎士たちが妙に静かになった。


 カイはその変化に気づき、嫌な予感を覚える。


「……俺にですか?」


「第三皇女殿下がお呼びだ」


 訓練場へ、何とも言えない空気が流れた。


 先ほどまでカイとの模擬戦を恐れて視線を逸らしていた騎士たちが、今度は揃って同情の目を向けてくる。負傷した青年騎士など、つい数刻前まで自分を倒した相手に、憐れむような顔で肩を叩いてきた。


「何だ、その顔は」


「いや……生きて帰ってこいよ」


「戦場に行くわけじゃない」


「戦場より危険な時もあるだろ」


「殿下に失礼だぞ」


 カイは眉をひそめて注意したが、否定し切れなかった。


 第三皇女ソフィア・フォン・ガルア。


 帝国の至宝と称される美貌を持ち、優れた知性と高い教養を備え、民の前では慈愛に満ちた笑みを絶やさない皇女である。


 ただし、それはあくまで民衆の前での話だ。


 カイが知っているソフィアは、好奇心が強く、思いついたことをすぐ実行に移し、そのたびに周囲を巻き込む困った主人だった。


 三年前には突然、帝都で一番おいしい焼き菓子を探すと言い出した。


 その結果、カイは朝から夕方まで帝都中の菓子店を走り回り、二十種類を超える菓子を購入することになった。途中で財布を忘れたことに気づき、城と街を二往復したことは今でも思い出したくない。


 二年前には平民の暮らしを知りたいと言い出し、変装して市場へ向かった。


 そこまではよかった。


 問題は、ソフィアが露店の店主と値段交渉を始め、最終的に商売の仕入れや流通について質問攻めにしたことだった。店主は最初こそ嬉しそうに答えていたが、半刻後には額に汗を浮かべて助けを求めるようにカイを見ていた。


 去年は海を見たいと言い出した。


 帝都から海までは馬車で数日かかる。


 護衛計画、宿泊先の確認、街道の安全確保、皇帝への申請、現地騎士団との連携。カイだけでなく、第四近衛騎士団全員がひと月近く振り回された。


 なお、出発前日に雨季へ入ったため計画は延期となった。


 準備に費やした時間は戻ってこない。


「今日は何だと思う?」


 青年騎士が声を潜めて尋ねる。


「春だから花畑を見たいとか?」


「帝都中の花を集めたいかもしれないぞ」


「いや、殿下なら自分で庭園を作ると言い出す」


「お前たち、本人のいない場所で好き勝手に言うな」


 カイが睨むと、騎士たちは口を閉じた。


 しかし、その顔には明らかに笑いが残っている。


 マリアは腕を組みながら一連のやり取りを眺めていたが、やがて口元をわずかに緩めた。


「安心しろ。今回はおそらく、お前が考えているような話ではない」


「その言い方をされると、余計に不安になるんですが」


「それは日頃の行いの問題だな」


「俺の日頃の行いですか?」


「殿下のだ」


「団長、それを本人の前でも言えますか?」


「もちろん言える」


 マリアは即答した。


 第四近衛騎士団の中で、ソフィアに真正面から意見できる数少ない人物である。もっとも、マリアが注意したところで、ソフィアが素直に聞くとは限らない。


「とにかく急げ。朝食を終えてから、ずっとお前を待っておられる」


「ずっとって……今、朝の鐘が鳴ったばかりですよ」


「殿下は今日は随分早く起きられたらしい」


「どうしてです?」


「さあな」


 マリアはそう答えたが、その口元には意味ありげな笑みが浮かんでいた。


 カイはそれを見逃さなかった。


「団長、何か知っていますね?」


「私は何も知らない」


「嘘をつく時、少しだけ右の眉が上がりますよ」


「観察力が高いのは騎士として良いことだが、上官へ向けるのは感心しないな」


「やっぱり知ってるんですね」


「早く行け」


 追及を続けようとしたカイの背中を、マリアが強く叩いた。


 乾いた音が訓練場へ響く。


「痛っ!」


「殿下を待たせるな。あと汗臭いまま部屋へ入るなよ。着替えてから行け」


「分かっています!」


 カイは背中を押さえながら訓練場を離れた。


 その姿が見えなくなると、残された騎士たちは一斉にマリアの周りへ集まった。


「団長、何の話なんですか?」


「殿下が朝からカイを呼ぶなんて、やっぱり何かあるんですよね?」


「もしかして、ついに?」


「静かにしろ」


 マリアが低い声を出すと、騎士たちは揃って口を閉じた。


 しかし、誰の顔にも好奇心を隠し切れない色が浮かんでいる。


「本人が知らされていないことを、お前たちが先に口にするな。それに、まだ今日の段階では何も決まっていないことになっている」


「なっている、ですか?」


 青年騎士が聞き返す。


 マリアはしばらく黙ったあと、カイが消えた廊下の方へ視線を向けた。


「……少なくとも、あの男の中ではな」


 意味深な言葉を残し、マリアは踵を返した。


 騎士たちは顔を見合わせる。


 だが、団長がそれ以上を話すつもりがないと悟ると、各々の持ち場へ戻っていった。


 ただし、その日の第四近衛騎士団では、午前中だけで三人が訓練中に別の方向を見て注意された。


 全員、第三皇女の居室がある塔を気にしていたからである。


          ◇◇◇


 訓練場を出たカイは、騎士団の詰所で身体を拭き、濃紺の近衛騎士服へ着替えた。


 胸元には銀糸で帝国の紋章が刺繍され、左肩には第四近衛騎士団を示す青い飾緒が掛けられている。平民出身のカイにとって、初めてこの制服へ袖を通した日は忘れられないものだった。


 誇らしかった。


 同時に、重かった。


 騎士として認められた喜びより先に、自分が本当にこの場所へいていいのかという不安が押し寄せた。


 孤児院で暮らしていた頃の自分は、今日のような未来を考えたことすらなかった。明日の食事があるかどうかを気にしながら生きていた少年が、皇族を守る近衛騎士になっている。


 すべての始まりは、七年前のあの日だった。


 十歳だったカイは、帝都の外れにある森で薪を拾っていた。


 そこで偶然、人攫いの一団と、捕らわれていた銀髪の少女を見つけた。


 少女が皇女であることなど知らなかった。


 ただ、泣いていた。


 怖がっていた。


 だから助けた。


 子供一人で勝てる相手ではなかったが、地形を利用して一人ずつ誘い出し、石を投げ、罠を作り、最後は奪った短剣を振り回した。今思い返せば、よく生きていたものだと思う。


 少女を連れて森を抜けたあと、帝国軍が現れた。


 その場でカイは拘束された。


 人攫いの仲間と勘違いされたのだ。


 必死に違うと訴えたカイを救ったのは、背後から彼の服を掴んで離さなかった少女だった。


『この人が助けてくれたのです』


 涙で赤くなった空色の瞳が、兵士たちを睨んでいた。


『この人を乱暴に扱ったら、私は許しません』


 それが、ソフィアとの出会いだった。


 その後、恩人に報いたいというソフィアの強い要望により、カイは皇城へ連れてこられた。


 本人の意思がどこまで尊重されたのかは、今でも分からない。


 孤児院から出て皇城へ来た日のことを、カイは密かに「ドナドナされた日」と呼んでいる。


 騎士候補生として訓練を受けることになり、鬼と呼ばれる教官に毎日地面へ叩きつけられた。食事の作法、読み書き、礼儀作法、帝国史、皇族への接し方まで、覚えることは山ほどあった。


 逃げ出したくなったことも一度や二度ではない。


 それでも辞めなかったのは、見返したかったからだ。


 平民だから。


 孤児だから。


 皇女の気まぐれで城へ来ただけだから。


 そう言って笑った者たちを、実力で黙らせたかった。


 そして何より、自分を信じてくれた少女を守れる男になりたかった。


 その少女が今では、自分を最も振り回す存在になっているのだから、人生とは分からないものである。


「今日は何だろうな……」


 カイは誰に聞かせるでもなく呟いた。


 第三皇女の居室がある白銀宮へ続く回廊は、午前の陽光に満たされていた。高い窓から差し込む光が白い床に長方形の模様を作り、壁際に並んだ花瓶には、春に咲く淡い青色の花が生けられている。


 すれ違う侍女たちがカイへ頭を下げる。


 普段なら軽く会釈を返すだけだが、今日は妙に視線を感じた。


 一人や二人ではない。


 すれ違う侍女たちのほとんどが、カイの顔を見ると口元を緩めるのである。


「……何だ?」


 不審に思って振り返ると、侍女たちは慌てて前を向いた。


 しかし、歩き去りながら肩を震わせている者もいる。


 カイは眉を寄せた。


 騎士服の着方を間違えただろうか。


 詰所で確認したはずだ。


 顔に汚れでもついているのかと頬を擦ってみるが、何もない。


 やがて白銀宮へ到着すると、扉の前で待っていた老侍女が、カイを見るなり穏やかに微笑んだ。


「お待ちしておりました、カイ様」


「様はやめてください、エマさん。俺は平民です」


「近衛騎士様に敬称をつけることは、何もおかしくありませんよ」


「昔みたいにカイでいいです」


「では、姫様の前でだけそういたしましょう」


 エマはソフィアが幼い頃から仕えている侍女で、カイが皇城へ来た頃から世話を焼いてくれた人物でもある。


 右も左も分からず、食卓でどの匙を使うべきか悩んでいたカイへ、誰にも気づかれないよう手順を教えてくれた。訓練で傷だらけになった時には薬を塗り、読み書きの勉強が遅れていると知れば、夜遅くまで付き合ってくれた。


 カイにとっては、頭の上がらない相手の一人である。


「姫様のご機嫌はどうですか?」


「大変よろしいですよ」


 エマの笑みが深くなる。


 カイは不安になった。


「何か、嬉しいことでもあったんですか?」


「ええ。姫様にとって、とても喜ばしいお話がございました」


「そうなんですね」


「カイもきっと喜びますよ」


「俺も?」


 思い当たることはない。


 ソフィアが新しい菓子を手に入れた程度なら、カイが喜ぶようなことではない。新しい庭園が完成したのなら、護衛の手間が増えるだけだ。


「何の話です?」


「姫様から直接お聞きください」


 エマはそれ以上教えるつもりがないらしい。


 優雅な動作で扉を開き、カイへ中へ入るよう促した。


「姫様、カイが参りました」


「入ってください」


 部屋の奥から、澄んだ声が返ってくる。


 カイは姿勢を正し、室内へ足を踏み入れた。


 第三皇女ソフィアの私室は、皇族の居室に相応しい豪華さを備えていた。


 壁には帝国北部で織られた淡い水色の絹布が張られ、天井から下がる水晶の照明が朝日を受けてきらきらと輝いている。窓辺には白い花が並び、床には踏むことを躊躇うほど精緻な刺繍の絨毯が敷かれていた。


 部屋の中央には白いソファーと低い卓があり、そのソファーに一人の少女が腰掛けている。


 朝の光を受けて輝く銀色の髪。


 空のように澄んだ青い瞳。


 透き通るような白い肌。


 淡い水色のドレスに身を包んだ少女は、絵画の中から抜け出してきたと言われても信じられるほど美しかった。


 第三皇女ソフィア・フォン・ガルア。


 カイの主であり、恩人であり、長年にわたり彼の平穏を壊し続けている張本人である。


「お呼びでしょうか、姫様」


 カイはソフィアの前まで進み、片膝をついて騎士の礼を取った。


 ソフィアは手にしていた紅茶のカップを静かに置く。


「遅かったですね」


「呼び出しを受けてから、できる限り急いだつもりですが」


「私が起きてから、もう二刻近く経っています」


「俺が呼び出しを受けたのは、つい先ほどです」


「つまりマリアが遅かったのですね」


「団長を責めないでください。朝は合同訓練がありますから」


「私より訓練の方が大切なのですか?」


 ソフィアがわずかに頬を膨らませる。


 民衆の前では絶対に見せない顔だ。


 帝国の至宝と呼ばれる皇女が子供のように拗ねる姿を見ても、カイは今さら動揺しない。七年間も付き合っていれば慣れるものである。


「どちらが大切かという話ではありません。騎士が訓練を怠れば、姫様を守れなくなります」


「私を守るため?」


「もちろんです」


 迷いなく答えると、ソフィアの頬から不満が消えた。


 代わりに、口元がわずかに緩む。


「なら許します」


「ありがとうございます」


「ですが、次からは私が呼ぶ前に来てください」


「無理です」


「即答しましたね」


「姫様がいつ俺を呼ぶか予測できませんから」


「七年も一緒にいるのに?」


「七年一緒にいるからこそ、予測できないと分かっています」


 カイの言葉に、部屋の端で控えていた侍女たちが俯いた。


 肩が震えている。


 笑いを堪えているらしい。


 ソフィアもそれに気づいたのか、侍女たちへちらりと視線を向けた。途端に全員の背筋が伸び、何事もなかったような澄ました顔になる。


「カイ、そこへ座ってください」


「騎士が主君と同じ席に座るわけにはいきません」


「今日は命令です」


「何のために?」


「お茶を飲むためです」


「勤務中ですが」


「私とお茶を飲むことも、今日の貴方の勤務です」


「初めて聞きました」


「今、決めました」


 やはり、予測などできるはずがない。


 カイは諦めてソフィアの向かいに腰を下ろした。


 すぐにエマが新しいカップを用意し、琥珀色の紅茶を注ぐ。芳醇な香りが広がり、それまで訓練で疲れていた身体から少しだけ力が抜けた。


 ソフィアは満足そうにカイを見つめている。


「何ですか?」


「何がです?」


「ずっと俺の顔を見ているでしょう」


「見てはいけませんか?」


「いえ、いけないわけではありませんが」


「では問題ありませんね」


 ソフィアはカップへ口をつけた。


 その仕草は優雅で、皇女として完璧に洗練されている。


 しかし、空色の瞳だけはカップの縁越しにカイへ向いたままだった。


 さすがに居心地が悪くなり、カイも紅茶を口へ運ぶ。


「どうですか?」


「おいしいです」


「それだけですか?」


「香りが良く、渋みも少ないと思います」


「そうではありません」


「では、どう答えればいいんです?」


 カイが困惑すると、ソフィアは少しだけ唇を尖らせた。


「今日の私に、何か気づきませんか?」


 カイはカップを置き、改めてソフィアを見る。


 髪型は普段と少し違う。


 いつもは後ろへ流している銀髪を、今日は片側だけ小さく編み込み、青い宝石の髪飾りで留めている。ドレスも普段より華やかで、胸元や袖には細かな銀糸の刺繍が施されていた。


「髪型が違いますね」


「それだけですか?」


「髪飾りも新しいものですか?」


「他には?」


「ドレスも少し豪華です」


「他には?」


「……機嫌が良い?」


 ソフィアの眉がわずかに寄る。


「貴方は女性に好かれませんね」


「急に酷いことを言わないでください」


「事実でしょう?」


「否定はできませんが」


 カイは小さく息を吐いた。


 騎士候補生だった頃、仲良くなった女性は何人かいた。しかし、なぜか翌日になると距離を置かれることが多かった。


 勇気を出して食事へ誘おうと思っていた少女が、突然地方の実家へ戻ったこともある。別の侍女は、カイと話していた翌日から配置換えとなり、城の反対側で勤務するようになった。


 理由は今も分からない。


「今日はいつも以上にお綺麗だと思います」


 これで正解だろうかと考えながら告げると、ソフィアの動きが止まった。


 カップを持つ指先がわずかに震える。


「……今、何と?」


「いつも以上にお綺麗です」


「もう一度」


「何度言わせるんですか」


「聞き取れなかったのです」


「顔が赤いですが、熱でもあるんじゃないですか?」


「ありません!」


 ソフィアは勢いよく否定し、顔を隠すようにカップへ口をつけた。


 しかし、紅茶を飲むには傾きが足りない。


 カイはそのことに気づいたが、指摘しなかった。触れない方がいい気がしたからである。


 部屋の端に立つ侍女たちは、今度こそ笑いを堪え切れず、顔を背けていた。


「それで、本日は何のご用でしょうか?」


 しばらく待ってからカイが尋ねる。


 ソフィアはカップを置き、膝の上で両手を重ねた。


 先ほどまでの拗ねた少女の表情が消え、皇族としての穏やかな顔へ戻る。


 ただし、その指先が落ち着かない様子で互いに触れ合っていることに、カイは気づかなかった。


「用がなければ、貴方とお茶を飲んではいけませんか?」


「いけなくはありませんが、朝から呼び出すほどのことではないでしょう」


「私にとっては大切なことです」


「そうですか」


「……そこは、もう少し何かないのですか?」


「姫様が楽しいのであれば、俺も嬉しいです」


 カイは何気なく答えた。


 ソフィアがまた黙る。


 今度は耳まで赤くなっていた。


「やっぱり熱があるんじゃないですか?」


「ありませんと言っているでしょう!」


「ならいいんですが」


 ソフィアはしばらくカイを睨んでいたが、やがて諦めたように息を吐いた。


「本当に、貴方は昔から変わりませんね」


「姫様は随分変わりましたよ」


「そうですか?」


「森で会った頃は、ずっと泣いていましたから」


「それは言わない約束です!」


「そんな約束をした覚えはありません」


「今しました」


「また勝手に決めましたね」


「皇女の特権です」


「便利な特権ですね」


 軽口を交わしながら、二人は同時に笑った。


 カイが皇城へ来たばかりの頃は、ソフィアの前でも必要以上に緊張していた。言葉を間違えれば処罰されるのではないかと恐れ、目を合わせることすらできなかった。


 それを変えたのはソフィア自身だった。


『私を姫様と呼びなさい』


『でも、話し方は前と同じで構いません』


『命令です』


 そんな無茶な命令を繰り返されるうちに、カイは少しずつソフィアの前でだけ肩の力を抜けるようになった。


 今では公の場を除けば、多少の軽口も許されている。


 カイにとってソフィアは主君である。


 それと同時に、七年という長い時間を共に過ごしてきた、誰よりも身近な相手でもあった。


「それで、そろそろ本当の用件を聞かせてもらえますか?」


 カイが改めて尋ねる。


 ソフィアの笑みがゆっくりと消えた。


 室内の空気が変わる。


 先ほどまで笑いを堪えていた侍女たちも表情を引き締め、エマは静かに一礼すると、他の侍女たちを伴って部屋から退出した。


 扉が閉まる。


 広い室内に残されたのは、カイとソフィアの二人だけだった。


「人払いをするほどの話なんですか?」


「はい」


 ソフィアは短く答えた。


 その声には、先ほどまでの明るさとは異なる緊張が混じっている。


 カイは自然と姿勢を正した。


 皇族が人払いをして伝える話である。帝国の情勢に関わるものか、あるいはソフィアの身辺に危険が迫っているのかもしれない。


 騎士として頭を切り替え、どのような命令にも応じられるよう身構える。


 ソフィアはそんなカイをしばらく見つめていた。


「カイ」


「はい」


「少しだけ、こちらへ来てください」


 カイは立ち上がり、ソフィアの前へ移動した。


「近すぎませんか?」


「もっとです」


「これ以上近づいたら、姫様のドレスを踏みます」


「では、そこまでで構いません」


 ソフィアはソファーへ座ったまま、目の前に立つカイを見上げた。


 空色の瞳が揺れている。


 そこに不安のような色を見つけ、カイは眉を寄せた。


「何かあったんですか?」


「……カイは」


 ソフィアは言葉を止めた。


 一度視線を下げ、胸元で両手を強く握る。


「カイは、私がここからいなくなったら、寂しいですか?」


「いなくなる?」


「例えばの話です」


「どこへ行くんです?」


「だから、例えばです」


 ソフィアの声が少しだけ強くなる。


 カイは答えを考えた。


 第三皇女であるソフィアが皇城からいなくなるとすれば、考えられる理由は多くない。領地を与えられるか、他国へ留学するか、あるいは――。


「寂しいと思います」


 素直に答えると、ソフィアの指先からわずかに力が抜けた。


「本当に?」


「七年も仕えてきましたから。突然いなくなれば、調子が狂います」


「それだけですか?」


「姫様の我が儘に振り回されることもなくなりますね」


「カイ」


「冗談です」


 睨まれ、すぐに訂正する。


 しかし、ソフィアの表情は晴れなかった。


「もし、私が遠くへ行くことになったら?」


「護衛が必要なら、どこへでもお供します」


「必要ないと言われたら?」


「それは……」


 カイは答えに詰まった。


 近衛騎士は皇帝直属の騎士である。


 第三皇女付きとはいえ、ソフィアが他国へ嫁いだ場合、カイがそのまま同行できるとは限らない。臣下降嫁であっても、新しい護衛体制が組まれる可能性が高い。


「新しい任地で務めを果たします」


「そうですか」


 ソフィアの声が小さくなる。


 カイはその表情を見て、胸の奥にわずかな違和感を覚えた。


「姫様」


「何ですか?」


「本当に、何かあったんですね?」


 ソフィアは答えなかった。


 長い沈黙が流れる。


 窓の外から、小鳥の鳴き声が聞こえた。風がカーテンを揺らし、卓上に置かれた紅茶から立ち上る湯気がわずかに形を変える。


 やがてソフィアはゆっくりと顔を上げた。


 その表情には、皇女としての落ち着きと、一人の少女としての緊張が同時に浮かんでいた。


「カイ」


「はい」


「私の婚姻が決まりました」


 告げられた言葉が、静かな部屋へ落ちた。


 カイは瞬きをする。


 すぐには意味を理解できなかった。


 だが、頭の中で言葉を繰り返し、ようやく内容を飲み込む。


 ソフィアの婚姻。


 つまり彼女は誰かと結婚する。


 皇族の婚姻であれば、他国との関係強化か、帝国内の有力貴族との結びつきが目的だろう。


 驚きはあった。


 しかし、それ以上に、長く仕えてきた主君の人生に新しい門出が訪れたことへの喜びが湧き上がる。


 そして、ほんの少しだけ。


 本当にわずかに。


 胸の奥が妙に重くなった。


 その感覚の正体を考える前に、カイは騎士として相応しい態度を取った。


 背筋を伸ばし、満面の笑みを浮かべる。


「それは、おめでとうございます、姫様!」


 心からの祝福だった。


 嘘ではない。


 ただしその瞬間。


 カイの笑顔を見つめていたソフィアの空色の瞳から、わずかに温度が消えた。


「……そうですか」


 ソフィアは静かに呟く。


「そんなに、嬉しいのですね」


 声は穏やかだった。


 表情も微笑んでいる。


 だが、なぜかカイの背中に冷たいものが流れた。


「姫様?」


「何でもありません」


 ソフィアは微笑みを深くした。


 それは帝国の至宝と呼ばれる皇女に相応しい、非の打ち所のない美しい笑顔だった。


 しかし七年間彼女に仕えてきたカイは知っている。


 ソフィアがこの笑顔を浮かべる時は、決して機嫌が良いわけではない。


 むしろ、その逆である。


「カイ」


「は、はい」


「貴方にも、婚姻式まで存分に働いていただきますからね」


「もちろんです」


「ええ。とても、とても期待しています」


 何かがおかしい。


 理由は分からない。


 だが、逃げた方がいい気がする。


 そんな騎士として鍛え上げられた本能からの警告を、カイは無理やり胸の奥へ押し込んだ。


 主君の婚姻は喜ばしいことである。


 長年仕えてきた騎士として、祝福し、支え、無事に婚姻式を迎えられるよう尽力するのは当然の務めだ。


 そう自分へ言い聞かせながら、カイはもう一度笑顔を浮かべた。


「何でもお申しつけください、姫様」


「……今、何でもと言いましたね?」


「はい?」


 ソフィアの笑みが、ほんの少しだけ楽しげなものへ変わる。


 その変化に気づき、カイの嫌な予感が一気に膨れ上がった。


 しかし、もう遅い。


 ソフィアは卓の引き出しから二枚の書類を取り出すと、ゆっくりとカイの前へ差し出した。


「では、早速働いていただきましょうか」


 書類の端には、皇帝の印が押されていた。


 もう一枚には、近衛騎士団長の印がある。


 カイは差し出された二枚の書類と、楽しそうに微笑むソフィアを交互に見つめた。


 この時、彼はまだ知らなかった。


 第三皇女ソフィア・フォン・ガルアの婚姻が決まったその日から、自分の平穏な騎士生活が、これまで以上に大きく狂い始めることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。