第25話 第三皇女様、婚約発表の前日にそんな顔で笑われたら逃げられません
婚約発表まで、あと一日。
皇城の朝は昨日までと同じように始まったはずなのに、城内を流れる空気には、どこか普段とは違う落ち着かなさが混じっていた。
東の空から昇った朝日は白い城壁を淡く照らし、庭園では朝露を残した花々が春の風に小さく揺れている。鐘楼から時を告げる音が響けば、使用人たちはいつものように回廊を行き交い、夜勤を終えた騎士と朝から任務に就く騎士が短い引き継ぎを交わしていた。
景色だけなら、何も変わらない。
けれど、すれ違う者たちが声を潜めて交わす会話には、昨日まではここまで頻繁に聞かなかった言葉が混じっている。
「いよいよ明日らしいな」
「第三皇女殿下の?」
「ああ。正式に発表されるそうだ」
「相手はやはり近衛の……」
そこから先は、カイの姿に気づいて不自然に途切れた。
まだ帝国全体へ正式公表されたわけではない。それでも皇帝直属の文官や皇族付きの使用人、近衛騎士団、式典準備に関わる職人たちへ必要な情報が共有された結果、皇城内ではもう秘密と呼ぶ方が難しい状況になっていた。
そして、その話題の中心にいる本人はというと。
「……無理だな」
第四近衛騎士団の訓練場で、木剣を握ったまま小さく呟いていた。
朝の冷気がまだ石造りの地面に残る中、カイの正面には三人の若い騎士が木剣を構えている。周囲では別の組が模擬戦を続け、乾いた剣戟の音と指導役の声が途切れることなく響いていた。
「何が無理なんです?」
正面にいた青年騎士が怪訝そうに眉を寄せる。
カイは木剣を肩へ担ぎ、訓練場の向こうに見える青空を一度だけ見上げた。
「明日のことを考えないようにしようと思った」
「婚約発表ですか?」
「聞くな」
「やっぱり」
青年たちが顔を見合わせた直後、審判役の騎士が片手を上げた。
「始め!」
三人が同時に踏み込む。
正面から一人、右側から一人、さらに左後方から回り込むように一人。昨日まで何度も組み合わせを変えて訓練してきただけあって、三人の動きは以前より明らかに噛み合っていた。
しかし、カイは正面の相手へ意識を向けたまま、右から迫った木剣を手首の返しだけで外へ流した。続けて正面から振り下ろされた一撃を半歩ずらしてかわし、その空いた空間へ腰を沈めながら入り込む。
「うわっ!」
左から回り込もうとしていた青年の足元へ木剣を滑らせ、動きを止めたところで胸当てへ剣先を軽く触れさせる。
一人。
すぐに正面の青年が体勢を立て直して迫ってきた。カイは攻撃を受け止めず、身体を半回転させて横へ逃がす。勢い余って一歩前へ出た相手の背中へ木剣を軽く当て、そのまま最後に残った一人へ向き直った。
「今だ!」
「分かってる!」
最後の青年が大きく木剣を振りかぶる。
けれど、振り下ろされるより先にカイの剣先が胸当てへ届いた。
「遅い」
「そこまで!」
審判役の声が響き、三人の青年が揃って大きな息を吐いた。
「全然集中切れてないじゃないですか!」
「婚約発表で頭いっぱいなんじゃなかったんですか!」
「頭がいっぱいでも、身体は勝手に動くんだよ」
「それ反則ですよ」
不満そうな声に、周囲で見ていた騎士たちから笑いが起こる。
カイも木剣を下ろしながら笑った。
「でも昨日より良かったぞ。最初の入り方はかなり綺麗だった」
「三人まとめて負けたあとに褒められても嬉しくないです」
「じゃあ次は四人で来い」
「嫌です!」
即答が返り、さらに大きな笑いが広がった。
こうして訓練をしている間だけは、カイも余計なことを考えずに済んだ。剣を握れば相手の足運びを見る。肩の動きを読む。仲間の位置を把握して、次の攻撃を予測する。
そこには、平民も孤児も婚約者も関係ない。
いつもの近衛騎士カイでいられる。
だからこそ、訓練を終えて木剣を棚へ戻した瞬間、胸の奥へ押し込めていた現実が一気に戻ってきた。
「……本当に明日か」
カイは右手首へ視線を落とした。
訓練中に傷がつかないよう、空雫石の腕輪には薄い布を巻いてある。その下には、ソフィアが自分のために選んだ石と、金具の裏へ刻まれた「ソフィー」の文字がある。
明日は布を外す。
礼装を着る。
その腕輪を身につけたまま、ソフィアの隣に立つ。
帝国中へ、自分が第三皇女の婚約者だと知られる。
想像しただけで、心臓が一度大きく鳴った。
「カイ」
背後から聞き慣れた声が飛んできた。
振り返ると、訓練場の入口にマリアが立っている。片手には数枚の書類があり、いかにもこれから面倒な予定を告げに来たという雰囲気だった。
「団長」
「今日はここまでだ」
「またですか?」
「まただ」
ここ数日、婚姻準備のために訓練時間を削られているカイは、露骨に嫌そうな顔をした。
「最近、一日まともに訓練できてないんですけど」
「明日が何の日か忘れたのか?」
「忘れようとしてました」
「無駄だ」
「ですよね」
カイは諦めたように息を吐き、棚へ木剣を戻した。
「それで、今日は何をするんです?」
「最終確認だ」
「何の?」
「全部だ」
「一番聞きたくない答え」
マリアは気にする様子もなく書類を開いた。
「午前は婚約発表用礼装の最終確認。そのまま大謁見広間へ移動して、発表時の導線と立ち位置を確認する。昼食後に発表文面の最終確認。午後は皇帝陛下、皇太子殿下、第三皇女殿下を交えて全体打ち合わせだ」
「……もう十分多いです」
「さらに夕刻に舞踏の最終確認」
「それ昨日聞いてません!」
「今言った」
「最近、城の人たち全員その言い方しません!?」
周囲からまた笑い声が上がる。
マリアは書類を畳みながら、まるで何でもないことのように続けた。
「本番前日とはそういうものだ」
「騎士の出征前日より忙しい気がするんですけど」
「種類が違う」
「分かってますよ」
「それと、姫様から伝言だ」
その一言で、カイの表情が少しだけ変わった。
「何て?」
「『今日は絶対に怪我をしないで来てください』だそうだ」
「……」
「朝から二回、同じ伝言が来た」
「何で二回?」
「一回では不安だったらしい」
カイは自分がつい先ほどまで三人を相手に模擬戦をしていたことを思い出し、嫌な予感に顔をしかめた。
「俺、今三人相手にしてたんですけど」
「それを知れば三回目が来るな」
「絶対言わないでくださいよ」
「もう遅い」
「え?」
「リナが伝えに行った」
「何で!?」
慌てて訓練場の反対側を見ると、そこではリナが悪びれもせず片手を振っていた。
「ごめん、もう伝言頼んじゃった」
「お前!」
「姫様、知った方が安心するかなって」
「安心どころか怒るだろ!」
「でも心配されて嬉しいくせに」
「……」
思わず黙ったカイを見て、リナの口元が上がる。
「ほら」
「うるさい」
また周囲が笑った。
少し前までなら、心配されることを面倒だと感じていたかもしれない。ソフィアは過保護だ、自分は騎士なのだから多少の怪我くらい仕方がないと、そんな言葉で終わらせていた。
今は違う。
ソフィアが心配してくれる理由を知っている。
自分が傷つけば、彼女も傷つく。
だから完全に納得できているわけではなくても、以前のように軽く流せなくなっていた。
「……会いたいな」
ふと、言葉が零れた。
その瞬間、リナだけでなく、マリアや近くにいた数人の騎士まで一斉に動きを止めた。
「何ですか」
カイが眉を寄せる。
「いや」
リナが笑う。
「普通に言うようになったなって」
「昨日、会いたい時は言うって約束したから」
「姫様と?」
「ああ」
「じゃあ早く行ってあげなよ」
「行くよ」
以前ならからかわれたことに腹を立てていたかもしれない。けれど今日は、少し顔を赤くしただけで、カイは詰所へ着替えを取りに戻った。
背後からは、「本当に変わったな」「姫様、七年待った甲斐があったな」といった声が聞こえてくる。
全部聞こえていた。
それでも、振り返らなかった。
◇◇◇
白銀宮へ到着した頃には、建物全体が婚約発表前日の慌ただしさに包まれていた。
回廊を何人もの侍女が行き交い、大きな衣装箱や磨かれた靴、装飾用の宝石箱が次々と奥へ運び込まれている。仕立て職人たちは最終確認のための道具を抱え、文官らしき男が発表用の書類束を持ってエマと短く話していた。
ここ数日ずっと準備をしてきた。
それでも、前日になって目の前へ積み上がった物を見ると、ようやく現実味が増してくる。
「……本当に明日なんだな」
カイが入口で呟くと、傍にいたエマが淡々と頷いた。
「はい。本日が最後の準備日でございます」
「最後って言われると余計怖いですね」
「今さらでございます」
「エマさん、最近本当に容赦なくなりましたね」
「姫様の婚約者でいらっしゃいますので」
「またそれ」
エマの口元がわずかに緩む。
「姫様は奥でお待ちです」
「……怒ってます?」
「何についてでしょう」
「訓練です」
「ああ」
エマの目がほんの少し細くなった。
「三人をお相手になったとか」
「もう届いてる」
「はい」
「怒ってます?」
「大変ご心配なさっています」
「それ、ソフィーの場合ほぼ同じですよね」
「否定はいたしません」
カイは深く息を吐いた。
「分かりました。行きます」
「どうぞ」
エマが私室の扉を開く。
その直後だった。
「カイ!」
待っていたソフィアが勢いよく立ち上がった。
淡い色の仮衣装を身につけたまま、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。表情を見る限り、怒っているというより本気で心配していたのだろう。
「怪我はありませんか!?」
「ない」
「本当に?」
「ないって」
「三人を同時に相手にしたと聞きました!」
「訓練だぞ」
「明日は婚約発表なのですよ!」
「だから軽めにした」
「三人のどこが軽いのですか!」
カイが苦笑する。
「全員木剣だったし」
「そういう問題ではありません!」
ソフィアはカイの前へ来ると、腕、肩、顔、手と順番に視線を移していった。
「どこも痛くありませんか?」
「ない」
「足は?」
「大丈夫」
「腰は?」
「昨日までの舞踏の筋肉痛ももうない」
「頭は?」
「何で頭まで確認するんだよ」
「転んで打っていないかと」
「転んでない」
質問が止まらない。
そんなソフィアを見ているうちに、カイはだんだん可笑しくなってきた。
「ソフィー」
「何です?」
「そんなに心配?」
ソフィアは一瞬だけ黙った。
けれど、以前のように「別に」や「何でもありません」で誤魔化したりはしない。
「心配です」
「そっか」
「明日なのですよ」
「うん」
「明日、カイが私の隣に立つのです」
「うん」
「それなのに今日怪我をしたら」
「しないって」
「もし顔に傷でもついたら」
「騎士なんだから多少は仕方ないだろ」
「嫌です」
間髪入れない返事だった。
カイが少し目を見開く。
「傷がある俺が嫌?」
「違います」
ソフィアは少しだけ眉を寄せ、どう言えば正しく伝わるのかを探すように息をついた。
「明日の見た目がどうこうという話ではありません。私は、カイが傷つくこと自体が嫌なのです」
空色の瞳がまっすぐこちらを向く。
「今日も、明日も、その先も。騎士である以上、すべての怪我を避けられないことくらい分かっています。それでも、できる限り傷つかないでいてほしいです」
カイはすぐには答えなかった。
皇太子にも似たことを言われた。
自分を粗末にすれば、ソフィアの大切なものを粗末にすることになる。
今までのカイなら、「俺が傷つけば済むならその方がいい」と迷いなく考えていた。けれど、それが一人で生きていた頃の考え方なのだと、ようやく少しずつ理解し始めている。
「……分かった」
「本当に?」
「ああ」
「訓練も?」
「騎士だから訓練はやめない」
「それは分かっています」
「でも、無茶は減らす」
ソフィアが少しだけ目を細めた。
「約束してくださいます?」
カイは即答しかけて、やめた。
完全に守れると言い切るのは違う。危険が迫れば、自分は反射的に前へ出る。それはすぐには変わらないだろう。
「……努力する」
正直に答える。
ソフィアは一瞬だけ困ったような顔をしたものの、無理に約束させようとはしなかった。
「はい。それでいいです」
「皇太子殿下にも似たようなこと言われたしな」
「兄上は正しいです」
「そこは即答なんだ」
「もちろんです」
カイが笑う。
そして、少しだけ声を柔らかくした。
「じゃあ今日は怪我なし」
「はい」
「ちゃんと来た」
「はい」
「褒めて」
今度はソフィアが完全に止まった。
「……カイ?」
「何」
「今、褒めてと?」
「言った」
「カイから?」
「そうだけど」
「……」
「駄目?」
「駄目ではありません!」
急に声が大きくなり、部屋の端で作業していた侍女が何人かこちらを見た。
ソフィアの頬は一気に赤くなる。
「何でそんな反応するんだよ」
「だって、カイが自分から甘えてくることなんて今までほとんどなかったではありませんか!」
「甘えてないだろ」
「褒めては十分甘えています!」
「そうなの?」
「そうです!」
カイは少しだけ考えた。
以前なら、そう言われた瞬間に否定したかもしれない。
けれど今は。
「じゃあ甘えた」
「……」
「ソフィーに」
その一言は、思った以上に強く効いたらしい。
ソフィアは胸元へ片手を当て、しばらく何も言えなくなった。
「ソフィー?」
「今日の私は、明日まで心臓が持たないかもしれません」
「まだ朝だぞ」
「カイのせいです」
「また俺?」
「はい」
そう言いながらも、ソフィアは嬉しそうだった。
少しだけ笑うと、カイの胸元へ手を伸ばす。乱れてもいない襟をわざわざ整え、そのまま満足そうに頷いた。
「怪我をせず、無事に来てくださって偉いです」
「子供みたい」
「褒めてと言ったのはカイです」
「そうだった」
「とても偉いです」
「それは本当に子供扱いだろ」
二人の笑い声が重なり、張り詰めていた空気が少しだけ柔らかくなった。
◇◇◇
最初の予定は、婚約発表用礼装の最終確認だった。
前回の衣装合わせで細かな調整を済ませていた白銀の礼装は、すでにほぼ完成している。胸元には帝国紋章を基調とした繊細な銀糸の刺繍が施され、肩には深い青の布が重ねられていた。腰へ儀礼剣を下げれば、それだけで普段の近衛騎士服とはまるで違う印象になる。
「カイ様、腕を少し上げてください」
「はい」
仕立て職人が袖の長さを確かめ、肩周りの布を丁寧に整える。別の職人は背中側へ回り、皺が寄らないよう裾を引いた。
カイは鏡の中の自分を見つめた。
初めて仮縫いの状態でこの礼装を着た時には、「花婿みたいだ」と他人事のように思った。
今は違う。
これが誰のための礼装なのか。
隣に誰が立つのか。
どうして自分が着るのか。
全部知っている。
それでも、鏡の中の自分には少しだけ馴染まない。
「どうです?」
横からソフィアの声がした。
振り向く。
そして、カイは数秒言葉を失った。
ソフィアも明日の発表で身につける正式礼装を着ていた。淡い青紫を基調としたドレスは華やかでありながら皇族らしい品格を損なわず、銀色の髪は上品にまとめられている。胸元には皇室紋章。左手首には、夜空石の腕輪。
「カイ?」
呼ばれてようやく口が動いた。
「綺麗」
「……」
「すごく似合ってる」
職人も侍女もいる。
少し前までなら、そんな場所で言える台詞ではなかった。
けれど今は、照れながらでも言える。
ソフィアの頬が赤くなった。
「ありがとうございます」
カイは再び鏡へ視線を戻す。
並んで立つ自分たち。
白銀の礼装を着た近衛騎士と、青紫の礼装を纏った第三皇女。
「明日、この格好で並ぶんだな」
「はい」
「帝国中に見られる」
「はい」
返事をしながら、ソフィアの声にも少しだけ緊張が混じる。
カイはそれに気づいた。
「ソフィーも怖い?」
今度は自分から尋ねる。
ソフィアは少し考えたあと、静かに頷いた。
「少しは」
「ソフィーも?」
「カイほどではありませんけれど」
「そこは余計」
「でも」
ソフィアは鏡越しではなく、直接カイへ視線を向けた。
「私はとても楽しみです」
「何で?」
「七年間」
その言葉を聞くたび、いつもならカイは「またそれ」と笑う。
けれど今回は何も言わなかった。
ソフィアの声が、本当に大切な話をする時のものだと分かったからだ。
「カイを私の大切な人だと、皆の前で堂々と言えないまま過ごしてきました」
その表情には、嬉しさだけではない。
少しの寂しさと、長い時間を待った人にしか持てない重さがあった。
「婚約が決まってからも、相手がカイであることは公にできませんでした。何より、本人にすら言えませんでしたから」
「……うん」
「でも明日は」
ソフィアの空色の瞳が柔らかく揺れる。
「ようやく、私が選んだ人ですと堂々と言えます」
カイの胸が強く鳴った。
「それ、そんなに嬉しい?」
「とても」
迷いのない返事だった。
「カイは?」
今度は自分が聞かれる。
カイは鏡の中の二人を見る。
まだ怖い。
明日、この姿を帝国中の人間へ見られるのだと思えば、腹の奥が少し冷えるような感覚は残っている。
でも。
「……俺も嬉しい」
正直に答えた。
「怖いけど、それ以上に」
少しだけ照れながら、ソフィアを見る。
「俺がソフィーの婚約者だって、皆に知られるのは嬉しい」
ソフィアの目が一気に潤んだ。
「泣く?」
「今は耐えます」
「明日まで?」
「難しいかもしれません」
「だろうな」
周囲の侍女たちから小さな笑いが漏れた。
職人たちも、もう二人のやり取りにはすっかり慣れたらしく、微笑ましそうな顔をしながら作業を続けている。
少し前までは、人前で愛称を呼ぶだけでも照れていた。
好きだと言うことなど考えられなかった。
それが今は。
少しずつ。
婚約者として並ぶことが、特別なことだけではなくなり始めていた。
◇◇◇
礼装確認を終えると、一行は皇城中央棟にある大謁見広間へ移動した。
重厚な扉が開いた瞬間、カイは足を止めた。
「……ここ?」
「はい」
エマが平然と答える。
「明日の正式発表会場でございます」
大謁見広間は、これまでカイが舞踏練習や礼法講習で使ってきた部屋とは比較にならないほど広かった。
高い天井からは巨大な照明が下がり、正面には帝国皇室を示す大旗が掲げられている。磨き上げられた床の中央には深紅の絨毯が伸び、その先に皇帝たちが立つための数段高い場所が用意されていた。
左右には来賓席が整然と並び、今はまだ空いている椅子が幾つも並んでいる。
「広すぎない?」
「通常より規模は抑えております」
「これで?」
「はい」
「帝国って怖いですね」
カイが本気で言うと、隣でソフィアが吹き出した。
「カイ、こちらへ」
「はいはい」
「はいは一回です」
「はい」
エマに案内され、二人は正面の立ち位置へ向かった。
「陛下はこちら。皇太子殿下は右側。第三皇女殿下はこちらになります」
「はい」
「そしてカイ様は」
示された位置は。
ソフィアのすぐ隣。
「……近い」
「婚約者でございますので」
「今日何回目です、それ」
「必要な回数だけ申し上げます」
「強い」
カイは床へ小さく付けられた目印の上に立った。
ソフィアも隣へ立つ。
肩の位置はほとんど同じ。
一歩後ろではない。
改めて正面を見ると、広間の大きさがさらに強く感じられた。
明日は。
ここに主要貴族。
各国大使。
高位文官。
軍関係者。
騎士団代表。
記録官。
多くの人間が集まる。
空席すべてに人が座り、自分へ視線を向ける光景を想像した途端、カイの喉が少し乾いた。
「……やばいな」
「カイ?」
「明日、人が入ったら」
「はい」
「すごい見られるな」
「見られますね」
「逃げたくなるかも」
ソフィアは笑わなかった。
「逃げます?」
静かに聞く。
カイはもう一度広間を見渡し、そのあと隣のソフィアへ顔を向けた。
「……逃げない」
「はい」
「でも」
「何です?」
「もし足が動かなかったら」
ほんの少し、言いにくそうに。
「手、取って」
ソフィアの表情がゆっくり柔らかくなる。
「もちろんです」
「人前でも?」
「明日は婚約発表ですよ?」
「それもそうか」
「それに」
ソフィアは少し頬を赤くした。
「明日は正式な進行として、手を取る予定になっています」
「聞いてない」
「今言いました」
「皆それ好きだな!」
「予定表に書いてございます」
エマが淡々と補足する。
カイは少し困った顔で考えた。
「俺、ちゃんと予定表見た?」
「見ておられません」
「ごめんなさい」
素直に謝ったことで、ソフィアがまた笑った。
エマは気を取り直して説明を続ける。
「陛下が婚約成立について正式にお言葉を述べられた後、第三皇女殿下とカイ様には並んで前へ出ていただきます。その際、お二人で手を取っていただく予定です」
「手を繋ぐんですね」
「はい」
「記録にも残る?」
「当然でございます。記録画の複製は主要都市および各国大使館にも送られます」
「聞かなきゃ良かった」
「明日になれば否応なく残ります」
「エマさん最近本当に強い」
カイは額へ手を当てたあと、ソフィアを見る。
「ソフィーは普通にできそう?」
「私は七年待っていますので」
「強すぎる」
「カイは?」
「……多分」
「多分?」
「緊張して、手汗すごいかも」
一瞬の沈黙。
そしてソフィアが吹き出した。
「そこですか?」
「大事だろ!」
「では拭きません」
「何で」
「そのまま握ります」
「嫌じゃない?」
「全然」
ソフィアは本当に何でもないことのように答えた。
「緊張しているカイごと、手を取ります」
カイの言葉が止まる。
柔らかな笑顔。
明日を楽しみにしているのが分かる顔。
こんな顔をされたら。
「……ずるいな」
「何がです?」
「そういう顔で言うの」
「どんな顔です?」
「逃げられなくなる顔」
ソフィアが少し目を大きくする。
「逃げたいのですか?」
「違う」
すぐに否定した。
「怖いだけ。でも」
カイは自分から半歩だけ距離を詰めた。
「ソフィーがそう言うなら、逃げない」
ソフィアは何も言わず。
ただ、嬉しそうに笑った。
◇◇◇
午前の最後には、発表当日の動きを最初から通して確認することになった。
当然ながら皇帝やレオニスが一日中練習へ付き合えるわけではないため、皇帝役も皇太子役も文官が務めている。
その光景を見たカイが、どうにも落ち着かなそうな顔をした。
「……何か変だな」
「何がです?」
「陛下役が文官なの」
「練習ですから」
「分かってるけど、似てないし」
「似せる必要はありません」
「はい」
ソフィアに注意され、カイは姿勢を正した。
合図が出る。
仮役の文官が婚約成立の文面を読み上げ、二人の名を呼ぶ。
ソフィアが前へ出る。
カイも続く。
しかし。
「カイ様」
エマの声が飛んだ。
「はい」
「半歩遅いです」
「緊張した」
「まだ本番ではございません」
「本番じゃないのに緊張したから怖いんですよ」
「もう一度です」
容赦なく最初からやり直しになる。
二回目。
今度はほぼ同時に並べた。
少しだけ息を吐いたカイの耳元へ、ソフィアが小さく声をかける。
「手」
「あ」
忘れていた。
カイが右手を差し出す。
ソフィアが左手を重ねる。
私室で繋ぐ時のように指を絡めるわけではない。公式の場なので、互いの手を軽く取るだけ。
それでも。
触れた瞬間。
少し安心する。
「では、お二人とも一歩前へ」
エマの指示。
同時に一歩。
広間の中央へ。
正面を向く。
今は誰もいない。
それなのにカイの呼吸が少し浅くなった。
その時。
重なった手に、わずかに力が加わる。
「カイ」
「うん」
「明日、怖くなったら」
ソフィアは正面を向いたまま、小さな声で続けた。
「一度、私を見てください」
「いいの?」
「はい」
「皆に見られてるのに?」
「婚約者を見るのは不自然ではありません」
「そっか」
「それに」
少しだけ笑う気配。
「私もカイを見ます」
「ソフィーも?」
「もちろんです」
カイの呼吸が少しずつ元へ戻る。
「じゃあ明日」
「はい」
「最初、ソフィーを見る」
「はい」
「それから前を見る」
「はい」
「……それならできそう」
「なら大丈夫です」
以前なら、「大丈夫」と言われることが少し重く感じたかもしれない。
絶対に失敗してはいけない。
しっかりしなければならない。
そんな意味に聞こえたかもしれない。
でも今の言葉は違う。
大丈夫。
隣にいるから。
もし怖くなったら見ればいい。
そう言われている気がした。
◇◇◇
昼食は白銀宮の私室で、予定の合間を縫って軽く取ることになった。
午前中だけで礼装を着て、大謁見広間を何度も歩き、立ち位置を確認し、発表手順を二度通した。普段なら午前訓練を終えた程度では疲れたなどと言わないカイも、ソファーへ腰を下ろした瞬間には大きな息を吐いた。
「午前だけで疲れた」
「まだ午後がありますよ」
「聞きたくない」
「逃げます?」
「逃げない」
即答したカイに、ソフィアが嬉しそうに笑った。
「偉いです」
「また子供扱い」
「朝、褒めてとおっしゃいました」
「それ今日一日引っ張る気?」
「はい」
「強いな」
卓上には温かいパンと野菜、薄切りにした肉、それから白花茶が用意されている。
カイはパンを一口食べたあと、ふと顔を上げた。
「ソフィー」
「はい」
「明日、発表が終わったらどうなるの?」
ソフィアは指折り確認するように予定を思い出す。
「発表後、会場内で主要貴族や大使から簡単な祝辞を受けます。そのあと昼頃から正式文書が各地へ送られ、夕刻には小規模な祝賀夜会があります」
「夜会」
「はい」
「舞踏」
「はい」
「最初、俺たち」
「もちろんです」
カイは肩を落とした。
「……忙しいな」
「そうですね」
「夜は?」
「夜?」
「全部終わったあと」
「あ」
カイは少し照れながら視線を逸らした。
「二人で話せる?」
ソフィアの目が少し大きくなる。
「もちろんです」
「疲れてても?」
「絶対です」
「そこまで?」
「カイ」
ソフィアの声が少しだけ柔らかくなる。
「明日は、私にとって七年間待った日です」
カイは黙って聞く。
「皆の前で、カイが私の婚約者だと言える日です。きっと終わる頃には疲れていると思います。でも」
頬を少し赤らめながら。
「最後は、カイと二人で話したいです」
その顔を見た瞬間。
カイの胸の中で、明日に対する気持ちが少しだけ変わった。
怖い。
それはまだ消えない。
でも。
この顔を見たい。
明日が終わったあと、二人で話したい。
「じゃあ約束」
「はい」
「全部終わったら、夜に二人で」
「絶対です」
「分かった」
カイも笑った。
◇◇◇
午後になると、皇帝執務室で最終打ち合わせが行われた。
皇帝、レオニス、ソフィア、カイ。さらにマリア、エマ、発表を取り仕切る文官や警備責任者まで揃い、机の上には当日の進行表と正式発表文が並べられている。
「それでは最終文面を読み上げます」
担当文官が一枚の書類を開いた。
「第三皇女ソフィア・フォン・ガルア殿下と、第四近衛騎士団所属近衛騎士カイとの婚約成立を――」
自分の名が正式な文書の中で読み上げられる。
カイは黙って聞いていた。
まだ少し不思議だ。
しかし、もう「間違いではないか」と思うことはない。
「爵位ならびに家名については、正式授爵まで発表文へ付さない方針でございます」
文官の確認に皇帝が頷いた。
「つまり、明日は近衛騎士カイとして公表する」
「はい」
その言葉に、カイの肩がほんの少し下がった。
昨日。
自分から願った。
新しい姓でも、爵位でもなく。
まずは今までの自分の名前で立ちたい。
それが認められた。
「カイ」
皇帝がこちらを見る。
「異論はないな」
「ありません」
「本当だな?」
「はい」
「途中で逃げるなよ」
「陛下まで言うんですか」
「念のためだ」
「逃げません」
「ならよい」
横でレオニスが少し口元を上げた。
「昨日より顔色はましだな」
「殿下」
「何だ」
「昨日の俺、そんなに酷かったです?」
「かなり」
カイがソフィアを見る。
「知ってた?」
「かなり」
「誰も言ってくれなかった」
「私は大丈夫ですと言いました」
「それ顔の話じゃないだろ!」
室内に小さな笑いが広がる。
皇帝は額へ手を当てた。
「明日もその程度には普段通りでいろ」
「発表中にこんな会話しませんよ」
「そういう意味ではない」
「分かってます」
今度はマリアが書類を確認しながら口を開いた。
「カイ。明日は第四近衛からも警護要員が入る」
「はい」
「リナも配置につく」
「そうなんですか?」
「ああ」
カイは少し驚いた。
そのあと、ほんの少しだけ表情が緩む。
知っている人間がいる。
いつもの仲間が、会場のどこかにいる。
それだけで安心する。
「でも見られてると思うと余計緊張しますね」
「失敗すれば一生言われるな」
「団長!」
レオニスが笑い、ソフィアも口元を押さえる。
カイも抗議しながら、最後には少し笑った。
「……まあ」
「何だ?」
「リナたちがいるなら」
一度言葉を切って。
「嬉しいです」
マリアの目が少しだけ柔らかくなる。
「そうか」
短い返事だった。
でも。
カイにはそれで十分だった。
◇◇◇
夕刻。
最後の予定である舞踏確認が終わる頃には、窓の外の空が橙色から薄紫へ変わり始めていた。
本番で使う曲を一度だけ最初から通す。
カイはソフィアの足を踏まなかった。
回転も崩れず、腕の位置も大きな問題はない。最後に止まる場所が半歩ほどずれたが、それもすぐに修正できた。
最初の練習でソフィアの足を踏んだ時とは比べものにならない。
曲が終わる。
ソフィアの表情が明るくなった。
「カイ」
「何?」
「今日は一度も踏みませんでした」
「それ基準?」
「大切です」
「俺も嬉しいけど」
「本番もお願いします」
「踏まない」
「約束?」
「努力する」
「そこは約束してください」
「じゃあ約束」
二人で笑う。
楽団の者たちが楽器を片づけ、侍女たちも退出していく。
最後にエマが扉の前で一礼した。
「それでは、ごゆっくり」
「エマ」
「何でしょう」
「毎回それ言うよね」
「必要でございますので」
「何が?」
エマは答えず、扉を閉めた。
広い舞踏練習場に二人だけが残る。
夕陽が鏡へ反射し、並んで立つ二人の姿を淡い橙色に染めていた。
カイはしばらく鏡を眺めたあと、小さく呼ぶ。
「ソフィー」
「はい」
「明日、本当に来るんだな」
「来ます」
「もう逃げられない」
「逃がしません」
「知ってる」
カイは少しだけ笑った。
けれど、そのあと声が少し低くなる。
「前はさ」
「はい」
「逃げられないって、すごく嫌な言葉だった」
ソフィアは黙って聞いていた。
「ソフィーに婚約者がいるって知った時」
「はい」
「相手が誰かも知らなくて」
「はい」
「俺じゃない誰かと婚姻すると思ってた」
あの時。
婚姻式を祝える自信がなかった。
誰かにソフィアを取られると思った。
婚約者が嫌いだとすら思った。
その相手が自分だったと知る前のことなのに。
今では少し遠い出来事のように感じる。
「今は」
ソフィアが静かに待つ。
「逃げられないって言われても」
カイは一歩だけ近づいた。
「悪くない」
「どうして?」
「ソフィーが逃がさないって言うから」
「はい」
「それに」
一度だけ息を吐き。
きちんと言葉にした。
「俺も、もう逃げたくない」
ソフィアの瞳がゆっくり潤んでいく。
「カイ」
「うん」
「私、明日はきっと泣きます」
「発表中?」
「そこは我慢します」
「終わったら?」
「多分泣きます」
「夜は?」
「もっと泣くかもしれません」
「そんなに?」
「七年です」
「またそれ」
カイは笑った。
それから、自分から両腕を広げる。
「じゃあ今日の分」
「今日の分?」
「泣く前に抱きしめる」
ソフィアの表情が柔らかくなる。
「……はい」
ゆっくり近づき、カイの胸へ身体を預けた。
カイも背中へ腕を回す。
抱きしめる。
何度目か分からない。
それでも、やっぱり落ち着く。
「ソフィー」
「はい」
「明日、怖くなったら」
「はい」
「見るから」
「私を?」
「うん」
「では、私もカイを見ます」
「そのあと手を取る」
「はい」
「前を見る」
「はい」
カイは目を閉じ、ゆっくり息を吸った。
「……できるかな」
「できます」
「断言するんだ」
「私が知っていますから」
「何を?」
「カイが、怖くても逃げない人だということを」
カイの胸に、少しだけ痛いほど温かいものが広がる。
「そう言われると、本当に逃げられないな」
ソフィアが顔を上げた。
「逃げたい?」
「違うって」
カイも笑う。
そして少しだけ身体を屈め、ソフィアの額へ自分の額をそっと寄せた。
口づけではない。
皇帝から婚姻式までは節度を守れと言われていることも、二人とも分かっている。
ただ。
とても近い距離で。
互いの呼吸が分かるまま。
「逃げない」
もう一度言う。
ソフィアも目を閉じた。
「はい」
◇◇◇
白銀宮へ戻る頃には、皇城の回廊へ夜の静けさが広がり始めていた。
壁に並ぶ魔導灯が一定の間隔で足元を照らし、昼間は忙しく行き交っていた使用人たちの数も減っている。
今日は。
カイの方から。
自然にソフィアの手を取った。
もう城内の主要な者には婚約が知られている。
明日には、隠す理由そのものがなくなる。
「カイ」
「何?」
「明日の発表が全部終わったら、何をしたいですか?」
聞かれて、カイは少し考える。
「寝たい」
「カイ!」
「冗談だって」
「本当にもう」
頬を膨らませたソフィアを見て、カイは笑った。
「じゃあ」
「はい」
「ソフィーと二人で、ゆっくりしたい」
ソフィアの表情がすぐに柔らかくなる。
「私もです」
「今日までのこととか」
「はい」
「明日終わったあとのこととか」
「はい」
「ゆっくり話したい」
「はい」
カイは少しだけ言いにくそうに続ける。
「それと」
「何です?」
「おめでとうって」
「え?」
「二人で言いたい」
ソフィアが足を止める。
カイも一緒に止まった。
「俺たちに」
少し照れながら。
「婚約、おめでとうって」
ソフィアは何も言えなかった。
目元が一気に潤む。
「変?」
「いいえ」
首を横へ振る。
「とても嬉しいです」
「じゃあ約束」
「はい」
「明日の夜」
「はい」
「二人で言おう」
「絶対です」
カイは繋いだ手を少しだけ強く握った。
「婚約、おめでとうって」
その瞬間。
ソフィアの目から一粒だけ涙が落ちた。
「今泣く?」
「無理です」
「発表まだなのに」
「カイが悪いです」
「また俺」
「はい」
ソフィアは涙を拭いながら笑う。
カイも笑う。
そして。
手だけは。
最後まで離さなかった。
◇◇◇
その夜。
第四近衛騎士団の宿舎へ戻ったカイは、寝台へ入る前に明日の礼装一式を改めて確認していた。
白銀の上着。
深青の肩布。
儀礼剣。
磨かれた靴。
近衛騎士章。
そして。
右手首の空雫石。
明日はこの腕輪を隠さない。
ソフィアの夜空石と並ぶ。
大勢の人間が見る。
「婚約発表か」
声にすると、やっぱり胸が強く鳴った。
怖さは消えていない。
むしろ前日だからこそ、今まで以上に具体的になっている。
大謁見広間。
主要貴族。
大使。
記録官。
自分へ向けられる幾つもの視線。
けれど。
今日は広間へ立った。
ソフィアが隣にいた。
皇帝も皇太子も、自分を認めると言ってくれた。
明日は第四近衛の仲間たちも警護として会場にいる。
「……一人じゃない」
以前は、その言葉を口にした直後に「違う、自分でも立たなければ」と訂正した。
今は。
訂正しない。
一人ではないことと、自分の足で立つことは矛盾しない。
頼ってもいい。
そのうえで。
自分も立てばいい。
「よし」
カイは灯りを落とし、寝台へ横になった。
「おやすみ、ソフィー」
暗い天井を見上げる。
それから。
自分でも少し可笑しくなるくらい小さく笑った。
「明日、俺たち婚約発表だ」
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮では、ソフィアもなかなか眠れずにいた。
明日の礼装はすでに衣装掛けへ整えられ、髪飾りも宝石箱の中へ収められている。夜空石の腕輪も問題はない。何度確認しても、準備上の不備は見つからなかった。
それでも。
胸が落ち着かない。
「姫様」
寝台から少し離れた場所で、エマが呆れたような声を出した。
「そろそろお休みになられませんと」
「分かっています」
「明日は早いです」
「それも分かっています」
「では」
「眠れません」
あまりにも正直な返事に、エマが少し笑った。
「緊張ですか?」
「少し」
「嬉しい?」
「とても」
そこだけは迷わない。
ソフィアは夜空石へそっと指を触れた。
「明日、皆に言えます」
「はい」
「カイが」
頬が自然に熱くなる。
「私の婚約者だと」
「はい」
長かった。
七年前。
森の中でカイに助けられた。
その頃は、自分でもこの気持ちへ名前をつけられなかった。
成長するにつれて。
カイ以外では嫌だと思った。
父へ頼み。
婚約相手として認めてもらい。
周囲のごく一部には祝福された。
それなのに。
当の本人だけが何も知らなかった。
婚約者に嫉妬して。
自分自身を嫌って。
最後には「婚約者ではなく俺を選んで」と言った。
思い出すと、今でも笑えてしまう。
「姫様」
「何です?」
「明日」
「はい」
「カイも同じことを思っていらっしゃるのではありませんか?」
ソフィアが目を上げる。
「自分が姫様の婚約者だと皆に知られることが嬉しい、と」
今日。
鏡の前でカイが言った。
怖いけれど。
嬉しい、と。
「……はい」
ソフィアは柔らかく笑った。
「そうですね」
もう、自分だけが待っているわけではない。
カイも。
同じ場所へ来てくれた。
「エマ」
「はい」
「明日、私」
「はい」
「多分泣きます」
「存じております」
「発表中は我慢します」
「ぜひお願いいたします」
「夜は」
「ご自由に」
「カイに抱きしめてもらいます」
エマが一瞬だけ黙った。
「陛下へは」
「言わないでください!」
「承知いたしました」
ソフィアの顔が一気に赤くなる。
「もう……」
それでも。
笑っている。
ようやく寝台へ横になり、最後にもう一度だけ夜空石へ触れた。
「おやすみなさい、カイ」
目を閉じる。
明日。
大勢の視線が集まる。
祝福だけではないかもしれない。
それでも。
「明日、私の婚約者として」
小さく。
幸せそうに。
「隣に来てください」
婚姻式まで、あと二月。
婚約発表まで、あと一日。
長く秘密にされてきた二人の婚約が、ついに帝国へ公表される。
カイはまだ怖い。
大勢の貴族も、各国から来た大使も、帝国中へ残る記録も。
平民であること。
孤児であること。
姓を持たないこと。
そのすべてへ向けられる視線が、祝福だけではないことも知っている。
それでも。
もう。
怖いからという理由だけで、一歩後ろへ下がることはしない。
ソフィアもまた、カイを守るために一人で前へ出ようとはしない。
明日。
怖くなったら互いを見る。
手を取る。
それから。
一緒に前を向く。
七年前。
森の中で、一人の少女と一人の少年が手を取った。
あの日は。
生きて森を出るためだった。
今度は違う。
第三皇女ソフィア・フォン・ガルアと。
近衛騎士カイとして。
互いを選んだ二人が。
これから先を一緒に歩くために。
もう一度。
皆の前で。
手を取る。
その日が。
とうとう。
明日に迫っていた。




