第23話 第三皇女様、名前が変わっても俺は俺のままでいていいですか?
婚約発表まで、あと三日。
前日の顔合わせを終えてから一晩が過ぎても、カイの頭にはヴェルク侯爵から向けられた言葉が残っていた。
平民。孤児。姓もない。政治経験も外交経験も乏しく、皇族の配偶者として足りないものが多すぎる。
言い方には明らかな棘があったし、あの場でソフィアが腹を立ててくれたことも嬉しかった。けれど、言われた内容のすべてが事実無根だったわけではない。むしろ自分自身が一番よく分かっていたことを、他人の口から並べられただけなのだ。
だからこそカイは、自分があの場で口にした言葉まで何度も思い返していた。
一生かけて、ソフィアの隣に立っても恥ずかしくない人間になる。
勢いだけで言ったつもりはない。今でも、その気持ちは変わっていなかった。
ただ、その決意をした翌日から、早くも現実が全力で追いかけてくるとは思っていなかった。
「……一生って言った翌日に、こんなに早く最初の課題が来るとは思わなかったな」
午前の合同訓練を終えた第四近衛騎士団の詰所で、カイは自分の机に置かれた一枚の召集通知を見下ろしながら深いため息を吐いた。
窓の外からは訓練場で剣を打ち合わせる音がまだ聞こえている。室内では勤務を終えた騎士が装備を外し、これから巡回へ出る者が剣帯を締め直していた。昨日までと何も変わらない、カイにとって見慣れた日常だった。
その中で、目の前の一枚だけがひどく場違いに見える。
午前の訓練が終わった直後、皇帝付きの文官がわざわざ持ってきたものだ。内容は簡潔で、本日正午より皇帝執務室にて、婚姻後の身分、爵位、姓名に関する協議を行うため出席すること。第三皇女ソフィアも同席する、とある。
「……姓名、か」
その二文字を口にしただけで、胸の奥に妙な重さが生まれた。
昨日までにも何度か話題には出ていた。
今のカイには姓がない。皇族と婚姻する以上、そのままでは制度上も儀礼上も不都合が多く、皇帝からも必要なら姓と爵位を用意すると言われている。
理屈は分かる。必要なのも理解している。
それでも、自分の名前に今まで存在しなかった何かがつくのだと思うと、どうにも落ち着かなかった。
「朝から難しい顔してるね」
横から声をかけられ、カイは顔を上げた。
リナが湯気の立つカップを片手に立っていた。訓練後らしく髪はまだ少し湿っており、カイの返事を待つことなく向かいの椅子へ腰掛ける。
「昨日の侯爵のこと?」
「それも少し」
「じゃあ、今日は何?」
「これ」
カイが召集通知を卓上で滑らせると、リナはカップを置いて紙を取り、素早く目を通した。
「ああ、姓の話か」
「軽く言うなよ」
「だって必要なんでしょ?」
「必要だけど」
「なら貰えばいいじゃん」
「お前、本当に簡単に言うな」
「難しく考えるのがカイだから」
「俺が変みたいに言うなよ」
「変とは言ってないって」
リナは笑いながらカップを持ち上げたものの、カイがいつものように言い返してこないことに気づいたらしい。少しだけ表情を変え、今度は真面目な目でこちらを見た。
「でも、本当に何が嫌なの?」
「嫌って決まったわけじゃない」
「じゃあ、不安?」
「……多分」
「何が?」
そこを聞かれると、カイ自身もすぐには答えられなかった。
姓を得る。爵位を得る。第三皇女の婚約者として皆の前へ立つ。
最近、自分の周囲ではこれまで経験したことのない変化が一気に起こっている。
少し前まで、自分はただの近衛騎士カイだった。
第四近衛騎士団で訓練し、ソフィアの護衛をして、ときどき我が儘な主君に振り回されながら一日を終える。任務が終われば仲間とくだらない話をして、宿舎へ戻れば剣の手入れをして眠る。
それが自分の日常だった。
ところが今は、婚約者教育を受け、舞踏を習い、有力貴族と向き合い、皇族の配偶者としての立ち位置を覚えようとしている。そして今度は、自分の名前まで変わるかもしれない。
「……別の人間になっていくみたいで」
ようやく出てきた言葉に、リナが少し目を細めた。
「別の人?」
「ああ」
カイは自分の右手へ視線を落とした。
剣を握り続けてできた硬い部分が指の付け根に残っている。何年も何年も訓練してきた手だ。近衛騎士になった日も、初めてソフィアの正式な護衛任務へ就いた日も、この手で剣を握っていた。
「俺、今までずっとカイだったから」
「うん」
「それだけだったんだ。何家の誰とかじゃなくて、親が死んでからは本当にただのカイ」
孤児院へ入る前の記憶は、今ではところどころ輪郭が薄くなっている。
それでも父と母の顔は覚えている。父の大きな手も、母が眠る前に髪を撫でてくれたことも、断片的ではあるが確かに残っていた。
自分には家族がいた。
ただ、貴族のように代々受け継ぐ家名があったわけではない。
「姓がないせいで困ったこともあるし、それを理由に馬鹿にされたこともある。孤児だからって下に見られたことも、何度もあった」
「うん」
「でもさ」
カイは自嘲ではなく、少し困ったように笑った。
「それでも、それが俺だったんだよな」
リナはすぐには返事をしなかった。
詰所の中では、いつもと変わらず人が動いている。剣帯を締める音、棚から書類を抜き取る音、遠くで誰かが笑う声。見慣れた制服、使い込まれた机、壁際に並んだ剣。
その中でカイだけが、少しずつ違う場所へ向かおうとしている。
「じゃあさ」
しばらくして、リナが静かに口を開いた。
「姓がついたら、そのカイは消えるの?」
「……分からない」
「剣の振り方は変わる?」
「変わらない」
「姫様のこと嫌いになる?」
「ならない」
「私に負けるようになる?」
「それは絶対ない」
そこだけ間髪入れずに返すと、リナの口元が緩んだ。
「そこは即答なんだ」
「当たり前だろ」
「じゃあ、そんなに変わらないんじゃない?」
「簡単に言うなよ」
「難しい部分は本人にしか分からないから」
その返しは、カイが思っていたよりずっと優しかった。
リナは少しだけ考えるようにカップの縁を指でなぞり、それからカイを見た。
「でもさ、カイって多分、名前が変わるのが怖いんじゃなくて」
「じゃあ何だよ」
「今までの自分を置いていくみたいで怖いんじゃない?」
その言葉を聞いた瞬間、カイは返事をしなかった。
胸の奥へ、思いのほか深く落ちた。
平民だった自分。孤児だった自分。何も持っていないからこそ、剣を握って必死に立ってきた自分。
そこへ新しい身分や名前が上から被さった時、それまでの自分が「足りなかったもの」として消されてしまうような気がしていたのかもしれない。
姓を得ることが嫌なのではない。
今までの自分が、なかったことになるのが怖い。
「……ソフィーにも話してみる」
「それがいいよ」
「笑われるかな」
「姫様が?」
「ああ」
リナは呆れたように眉を上げた。
「七年カイしか見てない人が、名前くらいで笑うと思う?」
「七年、本当に便利だな」
「事実でしょ」
「そうだけど」
胸の奥にあった重さが、ほんの少しだけ軽くなった。
◇◇◇
正午より少し前。
カイが皇帝執務室へ向かうと、その扉の前にはすでにソフィアとエマが立っていた。
長い回廊の窓から昼前の明るい光が入り込み、白い壁と磨き上げられた床を照らしている。扉の両脇には衛兵が二人立っていたが、カイを見つけた瞬間に変わったソフィアの表情を見て、二人とも何となく視線を正面へ戻した。
「カイ」
「ソフィー」
呼びかける声が、以前よりずっと自然になった。
まだ正式な婚約発表前ではあるが、皇城内では二人の関係を知る者も増えている。何より、ソフィア自身が城内でなら愛称で呼んでほしいと望んでいるため、カイも以前ほど周囲を気にしなくなっていた。
「午前の訓練は?」
「ちゃんと最後までやった」
「怪我はありませんか?」
「ない」
「腕輪は?」
「ある」
「疲れていませんか?」
「質問多くない?」
「確認です」
当然のように答えたソフィアに、カイは少し笑った。
「団長には何回確認した?」
「……何のことでしょう」
「俺の予定」
ソフィアの視線がわずかに泳いだ。
「二回です」
「直接会うのに?」
「会う前だから確認するのです」
「何その理屈」
「必要です」
あまりに真剣な顔で言うので、カイはとうとう声を立てて笑った。ソフィアも少し頬を赤くしながら、それでも嬉しそうに笑っている。
その顔を見ていると、さっきリナと話していたことを思い出した。
話したい。
けれど、ここにはエマも衛兵もいる。
「カイ?」
「何?」
「また難しい顔になりました」
「分かる?」
「七年見ていますから」
「今日それ聞くの二回目」
「誰かにも言われたのですか?」
「リナ」
ほんの一瞬。
ソフィアの眉が寄った。
「……そうですか」
「何」
「別に何も」
「嫉妬?」
「少し」
「正直だな」
「分かりやすい方が好きなのでしょう?」
「言ったけどさ」
最近のソフィアは、以前なら誤魔化していた感情まで素直に口へ出すようになった。
カイがそれを嬉しいと言ってしまった以上、今さら文句も言えない。
ソフィアは一歩近づき、周囲へ聞こえにくい程度まで声を落とした。
「それで、リナと何を話していたのです?」
「俺の姓」
その瞬間、嫉妬の色がきれいに消えた。
「……姓?」
「ああ。今日の協議について」
「何か不安がありますか?」
すぐに気づく。
こういう時のソフィアは、本当に敏い。
カイは一瞬だけ扉の前の衛兵やエマへ視線を向けた。ソフィアもその意味を察したらしく、それ以上ここで聞こうとはしなかった。
「お父様との話が終わったら、二人で話しましょう」
「いい?」
「もちろんです」
「ありがとう」
「婚約者ですから」
「そこ?」
「そこです」
ソフィアの声は軽かった。
それでも、その一言だけでカイの胸には確かな安心が残った。
◇◇◇
「来たか」
皇帝の執務室へ入ると、机の向こうには皇帝が座っていた。
その横には昨日の顔合わせでも見かけた法務担当の側近と、見知らぬ年配の文官が立っている。机上には種類の違う書類が幾つも並べられ、すでに話し合いの準備が完全に整っていた。
嫌な予感というより、どこから見ても本題だった。
「第三皇女ソフィア・フォン・ガルア、参りました」
「近衛騎士カイ、参上いたしました」
二人が礼を取ると、皇帝は短く頷いて正面の椅子を示した。
「座れ」
「はい」
ソフィアとカイは並んで腰を下ろした。
座ってから、カイはふと気づいた。
以前なら、このような場で自分はソフィアの後ろに立っていた。専属護衛として、主君の背後を守る。それが当たり前だった。
今は違う。
誰から指示されることもなく、最初から隣の椅子へ座った。
昨日一日かけて何度も練習したことが、もうほんの少し身体へ馴染み始めている。
「本日は」
年配の文官が一枚目の書類を手に取った。
「カイ殿の婚姻後の法的身分、家名、爵位、皇族との関係上必要となる諸手続きについて、基本方針を確認させていただきます」
「よろしくお願いします」
「まず現状ですが、カイ殿は帝国臣民たる平民身分。第四近衛騎士団所属の正規近衛騎士であり、第三皇女殿下専属護衛です」
「はい」
「婚姻成立後、現身分のまま皇女配偶者となることは制度上、不可能ではありません」
「……できるんですか?」
思わず聞き返したカイに、皇帝が答えた。
「前例は極めて少ないがな」
「なら――」
「ただし」
今度は法務官が言葉を継いだ。
「外交儀礼、宮廷席次、資産管理、将来の子に関わる継承上の整理などを考慮すれば、何らかの貴族身分を付与した方が混乱は少なくなります」
「なるほど……」
聞いてみれば、単純に「平民だから貴族にする」という話ではないらしい。
皇女の夫として国外の使節と接することもあれば、宮廷行事へ出席することもある。ソフィア自身が皇籍を維持する以上、婚姻後の財産や家の扱いも明確にしておかなければならない。
昨日までのカイには考えもしなかった問題が、次々と自分の人生へ入り込んでくる。
「陛下としては」
文官が皇帝へ視線を向ける。
「お前に新たな爵位を与える案を第一候補として考えている」
カイの肩がわずかに固くなった。
「新しい爵位……ですか」
「ああ」
「どのくらいの?」
「それも今日決める」
「今日!?」
「方針をだ」
慌てて身を乗り出したカイに、皇帝が眉を寄せた。
「一日で全部決められると思うな」
「思ってませんよ!」
「お前なら思いそうだ」
「俺、陛下からどう思われてるんです?」
横でソフィアが小さく吹き出した。
「お前も笑うな」
「だって」
「だってではない」
さっきまで張っていた空気が少しだけ緩み、カイも肩から力を抜いた。
「それで、姓は?」
「そこだ」
皇帝が机上の一枚へ指を置いた。
「大きく分けて三案ある」
「三つも?」
「一つ目は、皇室が新たな家名を下賜し、カイ殿をその初代当主とする案です」
文官の説明に、カイは目を瞬いた。
「新しい家……俺から始まるってことですか?」
「そうなります」
「……すごいな」
それは、自分が誰かの家へ入るのとはまるで意味が違う。
自分から家が始まる。
その言葉は、姓を得るという話以上に重く感じられた。
「二つ目は、皇室の分家に近い形式で、既存の皇族系家名を一代限りで使用する案です。婚姻関係を明確に示すには適していますが、制度が複雑になるため、法務局としては第一案を推奨しております」
「なるほど」
「そして三つ目ですが」
文官は一度だけソフィアへ視線を向けた。
「第三皇女殿下が婚姻後も皇籍を維持し、カイ殿が皇族配偶者としてガルア姓を名乗る案です」
一瞬。
執務室が妙に静かになった。
「……ガルア?」
カイはゆっくり皇帝を見た。
「俺が?」
「制度上は可能だ」
「俺が、カイ・フォン・ガルア?」
「そうなるな」
皇帝は平然としている。
しかしカイにとっては平然としていられる話ではなかった。
ガルア。
帝国皇室そのものを示す名だ。
皇帝も皇太子も、そしてソフィアも名乗っている姓。それを、つい最近まで自分がソフィアの結婚相手だとすら知らなかった平民の自分が名乗る。
「無理」
思わず口から出た。
「早いな」
「いやいやいや、ガルアは駄目でしょう」
「なぜだ」
「俺ですよ?」
「見れば分かる」
「そうじゃなくて!」
横を見ると、ソフィアが明らかに笑いを堪えていた。
「俺が陛下と同じ姓ですよ?」
「皇族へ入ればそうなる可能性はある」
「無理です」
「理由になっていない」
「心臓が無理です」
「制度にお前の心臓は関係ない」
「俺にはありますよ!」
法務官がわずかに口元を緩め、とうとうソフィアも小さく笑った。
「ソフィー、助けて」
「私は……カイ・フォン・ガルアも素敵だと思います」
「やめて」
「似合うと思いますよ?」
「やめて!」
皇帝が眉間を押さえた。
「話が進まん」
「陛下が出した案でしょう!」
「制度案だ!」
「俺の名前ですよ!」
「だから本人を呼んでいるのだ!」
つい先ほどまで皇族との婚姻制度を話していたとは思えない騒がしさが、重厚な執務室に広がった。
◇◇◇
ひとしきり騒いだあと、年配の文官が慎重に咳払いをした。
「カイ殿」
「……はい」
「最終決定は後日で構いません」
「助かります」
「ただ、一つだけ確認しておきたいことがございます」
声の調子が変わったことで、カイも姿勢を正した。
「何でしょう」
「家名を得ること自体への抵抗はありますか?」
来た。
そう思った。
カイはすぐには答えなかった。
皇帝も、法務官も、そして隣のソフィアも急かさない。さっきまでの軽い空気が消え、静かな時間だけが流れた。
「……あります」
やがて、カイは正直に答えた。
「家名そのものが嫌という意味ではありません」
「では?」
「怖いです」
自分で口にすると、その感情が急に輪郭を持った。
カイは膝の上に置いた手を見つめた。剣だこが残る、近衛騎士の手だ。
「今まで俺は、ただのカイだったので。貴族でもないし、何家の誰でもない。それで馬鹿にされたこともあります」
誰も口を挟まなかった。
「姓がない。親もいない。後ろ盾もない。そういうことを言われるのは珍しくなかったです。でも、その名前のまま騎士になりました」
何も持っていないから、剣を握った。
強くなれば、少なくとも自分の足で立てると思った。
「その名前のままソフィーの傍にいて、第四近衛の仲間もできました。団長に怒られたり、リナと喧嘩したり、ソフィーに振り回されたりしながら七年過ごして」
「最後の一つは異議があります」
ソフィアが小さく口を挟んだ。
「あるの?」
「私ばかりが振り回していたわけではありません」
「俺、何した?」
「いっぱいあります」
「例えば?」
「今は大切なお話の途中です」
「自分で割り込んだのに?」
「続けてください」
少しだけ笑いが生まれた。
そのおかげで、カイはもう一度息を整えることができた。
「……だから」
再び声を落ち着かせる。
「急に別の名前がついたら、今までの俺が消えるような気がして」
言ってしまえば、ひどく子供っぽい不安に聞こえるかもしれない。
姓が一つ増えたところで、過去が消えるはずなどない。頭では分かっている。
それでも、怖かった。
「馬鹿みたいですよね」
「馬鹿ではありません」
ソフィアがすぐに答えた。
「ソフィー」
「全然、馬鹿ではありません」
今度は少し強い声だった。
カイが横を向くと、空色の瞳が真っ直ぐ自分を見ている。
「名前は、その人が生きてきた時間と結びついています。カイがただのカイとして生きてきた時間を、新しい姓が消せるわけありません」
「でも、周りから見たら――」
「周りがどう呼んでも、私はカイと呼びます」
ソフィアは迷わなかった。
「カイ・何某になっても、爵位を持っても、将来もっと違う呼ばれ方をする立場になっても、私の中ではずっとカイです」
その声は穏やかだった。
だからこそ、まっすぐ胸の奥まで入ってきた。
皇帝が何となく机上の書類へ視線を落とし、側近たちも少しだけ居心地悪そうに顔を逸らしている。どうやら二人の世界へ入り始めていることは、カイにも分かった。
「……それ、ここで言う?」
「大切なので」
「皆いるけど」
「知っています」
「恥ずかしくない?」
「私も恥ずかしいです」
「じゃあ何で言ったんだよ」
「言いたかったからです」
あまりに真っ直ぐで。
カイは弱ったように笑った。
「そっか」
「はい」
「じゃあさ」
胸の中で、何かが少しだけほどけていく。
「名前が増えても、俺でいていい?」
「当たり前です」
「変わっても?」
そこでソフィアは少しだけ考えた。
「変わるところは、変わればいいです」
「え?」
予想していなかった答えに、カイは目を瞬いた。
「全部変わらないでとは言いません。カイはこれから、今まで知らなかったことをたくさん覚えるでしょう。新しい立場にもなりますし、考え方が変わることもあると思います」
「……うん」
「でも、それもカイです」
変わらないことだけが、自分であり続けるという意味ではない。
ソフィアはそう言っているのだ。
「変わることを怖がらなくていいです。今までのカイを捨てるのではなくて、そこへ新しいものを増やしていけばいいのです」
「増やす?」
「はい」
「捨てるんじゃなくて?」
「はい」
カイはその言葉を、胸の中でゆっくり繰り返した。
増やす。
姓も。
身分も。
役割も。
婚約者という立場も。
いずれ夫になることも。
全部、今までの自分を消して作り直すのではない。
ただ、これまでの自分へ増えていく。
「……そっか」
肩から力が抜けた。
「増えるだけか」
「はい」
「それなら」
カイはようやく、素直に笑った。
「大丈夫かもしれない」
ソフィアの表情も明るくなる。
「はい」
「もうよいか」
低い声が割って入った。
見ると、皇帝が深いため息を吐いている。
「お父様」
「何だ」
「今、大切なところでした」
「分かっている!」
「なら、もう少し――」
「ここは私の執務室だ!」
側近が咳払いで笑いを隠した。
「すみません、陛下」
「お前は謝るな、カイ。娘が調子に乗る」
「お父様!」
「だから話を進めるぞ!」
◇◇◇
皇帝は気を取り直すように別の書類を手に取った。
「家名については、新設を第一案として進める」
「新しい家名……」
「ああ」
「すぐ決めるんですか?」
「候補は出す。最終的にはお前たちと相談して決めることになる」
「俺たち?」
カイが横を見るより早く、ソフィアが答えた。
「一緒に考えます」
「嬉しそうだな」
「だって、カイの家名ですよ?」
「将来、ソフィーも?」
口にした直後。
ソフィアが固まった。
カイも、自分が何を言ったのか一拍遅れて理解する。
婚姻後の制度をどの形にするかは、まだ正式に決まっていない。ソフィアが皇籍を維持したままガルア姓を名乗る可能性もあれば、二人が新しい家名を共有する形もあり得る。
つまり。
「……カイ」
「うん」
「今、私もその姓を名乗る未来を想像しました?」
「普通に」
「……」
「だって結婚するんだろ?」
「はい」
「なら、同じ名前になる可能性もあるじゃん」
言っている途中から少し恥ずかしくなったが、カイは誤魔化さなかった。
「同じ姓、いいかもな」
ソフィアは胸元へ手を当てた。
「お父様」
「何だ」
「五分ほど休憩を」
「なぜだ!」
「心臓が」
「知らん!」
「父親でしょう!」
「娘の惚気で高鳴る心臓まで面倒を見られるか!」
カイは思わず笑った。
「そんなに?」
「カイが普通に夫婦の話をするからです!」
「婚姻の協議だぞ?」
「そうですけど!」
「ソフィー」
「何です!」
「嬉しい?」
真正面から聞かれ、ソフィアはまた止まった。
顔は真っ赤だった。
それでも。
「……とても」
小さく、けれど素直に答えた。
その答えを聞いたカイの胸にも、じんわりと温かいものが広がった。
「俺も」
「……」
「同じ姓、いいと思う」
皇帝が椅子へ深く身体を預け、天井を見上げた。
「なぜ私はこれを聞かされているのだ……」
「陛下が俺たちを呼んだんですよ」
「黙れ、カイ」
「はい」
◇◇◇
家名の次は爵位だった。
こちらはさらに現実的で、カイを一代限りの伯爵相当へ置く案、婚姻に合わせて新設家を起こす案、領地を持たず宮廷職に紐づく爵位とする案、将来的に皇族配偶者専用の身分へ移行させる案などが順番に説明された。
聞けば聞くほど、カイの頭は重くなっていく。
「……伯爵」
「候補だ」
「俺が?」
「候補だと言っている」
「領地とかは?」
「持たせない案が有力だ」
「よかった……」
心底安心したカイに、皇帝が怪訝そうな顔をした。
「なぜそこまで安心する」
「俺、明日から村の税を管理しろとか言われても無理ですよ」
「そこまで急にはいたしません」
法務官が珍しく笑った。
「本当に?」
「はい」
「最近、城の人みんな予定を急に変えるから信用が――」
「カイ」
ソフィアがたしなめるように名前を呼ぶ。
「その言い方は失礼です」
「ごめん」
「ですが」
そこでソフィアは口元を緩めた。
「私も完全には否定できません」
「ソフィア!」
皇帝の声が執務室へ響き、また少しだけ笑いが生まれた。
それでも、話の本質は重い。
爵位も姓も身分も、昨日までのカイにとっては遠い世界の話だった。
それが今日、一つずつ自分の人生になろうとしている。
怖さは消えていない。
けれど、さっきまでとは少し違った。
自分を捨てるためのものではない。
これからの自分へ必要なものを増やしていく。
そう考えるだけで、受け止め方はずいぶん変わった。
◇◇◇
二刻近い協議が終わる頃には、カイの頭は剣術訓練を何時間も続けた時とは違う意味で完全に疲れていた。
「本日のところは以上です」
年配の文官が書類をまとめる。
「家名候補については明日までに数案を作成し、改めてお渡しいたします」
「明日ですか」
「はい」
「早いですね」
「婚約発表まで三日ですので」
「またそれか……」
最近は何を言われても最後に「婚約発表まであと何日」とつければ通るような気がしてきた。
「爵位については?」
「発表時点では『近衛騎士カイ』として公表する案が現在有力です」
「え?」
カイは思わず顔を上げた。
「爵位をつけないんですか?」
「正式な授爵は婚姻前の別日程で行う方が自然です。何より、婚約発表までに性急に爵位を与えれば、婚約のためだけに形式を整えたという印象を強める可能性もあります」
「……それ」
カイはゆっくり息を吐いた。
「助かります」
「なぜだ」
皇帝に問われ、少しだけ考える。
けれど答えは、すぐに出た。
「最初くらい、俺のまま出たいです」
ソフィアが横を見る。
「近衛騎士カイとして。姓も爵位もない、今の俺のまま」
昨日、ヴェルク侯爵に言われた。
平民で、孤児で、姓もない。
その事実を隠してもらってから婚約者として出るのではない。
まず、その自分で立ちたい。
「それでソフィーの隣に立って、そのあと必要なものを覚えていきたいです」
皇帝はしばらくカイを見ていた。
やがて、短く頷く。
「そうか」
「はい」
「なら、そうしろ」
「いいんですか?」
「公表文はそれで問題ない」
胸の奥が温かくなった。
「ありがとうございます」
「ただし、その後は容赦なく覚えろ」
「分かってます」
「礼法」
「はい」
「帝国法」
「はい」
「外交」
「はい」
「歴史」
「はい」
「資産管理」
「……はい」
「財務」
「増えた」
「必要だ」
「分かりました」
「舞踏」
「それはもうやってます」
「ソフィアの足を踏んだそうだな」
「誰から聞いたんです!?」
「ソフィア」
「ソフィー!」
「違います!」
突然疑いを向けられたソフィアが慌てて首を振った。
「エマです!」
「エマさん!」
どこへ行っても自分の情報が回っている。
カイは両手で頭を抱え、皇帝たちはそんな彼を見ながら小さく笑っていた。
◇◇◇
執務室を出たあと、カイとソフィアは白銀宮へ戻る前に、人気の少ない中庭へ立ち寄った。
春の花が咲く小さな庭の中央には白い石造りの噴水があり、澄んだ水音が静かに響いている。雲の切れ間から午後の陽射しが差し込み、濡れた石の縁と若い葉を淡く輝かせていた。
皇帝の執務室で二刻近く難しい話を聞き続けた後だからか、風に揺れる花を見ているだけでも少し肩の力が抜ける。
「ここでいい?」
「はい」
二人は噴水から少し離れた石造りの長椅子へ並んで腰掛けた。
座った瞬間、カイは大きく息を吐いた。
「疲れた……」
「今日もですか?」
「最近、毎日言ってる気がする」
「婚約準備ですから」
「それ言えば何でも許されると思ってない?」
「便利です」
「認めた」
ソフィアが声を立てて笑う。
その笑顔を眺めながら、カイも少しだけ笑った。
「それで」
笑いが落ち着いたところで、ソフィアの声が柔らかくなる。
「先ほど言っていた不安について、もう少し聞いてもいいですか?」
「執務室でほとんど話したぞ?」
「皆の前で話せなかったこともあるでしょう?」
そこまで分かっている。
カイは少し困ったように笑い、膝へ両手を置いた。
「俺さ」
「はい」
「名前が変わるの、怖かったんだ」
「はい」
「今も、少しは怖い」
噴水の水音が、二人の間に静かに流れている。
「でも、ソフィーが言ってくれたじゃん。捨てるんじゃなくて、増えるだけだって」
「はい」
「あれ、よかった」
素直に言うと、ソフィアの表情がゆっくり柔らかくなった。
「本当に?」
「ああ」
「では、姓が何になっても?」
「多分大丈夫」
「爵位がついても?」
「慣れるまで時間はかかる」
「皇族配偶者になっても?」
「それが一番慣れなさそう」
「夫になっても?」
カイは固まった。
横を見る。
ソフィアは少しだけ悪戯っぽく笑っている。
「今、それ入れる?」
「大切です」
「……夫」
自分で口にしてみただけで、胸が妙に鳴った。
婚約者という言葉には少しずつ慣れてきた。
けれど。
夫。
二月後には、本当にそうなる。
「まだ、それは慣れない」
「二月後ですよ」
「知ってる」
「では、今から練習します?」
「何を?」
「呼び方です」
「……夫?」
「違います!」
「じゃあ何」
言い出した本人の方が恥ずかしくなったらしく、ソフィアの頬が赤くなっていく。
「旦那様、とか」
「やめて」
「あなた、とか」
「ソフィー」
「何です?」
「それ以上やると俺が死ぬ」
「私もです」
「何で始めたんだよ」
「少し気になったので……」
二人とも顔を赤くしながら、結局笑った。
こんなくだらないやり取りまで、今は未来の話なのだと思える。
◇◇◇
「カイ」
しばらくして、ソフィアがもう一度名前を呼んだ。
今度の声は少し真面目だった。
「私は本当に、名前が何になっても、カイがカイならそれでいいです」
「うん」
「でも、もし新しい家名を選べるのであれば」
少しだけ言葉を選ぶような間があった。
「カイが嫌ではない名前にしましょう」
「ソフィーも一緒に?」
「もちろんです」
「俺だけの名前じゃなくなるかもしれないから?」
聞くと、ソフィアの頬がまた少し赤くなった。
「……はい」
その答えだけで、胸の奥が温かくなる。
「一緒に考えてくれる?」
「何日でも」
「発表まで三日しかないぞ」
「発表後でも正式決定はできます。ですから、急いで決めなくて大丈夫です」
そう言って、ソフィアが手を差し出した。
庭には二人以外の姿がない。
カイは迷わずその手を取り、指を絡めた。
「ありがとう」
「はい」
「それと、今日さ」
「何です?」
「俺のままで発表していいって言われたの、かなり嬉しかった」
「近衛騎士カイとして?」
「うん」
平民。
孤児。
姓なし。
それらを隠すために急いで爵位を与えられるのではなく、今の自分のままでまずソフィアの隣へ立つ。
「最初は、その名前で立ちたい」
ソフィアの瞳が柔らかく細められた。
「では、私はその隣に立ちます」
「また?」
「何度でも言います」
カイは笑い、繋いだ手へ少しだけ力を込めた。
「うん。頼む」
◇◇◇
そのまま二人はしばらく、中庭で何でもない話をした。
新しい家名を作るなら、どんな響きがいいのか。
カイは長すぎる名前は嫌だと言い、ソフィアはある程度の格式も必要だと返した。帝国貴族の家名には由来を持つものも多く、新設するなら皇室との関係だけではなく、カイ自身を表す意味も考えたいらしい。
「例えば?」
「まだ候補もありません」
「ソフィー案」
「今ですか?」
「うん」
急に振られたソフィアは、しばらく真剣に考え込んだ。
「……カイ・フォン・ルーナ」
「ルーナ?」
「私たちの思い出にある川の名から」
「ああ……」
カイもすぐに意味を理解した。
「ちょっと恥ずかしい」
「では却下します」
「早いな」
「なら、カイ・フォン・セレス」
「意味は?」
「古語で空を表す言葉です」
「空……」
カイは自分の右手首を見た。
そこには、ソフィアから贈られた空雫石の腕輪がある。
「空雫石?」
「少しだけ意識しました」
「……それは嫌じゃない」
何気なく答えた瞬間、ソフィアの表情がぱっと明るくなった。
「では候補に入れます」
「まだ正式じゃないぞ」
「候補です」
「嬉しそう」
「だって」
ソフィアは言いかけて。
それでも、口にした。
「二人の家名を考えていますから」
カイは動きを止めた。
「二人の?」
「はい」
言ってから、ソフィア自身も意味を強く意識したらしい。
頬がみるみる赤くなっていく。
「……」
「ソフィー」
「何です?」
「今度はソフィーが止まった」
「少し」
「心臓?」
「はい」
「俺も」
顔を見合わせる。
恥ずかしい。
でも。
嫌ではない。
「二人の家、か」
カイが何気なく呟いた。
その瞬間。
胸の奥で、別の何かが動いた。
家。
自分には、長い間その言葉を自分自身と結びつけて考えることがなかった。
両親が亡くなってから、帰る場所はあっても、そこに「家族」がいるという意味での家はなかった。
孤児院。
騎士団宿舎。
どちらも大切な場所ではある。
第四近衛の仲間たちも、家族に近いほど大切だ。
けれど。
婚姻すれば。
ソフィアは。
本当に。
家族になる。
「……」
「カイ?」
急に黙ったカイを心配したのか、ソフィアが顔を覗き込んだ。
「ごめん」
「どうしました?」
「いや……今さ」
言葉にすると、胸の奥が急に熱くなった。
「名前より、そっちの方がすごいなって思って」
「そっち?」
「家族、できるんだなって」
ソフィアの動きが止まった。
カイは繋いだ手へ視線を落とす。
「俺、ずっと一人だったから」
両親を失った後。
寂しくないふりをすることには慣れた。
誰かに頼らなくても生きていけるように剣を覚え、近衛騎士になった。
「騎士団は仲間だし、俺にとってすごく大事だよ」
「はい」
「ソフィーは……今までは主君で、友達みたいでもあって」
「みたい、なのですか?」
「そこ今気にする?」
「少し」
「ちゃんと友達でもあったよ」
「なら結構です」
少しだけ笑ってから、カイは続けた。
「それで今は、好きな人で、婚約者で」
「……はい」
「でも、もうすぐ」
喉の奥が少し詰まった。
自分がこんなことで感情を揺らすとは思っていなかった。
「家族になるんだな」
ソフィアの空色の瞳に、ゆっくり涙が溜まった。
「……泣く?」
「無理です」
「また?」
「これは無理です」
ソフィアは繋いでいた手を一度離し、そのままカイへ身体を寄せた。
けれど、胸へ飛び込む直前で止まる。
「抱きついてもいいですか?」
「聞く?」
「一応」
カイは少し笑って、両腕を開いた。
「おいで」
次の瞬間。
ソフィアが胸へ入ってくる。
カイはその身体を受け止め、ゆっくり背中へ腕を回した。
細い。
温かい。
もう何度か抱きしめたはずなのに、今日は少し意味が違って感じられた。
「カイ」
「何?」
「家族になります」
「うん」
「絶対に」
「うん」
「もう、一人ではありません」
その言葉を聞いて、カイは目を閉じた。
胸の奥に、ずっと昔から残っていた小さな空洞へ、温かいものがゆっくり流れ込んでくるようだった。
「うん」
「姓が何になっても、カイは私の大切な人です」
抱きしめる腕へ、少しだけ力を込める。
「ソフィー」
「はい」
「俺も」
自分の声が少しだけ低くなった。
「ソフィーが家族になるの、嬉しい」
胸元へ顔を埋めていたソフィアの肩が小さく揺れた。
「カイ」
「何?」
「今日も泣かせすぎです」
「今日、俺そんなに何かした?」
「十分です」
「そっか」
「はい」
カイは困ったように笑いながら、ソフィアの背中をゆっくり撫でた。
「じゃあ、泣いていいよ」
「またそれですか?」
「婚約者特権」
ソフィアが一瞬黙り、それから涙声のまま笑った。
「それは私の言葉です」
「借りた」
「返してください」
「嫌」
誰もいない中庭で、二人の小さな笑い声が噴水の音へ混じった。
◇◇◇
夕方。
白銀宮へ戻ると、エマが数枚の予定表を持って待っていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
カイが何気なく答える。
それを聞いたエマの目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「随分自然になりましたね」
「何が?」
「白銀宮へ戻って、『ただいま』と仰ることが」
「……あ」
以前、ソフィアから言われた。
ここへ戻った時は、ただいまと言ってほしい。
最初はひどく違和感があった。白銀宮はソフィアの住まいであり、自分は護衛として出入りしているだけだと思っていたからだ。
それが今は。
考えもしなかった。
自然に口から出た。
「駄目?」
「いいえ」
答えたのは、隣にいたソフィアだった。
「とても嬉しいです」
カイは少しだけ照れながら鼻の頭を掻いた。
「それで」
エマが手元の書類を持ち直す。
「明日の予定でございます」
「また増えた?」
「はい」
「即答だな」
「午前は婚約発表時の正式礼装最終確認。午後は発表文面の確認。そして夕刻より、皇帝陛下および皇太子殿下を交えた非公開晩餐となっております」
「……皇太子殿下?」
カイの動きが止まった。
ソフィアも少し驚いたらしく、エマを見る。
「兄上も?」
「はい。正式発表前に、皇族内で改めてカイとの関係を確認したいとのことです」
「確認……」
その一言が嫌だった。
いや。
皇太子が嫌なのではない。
ソフィアの兄である皇太子とは、カイもこれまで何度も顔を合わせている。第三皇女付きの近衛騎士として挨拶したこともあれば、幼い頃にはソフィアの護衛中に言葉を交わしたこともある。
問題は。
明日は。
護衛としてではない。
妹の婚約者として会う。
「カイ」
表情が固くなったことに、ソフィアがすぐ気づいた。
「うん」
「兄上は怖くありません」
「……本当?」
「多分」
「多分?」
「少しだけです」
「どっちだよ」
エマが口元を少し緩めた。
「皇太子殿下は、姫様を大変可愛がっておられますので」
「それ、余計駄目じゃん」
「ですが、カイのことも昔からご存じです」
「だから余計怖いんだって」
自分がソフィアとどう接してきたのか。
どれだけ鈍かったのか。
どれだけソフィアを待たせたのか。
兄として知っている可能性がある。
「大丈夫です」
ソフィアが笑った。
「また?」
「はい」
人がいるので手は繋がない。
それでも。
当然のようにカイの隣へ立つ。
「私がいます」
カイはその横顔を見て、小さく息を吐いた。
「じゃあ、明日も――」
「隣にいます」
「まだ最後まで言ってない」
「分かります」
「七年?」
「七年です」
「本当に便利だな」
二人の笑い声に、エマまで小さく笑った。
◇◇◇
その夜。
騎士団宿舎へ戻ったカイは、寝台へ入る前に机へ一枚の紙を置いた。
椅子へ腰掛け、羽根ペンを取る。
そして。
いつも通りに、自分の名前を書いた。
カイ。
それだけ。
今まで何千回も書いてきた名前だった。
訓練記録にも、勤務報告書にも、支給品の受領書にも、いつもそれだけを書いてきた。
その下へ、もう一度書く。
カイ・フォン・――。
そこで羽根ペンが止まった。
まだ何もない。
「……変な感じだな」
昼間なら、その空白を見るだけで不安になったかもしれない。
でも今は。
少し違う。
新しい姓がついても、今までの自分は消えない。
カイという名前の後ろへ、これからの自分が増えていくだけだ。
「二人の家名……か」
ソフィアが言った言葉を口にする。
胸が少し温かくなる。
それから。
「家族」
もっと温かくなった。
両親はもういない。
失ったものが戻るわけではない。
けれど。
これから新しく家族を作ることはできる。
ソフィアと。
「……すごいな」
婚約する。
結婚する。
その言葉の意味を、カイは少しずつ実感し始めていた。
ただ好きな人と一緒にいるだけではない。
人生そのものが変わる。
それは怖い。
でも。
悪い変化ばかりではない。
むしろ今は、その先にあるものを少し楽しみに思える。
カイは空雫石の腕輪へ指先で触れた。
「おやすみ、ソフィー」
返事はない。
それでも、自然と笑みが浮かぶ。
「名前、一緒に考えような」
羽根ペンを置き。
灯りを消した。
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮では、ソフィアが寝台の上で一枚の小さな紙片を眺めていた。
そこには。
カイ・フォン・セレス。
と書かれている。
「……少し格好いいです」
自分で呟いて。
しばらく眺めて。
その下へ。
もう一つ。
名前を書いた。
ソフィア・フォン・セレス。
「……」
書き終えた瞬間、ソフィアの顔が一気に赤くなった。
「これは……」
慌てて紙を伏せる。
「まだ早いです」
数秒。
それでも。
もう一度、紙を表へ返した。
カイ・フォン・セレス。
ソフィア・フォン・セレス。
制度上、本当に二人が同じ姓を名乗るかどうかはまだ分からない。
けれど。
並んでいる。
同じ名前が。
「二人の家……」
今日、カイが言った。
家族になる。
その言葉が、まだ胸の奥に残っている。
ソフィアは左手首にある夜空石の腕輪へ触れた。
「カイ」
小さく名前を呼ぶ。
「何という名前になっても」
自然と笑みが浮かんだ。
「私は、カイが好きです」
それは変わらない。
爵位が増えても。
姓が増えても。
役割が増えても。
ソフィアが好きになったのは、七年間ずっと傍にいてくれたカイだ。
「でも」
紙へもう一度視線を落とす。
「セレスも、少し捨てがたいですね」
婚姻式まで、あと二月。
婚約発表まで、あと三日。
平民で、孤児で、姓を持たずに生きてきたカイにとって、新たな家名を得ることは単なる形式ではなかった。
それまでの自分が消えてしまうような、言葉にしづらい怖さがあった。
けれど。
ソフィアは言った。
捨てるのではない。
増えていくのだと。
近衛騎士。
婚約者。
いずれ夫。
新しい姓。
新しい立場。
そして。
新しい家族。
それらがどれだけ増えても、カイはカイのままでいい。
そしてカイ自身も、ようやく少しずつそう思えるようになっていた。
その言葉を胸に迎える翌日。
カイが向き合うのは、ソフィアの兄。
帝国皇太子。
これまで何度も「妹の護衛」として顔を合わせてきた相手と、今度は初めて「妹の婚約者」として同じ食卓につく。
婚約発表まで、あと二日。
第三皇女の隣へ立つための準備は、いよいよ皇族の家族そのものへ踏み込もうとしていた。




